第五幕
第五幕
「プールで泳ごう!」
レストランでの昼食の席で、唐突に照喜名さんが言った。
「唐突ね」
塚田さんが僕と同じ感想を漏らすと同時に、本日の昼食の献立である豚の生姜焼きを口に運んでいた手を止める。
「柴くんの快気祝いに、皆でプールで泳いで、パーティーをしよう!」
「ああ、そう言う事なのね」
照喜名さんが改めて詳細を言い直すと、塚田さんも得心した。
「悪くないんじゃないのかしら、プールでのパーティーも。でも、いくら退院したからと言ってもお腹に穴が開いてから未だ五日しか経っていないんだから、虎鉄くんは泳いじゃ駄目よ? そうでないと、抜糸する前に傷口が開いちゃうからね?」
食事を再開した塚田さんの苦言に、僕の隣に座る虎鉄が引き攣った笑みを漏らす。彼が酔って腹に開けた穴を塚田さんに縫ってもらってから、今日で五日が経過。ようやく傷口が塞がりつつあるので、本日の午前に、退院と言う名目で浅草寺病院からリッチモンドホテル浅草へと戻って来たのだ。そしてその上での、照喜名さんの提案である。
「プールか、いいんじゃねえの? お前も賛成だよな、慧?」
「ああ、僕もいいと思うよ」
篤志と僕も、豚の生姜焼きを食べながら照喜名さんの提案に賛同した。ここのところは酷暑とでも言うべき猛烈な暑さの日が続いているので、プールで泳げるとなれば、これ以上の贅沢は望むべくも無い。
「相田さんと西鳥羽さんも、いい?」
「はい、参加します」
僕が尋ねると西鳥羽さんは参加を表明し、相田さんも無言のままこくりと頷いた。
「岡島くんは?」
一番端の席に座る岡島くんに尋ねるが、彼は返事を返さずに、いつもの様にクチャクチャと耳障りな咀嚼音を立てながら昼食を食み続けている。今の岡島くんが僕達の前に姿を現すのは食事の時だけで、それ以外の時間は、常に自室に引き篭もって日々を過ごしていた。そのため彼が僕達と合流してからもうすぐ二週間が経過すると言うのに、西鳥羽さんを除けば、岡島くんと僕達の間に会話らしい会話は殆ど無い。
「岡島くんは、プールでのパーティーには参加するの? しないの?」
改めて、今度は少し大きな声でもって、僕は尋ねた。すると岡島くんの箸を持つ手がピタリと止まる。
「……嫌だ」
「え?」
こちらには目線もくれずに、蚊の鳴くようなか細い声でもって、ボソリと返答した岡島くん。彼に僕が問い返すと、それが気に障ったのか、岡島くんは突然立ち上がった。そして俯いたまま暫し立ち尽くし、聞き取れない程の小声でもって、ブツブツと何かを呟いている。
「……えっと、岡島くんはパーティーには参加しないそうです。だからその、やっぱり私もパーティーには参加せずに、岡島くんと一緒にホテルで皆さんの帰りを待つ事にしますね。申し訳ありませんけれど、お願いします」
ブツブツと独り言を呟くばかりの岡島くんに代わって、隣に座る西鳥羽さんが彼の意思を代弁した。
「そう。それじゃあ西鳥羽さんと岡島くんの二人は、ホテルに残るのね?」
「はい、そうします」
確認を取る塚田さんに西鳥羽さんが返答したが、これに当の岡島くん自身が不服を漏らす。
「……やめろよ」
「え?」
岡島くんの言葉に、今度は西鳥羽さんが問い返した。
「……やめろよ、これ以上僕に構うのは。僕の事なんて放っといて、そいつらと一緒に泳ぐなりなんなりすればいいじゃないか」
まるで機械が喋っているかのような、全ての感情が消え失せた声でもってそう言い放った岡島くん。彼の言葉に、まずは直情的な篤志が激昂する。
「おい、何だとこのデブ。俺達の事を「そいつら」呼ばわりするとは、お前も随分と偉くなったもんじゃないか、あ?」
