第四幕


 第四幕



 拠点にしているリッチモンドホテル浅草の二階の、僕が個室として利用している客室。その客室のベッドの上に大の字になって寝転びながら、僕は自分のスマートフォンの液晶画面を凝視して、YouTubeに投稿された動画を視聴していた。

 ゾンビが発生してから、今日で二週間。現在の時刻は、夜の十一時を少し回った頃。一階のレストランで皆で晩飯を食べ終えた後は特にやる事も無いので、僕は毎夜、こうして時間を潰している。ちなみに男性陣が二階の客室を利用して女性陣が三階を利用しているのは、万が一ゾンビがここまで襲撃して来た場合に、男性陣が女性陣の盾になるためだ。まあ、階段を占拠されたら何の意味も無いのだが。

 それにしても、電気ガス水道と言ったライフラインが供給され続けている事に加えて、ネット回線と電話回線も未だに安定して繋がっている事が不思議でならない。しかし今は、その事実を素直に喜ぼう。なにせライフラインが断たれたら、僕達の共同生活はあっと言う間に成り立たなくなるのだから。

「さてと、そろそろ風呂に入って、寝るか」

 枕元のデジタル時計で時刻を確認してからそう独り言ちると、僕はベッドから身を起こす。そして替えの下着を手にしてバスルームに向かおうとしたところで、不意にゴンゴンと、廊下に繋がるドアがやや乱暴にノックされた。

「はーい」

 こんな時間に一体誰が何の用事でやって来たのかと訝しみながらドアを開けると、そこに立っていたのはサングラスを掛けた色黒の男、中条。彼はニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら、僕を誘う。

「なあ、吉島。お前、酒飲みたくね?」

「酒?」

 また何か不穏当な事を考えているなと益々をもって訝しみながら、僕は問い返した。

「そう、酒だ。もう警察も検察も機能してねえんだから、未成年が酒を飲んだって、誰も文句は言わねえだろ? だったらこの街には腐るほどの酒が眠っているんだから、これを俺達が飲まねえ手は無えって。だからここらで互いの親睦を深めるために、ちょっとしたパーティーを開催しようじゃねえか。な?」

「ふうん、まあ、構わないけど?」

「それじゃあ決まりだ。一緒に来い」

 そう言って手招きする中条に従い、僕は手に持っていた替えの下着をベッドの上に放り投げると、部屋の電気を消してからホテルの廊下に出る。すると僕よりも先に中条に誘われていたらしい照喜名さんと虎鉄、それに相田さんの合計三人が、既に廊下で待機していた。

「あれ? 塚田さんと西鳥羽さんと、それと岡島くんは?」

 三人もの面子が不在である事を尋ねる僕に、中条が答える。

「あいつらは、誘ってない。岡島のデブは引き篭もったままで出て来ねえし、塚田と西鳥羽は、どうせ酒を飲もうなんて言ったら反対するに決まってるからな。だったら最初から誘わないで、俺達だけで楽しもうじゃないか。な?」

「……ふうん、なるほどね」

 僕は、得心した。

「なるほどって、何がだ?」

「いや、何でもないよ」

 問い返す中条の言葉を僕は誤魔化したが、要は彼は塚田さんの一派を爪弾きにする事によって、自分がリーダーに相応しいと僕達に知らしめたいのだろう。随分と下衆で稚拙な魂胆だとも思うが、きっと彼なりに考え尽くした結果に違いない。そして僕自身はそんな魂胆に乗る気も無かったが、酒盛りをしようと言う誘いそのものは魅力的だったので、今は中条の軍門に下ったふりをする事にした。

「それじゃあ全員揃ったところで、そろそろ行くか。お前ら、ついて来い」

 意気揚々とそう言った中条に先導されて、僕達はぞろぞろと、リッチモンドホテル浅草を後にする。そしてホテルの前を走る、俗に言うホッピー通りを真っ直ぐに南下すると、やがて一件の店の前に辿り着いた。その店の店頭には『D's diner』と言う店名が掲げられており、どうやら見たところ、輸入ビールがメイン商品のビアホールらしい。

