第三幕


 第三幕



「よし、それじゃあ行くか。吉島、案内してくれ」

「ああ、まずはこっちだ。今日はとりあえず道案内をするから、街並みを覚えてもらうために、皆でゆっくりと歩いて回ろう」

 出発を促す中条に、僕は順路を指し示しながら言った。ここは、リッチモンドホテル浅草の正面玄関の前。今日は、中条達三人がこの浅草の街にやって来た翌日。時刻は、午前九時を少し回った頃。これから僕と相田さんの二人で午前のパトロールを行なうのだが、新しく仲間に加わった三人にもこれからはパトロールを手伝ってもらう予定なので、その順路を覚えてもらうために同行を要請した。そのため僕の隣には相田さんと中条、今日もニコニコと微笑んでいる照喜名さん、それに陰鬱な表情でブツブツと愚痴を漏らす岡島くんが並んでいる。

「いいな、浅草は。靖国神社の周辺とは違って、食い物屋がいっぱいだ」

 そう言って街を歩く中条は、昨日は久し振りのベッドで半日以上もぐっすりと寝たようなので、すこぶる元気な様子だ。そして彼はミニバンの中から拝借したバールを護身用と言う名目で持ち歩き、今もブンブンと振り回している。

「そこの国際通りからゾンビが出没し始めるから、パトロールの時は一本手前の、この通りを利用してくれ」

 浅草ROXとROX3Gに挟まれた通りを歩きながら、僕は順路を説明した。中条と照喜名さんの二人は物珍しげに周囲の店を観察しながら、僕の説明に聞き入っている。しかし岡島くんだけは終始俯いたままで、僕の声が彼の耳に届いているのかも定かではない。

「あ、マックだ! あたし、マックのハンバーガー食べたい!」

 順路が寿司屋通りの手前に差し掛かった辺りで、照喜名さんがそう言ってマクドナルドの店舗を指差しながら、僕の腕を抱き寄せた。彼女にとっては特に意味の無い知人とのスキンシップのつもりなのかもしれないが、薄手のTシャツ越しに照喜名さんの豊満な胸の感触と体温が伝わって来て、僕は少し赤面する。

「あ、ああ。材料は全部冷凍保存されている筈だから、虎鉄に頼めば、ハンバーガーでもナゲットでも作ってもらえるよ」

「ホント? じゃあさじゃあさ、今度皆で集まって、マックのハンバーガーでパーティーやろうよ!」

 屈託の無い笑顔で、嬉しそうにそう言う照喜名さん。彼女は尚も僕の腕を抱いたまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜びを表現する。

「痛っ!」

 すると不意に僕の脇腹に痛みが走って、僕は苦悶の声を上げた。見ると隣に立っていた相田さんが不機嫌そうな顔で唇を尖らせながら、僕の脇腹を結構な力でもって小突いている。

「え? 相田さん、何?」

「……なんでもない」

 そう言って、相田さんはぷいと顔を背けた。僕は訳が分からずに、狼狽する他無い。すると僕の腕を未だに抱いたままの照喜名さんが、意地悪そうな、また同時に悪戯っぽい顔でほくそ笑みながら、相田さんに向かって言う。

「へえ、キミ、そうなんだ?」

 その言葉と同時に、照喜名さんは更に強く僕の腕を抱いて、身体を密着させた。するとこれまた更に強い力でもって、相田さんが僕の脇腹を小突く。いや、小突くと言うよりも、もはや殴打していると言った方が正しい。

「痛い、痛いって! 何? 何なの?」

 タイプのまるで違う女二人に挟まれて、僕は苦痛を訴えながら狼狽するばかりだ。

「おーい、そこ。三人でじゃれ合ってないで、次の道順を教えてくれ」

「あ、ああ、分かった」

 先行していた中条に呼ばれた僕は、照喜名さんと相田さんを振り切って、彼の元へと向かう。後方では僕に逃げられた女二人が、睨み合いながらいがみ合っているようだ。いや、相田さんが一方的に照喜名さんを敵視しているだけで、照喜名さんの方に敵意は無いようにも見受けられる。