「よせよ、篤志」
拳を握り締めて立ち上がった篤志の肩を掴んで、僕は自制を促した。しかしその間も岡島くんは俯いたまま、足元の一点をジッと見つめ、喧嘩腰の篤志の言葉に動じた気配がまるで無い。彼の感情の機微の無さに、僕はゾッとする。
「もう僕には構わないでくれ。そっとしておいてくれ。お前もそいつらも、どうせ僕の事をデブの引き篭もりだと思って馬鹿にしているんだ」
ギョロリと眼球だけを動かして西鳥羽さんを睨み据えると、再び無感情な声でもって、岡島くんが言い放った。そして食べかけの豚の生姜焼きを残してレストランから退出した彼は、そのままスタスタとエレベーターの方角へと歩み去ってしまい、僕達はその後姿を呆然と見送る事しか出来ない。
「なんだ、あいつ」
篤志はそう言って舌打ちを漏らすが、僕も全くの同意見だ。
「あの、えっと、ごめんなさい。岡島くんもきっと、悪気は無かったんだと思います。でも彼はその、自分の感情を上手く表現出来なくて、それであんな言い方をしてしまったんじゃないでしょうか。だからその、岡島くんを許してあげてください。どうか、お願いします」
そう言って、何故か西鳥羽さんが、僕達に向かって深々と頭を下げた。彼女は岡島くんの保護者にでもなったつもりなのだろうかと、僕は言い知れぬ違和感と不快感に襲われる。
「いいのよ西鳥羽さん、あなたが謝らなくても。それよりも結局、西鳥羽さんはどうするのかしら? プールでのパーティーには参加するの? それとも、岡島くんと一緒にホテルに残るの?」
「出来れば、岡島くんの傍に居てあげたいんです。けれど彼には拒絶されてしまったし、そっとしておいてくれと言っているので、今は少し距離を置いた方が良いのでしょうか。とりあえず今日のところは、虎鉄くんの快気祝いですし、パーティーには参加する事にします。何だか言っている事がコロコロと変わってしまって、ごめんなさい」
改めてパーティーへの参加の意思の有無を問うた塚田さんに、西鳥羽さんが俯きながら、少し悲しげに答えた。彼女が何故そこまで岡島くんに入れ込むのか、その理由が僕には理解出来ない。
「そう。それじゃあホテルに残るのは、あたしと岡島くんだけなのね。皆はあたし達の分まで、パーティーを楽しんで来てちょうだい」
「え?」
塚田さんの言葉に、僕達全員が問い返した。
「ちょっと待って? 塚田さんも、パーティーには参加しないの?」
「ええ。あたしのこの動かない脚でプールに行っても泳げる訳でもないし、皆のお荷物になるだけだもの。だったら最初から参加しない方が、皆に余計な手間と心配を掛けずに済むと思うの。だからパーティーには参加せずに、ホテルに残ります」
僕の問いに、さも当然と言った口調でもって塚田さんは答えたが、その返答に対して篤志が異を唱える。
「ちょっと待てよ、塚田。それじゃあまるで、俺達がお前を邪魔者扱いしているみたいじゃねーか。誰もお前の事を、お荷物だなんて思ってねーよ」
「ありがとう、中条くん。そう言ってくれるのは嬉しいけれど、それでもやっぱり、スポーツを楽しむような場所でのあたしは門外漢なの。これまでもそうだったし、これからもそう。だから、パーティーには参加しません。分かってちょうだい」
「いいや、分からねえ。分かる訳には行かねえ。たとえ襟首掴んで引き摺ってでも、お前にはパーティーに参加してもらうからな? それがお前の、リーダーとしての務めだ! 何も出来なくても、リーダーってのはその場に居る事が重要なんだ!」
説得しようとする塚田さんに、篤志が鼻息荒く抗言した。
