第八幕


 第八幕



「拳銃が欲しくないか?」

 突然の篤志の問いに、僕達はきょとんと呆けた。ちなみにこの場合の僕達と言うのは、この場に居合わせていない岡島くんと西鳥羽さん、それに問い掛けている張本人の篤志を除いた、他の五人の事だ。

「拳銃?」

「そう、拳銃だ。ピストル、ハンドガン、チャカ、呼び方は何でもいい。とにかく、拳銃とその弾丸を手に入れよう」

 そう言って篤志が提案しているこの場所は、リッチモンドホテル浅草の一階の、テーブルとソファを並べただけの簡素なロビー。今現在の時刻は、晩飯を食べ終えたばかりの夜の九時少し前。そして僕がホテルの二階のエレベーターホールで岡島くんに襲われてから、今日でもう三日が経過している。

「そんな物を手に入れて、どうするつもりなのかしら?」

「塚田、お前がこの前言ってたろう? 散弾銃ショットガンを携帯するのはやり過ぎだし、岡島のデブと西鳥羽を刺激しかねないって。だがこっそり携帯出来る小型の拳銃なら、話は別だ。非力なあんたでも簡単に扱えるし、事前にあいつら二人に持っている事を知られなければ、過度に警戒される事も無い。まさに、一石二鳥って奴だ」

 塚田さんの問いに、篤志は頭上を指差しながら答えた。多分彼は、彼が言うところの「あいつら二人」、つまりは自室に引き篭もったまま出て来ない岡島くんと、その岡島くんに付きっ切りの西鳥羽さんを差しているのだろう。

「なるほど。それでその拳銃を、どこで手に入れるつもりなのかしら?」

「それも、目星は付けてある。秋葉原の銃砲店では、何故か拳銃とその弾丸は置いていなかった。だが警察署だったら、確実に置いてあるだろう? だから浅草警察署まで行って、そこから拳銃を何挺か拝借して来るんだ。それに出来れば拳銃以外の装備と、ゾンビを轢いてもビクともしないような頑丈な車が欲しい」

 篤志の返答に、塚田さんは呆れたように溜息を漏らした。ちなみに銃砲店で拳銃とその弾丸が売られていなかったのは、日本の法律では一般市民の拳銃の所持が一切禁止されているからなのだが、篤志はそれを知らないらしい。

「随分と、雑な目星の付け方ね。それに浅草警察署と言ったら、言問い通りよりも向こうでしょう? 安全圏の外の、ゾンビが徘徊する区画まで行くつもりなの? それに仮に警察署まで辿り着けたとしても、目的の拳銃がどこに置かれているのか、あなたは知っていて?」

「そこは、まあ、何とかなるんじゃねえのか? 靖国神社からここまで来るのだって何とかなったんだし、今度はほんの数百mの距離だし、ゾンビもそれほどの数じゃないだろうしさ。それに警察署まで辿り着ければ、後は拳銃が見つかるまで、部屋を一つずつ虱潰しに調べて行くまでだ」

 今度はさすがに呆れ果てて、塚田さんは頭を抱える。

「呆れた。雑どころか、殆ど無計画じゃないの。それでよく、拳銃が欲しくないかだなんて言えたもんね。……とにかく、そんな危険な計画を実行に移す事を、許可する訳には行きません。あたし達の身の安全を考慮してくれた事には感謝しますが、あまりにもリスクが高過ぎます。岡島くんと西鳥羽さんにどのように対処するかは追々考えるとして、今は迂闊で無思慮な行動は、可能な限り控えてください。いいですね?」

「ちぇ、分かったよ」

 塚田さんの返答に不服らしい篤志は舌打ちを漏らすが、僕も彼女と同意見だ。篤志の計画は、あまりにも雑過ぎる。彼には悪いが、とても成功するとは思えない。

「さてと、他に意見が無ければ、今夜はそろそろお開きにしましょうか。あたしももう、部屋に戻って寝る事にします」

 そう言った塚田さんの号令で、僕達は席を立ち、各自の個室に戻るためにぞろぞろとエレベーターに乗り込んだ。僕達は毎夜、晩飯後にはこうしてロビーに集まって、その日の活動を報告したり意見や提案を述べ合ったりしている。だがここ数日は、これと言って有意義な情報交換は行なえていない。それと言うのも、最近は岡島くんと西鳥羽さんに如何に対処すべきかばかりを話し合い、この件に関しては仲間内でも意見が平行線を辿ってばかりいるからだ。要は穏健派の塚田さんと、強硬派の篤志とで、思惑が錯綜しているのである。

「それじゃあ、お休みなさい」

「お休み」

 ホテルの二階でエレベーターを降りる男性陣と、そのまま三階に向かう女性陣とで就寝の挨拶を交わし、僕達は二つの集団へと別離した。そして僕も含めた男性陣三人が二階の廊下を歩いていると、篤志が突然、ニヤニヤとほくそ笑みながら僕と虎鉄の肩を抱き寄せて耳打ちする。

「なあ慧、虎鉄。塚田の許可は得られなかったが、俺達三人だけでこっそり、警察署を襲撃しないか? 事後承諾になっちまうけど、拳銃さえ手に入れちまえば、俺の計画が雑だろうが何だろうが塚田も認めざるを得ないだろう?」

「だから、そう言うところが雑なんだってば。僕は行かないぞ?」

 僕は抗言するが、篤志はニヤニヤとほくそ笑んだままだ。

「そんなつれない事を言うなよ、慧。お前だって本当は、拳銃が欲しいんだろう? 知ってるぜ、お前が根っからのガンマニアだって事をさ。何せお前が俺の部屋で俺達全員に銃の使い方をレクチャーしてくれた時に、お前、本当に眼を輝かせながら楽しそうだったもんな。なあに、ちょちょいと車で警察署まで行って、拳銃を奪ったら、さっさと帰って来るだけだ。何も心配する事はねえよ」

 おどけた口調でそう言った篤志の言葉に、僕は無言を返事とした。実際問題として、確かに僕はガンマニアで拳銃に興味が有るし、可能であれば手に入れたい。しかし彼の計画はあまりにも雑で危険で、しかも迂闊に賛同すれば塚田さんからの印象も悪くなる。果たして篤志の計略は伸るか反るか、どちらだろうか。

「まあ、お前らが一緒に来なかったとしても、俺は一人で警察署襲撃を決行するつもりだがな」

「……分かったよ、篤志。僕も警察署まで、一緒に行くよ。お前一人だけで行かせたら、成功するものも成功しなくなっちまうからね」

 深く嘆息しながら、僕は篤志に同行する事を許諾した。彼はその宣言通り、たとえ僕と虎鉄に拒絶されたとしても、一人単独で警察署を襲撃するつもりなのだろう。そうなれば、篤志が生きて浅草の街まで帰って来れる可能性は、限り無く低い。勿論僕が同行したからと言って生存率が劇的に上昇するとも考えられないが、少なくとも彼に単独行動をさせるよりかは安全な筈だ。

「なんかちょっと棘の有る言い方だが、まあ、一緒に来てくれるって言うんなら歓迎するぜ。……それで虎鉄、お前も一緒に来るだろう?」

 僕達の肩を抱いたまま、今度は虎鉄に尋ねる篤志。すると彼に対して、虎鉄は暫し逡巡してから答える。

「……いや、僕は行かないよ」

「え? 何故だ?」

「僕はご覧の通りチビだし、腕力も体力も無いから、一緒に行ったとしても足手纏いになるだけだよ。だから、行かない。いや、行けないと言った方が正解なのかな? とにかく、僕は警察署には行けないよ」