「次はこの路地を左に曲がって、雷門の方へと向かうんだ」

 とにかく今は、道案内を続ける他に、僕に出来る事は無い。そして僕の隣にはバールを持った中条が並び、すぐ後ろには不機嫌な相田さんと楽しそうな照喜名さん、更に少し遅れて俯いてばかりの岡島くんが続いて、僕達五人は歩き続ける。

「これが、有名な浅草の雷門か。想像していたよりも、随分と小さいな」

 やがて路地を抜けて辿り着いた雷門を見た中条が、率直な感想を漏らした。

「そうね。首里城の守礼門よりも、ちょっと大きいくらいかな?」

 照喜名さんも沖縄出身らしい感想を漏らすが、浅草生まれの僕にとっての雷門は常にこの大きさなので、彼らがどのくらいの大きさの門を想像していたのかは分からない。

「お、なんだ、日本刀が有るじゃねーか。これ、ゾンビに対する護身用に、何本か拝借していこーぜ」

 雷門から続く仲見世通りをぶらぶらしていた中条が、一件の土産物屋のショーケースを指差しながら、嬉々として提案した。しかし僕は、彼の提案に水を差す。

「残念だけれど、ここで売っているそれは全部、亜鉛合金製の模造刀だよ。本物の日本刀じゃない。殴ればそれなりに痛いけれど、切れはしないね」

「なんだ、偽物か。ちぇっ」

 残念そうに、中条は舌打ちした。彼の指差していたショーケースには何十本もの日本刀が並べられているが、その全てが模造刀だ。本気で護身用の刃物が欲しいなら、すぐ隣の路地に店を構える和包丁の専門店に行った方が良い。

「それじゃあここらで一回、試してみたい事があったんだ」

 そう言った中条は、手にしたバールをブンブンと振り回しながら雷門に近付く。雷門よりも向こうの雷門通りにはゾンビが溢れているので、あまり近付き過ぎるのは危険だ。

「おい、危ないぞ」

「いいんだよ。……ほらよっと!」

 彼の身を案ずる僕にそう言うと、中条は何を思ったのか、雷門の向こう側へと出て行ってしまった。そして呻き声を上げながら徘徊するゾンビの一体の襟首をバールの先端で引っ掛けると、そのままそのゾンビを力任せに引き寄せ、雷門のこちら側へと引き摺り込む。彼の動きは素早く、他のゾンビ達に気取られる前に一連の動作を終え、安全圏である雷門の内側へと退避していた。果たして中条が何をしたいのか理解出来ず、僕も含めた他の四人は驚きを隠せない。

「馬鹿、何やってんだ! 危ないぞ、下がれ!」

「いいから見てな!」

 忠告する僕を無視した中条は、手にしたバールを全力でもって振り抜き、その先端を雷門のこちら側へと引き摺り寄せたゾンビの脳天に叩き込んだ。グシャリと言う嫌な音と共にバールの激突した頭蓋骨が砕け、血飛沫が飛び散り、衝撃でもって首の骨が折れたらしいゾンビの頭部がおかしな方向に捻じ曲がる。そして真っ赤な鮮血と灰色の脳漿を零れ落としながら、その場にドサリとゾンビは崩れ落ちた。

「おえっ」

 眼前で繰り広げられた凄惨な光景に僕はわざとらしくえずいてみせ、照喜名さんと相田さんは目を逸らすが、中条はそんな僕達には構わずに倒れたゾンビを観察している。すると頭部に穴を穿たれて脳髄が零れ出ているそのゾンビは絶命する事無く、横たわった状態から立ち上がろうともがくが、折れた首がおかしな方向を向いているためか上手く立ち上がれない。そして呻き声を上げながら地面をのた打ち回るその姿は、まるで壊れたゼンマイ仕掛けの玩具の様で、見ていて虫唾が走る。

