一章⑦ 不穏の存在
フロスト、スノーモービル動かすよ! ばたばたと慌ただしく店を出て行くミカを、呼び止める暇すら無かった。
「……あんなデカいスノーモービル、ミカに動かせるのか?」
「ちょっとでもあんたの為に何かやりたいんでしょ? 健気だねぇ、あんたにはもったいないねぇ?」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて、アンナが言った。何だか腹立たしさ思い、カウンターにツカツカと歩み寄る。
「何だよ、その言い方」
「別にぃ? でも、これで貸しが出来たね。まったく、変なところで不器用なんだから」
埃でべたつくカウンターに、先程よりも輝きを増したブランシュが置かれる。すぐに嬉々としてネラに取り掛かるアンナに、フロストが肩を落とす。
認めたくはないが、フロストには落ち込んだ時のミカをどう取り扱って良いかが分からないのだ。
「ああ、助かった。借りが一つな」
「いいや、二つだね」
言って、手元の引き出しから何やら小さなサイコロのような小箱を取り、フロストの手前に置く。
紺色の、手の平に容易に収まる小さな箱。蓋を開けると、其処に入っているものが静かに顔を覗かせた。
「……これか。やけに仕事が早いじゃねぇか」
「次のクリスマスまで一週間も無いからねぇ? カワイイ愛弟子の為に、お姉さんが頑張ってあげたわけさ」
蓋を閉め、とりあえずの隠し場所としてコートの内ポケットに押し込む。戦士であるフロストは、特にクリスマスが近いこの時期に遠出をすることは不可能だ。だから、ちょっとしたものでもよく街に行くアンナに頼まなければならない。
本来ならば、この品はフロストが直接買いに行きたかっのだが。しかし、アンナに任せて正解だったらしい。
「で、どうなのさ?」
「あ? なにが」
「ホントはミカのこと、どう思ってるの? お姉さんにこっそり教えちゃいなよ。それを私に買いに頼むくらいなんだから、ただの幼なじみだとは思ってないんだろ?」
ほらほら、と手を耳に当てて。女という生き物は一体どうしてこういう下世話な話が好きなのだろうか。
「……別に、ただの幼なじみだ」
「おや、それだけとはつまんないねぇ。つまんないよねぇ?」
アンナはただの酔っ払い、もといただのマニアでもましてや変人でもない。彼女も村に来るまでは戦士として、大陸を練り歩いていたらしい。
元々は軍人だったのかもしれない。時折見せる身のこなしは、軍人らしく無駄の無い洗練されたものがある。酒に酔ってない、本当に時折なのだが。
「ところで、最近具合どうだ?」
「ん? ああ、調子良いよ」
恐らく無意識に、自らの胸元を撫でる指。アンナの身体には、凄まじい古傷が胸元から左の横腹まで抉るように走っている。
彼女は絶対に弱音を吐かない女であるが、度々ユドのところに行って痛み止めの注射や薬を貰っていることをフロストは知っている。
彼女の性格を知っているからこそ、フロストはあえて手を貸したりしないのだが。
「やっぱり歳には勝てないねぇ。昔は無理が効いたけど、今じゃもうアンタに頼りっぱなしだよ。アンタ一人じゃ負担がデカいから、サポートくらいしてやりたいんだけど」
「まあ、今のところは俺一人で間に合ってるよ」
先程の言葉を思い出すと、胸の中がむかむかする。虚無は一晩で何十、何百も増える。クリスマスまであと一週間、やはりこのままではいけない。だが戦士である以上、村長の命令は絶対だ。
だから、早急に何とかしなければ。
「やらなきゃいけねぇことが、山積みだな」
「そうだねぇ、とりあえず……屋根の雪下ろしから頼むよ」
「……あ?」
何だと? 薄汚れたカウンターを挟んで、眼下でアンナが笑う。
「屋根の雪と氷柱落として。それから、この店の掃除と薪割り。あと、店の前の道の雪掻きもよろしく。この二人の整備が終わるまでに」
「何でだよ!? 何で俺がお前の家の雪掻きまでやんなきゃいけねぇんだよ!」
絶えず降り続く羽毛のような牡丹雪は、気がついた時にはとんでもない高さまで積もってしまっていることが常で。こまめに氷柱を落としたり雪を道の脇に退けなければ、まともに歩くこともままならない。
自宅の雪掻きもしなければならないのに。しかも、半日程フロストはずっと虚無退治に尽力していたのだ。
「いいじゃないか。これで貸し一つ減らしてやるからさ、よろしくー」
「こっちは疲れてるんだ! 朝っぱらから酒飲んで寝やがって、ブタになるぞ!!」
「あーら? 私のナイスバディはあんたが一番良くわかってると思うけどねぇ。なに、久しぶりにお姉さんとイイコトしたいって?」
「はあっ!? 誰が――」
「ねぇねぇ、何をするのぉ?」
ぎょっとした。慌てて振り返ると、いつの間にか背後にはミカが立っていた。すっかり油臭くなり、鼻の頭と頬に黒い煤のような汚れがへばり付いている。
とりあえず、彼女に訊いておかなければならないことがある。