 申し訳無さそうに、虎鉄は言った。しかし彼を責める気は、篤志にも無いらしい。

「そうか。そう言う事なら、無理強いはしないさ。その代わり、俺達がどこで何をしているのかを聞かれても、塚田達には黙っていてくれ。まあ、どうせすぐにバレちまうだろうが、それまでの間だけでも眼を瞑っておいてくれればいい」

 篤志の要望を、虎鉄はこくりと頷いて快諾する。

「ようし、決まりだ。警察署襲撃の決行は、明日の午後。昼飯を食い終わったら、慧も虎鉄も、俺の部屋に集合してくれ。それじゃあ、また明日な。二人とも、お休み」

 そう言った篤志は、自分の個室へと姿を消した。

「お休み」

「ああ、お休み」

 僕と虎鉄も就寝の挨拶を交わすと、それぞれの個室に姿を消す。そして僕は、何だか面倒臭い事に巻き込まれてしまったなと思いながら、ベッドに大の字になって寝転んだ。明日の警察署襲撃に備えて、今夜は早く寝る事にしよう。


   ●


「ごちそうさま」

 そう言って、僕達六人は昼飯を食べ終えた。ここはいつも食事を摂る、ホテルに併設されたイタリアンレストランのテーブル席。今日もまた、自室に引き篭もったままの岡島くんと、彼に付きっ切りの西鳥羽さんの姿は無い。そして僕達は席を立つと、各自が使い終えた食器を厨房で洗って食器棚に返却してから、解散した。

 ちなみに今日は、土曜日。塚田さんの提案により土曜日と日曜日の午後は休日扱いになっているので、これから僕達は自室で過ごすなり街に出るなりして、各自が自由な時間を満喫する。だが今日の僕達男性陣三人は、そうも行かない。昨日示し合わせた通り、これから浅草警察署に向かい、拳銃を手に入れるための襲撃計画を実行に移すのだから。

「よし、全員揃ったな」

 厨房を片付けていたので少し遅れて来た虎鉄が部屋に入ると、篤志が言った。ここは、彼が個室として利用しているホテルの二階の客室。これで予定通り、僕と篤志と虎鉄の三人は集合した事になる。

「それで、これから具体的にどうするの?」

「午前中の内に、外に車を用意しておいた。俺と慧の二人はそれに乗って、ゾンビには出来るだけ気付かれないように注意しながら、浅草警察署まで行く。その後は拳銃の保管場所が見付かるまで、各階を虱潰しに探すまでだ」

「やっぱり、雑な計画じゃないか」

 僕の問いに篤志が答えたので、僕はその返答に対する率直な感想を漏らした。

「仕方無いじゃねえか。いくらネットで調べたって、警察署の中の詳細な見取り図なんて、どこにもアップされてねえんだからさ。だからとにかく現地に行って、手当たり次第に探すしか方法は無いだろう?」

 篤志の言い分も尤もだが、もう少しましな計画が立案されるかもしれないと期待していた僕は、肩を落とす。しかし僕もまた、彼の案を覆すだけの代案を用意していなかったので、今は渋々ながら賛同せざるを得ない。

「そうだな。そうするしか、方法は無いか」

「だろう?」

 篤志は少し得意気にそう言ったが、僕は溜息を漏らすばかりだった。

「それで、えっと、僕は何をすればいいの?」

 そう尋ねる虎鉄に、篤志はベッド脇に置かれていたスポーツバッグから取り出した散弾銃ショットガンの一挺を掲げながら命令する。

「虎鉄、お前にはこれを渡しておくから、俺達が留守中に岡島のデブがとち狂って塚田達を襲わないか見張っていてくれ。もしもあのデブが見境無く暴れて、塚田達の命が危険に晒されるようなら、躊躇わずに引き金を引け。いいな?」

 その言葉と共に篤志が虎鉄に投げ渡したのは、北米レミントン社製のM870散弾銃ショットガン。ズシリと重いその銃火器を渡された虎鉄は、こくりと頷いて篤志の命令を了承した。そして篤志は、今度は僕に向かって命令する。

「さて、慧。これからお前は俺と一緒に警察署を襲撃する訳だが、その際の護身用として、お前はどの銃を選ぶ? 銃に関しては俺よりもお前の方が詳しいから、好きなのを選んでくれ」

「そうだな……」

 暫し熟考した後に、僕はスポーツバッグに詰められた小銃ライフル散弾銃ショットガンの中から、一挺の銃とその弾丸を手に取った。

「これにするよ」

 選択したのは、伊ベレッタ社製のAL391ウリカ2散弾銃ショットガン。装弾数が三発と少ないが、排莢と装填がオートマチックで扱い易く、何よりも軽いので取り回しが容易だ。こちらが拠点を守る側なら重くても装弾数が多い銃の方が良いが、移動しながら攻める側ならば、軽くて扱い易い銃を選ぶに越した事は無い。それに狭い場所での戦闘には、小銃ライフルよりも散弾銃ショットガンの方が適している。

「よし、決まったな。それじゃあ、そろそろ出発するか。いつまでもこんな所でぐずぐずしていたら、日が暮れちまう」

「ん? 篤志、お前は銃は持って行かないのか?」

 銃と弾丸が詰まったスポーツバッグをベッド脇に置いたまま篤志が立ち上がったので、僕は不思議に思って問うた。すると彼は、ベルトに引っ掛けていた鈍器を手に取る。

「俺には、これがある。使い慣れない銃なんかよりも、こっちの方がいざって時には頼りになるからな」

 そう言った篤志が手にしているのは、普段のパトロールの際にも彼が持ち歩いている、鋼鉄製のバール。それを誇らしげに掲げながら、篤志はほくそ笑んだ。

「確かに、そっちの方がお前らしいか」

 僕もそう言うと、散弾銃ショットガンを手に取り、背負ったワンショルダーバッグに銃弾を詰めてから立ち上がる。

「それじゃあ虎鉄、僕達が帰って来るまで、ここの守りは任せたからな」

「分かった。任せてよ」

 そう言って虎鉄に留守を任せた僕は、彼と別れ、篤志と一緒にエレベーターの方角へと足を向けた。そしてエレベーターで一階に下りると、ロビーに誰も居ないのを確認してから、急いでホテルを後にする。

「よし、誰にも見られてないな?」

「多分、大丈夫だと思う」

 僕達二人は、まるで犯罪者の様に身を隠しながら、足早にホテルから遠ざかる。途中で一度背後を振り返ると、三階の窓から塚田さんが、まるで何かを達観したかのような眼差しでもって僕達を見送っていたような気がしたが、きっと気のせいに違いない。そして僕と篤志は、浅草警察署が在る北東の方角へと急ぐ。

「それで、どこに車を用意してあるって?」

「浅草寺の向こうの大通りに、ヴィアインって言うホテルが在っただろう? その前に停めてある。それと停めるついでに、向かいのガソリンスタンドで給油しておいた」

「了解、手際がいいな」

 未だゾンビが発生する以前、僕が一介の高校生に過ぎなかった頃は、土曜日の午後と言うのは一番心が躍る時間だった。学校に行く必要も無く昼過ぎまで惰眠を貪った上に、翌日も丸一日休日なのだから、この上無い至福の時間だ。そして世界が一変してしまった今となっては、土曜日だろうが月曜日だろうが、最早そんな事にたいした意味は無い。しかしそれでも土曜日の午後だと言うだけで、少しだけウキウキと心が躍ってしまうのは何故だろう。

「あの車だ」

 今日が土曜日である事に意味も無く心躍らせながら浅草寺の境内を横断し、やがて大通りに至ると、そこそこ大きなホテルであるヴィアイン浅草の前に停められた一台のミニバンを篤志が指差した。今となっては道路交通法を遵守する事に意味は無いのに、篤志は変なところで几帳面なのか、わざわざ車道の左端に寄せて停められている。そして僕達二人は、そのミニバンの隣に立つ小柄な少女の存在に気付いた。