「ほら、入った入った」

 中条はそう言って、僕達に入店を促した。そこでD's dinerの店内に足を踏み入れれば、門構えに比べると内部は意外と広く、テーブル席が並んだ店の奥には使い込まれた厨房とバーカウンターも確認出来る。

「なかなか良さそうな店じゃないか」

 僕はテーブル席の一つに腰を下ろしながらそう言うと、中条に尋ねる。

「それで、何をご馳走してもらえるんだい?」

「そう焦るなって。まずは、何か音楽でも掛けようじゃないか。酒を飲むのなら、雰囲気作りは重要だろ?」

 僕の問いをはぐらかすようにそう言った中条は、持参したタブレットPCをカウンターの上に置くと、その液晶画面をタップした。するとタブレットPCのスピーカーからは軽快でムーディーなジャズが流れ始め、古き良きアメリカのビアバーを意識した店内の装飾ともいい具合にマッチし、確かに雰囲気作りは成功したようだ。ちなみにこのジャズが中条の趣味なのか、それともこの日のためにわざわざ用意したのかは分からない。

「それじゃあ各自、好きな酒を注いでくれ」

 そう言って、店の奥のバーカウンターを指差す中条。そこに置かれた大型冷蔵庫の中には世界各国のビールが並び、複数種の生ビールのサーバーも用意され、またカウンターの上にはウイスキーなどの洋酒や日本酒や焼酎のボトルも見て取れる。未だ未成年の僕達にはどの酒がどんな味なのかはさっぱり分からなかったが、とりあえずラベルが気に入ったビールの缶や瓶を各自が手にしてから、テーブル席に集合した。そしてグラスにビールを注ぎ、掲げる。

「乾杯!」

 中条の音頭の元に、僕達はカチンとグラスを打ち合ってから、杯を傾けた。未成年とは言え酒を全く飲んだ事が無い訳ではないが、それでも未だ、僕は酒の本当の美味さを知るには早過ぎたようだ。ビールは苦くて、大人の様にこの味を純粋に美味いとは感じられない。しかしそれでも真夏の熱帯夜に飲む冷えた炭酸飲料は爽快で、心地良く喉を潤してくれる。

「かーっ! 美味いな、久し振りのビールは!」

「ホント、美味い!」

 そう言って身震いする中条と照喜名さんは、どうやら僕よりも酒を飲み慣れているらしい。一方で虎鉄と相田さんの二人は飲み慣れていないらしく、顔をしかめながらチビチビとグラスの中身を舐めていた。

「何かつまみが無いと、悪酔いしそうだな」

「任せとけ。事前にコンビニで、調達して来た」

 僕の言葉にそう応えると、中条はカウンターの下からコンビニのビニール袋を取り出し、その中身をテーブルの上に広げる。それはポテトチップスや裂きイカやビーフジャーキーと言った、俗に『乾き物』と呼ばれる酒のつまみだった。そこで僕はビーフジャーキーの袋を開け、干し肉を齧り始める。

「なんか、それだけだと寂しいね。僕が何か作るよ」

 テーブルの上に広げられた乾き物を一瞥した虎鉄がそう言いながら立ち上がり、店の奥の厨房へと足を向けた。そして冷凍庫の中から幾つかの食材を取り出すと、水を張った鍋をコンロに掛けて火を入れ、調理を開始する。すると程無くして、まずは簡単に出来る一品として、塩茹での枝豆が完成した。僕達は虎鉄が作ったそれをつまみながら、ビールの杯を更に傾ける。

「しかし、意外だったな」

「何が?」

 ボソリと呟いた僕に、中条が問うた。

「いや、照喜名さんは何となく分かるけれど、虎鉄と相田さんがこんな深夜の飲み会に参加しているのがさ。二人はあまり、こう言った酒の席なんかには興味を示さないタイプだと思っていたんだけど」

 僕が答えると、中条はその真相を説明してくれる。

「それがな、一番初めに照喜名を誘って、次に柴を誘ったんだが、柴の奴は最初は飲み会への参加を渋ってたんだ。それが照喜名も参加すると知った途端に、自分も一緒に行くと言い出しやがった。分かり易いよな、柴の奴も」