「そうだよ、一緒にパーティーしようよ、塚田さん。たとえプールで泳げなくたって、皆で一緒にお祝いした方が楽しいよ!」
照喜名さんもそう言って塚田さんの参加を切望し、僕と相田さんも首を縦に振って、同意する。
「そう……。そこまで言ってくれるのなら、あたしも参加しようかしら。でも本当に、皆のお荷物になるだけだからね? 申し訳無いけれど、我慢してちょうだいね?」
「我慢だなんて、とんでもない! 大歓迎するに決まってるじゃないの! それじゃあ塚田さんも一緒に、これから皆でROXのスポーツ用品店に行って、水着を選ぼう!」
「水着? 水着も、着なきゃ駄目?」
「勿論! だって、プールだもん!」
テンションを上げて歓迎する照喜名さんの言うがままに、どうやら塚田さんも、プールでは水着を着る事になったようだ。普段は冷静沈着な塚田さんが水着を着ると決まった途端に頬を赤らめてうろたえているのが、なんだか少し可愛らしい。そして僕達はプールで行なわれると言うパーティーを夢想して、胸を躍らせる。
ただし岡島くんに拒絶された西鳥羽さんだけは、浮かない顔だった。
●
リッチモンドホテル浅草から程近い国際通り沿いに、浅草ROXと呼ばれる、九階建てのそこそこ大きな商業ビルが在る。そのビル内には各種のセレクトショップや百円ショップのダイソー、それに家具店のニトリや雑貨屋の無印良品等がテナントとして入居しているのだが、最上部の八階と九階に入居しているのは、beginと言う名称のフィットネスクラブだ。そしてそのフィットネスクラブ内のプールこそが、今夜の僕達の目的地に他ならない。
今夜。そう、今は夜だ。晩飯を食べ終えた僕達は水着に着替え、料理や飲料を手に手に、浅草ROXのエレベーターに乗り込んでプールの在る八階を目指す。いよいよこれから、ナイトプールでのナイトパーティーと洒落込もうじゃないか。
「一番乗り!」
プールに到着するや否や、手にしていたジュースの入ったビニール袋を床に置いた照喜名さんが駆け出し、そのまま助走をつけてプールに飛び込んだ。ドボンと言う音と共に水柱が立ち上り、暫し彼女は水中を優雅に泳ぐ。その姿は、まるで人魚の様だ。そして一通り水の冷たさと爽快さを味わい終えた彼女は、水面から上半身だけを覗かせると、僕達に向かって楽しそうに手を振る。
「水が冷たくって、気持ちいいよ! 皆も早く、おいでおいで!」
「照喜名さん、まずは落ち着いて、皆で乾杯をしましょう」
興奮する照喜名さんに、篤志が押す車椅子に乗った塚田さんが自制を促した。そして僕達は持参した折り畳み式のテーブルをプールサイドで組み立て、その上に料理と飲料を並べる。照喜名さんもプールから上がると、並べられた飲料の中からカルピスソーダを選択した。
「それじゃあ、虎鉄くんの退院を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
塚田さんの音頭により、各自が手にした飲料を打ち鳴らし合った僕達七人は、杯を傾ける。とは言っても用意されていたのはペットボトルか缶入りの飲料なので、ガラスや陶器製のグラスの様にカチンと打ち鳴らす事は出来なかったし、ましてや杯でも無い。だがそこはあくまでも比喩と言う事で、勘弁してもらおう。
「ひゃっほう!」
乾杯を終えた照喜名さんは、飲みかけのカルピスソーダをテーブルに置くと、さっそくプールに飛び込んだ。そして再び、まるで人魚の様に優雅に泳ぐ。そう言えば初対面の時に趣味はダイビングだと言っていたので、沖縄の海に潜っていた彼女ならばこの程度の深さのプールなど、眼を瞑っていても泳げるに違いない。
「柴くんも、こっちにおいでよ!」
