第4話
桃太郎は犬の背中を撫でながら、医師が病院から出てくるのを待っていた。犬は相変わらず地面に横たわり、首から下の部分を動かすことは出来ないみたいだったが、昨日よりはいささか生命力が増したように見えた。やがて、医師を乗せた車が桃太郎の前にやってきた。スバルのインプレッサだった。その静かなダークブルーのボディは、桃太郎に海を泳ぐイルカを想像させた。医師はトランクから大きなダンボールと毛布を取り出して簡易のベッドを作り、犬を中に入れて後部座席に載せた。桃太郎は助手席に座った。新しい革の香りにほんのりとタバコの臭いが染み付いており、それは桃太郎をとても安心させた。
「長いドライブになるから、リラックスしていてくれ」医師はそう言ってキーを回し、エンジンをかけた。
「どのくらいかかるんですか?」桃太郎は尋ねた。
「二時間くらいかな。山をひとつ超えて、海沿いを走る」
本格的に動き始めた街の中を、インプレッサは滑らかに走り抜けた。エンジンもタイヤも彼の手足の一部であるかのように、鮮やかに並走車を次から次へと追い越していった。助手席から見ていると、自分が蛇になって瓦礫の隙間を縫うように走っているような感覚になった。
「いい車ですね」桃太郎は言った。
「ありがとう」医師は照れくさそうに言った。「君は、車を運転したことは?」
桃太郎は首を振った。「ありません。免許も持っていません。いつか乗りたいとは思うけれど」
「車を買うならスバルがいいよ」医師はそう言ってたばこを口に咥え、シガーソケットで火をつけた。「アクセルを踏めば素直に加速するし、ハンドルは僕の意思どおりに切れてくれる。エンジンもタフだ。確かに外車のような派手さはないし、国産コンパクトカーには価格と燃費性能で劣るけれど、とても実際的で誠実な車だよ」
彼らは土煙に包まれた市街地を抜け、高速道路に入った。ビルや民家はすっかりと姿を消し、道路は山の方へと続いていた。まるで森の中にかかる虹みたいに、青々と茂る木々の上を高架になった高速道路が横切っている。
「音楽をかけてもいいかな?」と医師が言ったので、桃太郎は黙って頷いた。彼は片手でハンドルを操作しながら、空いた方の手で器用にCDをケースから出し、プレーヤーにセットした。挿入口にディスクを近づけると、まるでラブホテルの受付みたいに、円盤が機械の隙間から静かにプレーヤーの中へ入っていった。やがて、スピーカーから聞き覚えのあるメロディーと共にジョン・レノンの囁くような歌声が流れてきた。
「ノルウェイの森?」と桃太郎は尋ねた。
「そう」と彼は言った。彼は両手でハンドルを握りしめたまま、チラリと桃太郎の方を見た。「運転中はよくビートルズを聴くんだ。僕は車を運転していると、なんだか気分が高揚してしまう。特に高速道路を走っている時にはね。時々、もうハンドルを切ることを一切放棄して、何も考えずにまっすぐにあのカーブに突っ込んでしまいたい、という気分になることがあるんだ。だからジョン・レノンに癒してもらうんだよ。彼は平和主義者だから」
「なるほど」と桃太郎は言った。後部座席では犬がすやすやと眠っていたが、時々思い出したようにいびきをかいた。
「ビートルズは素晴らしいよ。彼らはロックン・ロールという音楽の分野をひとつ完成させてしまったんだ。ビートルズ以降にも様々なミュージシャンは出てきたけど、すべては彼らの真似事にすぎない。彼らが音楽におけるリズムというシステムを完成させてしまったからだ。だから、ビートルズ以降のミュージシャンは音楽による表現方法を音符から歌詞に置き換えざるを得なかった。クォーツ式駆動装置の登場で、腕時計の価値が機能性からブランド力に置き換わっていったのと同じようにね」
医師の熱弁が終わると、彼らは黙って音楽に耳を傾けた。車はいつしか森を抜け、前方に海が見えてきた。海岸線沿いに小さな港があり、よく使い込まれたような小さな漁船が並んでいた。その向こう側には広々と海が広がり、どことなく丸みを帯びた地平線が見える。窓を開けると、潮の匂いがした。
「鬼ヶ島はあの海の向う側にある。地平線の先だ」医師は言った。
「行ったことがあるんですか?」桃太郎が尋ねた。
「まさか」と彼は言った。「たぶん誰も行ったことがないんじゃないかな。人間が行くと帰って来られないところだという話だし。だから僕も正確なところは知らないんだ。鬼がなぜ怖いのか、どうして人を襲うのか。関連するエピソードはたくさんあるけど、その信憑性についてはよく分からない。世の中の情報の多くがそうであるようにね。だけど長い時間をかけて伝達された情報には力がある。少なくとも民衆を動かすには十分な力が」
二人と一匹を載せたスバルは高速を降り、小さな港の駐車場で止まった。桃太郎はドアを開けて外に出て、両腕を伸ばして空気を思いっきり吸ってみた。潮風が肺を通じて全身に行き渡るように感じた。
「僕はもう行くよ」医師は言った。「ここから先は車では行けないから、船で行くことになる。もちろん鬼ヶ島行きの定期便なんて出ていないから、ここらの誰かの船を借りて、自分で行くしかないね。送ってくれる物好きがいれば別だろうけど」
「どうもありがとう。あとは自分でなんとかできると思う」桃太郎は礼を言った。医師は後部座席から犬の入ったダンボールを下ろし、餞別だと言って缶コーヒーとドッグフードをくれた。彼が頭を撫でると、犬は気持ちよさそうに目を閉じ、彼が手を止めると<ワン>と鳴いた。
「もう会うこともないかもしれないけれど、元気でな」別れ際に医師は言った。「でも、君と話ができて楽しかったよ。またどこかで会いたいとも思う。何年も先になるかもしれないけど」
「そうだといいですね」と桃太郎は言った。
「ひとつだけ、忠告しておきたいことがある」
「何です?」
「可能性を捨てるな」彼は言った。「可能性というのは、自ら目を凝らして探さないと姿を現さないんだ。夜空の星座と同じように」
「覚えておきます」と桃太郎は言った。医師はニコリと笑って桃太郎の肩を小さく叩き、スバルと共に颯爽と走り去った。
海岸には、桃太郎とダンボールに入った犬だけが残された。遠くで、沖から打ち寄せる波がテトラポットに砕かれて複雑な飛沫を上げていた。
「さて」桃太郎はダンボールを両手で抱え、辺りを見渡した。「まずは、猿を探そう」
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