 なるほど。虎鉄は照喜名さん目当てでこの飲み会に参加したのかと、僕は得心した。そして当の照喜名さんに眼を向ければ彼女はニコニコと笑っており、どうやら自分が虎鉄に好かれている事を自覚した上で、その状況を楽しんでいるらしい。またもう一人の当事者である虎鉄はと言えば、彼は厨房で鍋を振るう事に忙しく、僕達の会話は聞こえていないようだ。

「それと相田はな、吉島、お前も誘うつもりだと言ったら参加を決めやがったんだ。どいつもこいつも分かり易くって、青春してやがるね」

「それってどう言う……痛っ!」

 中条の説明に僕が再び問い掛けようとしたその時、僕の脇腹に痛みが走った。見れば隣に座る相田さんが中条を睨みながら、僕の脇腹を結構な力でもって小突いている。出会った初日に顔面をぶん殴られてから二週間が経過し、彼女に小突かれる事にも随分と慣れた筈なのだが、やはり無防備な脇腹をいきなり小突かれるとかなり痛い。

「ちょっと相田さん、なんでいつもいつも、僕の脇腹を殴るの? そう言えば虎鉄が、相田さんが僕を殴るのは相田さんなりの愛情表現だって言ってたけど……痛っ!」

 僕が尋ね終える前に、相田さんは早くも酔っ払った訳でもないだろうに顔を真っ赤にすると、益々をもって強烈な殴打を僕の脇腹に叩き込んだ。その一撃は重く鋭く、肋骨が軋み、僕は身体をくの字に曲げて悶絶する。

「お待たせ。ブロックベーコンとソーセージが有ったから、オーブンで焼いてみたよ。塩胡椒はしてあるから、お好みでマスタードソースを塗って食べてね。……あれ? 慧、どうしたの?」

 料理が乗った皿をテーブル席まで運んで来た虎鉄が、痛む脇腹を押さえてテーブルに突っ伏したままの僕を見て、不思議そうな声を上げた。隣に座る相田さんは僕を殴打する手を休めると、怒っている様な照れている様な複雑な表情を浮かべながら、飲み慣れないビールをチビチビと舐めている。

「柴くんもこっちに来て、あたしと一緒に飲もうよ」

 照喜名さんがそう言いながら、自分の隣の椅子をポンポンと叩いて、虎鉄に着席を促した。そして誘いに乗った虎鉄が頬を赤らめながら腰を下ろすと、彼女はその豊満な身体をわざとらしく密着させて、ウブな虎鉄の反応を楽しんでいるらしい。その外見と言動から、ややもすれば軽薄で尻軽な印象を与える照喜名さん。彼女がどこまで本気なのかは分からないが、とにかく今は、照喜名さんも虎鉄も楽しそうで何よりだ。

 カウンター席に腰掛けた中条が、ビールを瓶のままグビグビと飲みながら、得意気に笑っている。


   ●


「……慧! 慧!」

「え?」

 自分の名前を連呼されて、僕はハッと眼を覚ました。どうやら気付かない内に、椅子に座ったままうたた寝をしてしまっていたらしい。あまり自覚症状は無いのだが、缶ビールを合計で四本ほど空にした僕は、そこそこに酔いが回りつつあるようだ。そして周囲を見渡せば、宴も酣とはこの事かとでも言うべき光景が広がっている。

「慧、お前、飲んでるか? もっと飲め」

 僕をうたた寝から起こした相田さんはそう言うと、僕が被っていたサファリハットを取り上げながら、ご機嫌に笑った。こんなに笑う彼女は初めて見るが、どうやら既に、かなりの泥酔状態にあるようだ。相田さんが二杯目に選んだ『ニュートン』と言うリンゴ味のビールが甘くて飲み易かったらしく、それをガブガブと飲んだ結果だろう。彼女はベロベロに酔っ払ったまま、僕のグラスに五杯目のビールを注いだ。

「げふっ」

 不意に大きなゲップが聞こえて来たので視線を巡らせれば、向かいの席に座った虎鉄が、ジョッキに注がれたハイボールを飲みながら顔を真っ赤に紅潮させている。果たしてその紅潮が酔いによるものなのか、それとも隣に座った照喜名さんの豊満な肉体と身体を密着させているために照れているのかは、判別が付かない。そして件の照喜名さんはと言えば、虎鉄とは違って顔色を微塵も変える事無く、いつも通りニコニコと微笑みながら黒ビールをグビグビと飲んでいた。