「駄目ですよ、照喜名さん。虎鉄くんは病み上がりなんだから、未だ泳ぐのは禁止です。虎鉄くんも、大好きな照喜名さんに誘われたからと言って、調子に乗って飛び込んだりしないように」
プールで一緒に泳ごうと誘う照喜名さんと誘われた虎鉄の両方に、塚田さんが苦言を呈した。照喜名さんの事が大好きだと形容された虎鉄は少し頬を赤らめて、まるで純情な乙女の様にもじもじと恥ずかしがる。実に分かり易いと言うか嘘が吐けないと言うか、自分の感情を隠すのが下手な奴だ。
「それじゃあ、ちょっと水に足を浸けるだけならいい?」
「それなら、構いません」
塚田さんから許可を得た虎鉄は、プールの縁に腰掛けて両足を水に浸けると、ぱちゃぱちゃと水面を蹴り上げて水遊びに興じていた。するとそこに、水中を潜って来た照喜名さんが水面からぬっと姿を現して、虎鉄に寄り添う。
「へへへ、怒られちゃったね」
「そうだね」
そう言って微笑み合う二人は、まるで本物の恋人同士の様だ。いや、もしかしたら僕が知らされていないだけで、既に二人は交際しているのかもしれない。そして今夜の照喜名さんはその豊満な胸のラインがより強調されるチューブトップの水着を着ており、肌も露なその肉体と密着して、虎鉄は幸せそうに笑っている。
「なんか、ちょっと妬けるな」
僕は眉間に皺を寄せながらそう独り言ちると、テーブルの上に並べられたフライドチキンを一つ摘んで、モシャモシャと咀嚼した。ちなみにこのフライドチキンはケンタッキーフライドチキン浅草店から調達して来た物なので、スパイスが効いていて美味い。揚げてから少し時間が経ってしまったので熱々の出来立てと言う訳にはいかなかったが、それでも充分にイケる。
それにしても、今夜は月が綺麗だ。書き忘れていたが、今、このプールは照明を落としている。ただし窓一枚向こうのトレーニングルームの照明は点けているので真っ暗闇ではないし、何よりも壁と天井がガラス張りのプールには青白い月明かりが差し込んで来て水面に反射し、幻想的な美しさを演出していた。これもまた、ナイトプールの醍醐味だろう。
「吉島くん達も、こっちに来て一緒に泳ごうよ!」
「ようし」
手招きする照喜名さんの誘いに、僕はフライドチキンの油でべとべとになった指を紙ナプキンで拭くと、サファリハットをテーブルの上に置いてからプールに歩み寄った。そして助走をつけ、月明かりを反射する水面に勢いよく飛び込む。当然だが飛び込み競技の選手の様に頭からするりと華麗に入水するのではなく、蟹股でジャンプして尻からドボンと着水し、わざと大きな水柱を立てて飛び込んだ。そして僕達七人だけで貸切のプールをゆらゆらと遊泳し、思うがままに堪能する。
「慧! 慧!」
仰向けになってぷかぷかと水面をたゆたっていると、不意に僕の名を呼ぶ声がした。そこで起き上がって声のした方角へと眼を向ければ、タンキニと呼ばれる水着を着た相田さんが、恐る恐る水面に足を浸けながら僕を見据えている。
「慧! こっちに来い!」
「何? どうしたの、相田さん?」
何事かと思いながら近付くと、相田さんの身体が微かに震えていた。また同時に、水着を着た事によって彼女の細くて小さな身体のラインがより強調されているなと、僕は思う。繰り返し記述するが、相田さんは小柄で、線が細い。しかし決して華奢と言う訳ではなく、毎日鍛えているせいか、意外と筋肉質でがっしりとしている。要は無駄な脂肪をトレーニングで削ぎ落としているので細く見えるのと、第二次性徴期にあまり胸や尻が発達しなかったがために、一見するとか弱そうに見えるのだ。そんな彼女がプールに胸まで浸かると、僕に要望する。
