第九幕


 第九幕



 警察署襲撃計画が失敗に終わり、警視庁浅草警察署から拠点にしているリッチモンドホテル浅草へと帰還する、その道中。篤志が運転する、ほぼクリープ現象だけでのろのろと進むミニバンの車内で、僕は背負っていたワンショルダーバッグの中身を改めて確認した。バッグの中身は使わなかった数発の散弾と、警察官のゾンビから頂戴した三挺の拳銃。その拳銃の中からM60リボルバー、通称『ニューナンブ』を取り出した僕は、一旦弾丸を全部抜いてから撃鉄ハンマーを起こすと、フロントガラス越しに徘徊するゾンビの頭部を狙って構える。

「ニューナンブか……」

 そう呟きながら引き金を引くと、カチンと撃鉄ハンマーが落ちた。弾丸は抜いてあるので、当然ながら発火はしない。

「有名な銃なのか?」

 隣の運転席に座る篤志が、ミニバンの進行方向を向いたまま尋ねた。

「いや、それほど有名な銃じゃないよ。日本の国内でしか流通していない純国産の拳銃って事が、ちょっと珍しいだけさ。それに、もう二十年も前に生産終了した、言わばロートルだしね」

「ふうん」

 さほど興味無さげにそう言って頷き、納得したらしい篤志。彼の隣の助手席で、僕はニューナンブのシリンダーに弾丸を装填し直す。使用する弾丸は.38スペシャルで、装弾数は五発。数字だけ見れば若干頼り無い性能だが、対人戦での護身用ならば、これでも充分に活躍してくれるに違いない。

「それじゃあ慧、そのニューナンブとやらは、お前が護身用として携帯していろ。お前は以前に一回、岡島のデブに襲われた前科があるからな。逆恨みされて再度襲われた時には、そのニューナンブで自分の身を守るんだ」

「ああ、分かった。それじゃあこれは、僕が持ち歩く事にさせてもらうよ。……それと篤志、『前科』って言葉の使い方を間違っているぞ。それだとまるで、僕が何か悪い事をしたみたいじゃないか」

 僕はそう言うと、僕専用となったらしいニューナンブを、履いているズボンのポケットに突っ込んだ。篤志は僕に言葉の誤用を指摘されたのが面白かったのか、くっくと笑っている。そして僕は、ワンショルダーバッグの中から今度は二挺の拳銃、M360J、通称『サクラ』を取り出すと、銃本体と弾丸に異常が無いかどうかを確認し始めた。こちらの二挺もニューナンブと同じで、弾丸は.38スペシャル、装弾数は五発。やはりお世辞にも頼りがいのある拳銃とは言えないので、日本の警察官ももっと大口径で装弾数の多い拳銃を持ち歩けばいいのにと、僕は思う。

「そうだ、相田さん。足首の具合はどう? 未だ痛む?」

「うん。未だ痛い。やっぱり着地した時に捻って、捻挫したらしい。でも骨は無事だから、一週間もすれば治ると思う」

「そうか。それじゃあホテルに帰ったら、塚田さんに一度診てもらってから、湿布でも貼っておこうか」

 僕の問いに後部座席の塚田さんが返答し、その返答を聞いた僕は、治療方法を提案した。彼女の見立て通りに只の捻挫ならば、湿布を貼って安静にしておけば、程無くして完治するだろう。そんな事を考えていると、不意にドンと、ミニバンの車体に数体のゾンビが軽く激突した。ミニバンがゾンビで埋め尽くされた言問い通りに達したために、周囲を徘徊するゾンビの密度が増したのだ。

「車の中でじっとしていれば安全だとは言っても、こうも沢山のゾンビに囲まれると、やっぱりそれだけで心臓に悪いな」

「ああ、そうだな。しかしここさえ抜ければ、もうこの先は安全圏だ」

 僕の呟きに応えた篤志が運転するミニバンは、ゾンビを轢かないように注意しながら、ゆっくりと言問い通りを縦断する。車内の僕達に気付いていないゾンビ達は車体に次々とぶつかっては来るものの、まるで路傍の石の様にミニバンを避けて行くだけで、それ以上こちらに関心を示す事は無い。