 店内に流れる音楽は、ソウルフルなジャズ。空になったビールの缶や瓶は、合計で二十本以上。テーブルの上には、食い散らかしたスナック菓子や虎鉄が調理した料理の残骸が、無残に散乱している。そしてそれらを眺めながら、カウンター席に腰を下ろした中条は、瓶ビールをラッパ飲みしながら相変わらず得意気に笑っている。多分彼は、少なくともこの場に居合わせた面子に関しては、これで人心の掌握に成功したと思っているに違いない。少し短絡思考に過ぎるとは思うが、まあ、それが中条の限界なのだろう。

 店内の時計を見れば宴が始まってから既に三時間が経過しており、何はともあれ僕達全員は、この上無く上機嫌だった。

「そろそろ、つまみが無くなって来ちゃったね」

 照喜名さんがボソリと呟き、空になったポテトチップスの袋を逆さにして振る。

「それじゃあ、僕が何か作るよ。確かチーズが何種類か有った筈だから、サラミと生ハムと一緒に切ろうか?」

「ホント? ありがと」

 そう礼を言うと、厨房に向かうために立とうとした虎鉄の頬に、照喜名さんが優しくキスをした。すると虎鉄の顔が益々赤くなって、だらしなく鼻の下を延ばす。

「おいおい、大丈夫か、虎鉄?」

「大丈夫大丈夫。このくらい、何とも無いから」

 心配する僕には笑いながらそう答えた虎鉄だったが、彼もまた随分と酔っているようで、その足元はフラフラとして覚束無い。そしてカウンターや壁に肩や腰をぶつけながら厨房に足を踏み入れた虎鉄は、冷蔵庫の中から大きな業務用のチーズの塊を取り出すと、手にした包丁でもってそれを切り始めた。しかし酔いによって上手く手に力が入らないためか、包丁の刃が硬いチーズになかなか食い込んでくれない。そこで彼は爪先立ちになって身体を浮かせ、全体重を包丁の背に乗せた。

「ふんっ!」

 掛け声と共に、虎鉄が手にした包丁の刃がチーズに食い込み始める。だが次の瞬間、体勢を崩した彼は足を滑らせ、その場で盛大にすっ転んでしまった。最初にドシンと虎鉄が床に尻餅をつく音が聞こえ、その直後に調理台の上に置かれていたボウルや鍋が転がり落ちて、ガランガランと耳障りな金属音を奏でる。

「だから言ったじゃないか、虎鉄。大丈夫か?」

 僕は半分心配し、半分は笑いながら、カウンターから身を乗り出して厨房内で転んでいる虎鉄の姿を見遣った。しかし彼をからかってやろうと目論んでいた僕の表情は、一瞬にして引き攣る。

「あ……」

 呆然とした表情で声を漏らした虎鉄の手は、血で真っ赤に染まっていた。見れば仰向けの体勢で床に倒れている彼の脇腹には、大振りな包丁が突き立つ様に刺さっている。転んだ拍子に、チーズを切っていた包丁が落ちて来たのだ。そして一拍の間の後に、その包丁が虎鉄の脇腹から抜けて床に転がり落ちると、傷口から鮮血が溢れ出して床を濡らし始める。