「慧、実はあたし、水は苦手なんだ。だから、その、溺れた時のために傍で見ていてくれ」
なるほど、水が怖いから震えていたのかと、僕は得心した。
「いいよ。僕が見ていてあげるから、好きに泳いでみて」
そう言った僕の言葉に従い、意を決した相田さんは水面に顔を浸け、泳ぎ始める。しかし自己流の、クロールと犬掻きの中間の様な奇妙な泳ぎを披露する彼女は、沈みこそしないものの殆ど前には進まない。
「ぷは」
唐突に、相田さんが水面から顔を上げて大きく息を吸い込んだ。そしてぜえぜえと、荒い呼吸を繰り返す。
「慧、大変だ。息継ぎのタイミングが分からない」
どうやら、彼女の自己流の泳ぎ方には息継ぎと言うシステムが組み込まれていないらしい。
「それじゃあ、僕が手を支えておいてあげるから、上半身は息継ぎをする事だけに集中して。それで下半身はゆっくりとバタ足で水を掻きながら、そのリズムに合わせて、バタ足四回に一回のタイミングで首を回して息継ぎをするんだ。ほら、手を出して」
「手を、繋ぐのか?」
これまでも散々僕の脇腹を殴っておいて何を今更と思うのだが、どうやら相田さんは、僕と手を繋ぐ事を躊躇しているようだ。
「ほら、早く」
「……うん」
急かす僕に頷いた相田さんは、モジモジと恥ずかしがりながらも、恐る恐る僕と手を繋ぐ。僕の手の中にすっぽりと納まってしまうほど彼女の手は小さく、僕の脇腹を小突いている時とは違って柔らかい。そして繋いだ手を支えにして、彼女は再び水面に顔を浸けると、ゆっくりとバタ足を開始した。
「一、二、三、息継ぎー。一、二、三、息継ぎー。いいよ、そのタイミングで続けて」
僕の指導の下、相田さんは次第に息継ぎを会得し始める。水面に浮かぶ彼女の背中に生えた翼はその体格と同様に小ぶりで、可愛らしい。そして僕は機を見て、相田さんに提案する。
「そろそろ、上半身も水を掻くのと同時に息継ぎが出来るように練習しようか」
「手を、離すのか?」
相田さんは残念そうにそう言うが、水泳の練習を次のステップへと進めるためには致し方ない。そして彼女は僕と繋いでいた手を離し、再び水面に顔を浸けて泳ぎ始める。しかし腕を動かしながら息継ぎを続けるのは未だ難しいようで、タイミングが合わずにバシャバシャと水を掻くばかりの奇妙な泳ぎ方になってしまっているが、それでも徐々に様になりつつあった。
「吉島くんと相田さんって、本当に仲良しだね」
自分と虎鉄の仲の良さを棚に上げてそう言った照喜名さんが、こちらを見ながらニコニコと微笑んでいる。そしてプールサイドに立った人影がもう一つ、こちらへと近付いて来た。
「あ、西鳥羽さんも泳ぐの?」
そう言った照喜名さんの言葉にプールサイドを見遣れば、そこに立っていたのは水着姿の西鳥羽さん。ラッシュガードを脱ぎ捨てた彼女の肢体は月明かりに塗れて、美しい。
「うわ……」
長身痩躯の西鳥羽さんが抜群のプロポーションを誇る秋田美人である事は重々承知していたが、意外にも着痩せするタイプだったのか彼女の乳房や臀部は想像以上に豊かで、清楚と妖艶が入り混じったその姿に僕は思わず言葉を失った。そしてワンピースの水着に身を包んだ西鳥羽さんはするりと優雅に入水すると、一旦水中に潜ってから浮上し、しっとりと濡れた髪を艶かしい仕草でもって掻き上げる。この世のものとは思えないその美しさに、僕は心奪われざるを得ない。
「……痛っ!」
水遊びに興じる西鳥羽さんに見蕩れてぽーっとしていた僕の無防備な脇腹に、突然激痛が走った。不意打ちを喰らった格好になった僕は、身体をくの字に曲げて悶絶する。見ればいつの間にか水泳の練習を中断していた相田さんが、僕の脇腹に強烈な右フックを叩き込んでいた。