「相田さん?」

 その小柄な少女は、相田さん。彼女はミニバンの運転席の前に仁王立ちし、近付いて来た僕と篤志を鋭い眼光でもってジッと見据える。

「どうしたの、相田さん? こんな所で」

「どうしたの、じゃないぞ、慧。お前達、二人だけで警察署に行く気だろう?」

 僕達の行動は、完全に筒抜けだったようだ。

「どうしてそれを? それと、他の皆はこの事を知っているの?」

「午前中に、中条がこの車をここまで運んで来るのに気付いたからな。だがその事を知っているのは、あたしだけだ」

 相田さんの返答に、篤志はホッと胸を撫で下ろす。どうやら彼は、自分達の独断専行が塚田さんに知られる事を、極端に恐れているらしい。どうせ拳銃を手に入れて警察署から戻って来たら全てがバレるのに、何をそこまで恐れているのだろうか。

「それじゃあ相田、そこを退いてくれ」

 篤志は要請するが、相田さんはミニバンの運転席を塞ぐように仁王立ちしたままだ。

「嫌だ。あたしも一緒に連れて行け」

 そう言って立ちはだかる相田さんに、篤志は凄みながら言う。

「はあ? おい相田、お前みたいなチビの女なんか戦力にならねえんだから、連れて行ける訳ねえだろう? とっととホテルに戻って、自分の部屋で大人しくしてな」

「そんな事を言ってもいいのか、中条? あたしを連れて行かないのなら、今ここで塚田に全てを話すぞ?」

 ポケットから取り出したスマートフォンの液晶画面に塚田さんの電話番号を表示させると、それを水戸黄門の印籠の様に見せつけながら、相田さんは凄み返した。これには篤志も言葉を失い、何も言い返せない。

「……仕方がねえ、付いて来るなら、勝手に付いて来い。その代わり、身の安全は保障出来ねえからな?」

 観念した篤志がかぶりを振りながらそう言うと、相田さんはその凛々しい顔に、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。

「おいおい、いいのか篤志? そんな簡単に同行を認めても? それに相田さんも、遊びに行くんじゃないんだよ? これからゾンビが徘徊する言問い通りを突破して、警察署まで行くんだからね? ゾンビに本気で襲われたら、怪我じゃ済まないかもしれないんだよ? 命に関わるんだよ?」

 僕は苦言を呈するが、篤志と相田さんは意に介さない。

「仕方ねえだろ、そいつが付いて来るって言ってるんだからさ」

「そうだぞ、慧。あたしは例え拒否されたとしても、最初からお前達に付いて行く気だからな。それに危険な事は重々承知で、覚悟は出来ている」

 どうやら相田さんには、そもそもこの場に残る気が無いらしい。それならば下手に単独行動を取られるよりも、僕達と一緒に行動した方が、まだ安全だろう。初対面の時の彼女の様に、車にも乗らずに徒歩で言問い通りを突破しようなどと考えられたら、それこそ相田さんの命が危ない。

「分かったよ。一緒に行こう。その代わり、絶対に無理はしない事。少しでも危ないと思ったら、身を隠して逃げるんだ。いいね?」

 僕の忠告に、相田さんは勝ち誇ったかのような表情のまま、こくりと頷いた。

「それじゃあちょっと予定が狂ったが、そろそろ行くか。慧も相田も、車に乗れ」

 そう言った篤志に従い、僕はミニバンの助手席に、相田さんは後部座席にそれぞれ乗り込んだ。そして篤志もまた運転席に乗り込むと、彼はシリンダーに差し込んだイグニッションキーを回してエンジンを始動させ、ミニバンは静かに発進する。

「それで篤志、どうやって言問い通りを突破するんだ?」

「ここ最近、遠くからゾンビどもの動きを観察していたんだ。それで分かったんだが、あいつらは動きの早い物に対しては敏感に反応する反面、ゆっくりと動く物に対しては殆ど反応しない。それに温度の高い物や匂いの強い物には積極的に寄って行くが、その逆は殆ど無視する。まあ、昆虫みたいなもんだな。多分、俺達みたいな生きている人間とは違って、あまり眼が見えていないんだろう」

「それで?」

「だからこの車で体温と匂いを遮断した上で、ゾンビどもには気付かれないように、少しずつゆっくりと車道を走って行くんだ。時間はかかるが、それで安全に警察署まで辿り着ける」

 確証は薄いが、篤志の言う事にしては説得力があった。彼が靖国神社から浅草まで来た時の様に強引に驀進して突っ切るよりは、ずっと良い。そこで僕は、篤志に全てを任せる事にする。

「よし、行くぞ」

 そう言うと、ゾンビで埋め尽くされた言問い通りに辿り着いた篤志はアクセルを踏まずに、クリープ現象だけでゆっくりとミニバンを前進させ始めた。まるで亀の歩みの様にのろのろと進むミニバンの車体に、徘徊していた数体のゾンビが次々とぶつかり、僕達は生きた心地がしない。

「見ろ、やっぱり車内の俺達には気付いていないし、この車も只の障害物だと思っていやがる」

 篤志の言葉どおり、車体にぶつかったゾンビ達は車内の僕達には眼もくれず、道端に落ちていた石にでもぶつかったかのようにミニバンを避けて徘徊し続ける。このまま息を殺して前進し続ければ、言問い通りを無事に突破出来そうだ。

「これは、行けそうだな」

「ああ。俺の言っていた事は、間違ってなかったろう?」

 得意満面の篤志の運転で、僕達を乗せたミニバンは遂に言問い通りを抜けた。そしてセブンイレブンと天麩羅屋に挟まれた通りに侵入すると、そのままゆっくりと、浅草警察署の方角を目指して北上を続ける。言問い通りさえ抜けてしまえばゾンビの数も眼に見えて減少するので、ほんの少しだけミニバンの速度を上げても問題無い。

「次の信号を、左だ」

 やがて浅草五丁目に至ったミニバンは、僕の指示により左折した。すると左手に臨むのは、台東区立富士小学校。その小さな小学校の周囲には、幼い子供のゾンビが数体、やはり呻き声を上げながらうろうろと徘徊しているのが眼に留まる。

「可哀想……」

 車窓越しに子供のゾンビを見つめながら、相田さんがボソリと呟いた。

「うん。出来ればあんな小さな子のゾンビは、見たくなかったな」

 僕もそう言って相田さんに同意すると、そっと彼らから眼を逸らす。やはり幼い子供の変わり果てた姿は、見ていて胸が苦しい。

「着いたぞ」

 その言葉と同時に、篤志がブレーキを踏んでミニバンを停めた。小学校から道一本挟んだだけの隣の区画に建つのが、僕達の目的地である、警視庁浅草警察署。その正面玄関前に、僕達を乗せたミニバンは停車している。

「ここまでは、予想以上に何事も無く辿り着けたな」

 僕は、率直な感想を漏らした。

「そうだな。だが問題は、ここからだ」

 そう言った篤志が、背後の後部座席に座る相田さんを見遣る。

「おい相田、お前、何も武器になるような物は持って来なかったのか?」

「一応、これを持って来た」

 相田さんはそう言うと、自分の両の拳を差し出して見せた。その拳にはどこで手に入れて来たのか、黒光りするメリケンサックが握り込まれている。どうやら彼女は、ゾンビ相手にも自慢の正拳突きでもって対処するつもりらしい。

