第六幕


 第六幕



「冬が来る前に、野菜を植えて育てましょう」

 晩飯の席で最初にそう提案したのは、我らがリーダーである塚田さん。彼女がそれを望むのであれば、僕達に異論を挟む余地は無い。そして翌日から早速、僕達の浅草寺開墾計画は発動する。

「とにかく土が露出している場所は、全て畑にしましょう」

 塚田さんはそう言うが、これがなかなか大変な作業だ。浅草の街には、農地として利用されている土地は無く、ほぼ全ての土地がアスファルトかコンクリートタイルで舗装されている。そんな中で数少なく土が露出しているのが、浅草寺の境内だ。勿論境内も、参道等はほぼ石畳で舗装されていて、簡単にこれを剥がす事は出来ない。しかし各所に散在するそこそこに広い植え込みは舗装されていないので、僕達はここを開墾する事にした。

「まずは、植木を全部引っこ抜かなきゃならないな」

 僕はそう独り言ちて、作業の段取りを立てる。何はともあれ、まずは今現在植えられている観賞用の植木を全て引っこ抜いて、植え込みを更地にしてしまわない事には始まらない。

「慧、ほらよ」

 篤志が投げ渡して来たシャベルを、僕は受け取った。一方で彼は、大きな鍬を手にしている。どちらも篤志が、浅草の街の民家から調達して来た物だ。おそらくはその民家の家主が元々は農家だったか、趣味で郊外に土地でも借りて農業ごっこを楽しんでいたのだろう。どちらにせよ、今こうして何の苦労も無く農具が手に入った事を、その家主に感謝したい。

 そして僕達は植え込みの土を掘り起こし、植木を引っこ抜く作業に従事する。だが植木は予想以上に根を張っていて、それを除去するには大変な労力を必要とした。とりあえず腕力と体格にはそこそこ自信がある僕と篤志が大雑把に土を掘り起こし、残りの面子がスコップ等を使って細かな土を取り除いて、植木を引っこ抜く。

「ふう」

 ある程度土を掘り起こし終えた僕は、額の汗をタオルで拭って一息ついた。ある程度とは言ってもそれは植え込みの一つのある程度と言う意味で、境内全ての植え込みを掘り起こすには、未だ未だ数週間は時間が必要だろう。それにしても今日も浅草は真夏日で、もう午後も深い時間だと言うのに、ひたすらに蒸し暑い。未だ八月になったばかりだから、この猛暑はもう一ヶ月ばかりは続く。普段からサファリハットを愛用している僕はともかくとしても、他の皆は熱中症にならないか心配だ。

「うーん、うーん」

 一息ついたついでに持参したペットボトルのお茶を飲んで休憩していると、唸るような女性の声が聞こえて来た。見れば僕と篤志が掘り起こした植え込みの端で、相田さんが植木の一本を地面から引っこ抜こうと奮闘している。彼女は腕力には自信があるのだが、何分にも体格が小柄なので、こう言った力仕事は苦手らしい。

「相田さん、手伝おうか?」

 僕は手にしていたシャベルを脇に置くと、難儀している相田さんに背後から近付いた。

「手伝わなくてもいい。あたしだけで大丈夫だ」

 相田さんはそう言って意地を張るが、やはり彼女の体格で力仕事は無理がある。

「そんな事言わないで、ほら、僕が手伝うから」

 そう言って、僕が更に背後から近付いた、次の瞬間。引っこ抜くために掴んでいた植木から相田さんの手がすっぽ抜け、彼女は思いっ切り仰け反りながら体勢を崩し、勢いよく背後に倒れ込む。

「危ない!」

 僕は咄嗟に駆け寄り、倒れ込む相田さんの身体の下に、自分の身体を滑り込ませた。そしてすんでのところで彼女が転倒する前にその小さな身体を支え、事故を未然に防ぐ。

「大丈夫、相田さん?」

「……慧。お前、どこを触っている」

「え?」

 指摘されてようやく気付いたが、相田さんの身体を抱き抱えるようにして支えている僕の手が、彼女の小ぶりな乳房をちょうど揉みしだくような位置に滑り込んでいた。勿論故意ではなく、不可抗力に過ぎない。しかしそんな言い訳が通用する筈も無く、こちらを振り向いた相田さんの顔は怒りと羞恥で真っ赤に紅潮しており、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「えっと、その……。ごめん、相田さん」