「……スケベ」
こちらを睨みながらそう呟いた相田さんは、更なる右フックを僕の脇腹に叩き込む。水中なので水の抵抗により威力が半減されている筈なのだが、それでも肋骨が軋んで悲鳴を上げるほど痛い。
「ちょっと相田さん、痛い痛い! やめてってば!」
「うるさい、このスケベ! 逃げるな!」
プールの中を必死で逃げ惑う僕を、拳を振りかざした相田さんが眉間に皺を寄せながら追いかける。するとその光景を見て虎鉄も照喜名さんも、また珍しく西鳥羽さんも笑っていた。そしてプールサイドに停められた車椅子に座る塚田さんも、隣に座る篤志と共にクスクスと笑っている。
「本当に、相田の奴は慧をぶん殴るのが大好きなんだな」
「そうね。本当に、大好きなのね」
篤志の言葉に、塚田さんは笑いながら同意した。しかし次の瞬間、彼女は篤志が飲んでいる飲料の正体に気付くと、不意に笑い止んで怪訝な顔をする。
「あら? 中条くん、その缶の中身って……」
「飲む事自体は、禁止しないんだろ?」
そう言いながら不敵にほくそ笑み、塚田さんに向かってウインクしてみせる篤志が手にしていたのは、500mlの缶ビールだった。
「禁止しないとは言いました。ですが酔って怪我をした虎鉄くんの快気祝いでお酒を飲むのは、少し不謹慎ですよ?」
「まあ、そう堅い事を言いなさんな。それに、今回は酔っ払うほど飲みはしないさ。この場に持ち込んだ酒は、今俺が飲んでいるこの一本だけだ」
「……そう言う事なら、眼を瞑っておいてあげます」
塚田さんのお墨付きを得た篤志は缶の中のビールをグビグビと飲み下し、げふっと盛大なゲップを漏らす。
「中条くん、下品よ」
「そいつは申し訳無い。なにせ、あんたとは違って育ちが悪いもんでね」
おどけながらそう言った篤志の言葉に、塚田さんも思わずぷっと噴き出した。そしてクスクスと笑いながら、彼女はプールではしゃぐ僕達の姿を改めて眺望し、安堵する。
「それにしても、皆楽しそうで、本当に良かった。照喜名さんがプールでパーティーをしようと言い出した時はどうなる事かと思ったけれど、彼女には感謝しなくちゃね」
そう言った塚田さんは満足げだが、篤志は未だ不満があるようだ。
「なあ、塚田。あんたは泳がないのか?」
篤志の問いに、塚田さんはきょとんとする。
「何を言っているの、中条くん。あたしのこの脚で、泳ぐ事なんて出来る訳が無いでしょう?」
塚田さんはそう言って笑い飛ばすが、篤志は諦めない。
「いいや、泳ぐ事は出来なくても、水に浸かる事くらいは出来る筈だ。せっかく水着を着たのにプールサイドで見ているだけじゃ勿体無いし、あんたは俺らのリーダーなんだから、一緒に楽しむ権利と義務がある。ほら、そんなパーカーは脱いだ脱いだ!」
「あ、ちょっとやめてよ中条くん。そんなに引っ張らないでも、自分で脱げるから」
塚田さんが水着の上から着ているパーカータイプのラッシュガードを脱がせようとする篤志と、それを拒否して自分で脱ぎ始める塚田さん。するとラッシュガードの下から姿を現した彼女の水着は、意外にも露出度の高いビキニだった。
「なんだ、泳ぐ気が無かった割には、気合いの入った水着を着てるじゃないか」
「これは、その、だってワンピースよりもこっちの方が、脚が動かなくても着替えがし易かったから……」
言い訳の言葉を口にする塚田さんは照れているようで、頬を赤らめて篤志から眼を背ける。こんなに感情を露にしている彼女を見るのは、これが初めての事かもしれない。そして水着姿になった塚田さんは、普段のブラウス姿からは想像も出来ないほどの豊かな双丘を、その胸に抱えていた。