「そんなモンで殴り合いをするなんて、危なっかし過ぎるにも程がある。一番後ろの座席の足元に予備の武器のバットが転がっている筈だから、相田、お前はそれを使え」

 篤志の指示通り、最後部の座席の足元を相田さんが探ると、確かに金属バットが一本転がっていた。そして篤志は鋼鉄製のバール、相田さんは金属バットとメリケンサック、僕はウリカ2散弾銃ショットガンを手に、ミニバンから地面へと降り立つ。すると眼の前に、早速一体目のゾンビが立ちはだかった。警察署の正面玄関前を警備していた、警杖と呼ばれる長い警棒を持った警察官のゾンビだ。そのゾンビは僕達に気付くと、一際大きな呻き声を上げながら、持っていた警杖を放り捨てて襲い掛かって来る。どうやら道具を使うだけの知能は、既に持ち合わせていないらしい。

「そらよ!」

 出来るだけ押し殺した掛け声と共に、篤志がバールでもって警察官の脇腹を殴り抜いた。そして身体をくの字に曲げて転倒したゾンビの後頭部を、今度は金属バットでもって、相田さんが渾身のフルスイングを叩き込む。するとゴキンと言う音と共に首の骨が折れた警察官のゾンビは、微かな呻き声を上げるだけで、もうそれ以上動く事は無かった。

「よし、急ぐぞ」

 そう言って、篤志と相田さんは警察署に足を向ける。それにしても、この二人は暴力的な行為に対して迷いが無い。それだけ自分の暴力が大切な仲間を守ると言う事を、本能的に心得ているのだろうか。

「慧、銃は出来るだけ使うな。銃声でゾンビを呼ぶ」

 篤志に言われずともそのつもりだが、果たしてそう上手く事が運んでくれるのか、その確証は無い。何せ足を踏み入れたばかりの警察署の待合室にも、幸いにも未だこちらの存在に気付いてはいないようだが、既に数体のゾンビが徘徊している。

「可能な限り戦闘は避けて、物音を立てないようにしながら、端から一体ずつ各個撃破して行こう」

「分かった。それで慧、まず初めにどこに向かう?」

 僕の提案に篤志が同意するのと同時に、最初の目的地を問うた。

「まずは、階段を押さえよう。とにかく、逃げ道を確保しておく事が先決だ」

「了解」

 僕達三人は、ゾンビ達の視界に入らないように身を屈めて壁沿いを歩き、移動を開始する。待合室の向こうの事務所の様な区画には比較的多数のゾンビが徘徊しているが、わざわざそいつら全員を相手にする必要は無い。あくまでも僕達の目的は拳銃の入手であって、その保管庫にまで辿り着ければ、それで目的は達成されるのだ。

「廊下に一体。その奥の階段の前にも、一体居る」

 先頭に立ち、廊下の様子をうかがった篤志が小声で報告した。僕もまた柱の影から顔を覗かせて、廊下と階段をうかがうと、確かに計二体のゾンビが行く手を塞いでいる。これはさすがに、回避出来ない。

「階段がすぐに見付かったのはいいが、戦闘は避けられないな」

「ああ。玄関前に居た奴と同じ様に、物音を立てずに近付いてから、二体纏めて素早くやるぞ」

 僕の呟きに篤志が応え、僕達三人はゆっくりと警察署の廊下のゾンビに近付く。そしてまずは篤志が、廊下のゾンビの足首を鉤状になったバールの先端で引っ掛けると、そのまま力任せにゾンビの下半身を持ち上げて転倒させる。ゾンビは受身も取れずにリノリウム製の床に顔面から落下して、床に鼻血が飛び散った。

「ふん!」

 間髪を容れず、転倒したゾンビの側頭部を、相田さんが金属バットでもって気合いの掛け声と共に殴り抜く。すると頭部がボコリと陥没し、折れた首が九十度以上も捻じ曲がったゾンビは、もうそれ以上動く事は無い。

「来たぞ、慧」

 篤志に言われずとも、階段の前に立っていたゾンビがこちらに気付き、呻き声を上げながら近寄って来ている事を僕は察知していた。そこで僕は散弾銃ショットガンを逆手に持つと、その銃床をゾンビの顔面に叩き込む。ゾンビの鼻っ柱が潰れて真っ赤な鼻血が噴出し、下顎骨が頭蓋骨の関節から外れて、口蓋がだらんとだらしなく開いた。そして後頭部を床に打ち付けながら転倒したゾンビの脳天に、篤志がバールの先端を突き刺せば、このゾンビもまた活動を停止する。

「ん? 慧、何をしている? 先を急ぐぞ」

「いや、こいつらの拳銃も頂いて行こうと思ってね」

 倒れているゾンビに近付いた僕はそう言って、ポケットからキーホルダー代わりにしているツールナイフを取り出した。今しがた倒した二体のゾンビは、どちらも警察官のゾンビ。つまり彼らもまた、拳銃を携帯している筈だ。

「有った」

 予想通り、どちらのゾンビの腰のホルスター内にも拳銃が収められている。そこで僕はツールナイフで拳銃とホルスターを繋ぐ吊り紐を切り、二挺の拳銃を手に入れる事に成功した。

「ニューナンブとサクラか。とりあえず、これで収穫無しって事だけは無くなったな」

 手に入れた拳銃は通称『ニューナンブ』と呼ばれるM60と、通称『サクラ』と呼ばれるM360Jの二挺のリボルバー。どちらも38口径で、装弾数は五発。僕はそれらを背負っていたワンショルダーバッグに放り込むと、先行する篤志と相田さんの後を追う。

「上と下、どっちを先に探す?」

「まずは、地下から探そう」

 階段の前に辿り着いた僕は、篤志の問いに答えた。眼前の階段は、上と下の両方に続いている。事前にウィキペディアで調べて、この浅草警察署が地上六階、地下一階建てである事は知っていたが、果たして拳銃の保管庫が何階に在るのかまでは分からなかった。そこでとりあえず、僕達は地下一階から虱潰しに調べる事にする。おそらく上の階ほど階級が高い少数の署員が利用しているのだろうから、多くの署員が利用する保管庫は、比較的低層階に在るに違いない。

「よし、廊下には誰も居ないな」

 地下一階へと至り、柱の影から廊下をうかがった篤志がそう言ったので、僕達は警戒しながら廊下を進む。人気の無い廊下は薄暗く、静寂に包まれていた。

「あったぞ、保管庫だ!」

 廊下を奥まで進み、やがて辿り着いたエレベーターの前のドアを指差しながら、篤志が小声で叫んだ。見ればそのドアには、『保管庫』と書かれた白いネームプレートが掲げられている。

「こんなに早く見つかるなんて、運が良いな」

 僕はそう呟くと、そのドアのノブを握って回そうとした。しかしノブはびくともせず、回らない。

「やっぱり鍵が掛かっている。そりゃまあ、見たら分かるか」

 そう言った僕が握っているドアノブの上にはナンバーロック式の鍵の入力ボタンが並んでおり、正しい数字列を入力しなければ保管庫のドアが開かない事は、見るからに明白だった。

「何番を入力すればいいんだ? 知ってるか、慧?」

「いやいや、僕が知っている訳が無いだろ」

 僕に向かって無茶な問いを投げ掛けて来た篤志は、妙に焦っている。そして彼は適当な数字列を次々と打ち込んでは開錠ボタンを押すが、当然ながら鍵が開く気配は無い。そもそも何桁の数字列を打ち込めば良いのかすらも分からないのだから、運任せで開けようとするのは無謀に過ぎる。

「糞っ! 糞っ!」

 悪態を吐いて罵りながら、焦る篤志はバールでもってドアを抉じ開けようとした。しかし保管庫のドアは他の部屋のドアよりも頑丈な造りで、バールの先端を捻じ込むような隙間が無い。それでも無理矢理捻じ込もうとバールを打ち付けると、硬い金属同士がぶつかり合う甲高い音が、薄暗い廊下を反響する。