「……このスケベ!」

 僕の謝罪も空しく、相田さんは振り向きざまに、腰の入った渾身の威力の右フックを僕の左頬に叩き込んだ。ゴキンと言う音と共に、一瞬だが僕の意識が飛び、口中に血の味が広がる。そして一瞬の後に意識が戻った僕は植え込みの中で大の字になって倒れており、足元には未だに顔を真っ赤にしたままの相田さんが、わなわなと拳を震わせながら立っていた。

「おい慧、大丈夫か?」

 植え込みの外れで休憩していた篤志が、僕の身を案じて駆け寄る。

「慧!」

「吉島くん、大丈夫?」

 相田さんと一緒に植木を引っこ抜いていた虎鉄と照喜名さんも駆け寄って来て僕を囲み、心配してくれる彼らの見守る中、僕は痛む頬を押さえながら何とか立ち上がった。

「慧、ほら、鼻血を拭け」

 そう言いながら篤志が手渡してくれたタオルで、僕はジンジンと痛む顔を拭く。すると自分の予想以上の量の鼻血が拭い取られ、白いタオルがあっと言う間に真っ赤に染まった。また口蓋の内側も歯と接していた箇所がザックリと切れているらしく、吐き捨てた唾液には血が混じる。

「相田さん、ちょっとやり過ぎじゃないの?」

 照喜名さんが、非難するような口調でもって言った。

「あ、その、えっと……」

 非難された相田さんは、さすがに彼女自身もやり過ぎてしまったと後悔しているのか、言葉を詰まらせながらオロオロと狼狽している。その顔には怒りと羞恥の色に加え、今は懺悔と悔恨の色が色濃く浮かび、それらがない交ぜになった心の内は一言では言い表せない。そして次の瞬間、相田さんはくるりと踵を返すと、浅草寺の境内から雷門の方角へと駆け出して行ってしまった。

「なんだ、相田の奴? 謝りもしないで」

 篤志はそう言って呆れ顔だが、僕は相田さんを庇う。

「きっとばつが悪くなって、思わず逃げ出しちゃったんだよ。相田さん、感情表現が不器用だからさ。それに元はと言えば、彼女の身体を触っちゃった僕が悪いんだし、仕方無いよ」

 かっこつけてそう言ってはみたものの、溢れ出す鼻血と顔面を襲う痛痒ばかりは、如何ともし難い。それに軽い脳震盪を起こしているのか未だ少し意識がはっきりしないし、足元もフラフラする。

「とにかく、慧はもうホテルに戻って、晩御飯まで休んでいなよ。後は僕達だけで、何とかするからさ」

「分かった。悪いけど、そうさせてもらうよ」

 僕の身を案じてホテルに戻る事を進言してくれた虎鉄にそう言うと、僕は痛む頬をタオルで押さえながら、浅草寺の境内から立ち去る事にした。自分の仕事をやり遂げないまま一人だけ帰還するのは気が引けたが、負傷退場では致し方無い。そしてホテルへの帰路に就きながら、姿を消してしまった相田さんが今どこでどうしているのだろうかと、僕は思いを馳せる。


   ●


「痛ててて……」

 リッチモンドホテル浅草の二階の、自分の個室として利用している客室に戻った僕は、腫れ上がった頬を触って苦悶の声を上げた。そして厨房から調達して来た氷を詰めた氷嚢を頬に当てて、少しでも早く腫れが引くように祈りながら、患部を冷やす。

 一応ここに帰って来る途中で塚田さんの個室に立ち寄り、相田さんに殴られた左頬の患部を診断してもらった。そして彼女の見立てによれば幸いにも歯や骨は無事らしく、鼻腔と口膣の粘膜が切れて出血している以外には、頬に一時的な痣が出来るだけで無事に完治するそうだ。

 とりあえずザックリと切れた口膣内を消毒するためにうがい薬のイソジンを処方されたので、これで日に何度かうがいをすると良いらしい。傷口が炎症を起こして口内炎にならない事を、今は只ひたすらに祈るのみだ。