「――!」

 僕の隣で顔面蒼白の照喜名さんが立ち尽くし、声にならない悲鳴を上げた。

「おい柴、大丈夫か!」

 中条も立ち上がって叫ぶが、彼も照喜名さんと同様に自分がどうするべきか分からないらしく、その場に立ち尽くしたまま動かない。

「虎鉄、しっかりしろ!」

 パニック状態の照喜名さんと中条をその場に残して、僕は厨房に駆け込んだ。そして床に倒れたままの虎鉄の傍らに膝を突くと、彼を立たせようとする。

「痛い!」

 しかし苦痛を訴える虎鉄は脚に力が入らないらしく、立ち上がる事が出来ない。そしてその間も、彼の着ているシャツは見る間に血で真っ赤に染まる。

「照喜名さん、おしぼりを沢山持って来て! 中条はホテルに戻って、塚田さん達を呼んで来てくれ!」

 立ち尽くしたままの二人に向かって僕が指示を出したが、未だパニック状態の照喜名さんと中条はオロオロと右往左往するばかりで、埒が明かない。

「早く!」

 僕に発破をかけられて、ようやく二人が動き始める。

「分かった! 塚田達を呼んで来ればいいんだな?」

 そう言って中条が店を飛び出し、両手におしぼりを抱えた照喜名さんが厨房に駆け込んで来ると、僕の隣に跪いた。

「おしぼり持って来たけど、これでいいの?」

「ああ、それで傷口を押さえてくれ。僕にもどうしたらいいのか分からないけれど、とりあえず出血がひどいから、止血しないと」

 ビニール袋から取り出したおしぼりで脇腹の傷口を押さえ、僕達は圧迫止血を試みる。しかしアルコールを摂取したせいで血行が良くなっているためか、傷の深さのわりには血はなかなか止まらず、白いおしぼりが赤く染まるばかりだった。

「柴くん、ゴメン。あたしがチーズを切ってくれなんて言ったせいで、こんな事になっちゃって。あたしが、あたしがあんな事を言わなければ……」

 照喜名さんが懺悔と悔恨の言葉を漏らしながら、ぽろぽろと涙を零す。そんな彼女と虎鉄は手を握り合うが、痛みが激しいのかショック状態なのか、呼吸を荒げるばかりで彼の口から言葉は出て来ない。

「嫌だ、柴くんが死んじゃったりなんかしたら、嫌だよう……」

 照喜名さんは片手で傷口を押さえ、もう片方の手で虎鉄の手を握ったまま、泣き続ける。僕自身も焦っているためか、時間の流れがやけに遅いような気がしてならない。そしてどれ程の時間が経過したのかは分からないが、塚田さん達を呼びに行った中条が店に戻って来ると、厨房の中の僕達に向かって叫ぶ。

「吉島、照喜名、急いで柴を浅草寺病院まで運ぶぞ!」

「浅草寺病院? 結構遠いぞ?」

 僕は問い返した。

「ああ、浅草寺病院だ。何だかよく分からんが、塚田の奴がそうしろって!」

「分かった!」

 塚田さんの言う事なら、間違い無い筈だ。そう確信した僕は、厨房の床に倒れたままの虎鉄を見遣る。彼の息は荒く、血の気が失せた顔面は蒼白だった。

「虎鉄、立てるか?」

「な、なんとか……」

 意識が混濁気味の虎鉄に肩を貸して、僕と照喜名さんは彼を立たせる。そして半ば強引に厨房から連れ出すと、そのまま店の外へと足を向けた。店のホールを横切る途中でふと見ると、ベロベロに酔っ払っていた相田さんが、僕のサファリハットを被ってテーブルに突っ伏したまま完全に潰れて爆睡している。どうりでさっきから静かな訳だと、僕は呆れながら得心した。

「柴くん、しっかりして」

 こうして歩いている間にも脇腹の傷口からの出血は続き、照喜名さんも気が気ではない。

「椅子に座らせてから、椅子ごと運ぼう。中条、椅子を持って来てくれ」

 D's dinerの店外へと虎鉄を連れ出した僕の指示に従い、中条が椅子を一脚持って来て、虎鉄の背後に置いた。そして虎鉄を座らせると、その椅子を僕と中条が左右から挟み込んで持ち上げ、そのまま椅子ごと虎鉄を運ぶ。背後からは少し遅れて涙眼の照喜名さんが追従し、テーブルに突っ伏したまま爆睡している相田さんは、可哀想だが店の中に置いて来た。女の子を一人残して行く事に気後れするが、後で事情を説明すれば、きっと彼女も分かってくれるだろう。


   ●


 浅草寺の境内を横目に深夜の浅草の街を縦断し、やがて僕達は椅子に座った虎鉄を抱えたまま、浅草寺病院へと辿り着いた。病院の正面出入り口はゾンビが徘徊する言問い通りと接しているので、そちらではなく西側の小さな出入り口から病院の敷地内へと進入する。そして正面玄関を越えて病院の建屋内に足を踏み入れれば、そこには先回りした西鳥羽さんが立っていた。