「見てみろ、俺の予想通りだ。やっぱりこいつら、頭を砕かれても首が折れても死にゃしねえ。本当にホラー映画に出て来るゾンビか、それ以上に厄介な相手だな」

 そう言って中条は、のた打ち回っているゾンビを蹴り飛ばした。どうやら彼は自説を照明するために、このゾンビを殺してみたらしい。いや、完全には死ななかったのだから、正確には未遂に終わったと言うべきなのだろうか。

「おろろろろろろろ」

「うわっ! 汚えっ!」

 背後に立っていた岡島くんが予告も無しに突然嘔吐したので、僕は思わず声を上げながら飛び退った。幸いにも吐瀉物は避けられたが、岡島くんは泣きながら嘔吐し続け、僕達は彼から距離を取る。勿論至近距離で人間の脳天が砕かれる瞬間を見せられたのだから、嘔吐するのも無理は無いのかもしれない。しかし無駄にでかい図体をしていながら照喜名さんや相田さんと言った女の子よりもデリケートなのかと思うと、このデブの女々しさに僕は呆れる。

「おいおいおい、汚えなあ、まったく。こんな道のド真ん中でゲロ吐いてんじゃねーぞ、このデブが」

 ゾンビが死なない事の実地検証を終えた中条が、嘔吐する岡島くんを口汚く罵った。そして彼は僕の方に向き直ると、道案内の再開を要請する。

「吉島、それじゃあそろそろ、次のパトロールの道順を教えてくれ」

「あ、ああ。次は向こうの、隅田川沿いを北上するんだ」

 そう言った僕が他の面子を先導するように歩き始めると、中条がすぐ後に続き、更にその後ろに照喜名さんと相田さんが続いた。そしてようやく胃の内容物を全て吐瀉し終えたらしい岡島くんが、先行する僕達に置いて行かれまいと駆け寄って来る。

 雷門の前では、中条によって頭を砕かれたゾンビがのた打ち回り続けていた。


   ●


「おいデブ! いいかげんに出て来い!」

 中条が怒鳴りながら客室のドアを激しく叩くが、室内からの返事は無く、まるで埒が明かない。

 今日は、中条達三人が合流してから四日目の午後。ここは僕達が拠点にしているリッチモンドホテル浅草の、二階の廊下。この階の客室は男性陣の個室として使われており、その内の一室のドアの前に、僕達は集合していた。いや、集合しているのは僕と中条と相田さん、それに西鳥羽さんと照喜名さんの五人だけなので、正確には僕達八人全員が集合している訳ではない。塚田さんと虎鉄の二人は昼食を食べ終えた後に連れ立ってどこかに行ってしまったし、最後の一人である岡島くんは、中条がさっきから叩き続けているドアの内側に居る。

 そう、全ての問題は、岡島くんの行動と処遇なのだ。

「ねえ、一体何があったの?」

 他の四人よりも少し遅れてこの場にやって来た照喜名さんが、耳打ちするように僕に小声で尋ねた。

「岡島くんが午後のパトロールの時間になっても姿を現さないから様子を見に来たら、部屋に閉じ篭ったまま出て来なくなったんだ。昨日の午前のシフトも「お腹が痛い」とか言ってサボったし、それで中条と相田さんがキレて、何とかして彼を外に連れ出そうとしているんだよ」

「なるほど」

 僕の返答に照喜名さんは頷き、得心する。そしてその間も岡島くんの部屋のドアは内側から鍵が掛けられた状態で他者の侵入を拒絶し、相田さんは無言でそのドアを叩き、中条は怒鳴り続ける。

「おいデブ! ガキみたいな我侭言ってないで、早く出て来い!」

 しかし残念ながら、いくら怒鳴られても、岡島くんがドアを開ける気配は無い。想像するにきっと彼は、薄暗い客室のベッドの中央で大きな身体を丸めて布団に包まったまま、ブツブツと小声で愚痴を零し続けているのだろう。