「さてと、晩飯まではまた動画でも観て、暇を潰すか」

 そう独り言ちた僕はベッドに大の字になって寝転がると、患部を氷嚢で冷やしながら、手にしたスマートフォンでYouTubeの動画を視聴し始める。今のところ僕の暇潰しの手段は、もっぱらこの動画視聴に頼っていた。不思議な事に相変わらずネット回線は切断されずに繋がったままだが、放送する人間が居ないためか、テレビやラジオは停波したままになっている。そんな中で僕達は各自の方法で暇を潰し、真面目な塚田さんなどは毎日読書に勤しんでいて、SFオタクの虎鉄はTSUTAYAから持ち出して来た大量のSF映画のDVDを日夜鑑賞しているようだ。

 そして動画を視聴し始めてから一時間ばかりが経過した頃に、不意にコンコンと、僕の個室から廊下へと続くドアがノックされた。

「はーい、誰?」

 ベッドから起き上がってドアを開けると、そこに立っていたのは相田さん。彼女は俯いて眼を伏せたまま、もじもじと居住まいが悪そうにしている。

「やあ、相田さん。どうしたの?」

「……慧、入ってもいいか?」

「うん。どうぞ」

 僕が招き入れると、相田さんは覚悟を決めるように大きく一度深呼吸をしてから、僕の個室に足を踏み入れた。そして僕はベッドに腰掛け、眼の前に立つ相田さんと対峙する。

「それで、何?」

 問い掛ける僕の眼前で、相田さんは未だ恥ずかしがっているのか、着ているポロシャツの裾を弄びながら目線を泳がせて落ち着きが無い。そして何度か口を開けては思い直して閉じるのを繰り返した後に、彼女は腰を九十度に折らんばかりの勢いで、僕に向かって頭を下げた。

「ごめん! その、殴ってしまって!」

 深々と頭を下げたまま、謝罪する相田さん。勿論僕に、彼女を責める気は無い。

「いいよ、そんなに謝らなくたって。僕の方こそごめんね、不可抗力とは言え、胸を触っちゃってさ」

 僕もまた、相田さんの胸の感触を思い出して少し照れていたのだが、努めて平静を装いながらそう言って笑顔を浮かべた。しかし曲げていた腰を戻して姿勢を正した相田さんは、恥ずかしそうに頬を赤らめたまま、僕の想定外の事を口走り始める。

「慧、あたしの胸を触って、嬉しかったか?」

「え?」

 突然の問いに、僕はきょとんと呆けた。

「あたしの胸を触って、嬉しかったかと聞いているんだ」

「え……いや、その、嬉しくなくはなかったけれど……」

 繰り返し問う相田さんに、僕は曖昧な返事を返した。すると唐突に、彼女は着ていたキャミソールを勢いよく脱ぎ捨てると、薄青色のブラジャーも露な下着姿になる。そして背中に手を回すとバックホックを外し、慎ましやかな胸を覆っていたブラジャーまでをも脱ぎ捨てた。上半身だけとは言え、一糸纏わぬ裸体を晒す同い歳の少女の姿に、僕は眼を離す事が出来ない。

「慧、これは殴ってしまったお詫びだ。好きなだけ、触ってくれ」

 そう言った相田さんは羞恥と緊張でもって顔を真っ赤に紅潮させ、額には玉の汗が浮かび、どこを見ていいのか分からないらしい眼は視線を泳がせる。そして僕自身もまた彼女と同様に顔を紅潮させて、額に玉の汗を浮かべながら、口から心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。しかし視線を泳がせる相田さんとは違って、僕の眼は眼前に露になった彼女の小さいながらも形の良い乳房と、その先端で艶かしく存在を主張する乳首に釘付けになる。

「どうした、慧? 触れ」

 その言葉と共に、相田さんは更に一歩二歩と、ベッドに腰掛けたまま固まっている僕に近付いた。腰を下ろした体勢の僕のちょうど眼の前に、淡く色素が沈着した少し大きめの乳輪と、小振りで可愛らしい乳首が迫る。思いの外荒くなってしまっている僕の鼻息が彼女の柔肌を撫で、相田さんは少しくすぐったそうだった。

 ここで一応補足させてもらうが、僕は童貞だ。今年で十八歳になる高校三年生だが、女性との性的交渉の経験は無い。いや、それ以前に女性と交際した経験も無い。そんな僕が半裸の少女に迫られて我慢出来る筈も無く、殆ど無意識の内に、僕は相田さんの乳房へと手を伸ばしていた。