「やめろって篤志! そんなに大きな音を立てたら、上の階のゾンビ達に気付かれる! それにもう二挺も拳銃は手に入れてるんだから、鍵が開けられないのなら、無理はせずに撤退しよう!」

 僕はゾンビ達に気付かれないように押し殺した声でもって忠告するが、その忠告を篤志は受け入れない。むしろ彼は益々をもって焦燥感に駆られ、バールを振るう手に力を込める。

「二挺じゃ駄目なんだ! 少なくとも六挺、岡島のデブと西鳥羽を除いた人数分は揃えないと! そうでないと、塚田は俺を認めてはくれない! 俺を対等に付き合える人間として、認めてはくれないんだ!」

 篤志は殆ど無意識に、誰に言うでもなくそう叫んでいた。そして彼の言葉に、僕は篤志がやけに焦っていた理由を察する。要するに彼は塚田さんに、自分の力を認めて欲しいのだ。人数分の拳銃を手に入れて自分が仲間のために行動出来る事を示し、塚田さんと対等に接する価値を有する人間である事を証明したいのだ。それは何とも幼稚で稚拙な理由だが、篤志は篤志なりに一生懸命な事だけは、認めてやるべきに違いない。

「塚田さんは、そんな事で人を判断したりはしないだろうに……」

 篤志が一生懸命である事は認めるが、それでも彼の短絡思考に呆れ果てた僕はそう呟くと、天を仰いで頭を抱える。

「糞! 慧、それを貸せ!」

 言うが早いか、頭を抱えていた僕の手から、篤志は散弾銃ショットガンを奪い取った。そしてコッキングレバーを引き、初弾を薬室チャンバーに装填する。

「あ! おい篤志! やめろ!」

 僕が制するよりも先に、彼は狙いを定めて引き金を引いた。するとドンと言う銃声と共に鉛の散弾が発射され、保管庫のドアのラッチ周辺に穴を穿つ。いや、正確には穴が穿たれてはいない。保管庫のドアは頑丈で、漫画や映画の様に散弾一発程度の威力で破壊されてはくれなかった。しかしそれでもドアは僅かに凹み、その凹んだ隙間から、篤志はバールの先端を強引に捻じ込む。

「危ないだろ、篤志! こんな至近距離で銃弾よりも硬い物を撃つなんて、跳ね返って来た跳弾が当たったらどうするんだ!」

 僕は篤志に向かって悪態を吐き、背後に立つ相田さんは、銃声で鼓膜が痺れた耳を押さえていた。だがそんな僕達には耳を貸さず、篤志はドアを抉じ開けようと奮闘している。

「やった!」

 バキンと言う破砕音と共に、遂に保管庫のドアのラッチが折れ、篤志が歓喜の声を上げた。そして鍵が壊れたドアを開けた彼と僕は、保管庫の中に足を踏み入れる。

「暗いな」

 保管庫はそこそこに広く、地下なので暗いのと同時に、ジメジメと空気が湿っていてやけにカビ臭い。そこで壁沿いのスイッチを入れると、天井の蛍光灯が点灯し、暗かった保管庫が仄白い灯りに照らされた。すると僕達の視界は、保管庫の手前から奥までズラリと並べられたスチールラックで埋め尽くされる。そしてそのスチールラックには、様々なサイズのダンボール箱が隙間無く詰め込まれていた。

「何だこりゃ?」

 予想外の光景に篤志が頓狂な声を上げ、スチールラックに詰め込まれたダンボール箱を次々と開封し、ひっくり返す。しかし箱の中身はビニール袋に包まれた衣服や小物ばかりで、拳銃のけの字も出て来ない。たぶん彼はハリウッド映画に登場する海外の警察署の武器庫の様に、銃やボディアーマーやヘルメットがズラリと並べられた部屋を想像していたのだろうから、拍子抜けするのも当然だ。そして僕は、ダンボール箱にマジックペンで書かれた注意書きから、箱の中身を察する。

「篤志、ここは拳銃の保管庫じゃない。過去の事件や事故の、証拠品の保管庫だ」

「何だと?」

 篤志が叫び、僕は再び天を仰いで頭を抱えた。通常、日本の警察官が携帯している拳銃は、各警察署内の拳銃保管庫に収納されて管理される。しかしまさか、一つの警察署内に拳銃の保管庫と証拠品の保管庫の二つの保管庫が同時に存在するとは、この僕も考えが至らなかった。それならそうと、最初からドアのネームプレートに『証拠品保管庫』と書いておいてくれればいいのに、ここの署員も気が利かない。

「糞! 糞! 糞!」

 怒り狂った篤志が、手にしたバールでもって手近なダンボール箱やスチールラックを叩きのめして破壊し、鬱憤を晴らそうとする。僕も可能であれば手にした散弾銃ショットガンを乱射して憂さを晴らしたい気分だが、残された時間の面でも物資の面でも、そんな事をしている余裕は無い。

「慧! 中条! ゾンビが来た!」

 廊下に立つ相田さんが、階段の方角を指差しながら叫んだ。

「糞っ! もう来たか!」

「やっぱり、さっきの銃声で気付かれたか?」

 篤志と僕も叫び、保管庫から廊下へと飛び出した。するとやはり銃声に引き寄せられたのか、呻き声の大合唱と共に、既にゾンビの一団が階段を埋め尽くしながら地下へと下りて来るのが目に留まる。ゾンビ一体一体は動きが緩慢なので、先手を打って攻撃すればそれほどの脅威ではないが、さすがにあれだけの数を一度に相手にするのは愚行としか言いようが無い。つまり、階段はもう使えないと言う事だ。

「どうする、慧? ここで迎え撃つか?」

「いや、ここだと窓も無いから、いざと言う時の逃げ場が無い。エレベーターで、一旦上に逃げよう」

 篤志の問いに僕が答えると、廊下を挟んで保管庫のすぐ向かいのエレベーターの上昇ボタンを、相田さんが押した。すると頭上のランプが点灯し、エレベーターがこの地下一階を目指して下降し始めた事を示す。

「早く来い、早く来い」

「急げ急げ」

 僕達三人はエレベーターの到着を待ちながら、苛立ちを隠せない。するとその間も階段を埋め尽くしたゾンビ達はこちらへと接近し、階段から廊下へと至ると、徐々にこの保管庫の前へと迫る。もはや交戦まで一刻の猶予も無く、先頭を歩くゾンビの白く濁った眼の奥の瞳孔が、まるで木の洞の様にぽっかりと開き切っている事も目視で確認出来た。僕は手にした散弾銃ショットガンを構え、ゾンビの頭部に狙いを定める。

「来た!」

 階段から廊下までを埋め尽くしたゾンビの一団と会敵するまで残り十mを切り、僕が引き金に指を掛けたところで、ようやくエレベーターが到着した。そして扉が開くと、まずは篤志が先んじて乗り込む。

「よし、中にゾンビは居ない! 早く乗れ!」

 エレベーター内が無人である事を確認した篤志が、僕と相田さんに手招きをしながら叫んだ。勿論そんな事を言われずとも、僕も相田さんも急いでエレベーターに乗り込む。そしてゾンビの手が僕の着ているポロシャツの裾を掴むまで後一歩と言うギリギリのタイミングで、『閉』ボタンが押されたエレベーターは扉を閉じた。