「よし、言問い通りを抜けたぞ。もう大丈夫だ」

 そう言った篤志と共に、僕と相田さんも安堵の溜息を漏らし、胸を撫で下ろした。言問い通りよりも浅草寺寄りに進入すれば、そこから先はゾンビが立ち入れない安全圏だ。もう息を殺しながらのろのろと前進する必要は無く、気ままなドライブを楽しみながら、ホテルまで帰還出来る。

「さあ、帰ろう」

 僕がそう言うと、篤志がアクセルを踏み込んだ。するとミニバンは加速し、快適なスピードでもって、昼にこのミニバンが停めてあったヴィアイン浅草の前を通過する。そして東京都立産業貿易センター台東館の前も通過し、やがて浅草二丁目の信号に差し掛かったところで、僕達を乗せたミニバンは右折して傳法院通りに進入した。浅草の街の中央に広がる浅草寺の境内には車輌が入れないので、少し遠回りになるが、境内の外周を走る傳法院通りを通って帰るしか方法は無い。

「ホテルに戻って報告したら、やっぱり塚田の奴は怒るかな?」

 誰に尋ねるでもなく、篤志がボソリと呟いた。

「まあ、間違い無く怒るだろうね。いや、塚田さんの場合、怒ると言うよりも呆れ果てるんじゃないかな。少なくとも彼女なら、ヒステリックになって怒鳴り散らすような事はしないさ」

 僕が彼の呟きに応えると、篤志はハンドルを握ったまま、深い溜息を漏らす。

「あーあ、帰りたくねえなあ」

 情け無い声と表情でもってそう言う篤志を見て、僕と相田さんはくすくすと笑った。すると篤志自身もまた、ヤケクソになったような声でもって、はははと笑う。そして笑い合う僕達三人を乗せたミニバンは、天麩羅屋の角の五叉路で右折すると、俗にホッピー通りと呼ばれる飲み屋街に進入した。ここまで来れば、もうリッチモンドホテル浅草は眼と鼻の先だ。

「さあ、着いたぞ」

 そう言って篤志がブレーキを踏むと、ホテルの正面玄関の前でミニバンは停車し、エンジンも切られた。どうせ車泥棒も車上荒らしももうこの街には存在しないので、シリンダーにイグニッションキーを差し込みっ放しにしたまま、ドアにも鍵を掛けずに僕達はミニバンから降りる。

「相田さん、歩ける?」

「すまん、慧。ちょっと肩を貸してくれないか?」

「うん、いいよ」

 左足首を捻挫している相田さんはやはり未だ上手く歩けないようだが、隣に立つ僕の肩を借りながら、片足立ちでもってなんとか歩き始めた。そして僕は、彼女がいつの間にか金属バットを持っていない事に、ようやく気付く。

「あれ? 相田さん、警察署に行く時に持っていた金属バットは?」

「あれは、警察署の六階からパイプを伝って下まで下りる時に、落とした。拾おうと思ったが、拾っている暇が無かった」

「そうか」

 どうやら金属バットは紛失してしまったらしいが、まあ、バットの一本や二本くらいは別にどうでもいい事だろう。今はとにかく、三人揃って五体満足でホテルまで帰って来られた事を、素直に喜びたい。

 しかし僕がそう思った、次の瞬間。耳を劈く女性の悲鳴が、眼前のホテルの中から聞こえて来た。

「何だ?」

「今の悲鳴は何だ、慧?」

 僕と篤志が疑問の声を上げた直後に、今度はドンと言う破裂音がホテルの中から聞こえて来て、僕達は益々をもって訝しむ。どうやら今の破裂音は、銃声らしい。

「とにかく、ホテルの中に急ごう!」

 僕と篤志、それに僕の肩を借りた相田さんは、ホテルの中へと駆け込んだ。そして一階のロビーを抜けてエレベーターホールに辿り着くと、上昇ボタンを押して、エレベーターを呼び出す。エレベーターは二階で停止していたので、おそらくはそこで何かが起きている筈だ。

