第十幕
第十幕
夢も見ない混濁した意識の奥底から、僕はゆっくりと覚醒した。
「うん……?」
慣れ親しんだシーツの触り心地と、枕カバーから微かに漂う自分の体臭が、ここが自分の個室の自分のベッドの上だと教えてくれる。しかしこのベッドまで自分の足で歩いて来た記憶は、無い。僕の記憶は、西鳥羽さんに
「……うん? どう言う事だ?」
事情が全く飲み込めないまま、僕はベッドの上で半身を起こした。見慣れている筈の個室の中は暗く静かで、どうやら既に陽は落ちているらしい。そして僕は普段は壁際に置かれている筈の椅子がベッド脇に移動し、そこに誰かが座っている事に気付いて、ギョッとした。
「誰……?」
僕は恐る恐る、ベッド脇のスタンドのスイッチを入れる。するとスタンドの電灯によって仄明るく照らし出された室内で椅子に座っていたのは、相田さん。小柄な彼女はちんまりと椅子に座ったまま、口元から垂れた涎の糸を引きつつ、すうすうと寝息を立てて眠っていた。普段は暴力的な相田さんも、こうしていると可愛らしい。
「あ……?」
スタンドの明るさに眼を覚ましたらしい彼女は、口元の涎を拭いつつ僕を見遣る。
「慧、起きたか」
「うん、起きたけど、僕はどうしてここに居るの? 岡島くんと西鳥羽さんは?」
僕は説明を求めて、相田さんに問うた。しかし彼女は多くを語らず、椅子から立ち上がると、廊下へと続くドアの方へと足を向ける。
「慧は気を失っていたんで、虎鉄と照喜名がここまで運んだ。岡島と西鳥羽に関しては、下で皆が待っているから、そこで聞け。それと、殴られた頭は痛くないか?」
そう言われてようやく気付いたが、西鳥羽さんによって銃床で殴られた顎が、ズキズキと痛い。幸いにも歯や骨には異常が無いようだが、口を開いて喋る度に下顎全体に鈍痛が走る。
「痛い」
「これを用意しておいたから、痛いところを冷やせ」
そう言った相田さんは備え付けの冷蔵庫を開けると、中から取り出したアイスノンを僕に向かって放り投げた。僕は彼女から受け取ったそれでもって患部である顎を冷やしながら、のそりと這い出すように、ベッドから起き上がる。すると未だ少し顎を殴られた衝撃が残っているのか、立って歩こうとすると、膝がガクガクと笑った。そして相田さんに先導されてホテルの廊下に出た僕は、エレベーターホールでエレベーターに乗ってから、皆が待っていると言う一階へと向かう。
「あら? 慧くん、ようやくお目覚め?」
ホテルの一階に辿り着いたエレベーターの扉が開くと、僕の姿に気付いた塚田さんが、エレベーターホールの真正面のロビーからそう言った。ロビーには車椅子に乗った彼女の他にも、ソファに腰を下ろした篤志と虎鉄、それに照喜名さんの姿も確認出来る。しかし岡島くんと西鳥羽さんの姿は、どこにも無かった。
「よう、慧。お前の傷の具合はどうだ?」
僕に向かって手を振りながらそう言った篤志もまた、手にしたアイスノンでもって、床に打ち付けた後頭部を冷やしている。どうやら彼は僕よりも一足先に失神状態から覚醒し、このロビーまで下りて来て、他の面子と共に僕を待っていたらしい。
「それで結局、何がどうなったの?」
僕はロビーに並んだソファの一つに腰を下ろすと、誰にともなく尋ねた。
「岡島のデブと西鳥羽の奴は、出て行っちまったよ」
篤志がそう言ったのに続いて、塚田さんが説明してくれる。
「慧くん、あなたが西鳥羽さんに銃で殴られて気を失ったところまでは、覚えているかしら? その後ね、西鳥羽さんはあなたが持っていた拳銃も奪い取ると、お腹と手首から出血しながら泣き続ける岡島くんを連れて、部屋から出て行ってしまったの。そして拳銃を威嚇発砲して脅し、虎鉄くんと照喜名さんを廊下の奥まで下がらせると、エレベーターに乗ってホテルの一階に姿を消しちゃった。あたしが直接眼にしたのは、ここまで」
そう説明し終えた塚田さんは、深く嘆息した。そして説明の続きは、虎鉄が引き継ぐ。