「こっちです! 急いで!」

 そう言った西鳥羽さんの指差す方向へと、虎鉄を運びながら僕達は病院の廊下を走る。そして診察室の一つに案内されて入室すると、そこには車椅子に乗った塚田さんが待機していた。全身を手術衣で包み、医療用のゴム手袋をはめた塚田さんが。

「虎鉄くんを、そこのベッドに寝かせて。消毒してあるから、大丈夫」

 塚田さんの指示に従い、僕達は虎鉄を椅子から立たせると、肩と腰を支えながら診察室に据え付けられたベッドに寝かせた。そして塚田さんは彼のシャツを捲り上げて脱がし、脇腹の傷を確認する。

「とりあえず、まずは消毒ね」

 そう言うと、塚田さんはベッド脇のワゴンの上に用意されていたガラス瓶を手に取り、その中の赤茶色の液体に脱脂綿を浸した。そして脱脂綿に吸わせたその液体を、虎鉄の脇腹の傷口とその周辺に塗りたくる。あの液体はどうやら、ヨード系の消毒薬らしい。

「止血はしなくても、もう出血は止まりつつあるみたいだから、後で錠剤の止血剤を飲めば大丈夫でしょう。それよりも問題は、内蔵が傷付いていないかね」

 塚田さんはペンライトを手に取り、虎鉄に忠告する。

「虎鉄くん。残念だけれど、麻酔まではしてあげられないから。だからこれから傷口を広げるので少し痛いと思うけれど、我慢して」

 その言葉に、顔面蒼白の虎鉄は眼を瞑って歯を食いしばり、覚悟を決めた。それを確認した塚田さんは、虎鉄の脇腹の傷口に指を突っ込んでから、その傷口を思い切り押し広げる。

「いっ!」

 虎鉄が苦悶の声を上げたが、塚田さんは意に介さない。そして口に咥えたペンライトで照らしながら、彼女は傷口から突っ込んだ指でもって、虎鉄の腹腔内を捏ねくり回す。遠巻きに一部始終を見守る僕の眼にも、傷口から覗く内臓が垣間見えた。血が苦手なのか、さすがに西鳥羽さんは眼を背けているが、同じ女の子でも照喜名さんは虎鉄から眼を離さない。

 そうこうしている内に、やがて内臓の具合を一通り確認し終えたらしい塚田さんは、傷口から指を抜いて安堵の溜息を漏らした。

「どうやら、内臓は無傷みたい。これなら傷口を縫合するだけで、二次感染も無く完治するでしょう」

 その言葉に、周囲を取り巻く僕達もまた、安堵の溜息を漏らす。そして塚田さんは医療用の針と糸を取り出すと、ピンセットで摘んだそれらを使って、虎鉄の脇腹の傷口を縫合し始めた。あまり慣れてはいないためか少し縫い目が不揃いだが、それでもパックリと口を開けていた傷口が、次第に縫い合わされて行く。

「これで良し」

 縫合を終え、最後にもう一度消毒薬を塗った傷口に保護用のガーゼを貼った塚田さんは、額の汗を拭いながらそう言った。どうやらこれで、施術は完了したらしい。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 虎鉄の礼に対して、塚田さんが返礼を返した。

「それじゃあ中条くんはストレッチャーを持って来て、虎鉄くんを入院患者用の病室まで運んであげて。西鳥羽さんは、中条くんの案内をお願い。虎鉄くんには後で止血剤と一緒に鎮痛剤と抗生物質も処方するから、酔いが醒めたら必ず飲むように。それと中条くんと慧くんと照喜名さんは、後でホテルのあたしの部屋まで来てください。今夜一体何があったのか、詳しく聞かせてもらいます」

 手術衣を脱ぎながら、指示を下した塚田さん。彼女に出頭を命じられた僕達三人はすべからく項垂れ、その顔色は暗い。そして中条はストレッチャーを探しに診察室から退出し、照喜名さんは虎鉄の傍らに寄り添う。

