第3話

 桃太郎が家を出発したのは午前九時過ぎで、空はどんよりとした灰色をしていた。居間に用意された一張羅に袖を通し、左側の腰には刀を、右側の腰にはきびだんごの入った巾着袋を下げた。きびだんごは鬼退治に役に立つことも無さそうなので置いていこうかとも思ったが、おばあさんが怒るといけないので持って行くことにした。家を出る時に、おじいさんとおばあさんが玄関まで見送ってくれた。

「無事に帰って来るんじゃ」おばあさんは言った。「お前は体も丈夫だし、力も強い、けれど、それでいて決して奢ることがない。お前は鬼にだって負けやせん。鬼を退治して、元気に帰って来い。そして、鬼の財宝をたくさん持って帰ってこい」

「必ず帰ってくるよ」と桃太郎は適当に答えた。おじいさんは何も言わずにじっと桃太郎の目を見ていた。


 家を出ると桃太郎は北の方向に伸びる一本道をただまっすぐに歩いた。途中、いくつかの橋を渡り、広大な田んぼとキャベツ畑を横切った。道中で二人くらいの村人とすれ違ったのでその度に軽い会釈をし、一度だけ林の中で立ち小便をした。風景は田園から林道へと変わり、林を抜けると次第に民家が増えはじめ、ついには大きな街になった。街はそれなりに栄えているようで、まるで空を覆うように電線が張り巡らされ、道路にはたくさんの車が大きな音を立てて走り、街全体が土煙と振動に包まれていた。自転車の荷台に大量の空き缶を積んだホームレスが道端でカップ酒を飲み、大きなサングラスをかけた真っ赤な口紅の女性がスポーツカーに乗った男性の誘いを無視していた。桃太郎はそんな街の様子を眺めながら、まっすぐに北の方向へ進んだ。鬼ヶ島は北西の方向にある、としか知らされていなかったからだ。

 交差点をいくつか渡り、いよいよ土煙と喧騒にうんざりしてきた頃、桃太郎は犬に出会った。

 犬は道端でぐったりと横になり、まるで死んでいるように身動きひとつしていなかった。2本の後ろ脚が奇妙な方向に曲がり、体毛に乾いた血液のようなものがこびり付いていた。犬の側には皿が2枚置かれており、片方の皿には乾いたドッグフードのようなものが入っていた。何匹かの蝿が、着陸を試みるUFOみたいにその皿の周囲をくるくると回っている。もう一方の皿には水が入っていたが、水面には細かい砂の粒子が薄い膜を形成していて、側を車が通る度に水面に奇抜な抽象画のような波紋が浮かんだ。  しかし、犬は死んではいなかった。桃太郎が側に寄ると、犬は半分だけ開けた目をチラリと桃太郎の方に向けた。そしてしばらく桃太郎を見てから、再び首を地面に横たえ、ただ虚空の一点を見つめていた。桃太郎はそのまま通りすぎようとしたが、どうしても様子が気になり、犬の側に腰を下ろした。犬は桃太郎が近くに座ったことを、全く気にしていないようだった。

 桃太郎が犬を眺めていると、道路を横切って白衣を着た中年の男が歩いてきた。男は坊主に近いような短髪で、そのところどころに白髪が混じっていた。彼は僕の方をちらりと見ると小さくお辞儀をして、犬の前に腰を下ろした。そして首から下げていた聴診器を犬の脇腹の部分に当てて意味深に何度がうなずき、ポケットから注射器を取り出して犬の首のあたりに刺した。犬は一瞬ぴくりと動いたが、すぐにまた動かなくなった。

「こいつはもう死ぬんだよ」白衣の男は言った。「三日くらい前に交通事故に遭ってね。元々そんなに若い犬ではなかったけど、この界隈ではそれなりに有名な野良犬で、近所の人には割りと可愛がられていたんだよ」

「あなたは獣医さんなのですか?」桃太郎は尋ねた。

「私が獣医?」白衣の男は驚いたような口調で言った。「私は医者だよ。人間を相手にする方のね。好き好んで獣医になんてなるやつは余程の馬鹿か、一生金に困らないボンボンだけだろうね。私達は人間だけを診ていればいいが、獣医なんていうのは犬や猫からネズミ、さらには爬虫類や鳥類、下手すりゃ魚類とか軟体動物まで診なくちゃならない。医者が日本の小説家だとすれば、獣医は同じ文章を英語、中国語、スペイン語、スワヒリ語なんかに同時通訳しながら書くようなものだ。しかも保険が効かないから収入は少ないし、文句を言って治療費を払わない飼い主も多い。まともな人間のやる仕事じゃないよ」