「あ……」

 僕の手が彼女の乳房に触れると同時に、相田さんは小さく声を漏らし、その身体が微かに震える。しっとりと汗で濡れた彼女の肌は柔らかく、指に吸い付くような感触で、温かい。そして小振りながらも柔らかな乳房をゆっくりと揉みしだくと、僕の指の動きに合わせて相田さんの身体が小刻みに震えるように反応し、呼吸を荒げながら善がっているとも嫌がっているともつかない小さな声を漏らし続けた。その声と動きは僕の嗜虐心をくすぐり、興奮が最高潮に達して頭に血を上らせた結果、僕の鼻腔の奥には再び鉄臭い血の味が広がり始める。

「相田さん……」

「慧……」

 頬を上気させた僕達が熱に浮かされたような視線で見つめ合い、互いの名を呼び合った、次の瞬間。ホテルの廊下へと続くドアが不意にコンコンとノックされ、ドキリと心臓を縮み上がらせた僕と相田さんは、その場で飛び上がるほど驚いた。そしてハッと我に返った僕は彼女の乳房から手を離し、相田さんは床に脱ぎ捨てていたブラジャーとキャミソールを拾い上げると、大急ぎでそれらを着込む。

「あ、は、はい? 誰?」

「吉島くん、寝てた? もうすぐご飯だから、レストランに集まってってさ」

 ドアの向こうから聞こえて来たのは、照喜名さんの声だった。どうやら相田さんがこの部屋に居る事は、彼女には気付かれていないらしい。

「あ、うん、分かった。僕もすぐに行くから、照喜名さんは先に行っててよ」

 僕がドア越しにそう応えると、個室の前から足音が遠ざかり、照喜名さんの気配が消えた。そしてドアを開けて廊下を見渡し、彼女が階下に姿を消したのを確認すると、僕と相田さんは安堵の溜息を漏らす。

「あ、その、慧。あたしは先に行くから」

 ブラジャーとポロシャツを着込み終えた相田さんはそう言うと、ドアの前に立つ僕の脇をすり抜けて、そそくさと僕の個室から出て行ってしまった。そして一人取り残された僕は自分の手をじっと見つめて、その手がついさっきまで弄んでいた相田さんの乳房の感触を反芻する。

「温かくて、柔らかかった……」

 赤面しながらそう呟いた僕は、無意識の内に、自分の手に微かに残る相田さんの残り香を嗅いでいた。


   ●


 ホテルの一階に併設されたイタリアンレストランで晩飯のチキンカレーを食べる僕と、僕の斜め向かいに座る相田さん。僕達は互いにギクシャクとしてぎこちなく、故意に顔を逸らし合い、視線を合わせる事が出来ない。なにせほんの数十分前まで、僕達は生の乳房を揉む側と揉まれる側だったのだから、意識し合って気不味くなってしまうのは当然の帰結だ。

「慧くん、傷の具合はどう?」

「え? あ、うん。未だ痛いけれど、だいぶ腫れも引いたから、大丈夫」

 塚田さんの問いに答えた僕は、そう言えばさっきから食べているチキンカレーの香辛料が口膣内の傷に染みて痛い事に、ようやく気付いた。相田さんの乳房の事ばかり考えていた僕は、今の今まで痛みに気付かなかったのだ。そして意識し始めると急に痛みがぶり返して来て、チキンカレーを咀嚼しながら僕は悶絶する。

「それで、相田さんはちゃんと、慧くんに謝ったのかしら?」

 僕に次いで塚田さんに問われた相田さんは、無言のままこくりと頷いた。

「そう、それなら良かった。相田さんもついついビックリして、手が出ちゃっただけなんでしょう? だから慧くんも、彼女を許してあげてね?」

「あ、うん、勿論」

 ぎこちなく返答した僕は、チラリと相田さんを見遣る。すると偶然こちらに視線を向けていた彼女と眼が合ってしまい、僕達互いに恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしながら急いで視線を逸らした。

「あら? 未だ二人は、仲直りしていないの?」

「いや、そんな事無いです! 仲良しです!」

 僕達の挙動を訝しんだ塚田さんの疑問を、僕は必死で否定し、相田さんもコクコクと首を上下させる。下手に今回の一件を詮索されたらぼろが出そうなので、塚田さん達に、これ以上怪しい素振りを見せる訳にはいかない。とにかく今は、僕と相田さんとの秘め事は隠し通さなければならないのだ。