「こうなったら、ドアを抉じ開けるか? この程度のドアだったら、俺の部屋に有るバールを使えば簡単に開けられるぞ?」

「いや、さすがにそれは大袈裟だ。少し落ち着こう」

 興奮する中条に、僕は自制を促した。しかし彼は怒りが収まらないらしく、顔を紅潮させて鼻息が荒い。すると背後から、不意に声を掛けられる。

「あの……ちょっとよろしいですか?」

 その声に振り返れば、清楚なワンピースに身を包んだ西鳥羽さんが立っていた。そして普段は大人しくて口数の少ない彼女にしては珍しく、僕達に意見する。

「私、思うんですけれど、嫌がっている人を無理矢理部屋から連れ出すような事はするべきではないのではないでしょうか。きっと岡島くんも、人知れず苦しんでいると思うんです。彼だって本当は部屋から出たいのに、どうしてもそれが出来なくて、自分の殻に閉じ篭っているんだと思います。人にはそれぞれ得手不得手があるのだから、私達には平気な事でも、岡島くんにとっては耐え難い苦痛なのではないでしょうか。そんな人に無理を強いる事が、本当に正しい事なんですか? 最善の手段なんですか? だから今は岡島くんが自分から部屋の外に出て来られるようになるまで、そっと優しく見守っていてあげるべきだと思うんです」

 そう意見し終えた西鳥羽さんは、岡島くんに対して一番攻撃的な中条の眼を、キッと見据えた。その一点の曇りも無い純粋な慈愛に満ちた視線に、居丈高だった中条も思わずたじろぐ。

「そうは言うけどよ……。あのデブだけサボらせたら、不公平じゃねえか」

「だから、岡島くんだって好きで休んでいる訳じゃなくて、やりたくても出来ないんだって言ってるじゃないですか! どうして苦しんでいる彼の気持ちを、あなたは理解してあげようとしないんですか!」

「どうしてって……」

 いつに無く声を荒げる西鳥羽さんに気圧されて、中条は二の句が継げない。僕と照喜名さんと相田さんの三人もまた、言葉を失う。華奢な西鳥羽さんが長身で筋肉質な中条に詰め寄っている様は、ある種異様な光景だった。そして暫し、ホテルの廊下に重苦しい沈黙の時間が流れる。

「皆、どうしたの?」

 その時、エレベーターの方角から塚田さんと虎鉄が姿を現した、彼女が乗った車椅子を虎鉄が押して、こちらへと近付いて来る。

「あ、塚田さん。今まで、どこに行ってたの?」

「ちょっと、野暮用で浅草寺病院の方まで。そんな事よりも、これは何があったんですか? 先ほど西鳥羽さんから掛かって来た電話で岡島くんが大変だと言われて、それで急いで駆けつけたんですが、具体的には何がどうなっているの?」

 僕の問いに答えた塚田さんが、その口で皆に尋ねた。

「それが、岡島のデブがパトロールのシフトをサボったまま、部屋に鍵掛けて引き篭もっちまってよ。だから俺達で、さっさと出て来るように説得していたところだ」

「これが説得ですか? ドアを叩いて罵倒するばかりで、優しい言葉の一つも掛けてあげてないじゃないですか! それに、サボっていると言う言い方はやめてあげてください! 何度も言いますが、岡島くんだって苦しんでいるんです!」

 状況を説明しようとする中条に、西鳥羽さんは食って掛かる。岡島くんが部屋から出て来ない件も埒が明かないが、中条と西鳥羽さんの価値観の相違もまた埒が明かない。

「なるほど、大体の事情は理解出来ました」

 察しの良い塚田さんはそう言うと、中条と西鳥羽さんの双方に自制を求めて、互いに落ち着くように手振りでもって促した。そして岡島くんの部屋のドアに車椅子で近付くと、まずはコンコンと二回ノックする。