「早く来い! 早く来いよこの野郎!」

 ゴンゴンとエレベーターホールの壁を叩き、エレベーターがなかなか到着しない事に対して焦りと苛立ちを隠せない篤志。おそらく彼は、彼が慕っている塚田さんの身を案じているに違いない。そしてようやくエレベーターが到着すると、僕達三人はそれに乗り込んで、二階のボタンを押した。上昇を開始するエレベーターの中でも、篤志はずっと苛立っている。

「どうした? 何があった?」

 やがて二階に到着したエレベーターの扉が開くと同時に、フライング気味に飛び出した篤志が叫んだ。見ればエレベーターホールの柱の陰で、やや不慣れな手付きでもってM870散弾銃ショットガンを構えた虎鉄と照喜名さんの二人が、身を隠しながら廊下の先の様子をうかがっている。そして虎鉄が手にした散弾銃ショットガンの銃口からは未だ白い硝煙が漂っている事から、先程ホテルの外まで聞こえて来たドンと言う破裂音は、この散弾銃ショットガンから発された銃声なのだと推測された。

「一体何があったんだ、虎鉄?」

 僕もまた虎鉄に尋ねると、彼は僕達三人に向かって、状況を説明する。

「とうとう岡島くんが錯乱して、ここから出て行くと言い始めたんだよ。……いや、順を追って説明すると、慧達が出発してから暫く経った頃に、西鳥羽さんが僕達を呼びに来たんだ。なんでも、岡島くんが僕達に話したい事があるからって言ってさ。それで僕と塚田さんと照喜名さんの三人で岡島くんの部屋を訪ねたんだけれど、そうしたら彼が、一人でここを出て行くから食料と銃と車をよこせって言うんだ。だけど勿論、そんな事を認める訳には行かないだろう? それで塚田さんが岡島くんを説得して、浅草に留まるように言い聞かせていたんだけれど……」

「それで? 塚田が説得して、どうなった?」

 篤志が食って掛かるような勢いで、虎鉄に更なる説明を求めた。

「それが、一時間ばかりも説得が続いた頃に突然岡島くんが立ち上がったかと思うと、塚田さんに襲い掛かったんだ。それで隠し持っていた包丁を塚田さんに突き付けると、僕と照喜名さんには部屋から出て行けって……。ああ、包丁はレストランの厨房から持ち去られた物だよ。僕も数日前から包丁が一本足りない事には気付いていたんだけれど、まさか岡島くんが隠し持っているとは思ってもみなかったから……」

「糞! ……と言う事は、、さっき聞こえて来た悲鳴は、塚田の悲鳴か? それと、銃声は何があった?」

「悲鳴を上げたのは塚田さんじゃなくて、照喜名さんだよ。岡島くんが包丁を持ち出した事にびっくりして、思わず叫んじゃったんだ。塚田さんは、包丁を突き付けられても悲鳴も上げずに、終始冷静なままだったよ。それで、その後の銃声は、僕が威嚇の意味で天井に向かって撃ったんだ。でも岡島くんは威嚇射撃をされても眉一つ動かさずに、ジッと僕達を睨み据えていたんで、彼を刺激しないために僕と照喜名さんは部屋を出てここまで後退して来たんだよ。とにかく今の岡島くんは、正気じゃない」

 そう言って、虎鉄はかぶりを振る。彼の言っている事が事実ならば、既に事態はかなり逼迫しているようだ。

「分かった。虎鉄は照喜名と相田と一緒に、ここに残って居てくれ。……慧、俺達二人だけで行くぞ」

「了解。……ああ、それと虎鉄、僕と散弾銃ショットガンを交換してくれ。そっちの方が装弾数が多いから、いざと言う時は頼りになるからさ」

 篤志の要請を了承した僕は、虎鉄と散弾銃ショットガンを交換すると、篤志と一緒にゆっくりと廊下を歩いて岡島くんの個室へと近付いた。そして唯一の出入り口であるドアを左右から挟み込むようにして立つと、背にした壁に身を隠したまま、そっとドアを開く。すると虎鉄の説明通り、ドア越しに覗き見た室内には車椅子に乗った塚田さんと、彼女の喉元に背後から大きな包丁を突き付けている岡島くんの姿があった。

