三章② 突き付けられた事実
ミカから逃げるようにして、屋敷を出た。どんよりと暗い空模様だが、時刻はまだ午前中。二日分の時間を眠って過ごした身体には、外の空気がやけに冷たく感じる。
右腕の傷は縫合され、ユドからややこしい名前の経口薬をいくつか貰った。あとは擦り傷や打撲があちこちにあるが、気にする程のものではない。サンには止められたが、右手は動かないわけではないのだからこのまま世話になることはないと、強引に言いくるめてきた。
とにかく、逃げたかったのだ。
「……帰ろう」
スノーモービルはトニがフロストの家の車庫にしまってくれたらしい。村長の屋敷から自宅まで歩くことになってしまったが、鈍った身体には丁度良い運動になるだろう。滑る足元に注意して、フロストは丘をゆっくりと下りる。
無意識にコートのポケットに手を入れ、飴玉を探す。しかし、どうやら全部食べてしまったらしい。
髪を乱す風は荒々しい。一歩ずつ踏み出す度にブーツが雪に埋まる坂道は、どうやらしばらく雪掻きを行っていないようだ。
それも、仕方無い。村の中心にやってくると、あの夜に虚無が残した爪痕を改めて見ることとなった。
ある家は煙突が根こそぎ折られ、また他の家は割れた窓に新聞紙やダンボールで補強してある。男は資材を担いで走り回り、女は掃除や洗濯に勤しんでいる。村中が手分けをして復興に尽力しているようだ。
「あっ、フロストおにいちゃん! もう起きても大丈夫なの?」
げっ、見つかった。思わず肩を跳ねさせて、舌足らずな声の持ち主を探す。ぱたぱたと慌ただしく走り寄ってきたのは、頬と鼻の頭を真っ赤にしたセニヤとユハだ。二人共、フロストの家の近所に住む姉弟である。
「おにいちゃん。おててのけが……いたい?」
弟のユハがおずおずと訊いてきた。右腕の傷は痛いというより、熱く火照ってむず痒い方が難儀だった。
「全然。ほら、何てことねぇよ」
フロストは二人の前で膝を着いて、目線を合わせてやる。そして右手を握ったり開いたりしてやれば、ようやく二人の顔に笑顔が戻った。
「よかった! みんな心配してたんだよ? フロストお兄ちゃんが目をさましてくれないって」
「ぼくとおねえちゃんね、おにいちゃんのおみまいに行こうとしてたの」
「でもね、お兄ちゃんの赤いコートが見えたから。おみまいは行けなかったけど、フロストお兄ちゃんが起きてくれて嬉しい!」
きゃっきゃっとはしゃぐ二人。フロストは何故か、昔から子供に好かれる体質のようで。どれだけ虫の居所が悪い時でも、村の子供達はフロストの家に遊びに来たり、一緒に遊ぼうとせがんだりするのだ。
それでも、別段子供は嫌いじゃない。煩わしいと感じる時も多々あるが、こうして無邪気に笑う姿は素直に可愛いと感じる。
「でも……お兄ちゃん元気ないね」
「どこがいたいの? ユハがユドせんせーからおくすりもらってくるよ?」
再び二人の表情が曇る。子供らしい柔らかな髪を撫でて、フロストがゆるゆると首を横に振る。
「どこも痛くねぇよ。大丈夫、心配すんな」
「じゃあ、どうしてそんなにかなしそうなの?」
息が詰まる。今、自分はどんな顔をしていたのだろう。
悲しいなんて、思っていないのに。表情が歪む程、腕の傷は痛んでいない筈なのに。
「あ……えっと、お前達の家は無事か? 誰か、怪我したりしてないか?」
無理矢理に話題を変えようとして、突いて出た内容は子供には酷なものだったかもしれない。しかしフロストの心配とは裏腹に、幼い二人は淡々と喋ってくれた。
「んとね、ユハのうちはだいじょうぶだったよ?」
「窓のガラスは割れちゃったけど、パパとママも元気だよ。セニヤ達ね、お家の外に虚無が居て怖かったけど、でも泣かなかったの!」