「ふう」

 僕は安堵の溜息を漏らしたが、安心するには未だ早い。

「慧、それで、何階に行けばいいんだ?」

 エレベーターの操作パネルを前にして、何階のボタンを押したものか悩む篤志。彼の問いに、僕は一瞬だけ逡巡してから答える。

「一階は未だゾンビが大勢居た筈だし、地下のゾンビが戻って来るかもしれない。だからとりあえずは、最上階に逃げよう。最上階なら利用していた署員も少ないだろうから、ゾンビもそれほど居ない筈だ」

「分かった」

 そう言って了承した篤志が最上階、つまり六階のボタンを押すと、エレベーターは上昇を開始した。地下に集合していたゾンビ達の呻き声が、徐々に遠ざかる。

「しかし、まさか拳銃と証拠品の、保管庫違いとはね」

 改めてそう言うと、僕は再び、今度は無念の溜息を漏らした。するとそんな僕に篤志が同意し、問う。

「ああ、全くだ。……それで慧、これからどうする? 俺は未だ警察署に残って、拳銃の保管庫を探したいんだが……」

「いや、侵入者に気付いたゾンビが僕達を探しているかもしれないし、それは止めておこう。陽が暮れて暗くなったら、更に危険度が増す。だから今日はもう諦めて、一刻も早く安全圏まで退避するべきだろうな。残念だけれど、仕方が無いよ」

「糞! 糞! 糞!」

 僕の返答に、篤志は悪態を吐きながら、エレベーター内の壁面をゴンゴンと殴って悔しがった。作戦が順調に推移すれば今頃は人数分の拳銃を確保し、塚田さんに自分の有用性をアピール出来る絶好の機会だったのだから、彼の無念は察するに余りある。しかし今は、拳銃の保管庫を改めて探索する事よりも、まずは僕達の身の安全を確保する事が先決だ。警察署襲撃計画は、再度日を改めて決行すれば良い。

「着いたぞ」

 篤志がそう言うのと同時に、ピンポーンと言うチャイム音が鳴って、エレベーターが六階に辿り着いた事を告げた。そしてゆっくりと、扉が開く。

「うわっ!」

 エレベーターの扉が開いた途端、虚を突くように扉の真正面に一体のゾンビが立っていたので、そのゾンビと至近距離で邂逅する羽目になってしまった僕は驚きの声を上げた。しかも僕は篤志や相田さんよりも一足先に、ややフライング気味に先陣を切ってエレベーターから出て行こうとしていたので、ほんの数㎝の距離でゾンビと顔を突き合わせる格好になってしまう。そして心臓が止まりそうなほど驚いた僕は、殆ど反射的に、手にした散弾銃ショットガンの引き金を引いてしまっていた。

「やべ」

 そう言って躊躇する間も無く、僕が腰溜めの姿勢で構えていた散弾銃ショットガンの銃口からは散弾が発射され、ドンと言う銃声と共に空薬莢が宙を舞う。そして銃口を押し付けられるような格好になっていたゾンビの腹には大きな穴が穿たれ、血飛沫と肉飛沫を巻き散らかしながら、その躯体は廊下の反対側まで吹っ飛んだ。

「ビックリした! あー、ビックリした!」

 軽いパニック状態になった僕は、ドキドキと早鐘を打つ心臓を押さえながら、自分自身を落ち着かせるように敢えて大袈裟に驚いてみせた。エレベーターの前に立っていたゾンビがやや大柄で太った男性だったため、彼がほんの三日前にホテルのエレベーターホールで僕を殺しかけた岡島くんを連想させた事もまた、反射的に引き金を引いてしまった理由だろう。

「ううううぅぅぅ……」

 僕が撃った散弾によって腹に穴を穿たれた肥満体のゾンビが、呻き声を上げながらノロノロと立ち上がった。彼の腹にばっくりと開いた穴からは各種の臓物がボロボロとまろび出ており、特にズタズタに裂けた大腸からは時間が経って発酵した排泄物が床に零れ落ちて、壮絶な悪臭を放つ。

「こいつ、未だ生きてんのか! 大人しく死んでろ!」

 僕の脇をすり抜けてエレベーターから降りた篤志が、そう叫びながら鉤状になったバールの先端を、ゾンビの脳天に叩き込んだ。さすがに脳を破壊されてはゾンビも活動を停止するらしく、その肥満体のゾンビもバールが刺さった脳天から赤味がかった灰色の脳髄を零れ落としながらドサリと床に崩れ落ちると、もうそれ以上は動かない。

 ゾンビの脳天と腹の穴から流れ出た鮮血によって作られ、床に見る見る内に広がる、真っ赤な血溜まり。その血溜まりを相田さんと一緒に踏み越えてエレベーターから降りると、僕は独り言ちる。

「不味いな。一旦最上階まで上がってから音を立てずに下に下りるつもりが、つい驚いて、うっかり銃を撃っちゃった。今の銃声を聞きつけて、ゾンビが寄って来なければいいんだけど……」

「慧、どうやらその予感は当たりだ。あいつら、地下から上の階へと上がって来ていやがる」

 最悪の事態を憂慮する僕の言葉に、篤志が階段の方角を顎で示しながら言った。確かに彼の言う通り、階下のゾンビ達の上げる呻き声が、次第にこちらへと近付きつつある。やはり僕の悪い予感は、やたらと的中率が高いようだ。

「どうする、慧? どうやって逃げる?」

 篤志の問いに、僕は暫し熟考する。

「……非常階段は無いか? 屋外の非常階段なら、ゾンビも居ない筈だ」

「分かった、非常階段を探せばいいんだな?」

 やや苦し紛れではあるが、非常階段を探せと言う僕の指示に、篤志と相田さんがこの六階の探索を開始する。そして僕は、足元に転がっている肥満体のゾンビを、改めて見遣った。どうやら胸の階級章から判断するに、このゾンビは警視正らしい。と言う事は、おそらくはこの警視庁浅草警察署のトップ、つまり署長だ。そんな署長で警視正のキャリア公務員も、ゾンビになって頭と腹に風穴を開けられてしまっては見る影も無い。

「行きがけの駄賃だ、こいつも頂いて行くか」

 そう呟くと、僕は署長のゾンビの傍らに跪いてからポケットの中のツールナイフを取り出し、吊り紐を切って腰の拳銃を頂戴した。新たに手に入れた三挺目の拳銃は、二挺目と同じM360J、通称『サクラ』。生憎と署長の血でもってベッタリと汚れてはいるが、後で水道水で洗い流せば問題無いだろう。

 そして署長の拳銃を背負っていたワンショルダーバッグに放り込むついでに、バッグから散弾を二発ほど取り出して、手にした散弾銃ショットガンに装填した。ここに至るまでに二発の散弾を発射したウリカ2の薬室チャンバーには、未だ散弾が一発残されている。だが時間に余裕がある内に早めに再装填して、常に弾倉マガジンを満杯にしておくに越した事は無い。

「駄目だ、慧! こっちには非常階段は無い!」

「こっちもだ!」

 それぞれ手分けして非常階段を探していた篤志と相田さんが、廊下に飛び出すなり叫んだ。どうやらこの建物に、非常階段は存在しないらしい。

「何だって? 糞! こんな事なら六階になんて来るんじゃなかった!」

 そう悪態を吐いた僕は、頭を抱えて思い悩む。安全を考慮して最上階まで上って来た筈が、その判断が却って裏目に出てしまった。そして僕が思い悩んでいる間も、階段の方角から聞こえて来るゾンビ達の呻き声は、その数と声量を増す。

「どうする? どうする?」

 エレベーターで、再び一階に下りるべきだろうか。しかし一階の廊下にゾンビが居ないと言う確証は、どこにも無い。先程の署長のゾンビの様に、今度は複数のゾンビと鉢合わせする可能性も考えられる。仮にそれらと交戦し、更なる銃声を聞きつけて警察署の外からもゾンビが押し寄せて来たら、眼も当てられない。