 また室内には、岡島くんと塚田さんから少し離れた壁沿いに立つ西鳥羽さんの姿も確認出来たが、僕は彼女の顔を見てぎょっとする。塚田さんを人質に取った岡島くんに対してどのような態度を取るべきか決めかねているらしい西鳥羽さんの、オロオロと狼狽する眼の周囲には深い隈と皺が刻まれ、ほんの数日間顔を合わさなかっただけなのにやけに老け込んで見えた。付きっ切りで岡島くんの世話を焼くばかりだった彼女の憔悴し切った姿からは、以前の西鳥羽さんの気品溢れる美しさは微塵も感じられない。

「おいデブ! お前、遂にとち狂ったんだってな! 女を人質を取るなんて、汚ねえ真似しやがって! この腐れデブが! 恥を知れ!」

 室内に立て篭もった岡島くんに向かって、唐突に篤志が罵詈雑言を吐いた。こう言う時は人質の安全を第一に考え、可能な限り立て篭もり犯を刺激しないように留意しながら懐柔するのがセオリーなのだが、短絡思考で直情的な彼にはそのセオリーを守る気が無いらしい。

「中条くん、そんな挑発的で汚い言葉遣いはやめなさい。それではあなたがどんなに正しい事を言ったとしても、岡島くんの耳にあなたの声は届きません。今のあたし達に必要なのは、話し合う事です」

 喉元に包丁を突き付けられながらも冷静沈着な塚田さんが、壁越しに篤志を諌めた。やはりこんな時でも、我らがリーダーである彼女は少しも動じない。しかしそんな塚田さんに対して立て篭もり犯である岡島くんの方はと言えば、肩を上下させながらぜえぜえと荒い呼吸を繰り返し、緊張のあまり血の気が失せて真っ青な顔には大量の脂汗が滲み出て、包丁を握る手もガクガクと震えている。このままでは勢い余って、もしくは手元が狂って塚田さんの喉を切り裂いてしまいかねず、僕は気が気ではない。

「おいデブ! 浅草の街から出て行きたいんだったら、今すぐに人質を解放して、一人でとっとと出て行きやがれ! 但し食い物も銃も車も、お前みたいなデブには一片たりともやらねえからな! だから何も持たずに一人で出て行って、そこらの道端で野垂れ死んじまえばいいんだ!」

 塚田さんに諌められながらも、尚も篤志は挑発的で汚い言葉遣いの罵詈雑言を吐き続けた。すると緊張で真っ青だった岡島くんの顔色が、怒りと屈辱でもって、見る間に真っ赤に紅潮する。

「う、うう、うるさいぞ中条! お、おお、お前は前から気に食わなかったんだ! ぼ、ぼぼ、僕の事をいつもデブデブって馬鹿にして、し、しし、しかもすぐに怒鳴って僕をビビらせて楽しみやがって! そ、そそ、それにぼ、ぼぼ、僕は知っているんだぞ! お、おお、お前らが僕の事を、か、かか、監視しているって事をな! し、しし、知らないと思ったら大間違いだぞ! ぼ、ぼぼ、僕は全部知っているんだ!」

 岡島くんはひどくどもりながらそう言い終えるや、何が面白いのか突然げらげらと笑い始めた。彼が笑うたびに揺れる包丁の刃が塚田さんの喉に触れ、彼女の柔肌に小さな傷が無数に刻まれる。そしてよく見れば、げらげらと大口を開けて唾を飛ばしながら笑っている岡島くんの顔に、表情は無い。全く感情の機微をうかがわせない無表情のまま、焦点の合わない眼をカッと見開きながら笑い続けている。