「では、なぜこの犬の治療をしているのですか?」桃太郎は訊いてみた。

「治療じゃないんだよ」医師は言った。「僕は痛み止めのモルヒネを投与しているだけで、この犬の命を救おうとしているわけじゃない。死までの道のりを少しでも平坦にして、歩きやすくなるよう整えているだけだ。この犬は毎日少しずつ、しかし確実に死に向かって歩を進めている。それを引き止めたり、あるいは引き返させるようなことは僕には出来ないからね」

 医師はそう言って皿に盛られた古いペットフードを側道に捨て、鞄から新しいレトルトパックのドッグフードを取り出して皿に入れ、犬の顔の側に持って行った。犬は鼻をピクリと動かし、少しだけ頭を持ち上げたが、ダンベルの負荷が重すぎたみたいに、すぐにダラリと頭を下げ、再び虚空の中に意識を落とした。

 犬は確かに死にかけていた。その目を見ると、この生き物はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。その目の奥からは、生命の灯火のようなものを殆ど感じることが出来なかった。そこにあるのは、夏祭りの後の神社の境内のような、ひとつの命が存在したことを示す僅かな残り香のようなものだけだった。

「食べませんね」桃太郎は言った。

「食欲が無いみたいだね。食欲は動物の一番大きな欲望だ。それが無くなるともうダメだ。人間も犬も同じだよ。生きることは食べることだ」医師はそう言ってもう一つの皿に溜まった水を捨て、ペットボトルから新しい水を注いだ。そしてゆっくりと立ち上がり、白衣の膝の部分についた埃を手で払った。

「私はもう行くよ。君はどうする?もう少し犬を見ていくかい?」医師は言った。

「そうします」

「そうか」医師はニコリと笑って道路を渡り、雑踏の中へ消えていった。


 医師が行ってしまった後で、桃太郎は犬に話しかけてみようと思ったが、死にかけた犬との共通の話題が見いだせなかったので、結局黙っていた。犬は相変わらず地面の一点を見つめ、ぐったりとその身を地面に委ねていた。桃太郎はこの犬がいま何を思い、どういった気持ちでその生命を終えようとしているのかを想像したが、まるで見当がつかなかった。

 しばらくすると、突然犬が驚いたようにビクリと動いて苦しそうな表情になったので、桃太郎は犬の体をゆっくりと撫でてやった。犬の腹部は呼吸に合わせて上下に激しく動いていた。何かしてあげたかったが、彼にできるのはただその体を撫でてやることだけだった。桃太郎がゆっくりと犬の腹部や背中を撫で続けていると、犬の呼吸は徐々にゆっくりと穏やかなものになっていった。桃太郎は犬の顔を見た。犬はいつのまにか視線を桃太郎の方に向けていた。その充血した目の奥にある何かを感じ取ろうとしたが、うまくいかなかった。

「腹減ったでしょう、何か食べますか?」と桃太郎が尋ねると、犬は小さく頷いた。桃太郎がドッグフードをひとつまみ取って口に持っていくと、犬は手からそれを食べ、ゆっくりと噛んでから飲み込んだ。

「どうです、うまいですか?」桃太郎が尋ねると、犬は小さく口と舌を動かし、<まずい>と言った。しゃべるというよりは喉の空気を少しだけ吐き出すついでに僅かな音を付けたといったような具合だった。

「まぁ、そうでしょうね。確かにあまりうまそうではない」桃太郎はその後も何度かドッグフードを犬に食べさせ、半分ほどを食べたところで犬がそっぽを向いたので、皿を下げた。「水も飲みますか?」と尋ねると、犬が小さく頷いたので、桃太郎は片腕で犬の顔を持ち上げ、口に水の入った皿を近づけた。犬は水をペロペロと舐めるようにゆっくりと飲んだ。しばらくすると犬が舌を引っ込めたので、桃太郎は頭をそっと地面に降ろした。

「もっとドッグフード食べますか?」桃太郎が尋ねると、犬は<いらない>と言った。桃太郎はドッグフードと水の皿を道路の隅に引っ込め、ホコリ避けに上から新聞紙をかぶせた。そして持っていたハンカチを水で濡らし、犬の体を丁寧に拭いてやった。肛門の周りは糞と小便でひどく汚れていたのでポケットティッシュで念入りに拭き、溜まっていた目やにも丁寧に取って捨てた。ハンカチは血と泥と糞尿でひどい色になってしまったので、近くの水道に持って行って念入りに洗った。全身を拭いてやると、先程よりはいくらか生きている犬らしく見えるようになった。