「慧くん、本当に傷は大丈夫?」

 不意に西鳥羽さんが、僕の傷の具合を心配して声を掛けて来た。そう言えば彼女と言葉を交わすのは、随分と久し振りのような気がする。

「うん、未だちょっと痛いけれど、このくらい平気平気」

 本当はかなり痛いのだが、別に傷の深さを大袈裟に吹聴して同情を買う気も無いので、僕は強がってみせた。それに仮に痛がった場合、加害者である相田さんに要らぬ罪悪感を抱かせてしまうだろうから、それだけは何としても避けたい。

「そう。それなら良いんですけれど、無理はしないでね?」

 西鳥羽さんはそう言って安堵すると、彼女の隣でクチャクチャと不快な咀嚼音を漏らしながらチキンカレーを食み続ける岡島くんの汚れた口元を、ナプキンで拭ってあげる。どうやら彼女は、自分よりも弱い存在や傷付いている存在に対して、必要以上に世話を焼きたがる性分らしい。そして西鳥羽さんに口元を拭われている間も表情一つ変えず、完全に感情が欠落した眼をしている岡島くんの不気味さに、僕は再びゾッと背筋に悪寒を走らせる。

「花火をしよう!」

 プールの時と同様に、唐突に照喜名さんが提案した。

「唐突ね」

 いつぞやの会話を繰り返すかのように塚田さんが問うと、やはり照喜名さんが詳細を言い直す。

「吉島くんと相田さんが仲直りしたのを祝して、皆で屋上で花火を打ち上げて、パーティーをしよう!」

「ああ、そう言う事なのね」

 塚田さんが得心し、他の面子も注目する中、照喜名さんは大きな紙袋をテーブルの上にドサリと置いた。そして彼女の隣に座る虎鉄が、ニコニコと微笑む照喜名さんに代わって、僕達に説明する。

「実は昨日の昼間に、照喜名さんと一緒にドン・キホーテに行って、花火を調達して来たんだ。昨日の夜はにわか雨が降っていたから駄目だったけれど、今日は雲一つ無い快晴だから、絶好の花火日和だと思うんだよね。だからさ、食後の夕涼みも兼ねて、皆で花火で遊ばない?」

「いいね、僕は参加するよ」

 虎鉄と照喜名さんの提案に、僕が賛同しない理由は無い。

「花火ね、いいんじゃないかしら」

「そうだな、楽しそうじゃん」

 塚田さんと篤志も賛同し、相田さんも無言で頷いている。どうやら今夜は、皆で花火パーティーと洒落込むようだ。


   ●


 晩飯後に一旦解散した僕達は、コンビニでジュースやスナック菓子やおつまみ等を調達してから、それらを手に手に再びリッチモンドホテル浅草の屋上に集合する。

「いい夜だ」

 屋上に出た篤志が、夏の夜の少し湿った空気を吸い込みながら呟いた。彼の逞しい腕の中にはプールの時と同様に、少し恥ずかしそうな表情の塚田さんが、お姫様抱っこでもって抱き抱えられている。

「おーい、早く車椅子を持って来てくれ。いくら俺でも、いつまでも塚田を抱っこしてはいられねえぞ」

「分かってるよ。今行くから、ちょっと待てって」

 篤志の要請にそう言って応えると、僕は虎鉄と協力して、塚田さんの車椅子を屋上まで運び出した。ホテルの最上階から屋上へと出るための階段が車椅子では登れなかったので、こうして塚田さん本人と彼女の車椅子を、別々に運搬したのだ。そして屋上に運び出した車椅子に、篤志が腕に抱き抱えていた塚田さんをそっと優しく座らせ、パーティーの開催を待つ。また少し遅れて照喜名さんと相田さんも屋上に姿を現し、今夜は珍しく、西鳥羽さんと共に岡島くんも同席していた。どうやら西鳥羽さんが、たまには仲間と交流するようにと、岡島くんを必死に説得したらしい。

「さてと、それじゃあまず初めに、皆で乾杯をしましょうか」

 折り畳み式のテーブルを屋上に設置し、その上に飲料の缶やペットボトル、そしてスナック菓子やおつまみ等を並べ終えると、塚田さんが提案した。勿論僕達に異論は無く、各自が好きな飲料を手に取ると、乾杯の体勢を整える。ちなみに篤志だけは、やはりプールの時と同様に、一本だけだと言う約束で缶ビールを手にしていた。

「それでは、慧くんと相田さんの仲直りを祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 塚田さんの音頭で、僕達は杯を傾ける。そして早速、花火パーティーは開幕した。

