第23話 追跡者

 あたしは角を曲がった瞬間、ダッシュをかけた。あたしだって演劇部で散々筋トレしたんだ、走り込みだってやってる。演劇部じゃ足の速さはナンバーワンだ、そんじょそこらの人に負ける気はしない。


 だけど、その人は嘘みたいに足が速かった。直線だと追いつかれてしまう。仕方なくあたしは狭い路地にチョロチョロと入り込んで、直線を許してやらない。

 それなのに! 回り道されたりしてるのは何故なんだ、地元民か? この辺の土地勘がある人なのか?


 肺が空気を求めて喘いでる。真冬だというのに、あたしはあっという間に汗をかいて、マフラーもブレザーも何もかも脱いでしまいたい衝動に駆られる。だけど脱いでる暇さえないんだ。ちょっとでも立ち止まったら追いつかれる!

 僅か数分のチェイスだろうに、もう十五分くらい走ってるような気がする。


 どうしよう、この辺あたしの知らないところだ、どっちが家か判らない。迷ってる暇は無いから、闇雲に走り回る。誰かに助けを求めたいけど、誰も通らない。もっと駅の近辺ならいいのに!


 そう思った瞬間、その人が角から飛び出して来た。先に回り込んだんだ。あたしは急ブレーキをかけて、反対向きに逃げる、逃げる、逃げる。

 大声を出して助けを呼ぼうにも、もう喉がカラカラに干からびてしまって、声すら出ない。


 ああ、もうダメだ、追いつかれる。……そう思った時、急に目の前に白い車が曲がって来て、あたしはその車に思い切り突っ込みそうになった。

 甲高いブレーキ音がして車が停止する。あたしは勢い余って体当たりし、その反動でボンネットに乗り上げて、無残に落っこちてひっくり返った。

 喉の渇きと肺の痛さに加えて、車ににしたたかぶつけた腰の痛みに倒れたまま唸っていると、車から運転手が降りて来た。


「大丈夫ですか? 話せますか?」


 あ、この声は。


「千賀子ママ!」

「えっ、聡美ちゃん?」


 薄暗がりでもはっきりわかる千賀子ママの輪郭。良かった、助かった!


「助けて、誰かに追われてる!」

「え、何、どうしたの?」


 息が苦しくて喋れないんだよー!


「わかんない、この前、パーティで、あたしに、毒を盛った人、かもしれない」

「わかった。車に乗って。立てる?」


 千賀子ママに引っ張り上げられて、あたしは車の助手席に押し込まれた。


「シートベルトして。家まで後を尾けられると厄介だから、ちょっと無駄に遠回りするからね」

「うん、ありがとう」


 千賀子ママは白いアウディを発進させた。


「どこか怪我してない? 大丈夫?」

「うん、あたしが、車に、突っ込んだ、だけだから」


 息切れして上手く喋れない。


「いいよ、ゆっくりで」

「助かったー。死ぬかと思った」

「どうしたの? ゆっくり話してごらん」


 ハンドルを握る彼女の指は、夜目にも白く綺麗だ。


「さっきね、警察に行ったの。いろいろ話しに。それで帰り道、バスに乗ろうと思って歩いてたら、誰かが凄い速さで追いかけてきて」

「何かされたの?」

「ううん、追いつかれる前に走って逃げた。だけど凄い速さで追いかけて来た。それに全然へたばらないんだよ、その人。あたしがこんなに息切れしてるのに、余裕があるんだよ。なんか、そう、サッカー選手みたい」

「サッカー選手?」


 千賀子ママがこっちをチラリと見る。


「そう、まるでバテないの。直線も速いし、ガンガン曲がっても普通について来る。篤に追われてるような気分だった」

「男か女か、わかる?」

「わかんないよ。もう必死だったもん。それよりボンネット凹んでないかな。あたしのお小遣いじゃ修理費払えないよ」

「そんなの気にしないで。凹んでたら犯人に請求するから」


 千賀子ママは確かに言った通り、あっちに行ったりこっちに曲がったりを繰り返して、家と関係ない方に向かって車を走らせてくれて、しばらく走ったところで車を止めた。


「ちょっと待ってて。何か飲み物買ってきてあげる」


 そう言って千賀子ママは車を降りた。無茶苦茶喉が渇いていたから、ほんと助かる。

 戻ってきた千賀子ママは、冷たい緑茶と温かいコーヒーを持っていた。


「今はこれがいいでしょ?」

「うん、ありがとう」


 あたしが一気飲みしようとすると、すぐに止められた。


「ダメダメ、冬なんだから一気飲みすると内臓から冷えて、お腹痛くなっちゃうよ。少しずつね」


 笑いながらコーヒーを飲む千賀子ママを見たら、なんだかすごい落ち着いて来た。『ここで会ったが百年目』じゃない、ええと、『地獄に仏』だ。

 千賀子ママが「ここに置いていいから、ちょっとずつ飲むんだよ」と、ドリンクホルダーにお茶を置いてくれる。ああ、持つべきものは気の利く母だ。これがあたしの親でないのが残念だ。


「後ろ、見てくれる? 誰か尾けて来てる?」


 千賀子ママに言われて、あたしは助手席のシートに身を隠しながら車の後方を覗った。


「大丈夫みたい。誰もついてきてないよ」

「そう、良かった。もう少し遠回りして帰る? 病院行っておく? それとも警察に行く?」


 あ、そうか、警察に!


「そうだね、警察に知らせた方がいいよね」

「わかった。じゃあ、警察に向かうね。聡美ちゃんはゆっくりお茶飲んで、呼吸を整えてね」

「ありがとう」


 あたしは言われた通り、お茶を飲んでシートに体を預けた。ふうっと大きく深呼吸すると凄い安心感に包まれた気がして、なんだか眠気が襲って来た。


「聡美ちゃん?」

「眠い……昨日睡眠時間少なかったんだ。寝ていい?」

「いいよ。警察に着いたら起こしてあげるね」

「ありが……と……」


 あたしは千賀子ママの優しい声を聞きながら、眠りの淵に落ちて行った。

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