「駄目だ。言ってる事が、支離滅裂だ」

 かぶりを振りながら、僕は言った。ドアを挟んで反対側に立つ篤志も頷き、彼もまた僕と同意見である事を表明する。しかし人質に取られている張本人である塚田さんだけは、こんな状況に置かれても、こんな状態の岡島くんを前にしても、未だ彼を説得する事を諦めてはいないらしい。

「いいですか、岡島くん。落ち着いて、ゆっくりと深呼吸をしながらよく聞いてください。あなたはおそらく、統合失調症と呼ばれる心の病気です。心が弱っているのです。正常な判断が出来ない状態にあるのです。ですがそれは決して、あなたの責任ではありません。あなたは何も悪くありません。誰だって体調が悪い時に身体を冷やせば風邪をひくのと同じで、当人に何の落ち度が無くても、心が病んでしまうのはよくある事です。だから、あたし達と一緒にその病気を治療しましょう。勿論あたしは心療内科のお医者様ではないので、出来る事には限りがあります。ですが一緒に辛抱強く治療し続ければ、必ず病状は改善する筈です。さあ、岡島くん。あたしの言っている事を理解してもらえるのならば、今すぐにこの包丁を捨ててください。あたしは、たとえ何があってもあなたの味方です。そこの中条くんだって、口は悪いですが、決してあなたを傷付ける事を望んでいる訳ではないのです。ここに居る人達は皆、一緒に暮らす仲間なのですから」

 鋭利な包丁の切っ先を喉元に突き付けられながらも、塚田さんは表情一つ変える事無く、むしろその顔に柔和な笑みすらも浮かべながら、理路整然と岡島くんの説得を試みていた。しかし残念ながら既に正気を失っている岡島くんにとっては、そんな塚田さんの言葉すらも、彼を篭絡させるための悪意ある甘言に聞こえるらしい。

「う、うう、うるさいぞ塚田! だ、だだ、黙れ! 黙れ! 黙れ! ぼ、ぼぼ、僕を騙そうったってそうは行かないぞ! だ、だだ、だいたい、お、おお、お前も中条と同じで、前から気に食わなかったんだ! お、おお、女のくせに、しょ、しょしょ、障害者のくせに、偉そうにリーダー面しやがって! ぼ、ぼぼ、僕は知っているんだぞ! お、おお、お前が手下どもに指示を出して、ぼ、ぼぼ、僕を監視させている事をな! そ、そそ、それに、お、おお、お前も僕の事を、で、でで、デブの引き篭もりだと思って馬鹿にしている事も知ってるんだ!」

 相変わらず感情の欠落した無表情な顔のまま、唾と脂汗を飛ばしてげらげらと笑いながら、岡島くんは被害妄想と誇大妄想にまみれた妄言を吐き続ける。彼の瞳孔が開き切った眼には、果たしてこの浅草の街とそこで生きる僕達が、どれ程異常な姿に映っているのだろうか。

 やがてひとしきり笑い終えた岡島くんは、無抵抗な塚田さんの髪の毛を鷲掴みにすると、力任せに捻り上げる。

「痛っ!」

 さすがの塚田さんも小さな悲鳴を漏らし、その端正な顔に苦悶の表情を浮かべながら、眉根を寄せた。そして髪の毛が捻り上げられた事によってより露になった彼女の白く細い喉に、岡島くんは改めて鋭利な包丁の切っ先を突き付けると、壁越しに対峙する僕と篤志に命令する。

「お、おお、お前ら銃を捨てろ! し、しし、知ってるんだぞ! お、おお、お前ら僕の事を、じゅ、じゅじゅ、銃で撃ち殺す気なんだろう! そ、そそ、そんな事は、ぜ、ぜぜ、絶対に許さないからな! だ、だだ、だからこの女を殺されたくなかったら、お、おお、大人しく持っている銃をこっちに渡せ! そ、そそ、そして食い物と車を、さ、ささ、さっさと用意しろ!」

 脂汗を浮かせた顔を真っ赤に紅潮させて呼吸を荒げ、口端から白く泡立った唾を大量に飛ばしながら、益々をもってどもりがひどくなる岡島くん。彼の要求に素直に従うべきか否か、僕と篤志は無言で目配せする。