「ほら皆、どんどん遊んで遊んで!」

 そう言った照喜名さんが、手にした紙袋一杯に詰まった花火を、僕達に手渡す。そして床に置いた蝋燭の火で次々に点火すると、夜空に光の花が咲いた。

「ひゃっほう!」

 手持ち花火を持った照喜名さんが歓喜の声を上げて踊り、僕に要請する。

「吉島くん、写真に撮って撮って!」

 僕がスマートフォンのカメラで撮影すれば、手持ち花火を手にして踊る照喜名さんの姿が長時間露光で撮られ、まるで彼女が光の帯に囲まれているかのような写真が完成した。そしてこの写真の出来に満足した照喜名さんと僕達は、揃って花火を手に手に踊ったりおどけたポーズを決めたりすると、それをスマートフォンで撮影し合う。にわかに開催される、花火の撮影会。

 新体操の選手の様に手持ち花火を振り回した写真。手持ち花火の光で空中にハートマークを描いた写真。光の波の中で泳いでいるふりをした写真。色々な写真が出来上がり、それらを鑑賞する僕達の顔からは、笑みが絶えない。

「行くぞ!」

 そう叫んだ篤志が、二十本を一纏めにしたロケット花火に一斉に点火した。するとそれらが次々と打ち上がり、パンパンパンと夜空で破裂する。こんな繁華街のど真ん中でいくら騒いでも、それを諌める者は誰も居ない。周囲の迷惑を気にする事無く花火が楽しめるのは、この上無い僥倖だ。

「次、これやっていい?」

「いいよいいよ、遠慮せずにどんどんやっちゃえ!」

 照喜名さんに囃し立てられた虎鉄が、大きなドラゴン花火を屋上にいくつも並べると、それらに火を点けて回った。そして吹き上がる色とりどりの火花のシャワーを見上げながら、そのシャワーに笑みの零れる顔を明るく照らし出された僕達は、歓声を上げて息を呑む。更にその後もネズミ花火やトンボ花火を打ち上げたり、時には線香花火で素朴で慎ましやかな日本の夏の風物詩を楽しんだりと、どうやら今夜の花火パーティーは大成功の内に幕を閉じそうだ。

「それじゃあ、最後にこいつで締めるか」

 篤志がそう言うと、紙袋の底に残っていた特大の打ち上げ花火を取り出して準備し、僕に命令する。

「ライターは誰が持ってる? 慧か? よし慧、火を点けろ」

 彼の命令に従い、僕はライターを手に打ち上げ花火に近付くと、導火線に点火した。そして紙製の花火の筒から発射された火の玉は空高く舞い上がり、眩く輝きながら僕達の頭上で爆発して、夜空に大輪の花を咲かせる。一拍遅れて鼓膜に届いたドンと言う破裂音が、耳に心地良い。

「さて、これでお開きか」

「そうね」

 宴の終わりを告げる篤志の言葉に、塚田さんが同意した。しかし僕達は誰一人として、その場を動こうとはしない。各自が手にした飲料をチビチビと飲みながら、パーティーの余韻を楽しみ、楽しかった時間を反芻する。それ程までに、今夜の僕達は夏の夜を満喫していた。二度と訪れる事の無い、十八歳の夏の夜を。

「綺麗……」

 最初にそう言ったのは、夜空を見上げた照喜名さんだった。彼女に倣って夜空を見上げてみれば、そこに広がっていたのは、満天の星空。

「うわあ……」

 思わず僕の口からも感嘆の声が漏れ、他の面子も次々と、星々が煌く夜空を見上げながら僕と同様の声を漏らす。天を覆いながら僕達を仄白く照らし出すのは、宝石箱の中身を空一面にぶちまけたかのような、美しい星の饗宴。まるで手を伸ばせば星が掴み取れそうで、ついつい実際に手を伸ばしてしまうが、勿論星を掴み取れる筈も無い。

 それにしても、まさかこれ程にまでも美しい星空をこの浅草で見る事が出来るとは、この地で生まれ育った僕も予想だにしていなかった。思うに、ゾンビが発生してからもうすぐ一ヶ月が経過しようとしている東京の空からは、すっかり排気ガスが消え失せてしまったのだろう。空気が澄み渡った事と、天体観測を阻害する地上の人工的な光源が減少した事により、こうして浅草でも満天の星空が臨めるようになったのだ。僕はその事実に只々感激しながら、星の光を全身で浴びる。