「僕は桃太郎といいます」桃太郎は言った。犬はじっと桃太郎を見ていた。「桃から生まれたから桃太郎というんです。ひどい名前でしょう?この名前のせいで、小学生の頃からずっといじめられていました。上履きを隠されたり、教科書を破られたり、給食にシャープペンの芯を入れられたり、まぁそんなことです。別にそれはいいんです。その場限りで終わるような嫌がらせは、別に大したことはないんです。その時を我慢すれば終わるのだから、楽なもんです。本当に辛いのは、後に残るようないじめです。わかりますか?例えば、僕は以前、お尻の穴に木工用ボンドを入れられたことがあるんですが、あれは辛いです。僕はいじめられ慣れているので、その場ではあまり悔しさも何も感じないんです。クラスメートが僕の姿を見て笑って、馬鹿にされても、心と体を分離させていじめられている自分を客観的に眺めるんです。丁度、幽体離脱したみたいに、自分を斜め上から見ているような感覚です。でも、家に帰ってから一人でシャワーヘッドを外してお尻の穴を洗う時には、そういうわけには行きません。その時はもう自分は自分であり、自分の意志でお尻を洗っているわけですから、客観視なんてできない訳です。そこで初めて惨めさが込み上げてきて、涙がボロボロ出ます。学校ではどんなに殴られても蹴られても絶対に泣いたりしないのにです。こういう感覚って分かりますか?」犬は何も答えず、じっと桃太郎を見ていた。「だから、僕は自分の名前がとても嫌いです。でも、こんなことをおじいさんとおばあさんに言うとすごく怒るから、誰にも言えないんです。学校のみんなは僕のことを人間じゃないと言います。確かに桃から生まれたなんて人間離れしていると思うし、僕は人間じゃないのかもしれませんけど、だからってこんな仕打ちをする理由になるでしょうか?だったら犬や猫にも同じことをしていないと不公平です。でも彼らは学校の鳥小屋で飼っているウサギとニワトリの肛門にボンドを注入なんてしないし、家で飼っているペットの犬を殴ったりしません。あいつらはノンポリシーなんです。僕は不公平なことが嫌いです。だから、クラスメートも先生もみんな嫌いです。とまぁ、文句ばかりになってしまいましたが、これが桃太郎という人間です」

 桃太郎が話している間、犬はただぼんやりと桃太郎の目を見ていた。彼が自分の話を聞いていて内容を少しでも理解してくれているのか、桃太郎にはよくわからなかった。

「ピーチ」と桃太郎は言った。

 それだけ一気に喋ってしまうと、桃太郎はひどくお腹が減っていることに気付いた。家を出てから今まで、何も食べていなかったのだ。

「お腹が空いたので、隣で飯を食べますけど、かまいませんか?」桃太郎が尋ねたが、犬は何も答えなかった。桃太郎は腰につけた巾着袋からきびだんごを取り出して、食べた。とても上手とはいえないいびつな形をした団子だったが、ひどくお腹が空いていたせいで、とても美味しく感じられた。きびだんごを口に頬張り、噛む度にモニュ、モニュという音とともに口の中で香ばしいきな粉の香りが広がった。

「うまいですよ」桃太郎は言った。「やっぱり人が作った食べ物というのはいいもんです。既成品もいいけれど、いささか整いすぎているところがあります。手作りの食べ物特有の不確かさみたいなものが、同じく不完全な生き物である僕達には合っているのかもしれません」

 桃太郎はきびだんごを三つほど食べ、ゲップをしてから持ってきた水筒からグビグビとお茶を飲んだ。なんだか心が安らかになったような感じがした。

「犬さんもお水飲みますか?それともお茶を入れましょうか?」桃太郎は訊いてみた。

<きびだんご>と犬は言った。

 桃太郎はニコリと笑ってきびだんごを小さくちぎって犬の口に持って行った。犬はきびだんごを何度も何度も噛み、その度にモニュ、モニュという小さな音がした。

「うまいですか?」桃太郎は尋ねた。

<うまい>と犬は言った。

「食べ物が旨いって、いいことです。生きることは食べることだと、あのお医者さんも言っていましたから」

 結局、犬はきびだんごを2つ食べた。食べ終わると水を少し飲み、犬は眠ってしまった。とても気持ちよさそうな寝顔だった。気が付くと西の空が少し赤みを帯び、長い一日が終わろうとしていた。桃太郎はズボンと上着を脱いで下着だけになると、バッグから寝袋を取り出してその中に潜り込み、犬の隣で目を閉じた。相変わらず道路には砂埃を上げながら車が走っていたが、不思議と気にならなかった。桃太郎はかなり疲れていたようで、目を閉じるとすぐに、鯨に丸呑みされたかのような睡眠が桃太郎を包み込んだ。