「慧! こっちに来い! こっちから地上に降りられるぞ!」

 篤志がそう叫んで、廊下に並んだ部屋の一室から僕と相田さんに手招きをする。

「何だ、篤志? 非常階段を見付けたのか?」

 僕が問いながら、篤志が手招きをする部屋に入室すると、そこは警察署内でも最も北東寄りの部屋だった。そして周囲を見渡すが、非常階段は見当たらない。

「階段は?」

「階段じゃない。あれだ。あれを伝って、下まで降りられるぞ」

 非常階段の有無を問う僕に篤志はそう言うと、窓から身を乗り出しながら、外壁の一角を指差していた。そこで僕もまた窓から身を乗り出して彼が指差す先を見遣ると、警察署の外壁に張り出した柱に固定された、二本の金属製のパイプが目に留まる。

「あのパイプか? あれをどうするって?」

「あのパイプを伝って、下まで降りるんだ。それしか方法は無い」

「マジかよ」

 篤志の返答にそう応えた僕は、改めてそのパイプに眼を向けた。よく見ると、その二本のパイプは地面とは垂直に、警察署の六階から一階の屋根の庇にまで伸びている。そして二本のパイプの間には、ここからではよく見えないが、何やら懸垂幕の様な布が張り渡されていた。どうやらこのパイプは、交通安全の標語であるとか振り込め詐欺撲滅キャンペーンのスローガンであるとかが書かれた懸垂幕を掲げるためのパイプらしい。

「本当に大丈夫か? ここは六階だぞ? 手を滑らせたりパイプが折れて落ちたりしたら、無事じゃ済まないぞ?」

 少しだけ高所恐怖症の気がある僕は怖気付いて腰が引け、弱気な言葉を漏らすが、篤志は本気だ。

「大丈夫だ。まずは一番手足が長い俺がパイプに飛び移って、それからお前と相田が飛び移るのに手を貸す」

 言うが早いか、篤志は窓枠に片手と片足を掛けたまま、残った手と足を延ばして外壁沿いのパイプを掴む。そしてしっかりと掴んだパイプを支点に、残っていた手と足も窓の外へと投げ出して、完全にパイプに飛び移った。

「よし、問題無い。思った通り、しっかり壁に固定されている。ほら、お前達も飛び移って来い」

 パイプにしがみついたままそう言うと、窓から彼を臨む僕と相田さんに向かって手を延ばす篤志。彼の行動力には毎度毎度感心させられるが、あまりの無謀さと短絡ぶりに、僕は呆れもする。

「どうやら、大丈夫そうだな。それじゃあ相田さん、僕が支えているから、キミが先にパイプに飛び移ってくれ」

「分かった。慧、しっかり支えていてくれ」

 僕の要請を頷きながら了承した相田さんは、持っていた金属バットをハーフパンツのベルトに引っ掛けて落ちないようにしてから、窓から身を乗り出した。そして万が一手を滑らせても落ちないように僕にベルトを掴まれた状態で、彼女はパイプにしがみついた篤志に向かって手を延ばす。

「ほらよ!」

 掛け声と共に、篤志がしっかりと掴んだ相田さんの手を引き寄せ、タイミングを合わせて僕は彼女のベルトを掴んでいた手を放した。すると篤志に抱き寄せられる格好でもって、相田さんもまた、金属製のパイプに飛び移る事に成功する。彼女は小柄で手足が短いから少しヒヤヒヤしたが、どうやら上手く行ったようだ。

「よし、相田は先に下りて、下で待っていろ」

 篤志の命令に従い、相田さんはスルスルと上り棒を下りる要領でもって、パイプを伝って下降を開始した。そしてパイプの終着点である一階の屋根の庇に到着すると、自身の無事を知らせるように、僕と篤志に向かって手を振る。

「さあ慧、次はお前の番だ」

 そう言って、篤志は僕に向かって手を延ばす。そこで僕はまず、散弾銃ショットガンがパイプに飛び移る際にも落ちないように、そのトリガーガードに背負っていたワンショルダーバッグの肩紐を通してぶら下げた。勿論暴発防止のために、安全装置は掛けてある。そして僕が窓から身を乗り出そうとした、まさにその瞬間。背後のドアが勢いよく開いて、遂に階段を上って来たゾンビの一団が姿を現した。もはや高所恐怖症だからと言って、躊躇っている暇は無い。

「やばい!」

 僕は急いで、外壁沿いの篤志に向かって手を延ばした。その僕の手首を、篤志が掴む。

「今だ! 飛べ、慧!」

 そう叫んだ篤志の声に合わせて、僕は掴んでいた窓枠から手を放し、パイプ目掛けて飛んだ。宙を舞う僕を、篤志が引き寄せる。彼の筋肉質で太い腕が、今はやけに頼もしい。そして辛うじてパイプを掴む事に成功するが、ワンショルダーバッグの肩紐に吊るした散弾銃ショットガンが振り子の様に振られ、その重量と遠心力でもって僕は体勢を崩す。

「なんの!」

 それでも僕はパイプにしがみついて、堪えた。背中からぶら下がった散弾銃ショットガンがパイプに当たって、ガランガランと不快な金属音を奏でる。すると安堵の溜息を漏らす僕の真横を、一体のゾンビが地面目掛けて落下して行った。どうやら僕に襲い掛かろうとしたゾンビが勢い余って、窓から飛び降りる格好になったらしい。そしてそのゾンビを眼で追うと、六階から一階の屋根の庇へと落下し、ちょうどその庇の上に置いてあったエアコンの室外機に頭を叩き付けてから地面に落下した。ドスンと言う落下音と共に、真っ赤な血の花を咲かせながら、コンクリートで舗装された地面にゾンビが転がる。エアコンの室外機と地面と、どちらに叩き付けられた時に致命傷を負ったのかは分からないが、そのゾンビはもう動かない。

「ふう、間一髪だったな、慧。怪我は無いか?」

「ああ。お前も無事か、篤志」

 地面に落下して動かなくなったゾンビを見下ろしながら、僕と篤志は互いの無事を確認し合った。さっきまで僕が立っていた六階の窓際には、何体ものゾンビがこちらへと手を伸ばしながら呻き声を上げている。そして僕と篤志はスルスルと、下で待っている相田さんの元へと至るために、パイプを伝い下り始めた。

 だが先に下りている篤志が四階に達した辺りで、不意にバキンと言う音と共にパイプが傾いだので、僕達は音のした頭上を見上げる。

「あ」

 頓狂な声を上げた僕の視線の先で、六階の部分のパイプを外壁に固定しているボルトが抜けるのが見て取れた。

「やばい! パイプが倒れるぞ! 急げ、慧!」

「お前も急げ、篤志!」

 僕と篤志は、叫びながら急いでパイプを伝い下りる。しかしその間も、見る見る内に次々と壁面からボルトが抜け、僕達がしがみついたパイプは傾ぐばかりだ。そして遂に全てのボルトが外壁から抜け、メキメキと言った音を立てながらパイプの根元が折れて、僕と篤志は宙に投げ出された。いや、僕に先んじてパイプを伝い下りていた篤志は、ギリギリで終着点である一階の屋根の庇に辿り着いて、事無きを得る。だが僕は、およそ二階の天井辺りの高さから庇を越えて、コンクリート敷きの駐車場目掛けて落下する事を回避出来ない。

「うわあああぁぁぁっ!」

 叫び声を上げながら背中から落下する僕は、死を覚悟した。視界が全てスローモーションになり、庇の上に立つ篤志と相田さんがこちらを見ながら僕の名を呼んでいるのが確認出来る。そして遂に、僕の背中は地面に打ち付けられた。