「塚田さん、随分と早い対応だったね。こうなる事を、予期してたの?」

「人が生活している以上は、怪我や病気は付き物だもの。いつかこう言う事態に陥る事くらいは予想して、準備しておかなくちゃ。とは言ってもあたしに出来る事は、西鳥羽さんと虎鉄くんに手伝ってもらって、あたし達でも使えそうな薬や医療器具を事前に用意しておく事くらいかしら。後は本やネットから、出来る限りの知識を仕入れておく事くらいかしらね。まあ今回は軽傷だったからまだ良かったけれど、実際問題として、盲腸の手術くらいはあたし達だけでも出来るようにならないと」

 そう言った塚田さんの眼は使命感に燃え、見果てぬ未来に向けられていた。そしてこの人は生まれながらにして生粋のリーダーなのだなと、僕は得心する。

 浅草寺病院の外に出てみれば、月明かりがこの世の全てを青白く照らして止まない。


   ●


「なるほど、事情は分かりました」

 深い溜息を漏らしながらそう言うと、塚田さんは僕達をジッと見据えた。僕達とは彼女の前に立つ、僕と中条と照喜名さんの三人の事である。塚田さんの命令に従い、僕達三人はホテルの彼女の部屋に出頭し、たった今しがた全ての事情と経緯を説明し終えたところだ。さすがに小学生ではないので正座はさせられていないが、教師から怒られる出来の悪い生徒の様な心持ちの僕達はばつが悪く、面映い。

「自分達だけで隠れて酒盛りをしていた上に、それで酔っ払って怪我人まで出すなんて……情け無い」

 そう言って頭を抱える塚田さんは、僕達の所業に相当呆れ返っているようだ。そしてそんな彼女に呆れ返られている僕達三人は総じて項垂れ、あのいつも笑顔の照喜名さんですらも、しゅんとした表情で意気消沈している。

「勿論あたしも、酒を飲むなとは言いません。こんな極限状態に置かれたあたし達が、今更既存の法律を遵守する事に、それ程の意味は無いと考えています。しかしだからと言って、いやむしろだからこそ、以前の平時以上に安全には気を配ってしかるべきでしょう? それを酔っ払って満足に歩く事も出来ない人間に包丁を持たせるなんて言うのは、言語道断です。未だ今回は切り傷だけで済んだからいいものの、もしも厨房で転んで熱湯や煮え滾った油を被ったりでもしていたら、命に関わるところだったんですよ? あなた達には、充分に反省してもらいます」

「……はい、すいません」

「……すまん」

「……ごめんなさい」

 僕達三人は項垂れながら、反省の弁を述べた。そんな僕達を見て、塚田さんは再び小さな溜息を漏らす。

「とにかく今夜はもう遅いから、三人とも自分の部屋に戻って、早く寝てください。あたしももうこれ以上、今回の件であなた達を責める気はありません。同じ様な失敗を繰り返さなければ、それで充分です。こんな事で身内から怪我人を出すのは、これで最後にしましょう。いいですね?」

「……はい」

「それじゃあ、解散しましょうか。はい、解散」

 パンと一回手を叩きながらの、塚田さんの号令。それを合図に、僕達三人はぞろぞろと、塚田さんの個室を後にした。そしてホテルの廊下に出ると、緊張が解けたのか、三人揃って深い溜息を漏らす。

「……あたし、病院まで戻って、柴くんの様子を見て来る」

 照喜名さんがそう言って、虎鉄が入院している浅草寺病院の方角を指差した。

「そうだね。虎鉄も一人では心細いだろうし、今夜は一緒に居てやってくれよ」

「うん、そうする」

 同意した僕にそう返事を返した照喜名さんは、未だ少し表情を曇らせてはいるが、それでも精一杯の笑顔を浮かべながら階下へと姿を消した。そして背後に眼を向ければ、中条が廊下の壁にもたれながら、沈痛な面持ちで歯噛みしている。

「畜生……」

 そう呟いた次の瞬間、彼は自分の頬を、自分の拳でもって力一杯殴り付けた。結構な音量でゴキンと言う衝撃音が廊下に響き渡り、殴られた中条の頬が赤く腫れる。ビアホールでは得意気になっていた自分が、いざ非常事態になった途端にリーダーシップも発揮出来ずにうろたえるばかりだった事が、相当にショックだったのだろう。しかもその非常事態を治めてみせたのが、彼が眼の敵にしている塚田さんだったのだ。中条が打ちひしがれるのも、無理は無い。