 桃太郎が目を覚ますと、目の前で昨日の短髪の医師が犬の腹に聴診器を当てているところだった。日はすっかり高く昇り、街は昨日の夕暮れの和やかな雰囲気を必死で忘れようとしているみたいに、慌ただしく動いていた。犬は相変わらず地面に横たわっていたが、桃太郎が起きるのを見ると首をこちらに向けて<ワン>と吠えた。医師は桃太郎が目を覚ましたことに気が付き、耳から聴診器を外してポケットにしまった。

「ここで一晩過ごしたのかい?」

「えぇ、つい寝てしまいました」桃太郎は目をこすりながら答えた。顔中に砂が付いているような、ザラリとした感触があった。

「犬を洗ってくれたのも君かい?」

 桃太郎は昨日のことを順番に医師に話した。犬の体を拭いて、ドッグフードを半分食べさせ、桃太郎がきびだんごを頬張っていると食べたいと言ったので2つほど食べさせると、ぐっすり眠った、と。

「君はすごいねぇ」医師は関心したように言った。「弱った病人にご飯を食べさせるのが一番大変なんだよ。この犬も最近はぜんぜんドッグフードを食べなかったんだ。信じられないね」

「きっと、僕が団子を食べているのが美味しそうに見えたんでしょう」桃太郎は照れながら言った。

「ところで、君は旅人か何かなのかな?」医師はニッコリと笑って言った。

「まぁ、そんなところです」桃太郎は言った。「実は、これから鬼ヶ島へ行かなくてはならないんです。場所をよく知らないんですが。鬼ヶ島はこっちの方向で合っていますか?」桃太郎は歩いてきた方の反対の道路を指さして言った。

「鬼ヶ島か。方向はそうだが、結構遠いよ。普通に歩いて一週間はかかる。途中で分かり辛い道も通るし」医師は少し考えるように言った。「よかったら送って行こう。車で行けばそんなに遠くない」

「いいんですか?」桃太郎は驚いた。

「いいんだよ、行きずりの犬の世話をしてくれるような青年だ、悪い人じゃないだろう。まさか、運転している時に僕をナイフで刺して、車と財布を盗むつもりじゃないだろう?」

「まさか」桃太郎は慌てて言った。

「じゃあ、決まりだ。僕は君が気に入ったんだ。そして、今日は病院が休みで、退屈しているんだ」桃太郎はそう言われて初めて、医師の服装が白衣ではないことに気付いた。彼は濃い色のジーンズに、オリーブ色のポロシャツを着ていた。いささかお腹が出てはいるが、その服装は彼によく似合っていた。

「ありがとうございます」桃太郎は言った。案外あっさりと鬼ヶ島に辿り着けそうだ。「ところで、犬の容態はどうですか?」

「昨日よりは良くなっているよ」医師は犬のほうを見て、犬の頭をポリポリと掻いた。犬は気持ちよさそうに目を閉じていた。「やはり精神的なものが大きいんだろうね。昨日までは生きることを諦めていたみたいだったが、今は生きようとしている。そんな気がするね。医者がこんな精神論を言うのもどうかも思うけれど」

「あの、お願いがあるんです」桃太郎は言った。

「なに?」

「鬼ヶ島に、この犬も一緒に連れて行ってもらえませんか?」

「犬を?」医師は驚いた様子で言った。「どうして?」

「友達だからです。僕と犬は同じ釜の飯を食った仲です。僕は、死ぬのならば彼と一緒がいい。まだ出会って一晩しか経っていないけれど、この犬とはうまくやれそうな気がするんです。上手く言えないけれど、僕と彼との間には何か特別な共通項のようなものが存在するような気がするんです」桃太郎は犬の目を見ながら言った。犬はじっと桃太郎の方を見ていた。

「やれやれ」と医師は言った。


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