「ぐはっ!」

 僕は苦悶の声を上げたが、予想していたよりも、地面が硬くない。いや、硬いどころか少し柔らかく、僕が激突した衝撃でもって凹みすらした。そして僕は気付く。僕が激突したのは、運が良い事に、コンクリートで舗装された硬い地面ではない。警察署の前の駐車場に停車されていた、ミニバン型のパトカーの屋根の上だ。

「痛ててて……」

 僕はパトカーの屋根の上で身を起こすと、這う這うの体でもって、滑り落ちるようにして地面に降り立った。パトカーの車体がコンクリートに比べれば遥かに柔らかかったとは言え、それでもおよそ四mから五mの高さから落下したのだから、その衝撃でもって全身が痛い。特に直接パトカーの屋根に打ち付けられた背中には激痛が走り、呼吸が乱れ、意識が朦朧とする。

「おい慧、大丈夫か?」

「慧!」

 庇の上の篤志と相田さんが僕の名を呼んだので、僕は手を振って、自身の身が無事である事を伝えた。そして地面に座り込んでパトカーの車体にもたれかかると、乱れた呼吸を整え、朦朧とする意識を回復させようと努める。しかし背中と同時に後頭部もまたパトカーの屋根に打ち付けたためか、眩暈は一向に治まらず、両脚に力が入らないので満足に立つ事も出来ない。

 すると不意に、座り込んでいた僕の眼前に何かが立ちはだかり、僕の視界を覆った。見上げると、僕の眼前に立ちはだかっていたのは、体格の良い男性のゾンビが一体。そのゾンビはゴム製の前掛けとゴム長靴を身に付け、右手には大きな出刃包丁を持っている。おそらくは警察署の中から出て来たのではなく、道を挟んで警察署の向かいに建つ魚屋の主人のゾンビが、僕が落下した時の衝撃音に誘われて店から出て来たのではないかと思われた。

「うわっ!」

 僕は驚き、咄嗟に散弾銃ショットガンを探す。しかし散弾銃ショットガンはおろか、それを肩紐に繋ぎとめておいた筈のワンショルダーバッグすらも見当たらない。どうやら警察署から落下した時の衝撃でもって、背負っていたバッグごとどこかに落として来てしまったようだ。そして僕が散弾銃ショットガンとバッグを探してキョロキョロと周囲を見回している間にも、出刃包丁を手にした魚屋のゾンビは呻き声を上げながらこちらに迫り来ると、遂にその出刃包丁を大上段に振りかぶった。僕は再び死を覚悟し、眼を瞑る。

「慧、危ない!」

 頭上から、僕の名を呼ぶ声と共に、僕がもたれかかっているパトカーの屋根にドスンと何かが落下して来た音がした。そこで眼を開けると、警察署の一階の屋根の庇からパトカーの屋根に向かって、相田さんが飛び移って来たのが見て取れる。そして彼女はパトカーの屋根から更に跳躍すると、僕に向かって迫り来ていた魚屋のゾンビの顔面に、それは見事な軌道の飛び後ろ回し蹴りを叩き込んだ。ゾンビの顔面がボコリと陥没し、折れた前歯と真っ赤な鼻血が噴出する。

「ごぽ」

 前歯を失ったゾンビの喉から、奇妙な声が漏れた。そして地面に着地した相田さんは、今度は姿勢を低くしたまま、中国拳法では後掃腿こうそうたいと呼ばれる回し蹴りによってゾンビに足払いを極める。すると両足を払われたゾンビは無様に転倒し、受身も取れないまま、陥没していた顔面を更に地面に叩き付けた。再び、魚屋のゾンビの顔面から真っ赤な鼻血が噴出する。

「せいっ!」

 そして掛け声一閃、倒れたゾンビの無防備な頚椎に、相田さんの渾身の力と全体重を乗せた下段突きが叩き込まれた。しかも相田さんの拳には、ニッケル合金製のメリケンサックが装着されている。そのメリケンサックによる強烈な突きを叩き込まれた頚椎はザックリと真っ二つに割れて破断し、魚屋のゾンビは動きを止めた。

「慧、怪我は無いか? 立てるか?」

 地面に座り込み、パトカーにもたれかかったままの僕を見下ろしながら、僕の身を案じて声を掛ける相田さん。小柄で線の細い少女である筈の彼女が、今は何だかやけに頼もしく見える。

「ああ、僕は大丈夫。落下した時に頭を打ったんで未だちょっとくらくらするけれど、何とか立てると思うよ」

 そう言うと、僕は覚束無い足取りながらも、何とか立ち上がった。だがそんな僕に歩み寄ろうとした相田さんが、突然ガクンと体勢を崩して地面に崩れ落ちる。

「相田さん? どうしたの?」

「痛っ!」

 心配する僕の眼前で、相田さんは左足首を押さえながら苦悶の声を上げた。

「着地した時に、足首を捻ったみたい……」

 そう言った相田さんの身を案じて、今度は僕が声を掛ける。

「大丈夫? 捻っただけ? 骨は折れてない?」

「多分、大丈夫。折れた時ほどは痛くないから」

 どうやら過去に骨を折った経験もあるらしい相田さんが、自身の痛めた足首の状態を確かめるように数歩歩いてから言った。そんな彼女の言葉に、とりあえず骨を折る程の重症ではない事を知った僕は、ホッと安堵の溜息を漏らす。するとその直後に、頭上から再びドスンと、パトカーの屋根の上に何かが落下して来た音が聞こえた。見上げればそこには、相田さんと同じ様に警察署の一階の屋根の庇から飛び移って来たらしい篤志が立っており、その手には僕のワンショルダーバッグと散弾銃ショットガンが握られている。

「よお慧、忘れもんだ。パトカーの上に落ちてたぜ。ほらよ」

 篤志がそう言いながら投げ渡して来た僕のバッグと散弾銃ショットガンを受け取ると、彼もまたパトカーの屋根から僕の傍らの地面へと飛び降りた。そして篤志は、僕達がここまで乗って来たミニバンを指差して、手招きする。

「慧、相田、もうこんな所に長居は無用だ。拳銃を人数分だけ集め切れなかったのは心残りだが、今はとりあえず退散するぞ」

 そう言った篤志は僕達に先んじてミニバンに乗り込むと、シリンダーに差し込みっ放しだったイグニッションキーを回して、エンジンを始動させた。僕は未だ少し意識が朦朧としているが、それでも足首を挫いた相田さんに手を貸しながら、ミニバンへと駆け寄る。そして相田さんを後部座席に乗せ終えると、僕もまた助手席に乗り込み、再びホッと安堵の溜息を漏らした。多少のアクシデントは発生したが、それでもとりあえず僕達三人は、無事に浅草警察署から脱出出来たらしい。

「よし、ホテルに帰ろう」

 僕はハンドルを握る篤志に向かってそう言ったが、運転席の彼は、窓から警察署を臨みながら名残惜しそうな眼をしている。やはり自分の立てた計画が失敗に終わり、仲間の命を危険に晒した事に対して、慙愧の念に堪えないらしい。

「……帰るか」

 小声でボソリと呟くと、篤志はギアをバックに入れてから、アクセルを踏んだ。そして僕達を乗せたミニバンは、静かに浅草警察署から遠ざかる。

 結果として、今回の浅草警察署襲撃計画は失敗に終わった。しかし道中の警察官のゾンビから、計三挺の拳銃を奪取する事には成功している。今はこれを収穫として、とりあえず僕達の苦労が全くの無駄足ではなかったと信じたい。

 台東区立富士小学校の前の道路には、相変わらず子供のゾンビが数体、呻き声を上げながらうろうろと徘徊している。

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