「そうか……偉いな」
フロストの賛辞を素直に受け取り、セニヤとユハがお互いの顔を見て笑う。彼等には大きな被害は無かったようだが、それは幸運な方なのだろう。
柔らかな癖毛から手を離すと、胸の奥に押し込めていた思いが無意識に零れてしまう。
「……俺が、悪いんだよな」
「え?」
気がついた時には、もう遅かった。運が良いことに相手はまだ幼い。フロストの言葉の真意を理解するのは、まだ彼等では難しい。
「い、いや……何でもない。ほら、寒いんだから温かくしとけ」
慌てて取り繕うように二人のマフラーを直してやる。すっかり冷えてしまった頬を撫でてから、フロストは立ち上がる。
「じゃあ、俺は家に帰るから。遊ぶなら、皆から見える場所でな」
「フロストお兄ちゃん……はやく元気になってね?」
身体をいっぱいに使って、フロストに手を振るセニヤとユハ。そんな二人から、足早に離れた。
残りの道中でも、フロストの姿を見つけて声を掛けてくる者は何人も居た。だが大人達は決まって、途中で言葉が続かなくなってしまう。その隙を突いて、フロストは自分の家に逃げた。
最後は駆け込んで、玄関の鍵をかける。
「はぁ……疲れた」
人気の無い、慣れ親しんだ孤独。外の世界から切り取られたかのような、静かな空間。
皮肉なことに、虚無にとって一番の敵である筈のフロストの自宅はほとんど無傷で済んだ。襲撃当時は誰も居らず、明かりも点けていなかったからか虚無の興味をそそらなかったようだ。
背中を玄関のドアに預け、軽く息を吐く。やはり自分の家は落ち着く。他人の目を気にしなくて良いし、一時期を抜かして考えれば生まれ育った場所なのだから。
「……さて、と」
額のゴーグルを外し、マフラーとコートを脱いで玄関脇に引っ掛ける。ちゃんとクローゼットにしまった方が良いのだろうが、一人だとどうしても怠慢してしまう。
ガーゼの上に何重にも巻かれた包帯は、まだ取り替える必要は無い。そういえば、自分の血でずぶ濡れになっていた筈のコートは洗濯され、破れた袖や解れていた裾まで綺麗に修繕されていた。
きっと、ミカの母親のカティだろう。
「やべぇ……気付かなかった」
礼すら言わないで帰ってきてしまった。後ろ髪引かれる思いで、しかし引き返す気力は無く、二階にある自室へと向かう。
廊下へ出て、階段を昇ろうと手すりを掴む。だが、ふと思いとどまって廊下の奥へと進む。暖房の入っていない家の中は外より幾分マシかという程度で、冷え切った空気は肌を刺すよう。
それでも、フロストはあえて上着を取りに行くこともせずにその部屋へと向かった。廊下の突き当たり。家の中でも、掃除をする時くらいしか入ることのない一室。
明かりを点けて、少々埃っぽい室内を見渡す。この部屋の持ち主は多趣味だったようで、殺風景なフロストの部屋とは正反対の景色である。
天井まで届く本棚には様々な書籍がぎっしりと詰まり、棚の上に並ぶのは昔のロボットアニメのプラモデル達。他にもレコードやCDの数々が溢れている。
十三年前から少しも変わらない、ヒョウの部屋だ。
もう使われることの無い部屋を、あえて残しておく必要もないだろう。中に入り、扉を静かに閉める。
「……ここも、片づけねぇとな」
ヒョウが居た頃、プラモデル遊びたい時は彼に取って貰っていた。しかし今は、大抵のものなら手が届く程にフロストは成長した。
それ程までの長い時間が、この部屋でも確かに過ぎ去っていたのだ。
「ん? ……これは」
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