「岡島くん? 塚田だけど」

 室内の岡島くんへと呼び掛けるが、応答は無い。しかし塚田さんは構わずに、呼び掛け続ける。

「岡島くん、あなた、パトロールの仕事が苦痛なのね? いえ、それ以前にきっと、部屋から出て来て他人と顔を合わせる事そのものが、今のあなたにとっては苦痛で仕方が無いのね? その気持ちは、あたしにも充分に理解出来ます。あたしだって落ち込んだ時や嫌な事があった時は、部屋に閉じ篭って、誰とも会いたくないって思うもの。だから今は、仕事を無理強いはしません。あなたの心が楽になるまで、そこでゆっくりと休んでいてください」

 塚田さんがそう言うと、中条が彼女に異を唱えるためか、口を開けた。しかし西鳥羽さんからキッと睨み付けられて、彼は慌てて口を噤む。どうやら西鳥羽さんの様な清楚で可愛らしい少女から敵愾心を剥き出しにされるのは、中条にとっても本意ではないらしい。

「ですが、岡島くん」

 その間も、塚田さんは呼び掛け続ける。

「いつまでも休んでいて良いと考えて、他人の好意に甘えるばかりでは駄目です。それではあなたが、際限無く堕落するだけです。いつかはちゃんと立ち直って、自分の意思で仕事を再開出来るようになる日を信じて、自分を律してください。自分に自信を持ってください。それを約束してくれるのなら、今はあたし達はあなたを信じて、何も言いません。ゆっくりと休んで、英気を養ってください。あたし達はいつまでも、仲間であるあなたの味方です」

 そう言い終えた塚田さんは、ドアに優しく、そっと触れた。しかしやはり、中からの応答は無い。そして塚田さんは中条と西鳥羽さんの方に向き直ると、問う。

「どうかしら中条くん、西鳥羽さん。今はこのまま岡島くんの様子を見守ると言う事で、二人とも納得してはもらえないかしら? 性急に解決策を見つけようとするのは、却って彼のためにならないと思うの。だから無理して連れ出そうともせず、過剰に擁護もせず、今は岡島くんをそっとしておいてあげましょう」

「……分かりました。塚田さんがそう言うのなら、私に異論はありません」

 西鳥羽さんは、塚田さんの提案に同意した。しかし中条は、納得が行かないらしい。

「本当にいいのか、そんなんで? このままあのデブを甘やかし続けたら、調子に乗って付け上がるだけだぞ? それだったらいっその事、無理矢理部屋から連れ出してパトロールをやらせて、ショック療法で治した方がいいんじゃねえのか?」

「中条くん、あたしは、あなたの意見には賛同出来ません。そんな事をすれば、最悪の場合、岡島くんの心が壊れてしまいます。人の心は、脆く儚いものです。これはリーダーとしてのあたしからの提言ですが、あなたはもう少し、他人の気持ちになって物事を考える習慣をつけた方が良いようですね。そうでないと、早晩ここでの共同生活にも軋轢が生じますよ」

 そう言って、塚田さんは中条を見据えた。彼女の視線は決して睨みつけるような攻撃的なものではなく、むしろその口元は笑みを漏らしていたが、強い意志が宿ったその眼差しに抗う術を中条は持たない。