「大丈夫か、中条?」

「ああ、心配無い。……吉島、ちょっと付き合え」

「どこに?」

「いいから、俺と一緒に来い」

 強引に僕を誘った中条は、ホテルのエレベーターの上昇ボタンを押した。今現在僕達が居る三階よりも上の階は使われていない筈だが、一体彼はどこに行く気なのだろうかと、僕は訝しむ。

「乗れ」

 そう命令した中条に従って、到着したエレベーターに僕は乗り込んだ。そして連れて行かれたのは、ホテルの最上階である十一階。その十一階の廊下に出た中条は、僕を従えたまま更に階段を上り、屋上へと出るための扉の前に辿り着く。

「屋上か。鍵は持っているのか?」

「大丈夫だ。以前ここに来た時に、鍵は開けておいてある」

 僕の問いにそう答えた中条はノブを回し、扉を開けて屋上へと足を踏み出した。彼に続いて僕も屋上に出ると、月明かりに照らされた熱帯夜の外気にその身を晒す。

「それで、今度はこの屋上で何をするんだ? タバコでも吸うのか?」

「タバコは嫌いだ。臭いし不味いし、服がヤニで汚れる。ヤンキーだからって、全員が全員、タバコを吸う訳じゃねーよ」

 そう言って皮肉を躱してみせた中条に、少し意地の悪い事を言ってしまったなと僕は反省した。だが幸いにも彼は、僕の意地悪をさほど気にしてはいないらしい。

「なっさけねえよなあ、俺」

 エアコンの室外機や各種の配管が縦横無尽に並ぶ屋上を歩きながら、腹の底から絞り出すような声で、中条は言った。そのまま彼は屋上の縁の手摺にもたれかかると、誰に言うでもなく、虚空に向かって語り出す。

「俺はな、こんな為りをしているが、本物のヤンキーじゃない。中学までは虐められっ子で、高校進学と同時に転校したのをいい事に高校デビューした、要するにヤンキーもどきだ。ほら、このサングラスだって、伊達じゃなくって度が入っているからな。中学までは柴と同じ、教室の隅っこで目立たず本ばっかり読んでいる眼鏡くんだったのさ」

 サングラスを外してそう言った中条は、天を仰いだ。

「それが生まれ付き体格が良くって強面だったのを利用して、転校早々やけになって教室で暴れたら、クラス中の人間が俺を畏れるようになっちまってな。で、それを利用して必死にヤンキーを演じていたら、いつの間にか自他共に認めるヤンキーが出来上がっちまったって訳だ」

 少しの間を置いてから、中条は続ける。

「だけど結局、俺の本性は、いつまで経っても虐められっ子の眼鏡くんのままだったんだな。いざと言う時にはまるで役に立たない意気地無しだって事を、今夜の一件で再確認させられたよ。車椅子が無いと自力で歩く事も出来ないひ弱な女の塚田の方が、俺なんかよりも、よっぽどしっかりしてるじゃねーか。あの女、やっぱり只者じゃねーよな。ぶっつけ本番で、人間の腹ん中に指を突っ込めるか、普通?」

 そう言い終えた中条は、寂しそうに笑った。それは多分、自虐と自戒の笑みだったのだと思う。

「それじゃあ、俺はそろそろ、自分の部屋に戻らせてもらうよ。愚痴を聞いてくれてサンキュな、吉島」

「どういたしまして。それと、そろそろ僕の事は下の名前で、慧って呼んでくれよ」

「分かった。俺の事も、篤志って呼んでくれ」

「了解、篤志」

「おうよ、慧」

 その言葉を最後に、篤志は屋上から階下へと姿を消した。僕は暫くその場に残って、東の空が次第に白み行くのを観察しながら、そう言えばこの緊急事態にも岡島くんは遂に姿を現さなかったななどと思いを巡らせる。

「あ」

 そして僕は、D's dinerのテーブル席に泥酔した相田さんを置き去りにしたままである事を、ようやく思い出した。これから急いで店まで赴き、彼女と共に、彼女が僕から奪い取ったサファリハットを回収しなければならない。

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