「……分かったよ、岡島くん。銃は渡す。それに、食料と車も用意する。だから、今すぐに塚田さんを解放してくれ」

 僕はそう言うと、持っていたM870散弾銃ショットガンと、散弾と拳銃二挺が詰まったワンショルダーバッグを岡島くんの個室のドア付近の床に静かに置いた。正直に言えば、正気を失った今の岡島くんに実弾の詰まった実銃を渡す事は、極めて危険な賭けであると言わざるを得ない。だがとりあえず今は、人質である塚田さんの身の安全を第一に考えて、僕達は彼の要求を呑む事にする。

「よ、よよ、よし。お、おお、おい琥珀。そ、そそ、その銃を取って来い」

 岡島くんはそう言って、僕が床に置いた散弾銃ショットガンとバッグを取って来るように、室内の壁沿いに建つ西鳥羽さんに命令した。すると岡島くんの命令に素直に従い、こちらへと歩み寄って来た彼女はM870散弾銃ショットガンを拾い上げると、それを持って再び室内へと引き返す。この時に何故か西鳥羽さんは散弾と拳銃が詰まったワンショルダーバッグは持って行かなかったが、おそらく彼女がバッグの中身を知らないために、それを取って来るように命じられた『銃』とは認識しなかったからに違いない。それにしても岡島くんはいつの間に、西鳥羽さんの事を馴れ馴れしく「琥珀」などと、下の名前で呼び捨てにするようになったのだろうか。今の二人が果たしてどんな関係なのか興味は尽きないが、きっとそれは知ったところで後悔するだけの、下卑たゴシップ記事程度の知識だろうから今は追求しない事にする。

「チッ!」

 西鳥羽さんが散弾銃ショットガンを持ち去る後姿を見ながら、篤志が舌打ちを漏らした。よく見れば彼は、背後に隠し持つようにして、鋼鉄製のバールを後ろ手に構えている。どうやら篤志は僕が床に置いた散弾銃ショットガンを取りに岡島くんが寄って来たところを、隙をついて急襲し、バールによる一撃でもって彼を行動不能にする魂胆だったらしい。しかし散弾銃ショットガンを取りに来たのが岡島くん本人ではなく彼に命令された西鳥羽さんだったために、その目論見は脆くも崩れ去ったようだ。

「さ、ささ、さあ、つ、つつ、次は食い物と車だ! は、はは、早く用意しろ!」

 興奮が最高潮に達したのか、更に激しくどもりながら、捲くし立てるような早口でもって命令する岡島くん。しかし彼によって鷲掴みにされた髪の毛を捻り上げられ、無防備な喉元に包丁の切っ先を突き付けられながらも、塚田さんは説得をやめない。

「岡島くん、やめなさい。こんな事をしても無駄です。この街を出て行っても、今のままのあなたでは、どこの誰も受け入れてはくれません。だからあたし達と一緒に、病気を治療しましょう」

「う、うう、うるさいぞ塚田! だ、だだ、黙れ! 黙れ! 黙れ! お、おお、女のくせに偉そうに指図しやがって! な、なな、生意気なんだよ、お前は!」

 塚田さんの説得に逆に神経を逆撫でされた岡島くんが、激昂しながら怒鳴り散らした。彼の口端からは、大量の白く泡立った唾が飛ぶ。そして岡島くんは手にしていた包丁を振りかぶると、その柄尻でもって、塚田さんの鼻っ柱を強かに殴りつけた。

「痛っ!」

 包丁の柄尻が鼻骨を叩くゴツッと言う音に続いて、塚田さんの小ぶりな鼻から真っ赤な鮮血が噴出し、彼女は体勢を崩して車椅子から転げ落ちる。しかし岡島くんによって髪の毛を鷲掴みにされているために、すぐに床には転落せず、一瞬だけ掴まれた髪の毛だけでもって全体重を支える体勢になってしまった。そして岡島くんが手を放すと塚田さんは改めて床に転げ落ち、今度は硬い床に側頭部を打ち付ける。