「……ああ、分かったよ。岡島のデブは、このまま休ませて様子を見るんだな? それで構わねえよ、俺も他の奴らも、我らがリーダー様に従うよ」

 結局中条が折れ、両手を広げて降参のポーズでそう言った彼は、不服そうにわざと大きな足音を立てながら廊下を歩いて行ってしまった。

「皆も、それでいいかしら?」

 塚田さんがそう言いながら残された僕達の顔を見回したので、僕も照喜名さんも西鳥羽さんも虎鉄も、そして少し不服そうではあったが相田さんも頷く。

「それじゃあ、解散。皆、各自の仕事に戻りましょう」

 僕達は塚田さんの号令に従い、ぞろぞろと廊下を歩き始めた。

「痛っ!」

 不意に脇腹に痛みが走ったので眼を向ければ、隣を歩いていた相田さんが、いつぞやの様に僕の脇腹を小突いている。

「え? 相田さん、何?」

「……なんでもない」

 なんでもないと言いながらも相田さんは僕の脇腹を小突き続け、その度に僕は苦悶の声を上げた。どうやら彼女も中条と同じく塚田さんの提案には不満があるようで、そのストレスの捌け口として、僕に暴力を振るっているらしい。

「ちょっと、やめてよ相田さん」

「うるさい、黙れ」

 傍若無人な言葉と共に、僕を小突き続ける相田さん。彼女の拳から脇腹を守りながら、僕はホテルの廊下を歩き続ける。


   ●


「痛ててて……」

 痛む脇腹を押さえながら、僕は生海老の殻を剥いていた。隣では虎鉄が、僕が殻を剥いた生海老の背腸を、包丁と爪楊枝を器用に使って取り除いている。

「痛むの、脇腹?」

「うん。なんで相田さん、何かあるとすぐに僕の脇腹を殴るんだろう?」

「きっと、彼女なりの愛情表現なんだよ。犬がご主人様の手を、甘噛みするみたいなもんさ。慧に構ってほしいんだよ」

「愛情表現ねえ……。それにしちゃあ、結構リアルに痛いんだけど。それに殴られるのはいつも僕だけだし、とても好かれているとは思えないんだけどなあ」

 そんな雑談を交わしながら、僕達は黙々と生海老の殻を剥き、背腸を取り除き続ける事に余念が無い。

「……冷凍保存してある海老は、未だ残っているの?」

「未だ未だ、結構な量が残っているよ。今の消費のペースなら、数年は保つだろうね。さすがに冷凍じゃない生のまんまの海老は、もう無いけどさ」

「こんな生活、いつまで続くんだろうね?」

「さあ、いつまでだろうね。とりあえず今は焦ってもしょうがないから、この状況を楽しもうよ」

 僕の問いに、虎鉄が答えた。ちなみに僕達二人が生海老の下処理をしているここは、ホテルに併設されたレストランの厨房の一角。今日の夕飯の当番は僕なので、虎鉄と一緒に厨房に立ち、彼の調理の手伝いをしているのだ。

「さて、これで全部剥き終わったぞ」

「ありがとう。それじゃあ次は、向こうにレタスとブロッコリーが用意してあるから、それらを一口大に切っておいてよ」

「了解」

 僕は虎鉄の指示に従い、包丁を手にしてレタスとブロッコリーを切り始める。虎鉄自身は未だ海老の下処理の続きがあるらしく、背腸を取り除き終わった生海老をボウルに放り込み、塩と片栗粉を振ってから揉み洗いしていた。するとそこに、やや大柄な人影が姿を現す。

「やっほー。何か、手伝う事ある?」

 そう言いながら厨房に入って来たのは、長身で豊満な沖縄出身の少女、照喜名さんだった。今日の彼女はパトロールのシフトも入っていないし炊事当番でもないので、暇を持て余しているのだろう。それにしても何かを手伝おうと率先して行動するとは、殊勝な事だ。

「いや、大丈夫だよ。僕達二人だけで、充分に手は足りているからね」

 虎鉄はそう言うが、手持ち無沙汰らしい照喜名さんは生海老の下処理をする彼に近付き、その手元をジッと見つめる。

「これは、何をしているの?」

「海老の下拵えをしているんだ。殻を剥いて背腸を取った海老を、こうして塩と片栗粉で揉んで汚れを取るんだよ」

「へえ、なるほどなるほど」

 照喜名さんは虎鉄の説明に聞き入りながら、その手際の良さに感嘆の声を漏らした。そして生海老から出た汚れを塩と片栗粉と一緒に水で洗い流した虎鉄は、今度は料理酒でそれらを揉み始める。