「おや、お疲れミカ。ちゃんと入れられたかい?」
「うん! ちゃんと満タンにしてきたよ?」
「ミカ……お前、いつから居た?」
「へ? うんと、雪掻きとか氷柱落とすとか、イッパツがなんとか――」
「……いや、もういい」
健全という二文字からかけ離れた言葉がミカの口から飛び出したことに、フロストががっくりと肩を落とす。
「うふふ。ミカってカワイイよねぇ?」
「ふえぇ!? な、なにいきなり」
「いやあ、なんか色々とお姉さんが教えたくなるんだよねぇ……ねぇ、フロスト?」
これは、決して同意を求められているわけではない。どちらかというと、脅しである。
借りが出来た上に、師弟関係では説得出来ないような問題だらけの過去。それと天秤にかけられた皿の中身は、片方の皿をぴくりとも動かせない程に軽い。
「……屋根の雪と氷柱落として、道の雪掻きだな」
「よろしくー! じゃあミカ、フロストの仕事が終わるまで、部屋の掃除でも手伝ってくれない?」
「うん、いいよ!」
にこにこと楽しそうに笑うミカの横をすり抜ける。一度思い出された記憶は、暫くは熱を持ったままでいるらしい。逃げるようにして、外に出た。
雪は止んでいたが、空気は身を裂くように鋭く冷たい。
「……くっそー」
それでも、頬と記憶は冷めず。戦士としては、どこまでも冷酷になれるフロストであるが、日常を過ごす彼はまだまだ子供である。
人知れず吐き出した思いは溜め息と共に、白く濁って空気に溶けて消えた。
※
まだ若いサンタクロースの男が、小さく身体を震わせる。
「な、なんだこれは……」
彼の名前はトニ・ユヴォネン。ライアス村で宿屋――外から訪れる客はめったに居らず、大抵は暇を持て余す大人の溜まり場である――の主人である。先程村の長に言われて、村の外れにある祭壇の結界の様子を見に来たのだが。
光を秘める、トニの身長と同じ高さのスピネル。乳白色の、ひし形に象られた結晶は大理石の台座に堂々と座っていて。常に淡い光の、しかし強力な威力でもって村を守護している筈だった。
今朝までは、確かにその筈だった。粉々に砕け散った破片が、トニのブーツの先で今にも消えてしまうのではないか、そう思ってしまう程に儚く輝いている。
「どうして……い、一体誰がこんなことを!?」
無惨に崩壊した光の護り。スピネルの力の強さは、純度と大きさによって変わる。ライアスのスピネルは古いものだが純度は高く強力なものだ。普通なら虚無が入ってくることも、攻撃をすることも不可能な筈。
それに、この傷は。台座に残るおびただしい量の傷。恐る恐るそれらに触り、ゆっくりとなぞる。
「銃、か? まさかフロスト……いや、有り得ないよな」
口は悪いが、あの青年はこんな意味の悪戯は絶対にしない。ならばアンナか。いや、彼女も違うだろう。村で銃を扱えるのはあの二人だけ。
ならば、全く関係無い第三者の行為か。一体誰が。
「……とりあえず、村長に報告だな」
何にせよ、すぐにこのことを皆に知らせなければ。足元の破片を一つ拾い上げ、トニは急いでその場を離れた。
――クスリ。艶美な微笑が一つ、静かに零れる。
「うふふ……ねぇ見た? あのサンタクロース、驚くあまりに凄く間抜けな顔をしていましたわ」
灰色の雲に覆われた空はみるみるうちに暗くなり、やがて長く深い夜が舞い降りる。低く、硝子を引っ掻くようなノイズ混じりの声が訊ねた。
「何故、あの者を生かしたまま見逃したのですか?」
「だって、このまま殺しては美しくないでしょう? わたくしが求めるのは、機械的で無意味な殺戮ではなくてよ?」
女が一人、夜風に靡く髪を払い笑う。腰をうつ髪はビロードのように滑らかで、ふとすれば吸い込まれそうなまでの漆黒。肌は真珠のようで、唇には鮮やかで蠱惑的な紅。
深いスリットから覗く太腿。高く鋭いヒールが、スピネルの欠片を踏みつけ、砕く。切れ長の目をうっとりと細め、片腕にとまる闇黒のフクロウを撫でる。
「まだ駄目。だって、美しくないもの。逃げ場を無くし、じわりじわりと追い詰めて。恐怖に狂い、わたくしの足元に跪かせたいのよ。あのサンタクロースとトナカイ達をね」
「しかしキュリ様。この村には少々、厄介な戦士がおります。我々虚無の中では、名前を耳にしただけで恐れ戦く者も」
「フロスト・ヒューティア。虚無を、無慈悲に蹂躙するサンタクロース……ただ殺戮を繰り返すだけの愚者には、醜い最後がお似合いですわ」
凄絶な美貌に、氷の笑みを纏い。フクロウが羽ばたき離れると、剥き出しの腕を軽く撫でてから、太腿に吊ったホルスターから拳銃を抜いた。
僅かな光を受け、輝く金色。
「まずは、そのフロストに会いにいきましょう。わたくし達『虚無』の足元に跪かせ、服従させて。村人の前で惨たらしく殺しちゃいましょう。この玩具でね?」
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