「岡島くんと西鳥羽さんがエレベーターの中に消えてから、僕は急いで窓に駆け寄って、ホテルを出て行く二人を眼で追ったんだ。そうしたら二人はホテルの前に停めてあったミニバン、慧達が乗って来たミニバンね、それに乗り込んでどこかに行っちゃったよ。それで、出て行くまでの時間はあっと言う間だったし、厨房から無くなった物も無いから、たぶん食料は何も持って行っていない。持って行ったのは
「俺のバールは部屋に残されて、床に転がっていたよ」
いつも腰にぶら下げているバールを指し示しながら、篤志が言った。バールに付着していた筈の岡島くんの血は、今は綺麗に拭い取られている。
「あたしが足を捻挫してさえいなければ、今頃は蹴りと突きでもって、岡島も西鳥羽もKO出来ていたのに」
相田さんが、残念そうに言った。むしろそんな無謀な事をするくらいなら、彼女が捻挫していて良かったと僕は思う。
「そうか、二人は結局、浅草の街を出て行っちゃったか」
僕は天井を見上げながら、塚田さんと同じ様に深く嘆息した。そして当の塚田さんは車椅子に座ったまま、より深く嘆息しながら言う。
「そう。不思議な事に、最後は西鳥羽さんの方が先導するような格好でね。要はおかしくなっていたのは岡島くんだけじゃないって事なんでしょうけれど、二人を説得出来なかった事に、責任を感じちゃうな。あたしももっと本やネットで勉強して、もっと効果的な交渉術を身に付けないと。そうでないとまた同じ様な事態に陥ったら、不幸な被害者を増やす事になっちゃう」
「お前が責任を感じる事はねーよ、塚田。悪いのは、勝手に出て行っちまったあの二人の方だ」
そう言って、篤志が塚田さんを慰めた。
「それにしても、岡島くんと西鳥羽さんの二人はどこに行っちゃったんだろうね。車には殆ど満タンにガソリンが給油されていたって言うから、すぐにガス欠で立ち往生するって事は無いんだろうけれど、食料は何も積んでなかったんでしょ? だったら今も、どこかでお腹を空かせているのかな。せめて何か、食べる物が有る街にでも辿り着いているといいんだけれど」
寂しげにそう言って、浅草の街から出て行ってしまった二人が飢えていないかを案じたのは、虎鉄。小柄な彼に寄り添った豊満な照喜名さんが、優しく虎鉄の肩を抱く。
「社会に反抗し、銃を持って車で逃走する悲劇のヒーローとヒロインか。まるで、ボニーとクライドだね」
「そんなに格好良いものかしら? あたしには、共依存の関係の果てに破滅願望に陶酔し切ってしまったように感じられるけれど?」
「それこそ、ボニーとクライドそのものじゃないのかな。しかも岡島くんは、腹に穴が開いたままだ。遅かれ早かれ、物理的にも破滅するよ」
岡島くんと西鳥羽さんを伝説の銀行強盗カップルに例えた僕に、塚田さんが異を唱えたが、やはり僕は二人をボニーとクライドに重ねてしまう。しかし本物のボニーとクライドは警官隊に射殺されてその人生に幕を下ろしたが、岡島くんと西鳥羽さんは、果たしてどんな最期を迎えるのだろうか。願わくば、持ち去った拳銃で自ら命を絶つような真似だけはしないでほしい。
「なあ、その『ボニーとクライド』って、何だ?」
「後でググって、ウィキペディアででも調べてくれ。詳しく書いてあるからさ。ついでに暇だったら、『俺たちに明日はない』って映画を観るといいよ」
伝説のカップルを知らないらしい篤志の問いに、僕はやや呆れ気味に答えた。そして僕は岡島くんと西鳥羽さんの胸中を慮り、他の五人の仲間達も皆、複雑な想いを胸に抱く。何はともあれ、八人だった僕達は六人になってしまった。今後はこの六人で力を合わせながら、このゾンビに囲まれた浅草の街での奇妙な共同生活を続けて行くしか無い。そう決意して、僕はここに、この日記の筆を一旦置かせてもらう。
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