「ん?」

 その時不意に、僕の手に何かが触れた。見れば隣に立つ相田さんが、星空を見上げたまま、僕の手をギュッと握っている。

「相田さん?」

 僕が彼女の名を呼ぶと、相田さんはこちらを向いて、きょとんと呆けていた。

「あ」

 しかし次の瞬間、ようやく自分が僕の手を握っている事に気付いた相田さんは、小さく声を上げると同時に顔を真っ赤にしながら手を離し、視線を逸らす。どうやら彼女は自分でも気付かない内に、全くの無意識で僕の手を握ってしまっていたらしい。

「いいよ相田さん、手を繋ごう」

 僕は微笑みながら、今度は僕の方から相田さんの手を握った。すると驚いた彼女は一瞬だけビクッと身を竦ませたが、決して僕の手を振りほどくような事は無く、顔を真っ赤にしたままもじもじと身を捩って恥ずかしがる。なんだかそんな相田さんが可愛らしくて仕方が無くなった僕は、彼女の手をより一層強く握り締めた。

「星が、綺麗だね」

「……うん」

 今の僕達に、それ以上の言葉は要らない。そして周囲を見渡してみれば、僕と相田さんが寄り添っているのと同様に、虎鉄は照喜名さんと、篤志は塚田さんと、岡島くんは西鳥羽さんと身を寄せ合っていた。なんだかんだで僕達は全員、収まるべき場所に収まりつつあるのかもしれない。

「うう……」

 暫し僕達全員が星空に見蕩れていると、不意に小さな嗚咽が聞こえて来た。見れば照喜名さんが、豊満な身体を震わせながら、ポロポロと大粒の涙を零して泣いている。

「ど、どうしたの、照喜名さん?」

 彼女と身を寄せ合っていた虎鉄が、狼狽しながら尋ねた。すると照喜名さんは、涙を拭いながら説明する。

「うん、あのね、この星空を見ていたらね、沖縄の空を思い出しちゃったの。それで今、沖縄はどうなっちゃっているのかなって、沖縄の家族はどうしているのかなって思ったら、涙が止まらなくなって来ちゃって……」

 そう言うと、更に大粒の涙を零しながら泣き続ける照喜名さん。彼女の言葉に、虎鉄もまた北海道の家族を思い出したようだ。

「そうだね、照喜名さん。僕の妹達も、今頃はどうしているのかな……」

 照喜名さんの想いが伝染したかのように、彼女と同様、ポロポロと涙を零して泣き始める虎鉄。しかし照喜名さんの言葉によって郷愁の念に駆られたのは、彼一人だけではない。気付けば相田さんも西鳥羽さんも、気丈な塚田さんも虚勢を張りがちな篤志も、そしてこの僕自身もまた、生き別れの家族を思い出して泣いていた。

「ひでえなあ、照喜名の奴は。俺だって家族の事は、出来るだけ思い出さないようにしていたのによお……」

「ごめんね、皆、ごめんね」

 愚痴を漏らす篤志も、謝罪する照喜名さんも、どちらも涙が止まらない。

「お婆ちゃん……」

 西鳥羽さんも、その綺麗な顔を涙で濡らす。

「慧、すまん。ちょっと背中を貸してくれ」

 そう言った相田さんが、繋いでいた手を振りほどくと、僕に背後から抱きついた。そして彼女は泣き顔を他人に見られたくないのか、僕の背中に顔を埋めたまま、声を殺して泣き続ける。

「お父さん、お母さん……」

 滅多に感情を表に出さない塚田さんも、もう二度と会えないであろう両親を思い出してか、嗚咽を上げて泣いていた。

 この場に居合わせた皆が皆、今だけは歳相応に、泣き虫で寂しがり屋な十代の子供に戻る。ほんの数分前までは星空を見上げて感嘆の声を漏らしていたのが、今はまるで遠い昔の出来事の様だ。しかし歓喜と哀愁が入り混じったこんな夏の夜も、この地で助け合いながら生きて行く上では、時には必要なのかもしれない。こうして人生を彩る経験を積み重ねる事によって、僕達は少しずつ大人になるのだから。

 しかし岡島くんだけは星空を見上げる事も涙を零す事も無く、自分の足元の一点を無感情な瞳でジッと見据えたまま、ブツブツと何かを呟き続けていた。

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