「てめえ!」

 鼻を潰されて床に転げ落ちる塚田さんを見て、今度は篤志が激昂する番だった。彼は後先を考えずに駆け出すと、包丁を手にして無人の車椅子の隣に立つ岡島くんとの距離を、一気に詰める。そして鋼鉄製のバールを振りかぶり、岡島くんのこめかみ目掛けて、それを横薙ぎに振るった。

「死ねやこのデブ!」

「ひっ!」

 悲鳴と共に、篤志の怒声に怯んだ岡島くんが身を竦ませ、頭を下げる。その結果として目測を外れたバールの先端は彼のこめかみを捉え切れずに空を切るが、その代わりに反射的に頭部を防御しようとした岡島くんの腕を捉え、手首にグサリと突き刺さった。

「ぎゃあああぁぁぁっ!」

 鉤状に曲がったバールの先端が突き刺さった自身の腕を見て、悲鳴を上げた岡島くん。彼が激痛のあまりその腕をブンブンと振るうと、偶然にも篤志の手から、刺さったバールを力任せに捥ぎ取った。また同時に、バールが刺さったのは包丁を持っていた方の腕の手首だったので、腱が切れたのか握り込めなくなった岡島くんの手から床へと包丁が転がり落ちる。これで岡島くんも篤志も、互いに手にしていた得物を失った格好となり、両者は至近距離で対峙する事となった。

「大人しく死んでろ!」

 一瞬の沈黙の後、先に動いた篤志が再びの怒声と共に拳を振りかぶる。しかし彼の拳が岡島くんの顔面に到達するよりも僅かに早く、岡島くんは以前の僕に対してそうしたように、その巨体を利用した体当たりとボディプレスを篤志に向かって敢行した。彼の身長二m、体重二百㎏に達する肥満体に圧し掛かられた篤志の全身が、脂肪の塊によってぐしゃりと押し潰される。そして岡島くんの巨体と硬い床に挟まれる格好で押し潰された篤志はぐったりと脱力し、動かなくなった。

「中条くん!」

 車椅子から転落して床に倒れこんだままの塚田さんが篤志の身を案じて彼の名を呼ぶものの、返事は無い。そして彼女の眼前で、岡島くんはぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら立ち上がるが、篤志は倒れたままだ。どうやら岡島くんのボディプレスで押し潰された際に床で後頭部を打ち、気を失ったらしい。

「こ、ここ、この野郎! ぼ、ぼぼ、僕の手に穴が開いたじゃないか!」

 鋼鉄製のバールが突き刺さった自身の手首を見つめてそう言った岡島くんは、痛みによるためかショックによるためか、ぽろぽろと大粒の涙を零れ落としながら泣き始めた。そしてだらんと手首にぶら下がったままのバールを掴むと、それを力任せに引き抜く。

「いいい痛いっ! 痛いいいいぃぃぃっ!」

 バールが抜けた際の痛みを訴え、更にぽろぽろと涙を零れ落としながら地団太を踏む岡島くん。彼の巨体が地団太を踏む度に、どすんどすんと言う音を立てながら、ホテルの床が僅かに揺れる。

「こ、ここ、こいつ、許さんぞ! ぜ、ぜぜ、絶対に殺してやる! ぜ、ぜぜ、絶対にぶっ殺してやるからな!」

 岡島くんは足元に転がったまま動かない篤志を指差しながら、そう叫んだ。彼の手首に開いたバールが突き刺さった痕の穴からは、ボタボタと鮮血が滴り落ちている。そして自身の手首から引き抜いたバールを逆手に握った岡島くんは、どうやらそのバールでもって、篤志を刺し殺そうと言う魂胆らしい。

「やめなさい、岡島くん! そんな事をしてもあなたの病気は治らないのよ!」

 床に転がったままの塚田さんが尚も説得しようと試みるが、彼女の言葉はもう、岡島くんの耳には届かない。そして僕は身を隠していた壁の陰から室内に躍り出ると、岡島くんに向かって拳銃を構えながら叫んだ。