「お? 塚田、あんた結構スタイル良かったんだな」
「そう言う事は言わないでちょうだい! 水着を着て人前に出るのなんて殆ど生まれて初めての経験なんだから、これでも恥ずかしくて死にそうなんですからね!」
篤志から冷やかされて、益々照れて恥ずかしがる塚田さん。そんな彼女を乗せた車椅子を押して、篤志はプールに近付く。
「それで、これからどうするの? まさか、このままプールに突き落とすつもりじゃないでしょうね?」
「そんな事するかよ。ほら、しっかり掴まりな。……よっと」
「きゃっ!」
塚田さんが、驚きの声を上げた。それもその筈、篤志が彼女を俗に言うお姫様抱っこでもっていきなり抱え上げたのだから、驚くのも無理は無い。そして塚田さんを抱え上げた篤志は、立った姿勢のままドボンとプールに飛び込んだ。水飛沫と共に、二人の身体が水に濡れる。
「中条くん、あたし、怖い」
「俺が支えているから、大丈夫だって。それに人間って言うのは、何もしなくたって水に浮くように出来ているもんさ」
そう言う篤志に抱き抱えられたまま、塚田さんは恐る恐る、水遊びを始めた。ぱちゃぱちゃと水面を掻き、水の冷たさと爽快さを体感し、水中では身体が浮いて軽くなる感覚を楽しむ。そして遂には篤志に身体を支えられながら、ぎこちないながらもクロールの真似事までしてみせた。
「あたし、未だ信じられないの。まさかこのあたしがプールで泳げる日が来るだなんて、夢じゃないかしら」
篤志の腕の中でそう言った塚田さんは、興奮を隠せない。脚の不自由な彼女にとってはこれが生まれて初めて体験する水泳だろうから、当然と言えば当然だ。そしてそんな彼女の背中にも、篤志の背中にも、白い羽で覆われた小さな翼が生えている。それは当然、虎鉄にも照喜名さんにも相田さんにも、勿論この僕の背中にも生えているネモムンプス・チルドレンの証だ。
「そう言えば、こんなに堂々と翼を見せてプールに入ったのは初めてだな」
僕はそう独り言ちると、背中の翼をパタパタと羽ばたかせる。これまでの人生では、学校のプールの授業でも可能な限り翼を見られないようにこそこそと壁際で泳いでいたし、市営のプールや海水浴場などには行った事が無い。そして僕は、思い返すと同時に実感する。
小学一年生の春に背中に翼が生えて以降、僕はずっと、この翼のせいで周囲から虐められて来た。日本のムラ社会で
しかしもう、その翼を隠す必要は無い。後ろ指を差される事も無い。ネモムンプス・チルドレンしか居ないこの場所では、僕達は堂々と翼を晒して生きて行ける。生まれたままの真の自分の姿を、皆が受け入れてくれる。こんな幸せな事が、他にあるだろうか。
「どうした、慧? 何を笑っている?」
僕を殴ろうと追いかけて来た相田さんが、不思議そうな顔で言った。どうやら僕は、自分でも気付かない内に笑っていたらしい。
「いや、別に。何でもないよ」
そう言うと僕は全身の力を抜いて仰向けになり、水面にぷかりと大の字になって浮かぶと、天を仰ぐ。ガラス張りの天井から覗く夜空には満月が浮かび、まるで僕達を祝福するかのように青白く輝いていた。
「ああ、本当に今夜は、月が綺麗だ」
僕は月に向かって手を伸ばしながら呟き、眼を閉じる。今この幸せな瞬間が、永遠に続けばいいのになと思いながら。そしてまた同時に、僕達が幸せを享受しているこの瞬間にも、一人で部屋に引き篭もっている岡島くんは何を考えているのだろうかと想像して背筋にゾッと悪寒を走らせた。
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