「そのバールを捨てて、篤志から離れろ! そして岡島くん、キミは塚田さんの言う事に従って、彼女に治療してもらうんだ!」

 そう叫んだ僕の右手に握られているのは、篤志から持っておくように言われた護身用の拳銃、ニューナンブ。ズボンのポケットからそれを取り出した僕は、その照準を岡島くんの顔面のど真ん中に合わせる。

「な、なな、なんだ吉島! お、おお、お前も僕の事を殺す気なのか!」

 逆上した岡島くんが白い泡立った唾を飛ばしながら僕を睨み据え、叫んだ。そして彼は、僕の方へと一歩近付く。

「駄目よ、慧くん! 殺しちゃだめ!」

 塚田さんはそう言うが、遅かれ早かれ、彼を殺さなければ僕達の中から死人が出る。

「こ、ここ、殺してやる! ぼ、ぼぼ、僕を馬鹿にした奴らは、ぜ、ぜぜ、全員殺してやる! ひ、ひひ、一人だって生かして返すものか!」

 二歩三歩と、彼自身の血にまみれたバールを手にしてこちらに近付いて来る岡島くん。もう彼を止める方法は、これしか無い。

「ごめん、岡島くん」

 そう呟いて、僕はニューナンブの引き金を引いた。パンと言う乾いた破裂音と共に、直径0.38インチの鉛球が発射される。そしてその鉛球によって、岡島くんのブクブクに太った贅肉まみれの腹に、小さな穴が穿たれた。

「おぷ」

 岡島くんの口から奇妙な声が漏れ、彼が着たシャツの腹に穿たれた穴の周囲には、じわじわと血の染みが広がる。そしてこちらへと迫り来つつあった彼は手にしたバールを取り落とすと、ガクリとその場に膝から崩れ落ちた。ニューナンブの照準は岡島くんの顔面のど真ん中に合わせてあったのに、何故着弾したのが腹部だったのかは、最後の最後で僕が狙いを逸らしたからに他ならない。何だかんだ言っても僕自身、ゾンビでもない生身の人間を撃ち殺す事に対して、躊躇してしまったのだ。その結果が、致命傷ではない腹部への着弾である。勿論致命傷ではないとは言っても、それは適切な治療を受けた場合であって、放っておけば遠からず死に至るだろうが。

「あ……ああ……あああああ……」

 自身の腹に開いた穴から零れ落ちる、真っ赤な鮮血。その鮮血に濡れた手を凝視しながら、岡島くんはわなわなと全身を震わせて、狼狽と混乱の声を漏らした。そして怒りと屈辱で真っ赤に紅潮していた彼の顔は再び血の気が引いて真っ青になると、一層大粒の涙を零しながら泣き崩れ、叫ぶ。

「うう……ううう……ママーッ! ママーッ! ママーッ!」

 以前に僕を襲って篤志に鼻っ柱を蹴られた時と同様に、顔面をグシャグシャにして大声で泣き喚きながら、年甲斐も無く母親をママと呼んで助けを求める岡島くん。そんな彼の姿は、やはり何度見ても、筆舌に尽くしがたいほど醜悪極まりない。しかし今回は前回とは違って、彼を助けてくれる『ママ』が存在した。

「慧くん、ごめんなさい」

「え?」

 不意に背後から僕の名を呼び、あまつさえ謝罪する声が聞こえて来たので振り返ると、そこに立っていたのは西鳥羽さん。彼女は逆手に持ったM870散弾銃ショットガンを振りかぶり、その銃床は僕の顎に狙いが定められている。そして次の瞬間、その狙いに過たず、西鳥羽さんは硬質樹脂製の銃床でもって僕の顎を殴り抜いた。か弱い女性が放ったとは思えない、完璧なクリーンヒット。すると完全に虚を突かれる格好となった僕は避ける事も耐える事も出来ないままに、ゴキンと言う音と共に頭蓋骨と下顎骨に衝撃が走ると同時に、頭蓋の中で激しく脳が揺れた。

 僕の記憶は、ここで終了している。

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