「今度は、何をしているの?」

「お酒で揉んで、海老の臭みを取るんだよ。こうすると火を通した時に、香りが良くなるからね」

 再び、照喜名さんの疑問に虎鉄が答えた。そして彼女は虎鉄の背後に回ると、彼の肩に手を置いてから、耳元で囁きかけるようにしてその技量を賞賛する。

「凄いね、キミ。あたし不器用で、料理とか全然出来ないからさ。手先が器用な男の子とか仕事が丁寧な男の子とか、憧れちゃうな。キミはこんな料理の仕方とか、どこで覚えたの?」

 そう言いながら、益々をもって虎鉄に密着する照喜名さん。彼女はよく見れば、薄手のキャミソールとデニムのホットパンツだけと言う、露出度の面ではなかなかに刺激的な出で立ちをしている。特にキャミソールは背面が大きく開いていて、そこからネモムンプス・チルドレンの証でもある背中に生えた小さな翼が露になっているのが、僕の立っている位置からでもはっきりと確認出来た。そしてこれは予断だが、多分照喜名さんは、ノーブラだ。

「ぼ、僕の家って、函館で小さな居酒屋を経営してるんだ。それで両親が共働きだから、自分と二人の妹の分のご飯を、いつも僕がお店で余った材料で作ってたんだよね。だから、自然と料理の仕方を覚えちゃったんだ。お店で働いている人達も、色んな料理の作り方を教えてくれたからさ」

 頬を赤らめながら、少し噛み気味の早口でもって、自分の身の上を説明する虎鉄。想像するに、今の彼の背中には、照喜名さんの豊満で柔らかな双丘が押し当てられているのだろう。また同時に彼女の体温と汗の匂いに魅了されて、ともすれば勃起しそうになっている事も、容易に想像出来た。僕はブロッコリーを一口大に切り分けながら、一人の思春期の青少年として、今の虎鉄が羨ましくて仕方が無い。

「そっか。柴くん、妹さんが居るんだ」

「うん。今はどこでどうしているのか、全然分からないけどね」

「あたしもお兄ちゃんが居るんだけれど、どうなっちゃったのかな」

 安否不明の各々の家族を思い出して、僕達は少しだけしんみりとする。僕の両親も、今はどこでどうしているのだろうか。

「次は? これは何をしているの?」

「卵を、黄身と白身に分けているんだ。白身は海老を炒める時の衣にして、黄身はわかめと一緒にスープの具にするからね」

 照喜名さんにそう言った虎鉄は、その説明通り、次々と割った卵を手際良く黄身と白身に分ける。海老と一緒に炒める葱は、既に切り終えていた。そして全ての下拵えを終えた虎鉄は、薄着の照喜名さんに要望する。

「えっと、その、出来ればちょっと離れててもらえるかな?」

「あ、ごめん。身体を触られるの、嫌だった?」

「いや、ううん。そんな、別に照喜名さんに触られるのが嫌って訳じゃないよ。どちらかと言うと、その、嬉しかったし。ただ今から火と油を使うから手元が狂うと危ないし、そんな薄着だと跳ねた油で火傷しちゃうから、ちょっと離れていてほしいんだ」

 そう説明した虎鉄は中華鍋をコンロにかけ、油を引いた。すると照喜名さんは少し距離を取って微笑みながら、嬉しそうに言う。

「ふうん、柴くん、火傷の心配をしてくれるなんて優しいんだ。あたし、優しい男の子って好きだな」

 その言葉に、熱された鍋を手にした虎鉄は益々頬を赤らめて落ち着きが無くなり、少しだけ危なっかしい。そして生海老の入ったボウルを手に取ると、彼は照喜名さんに新たな要望を告げる。

「えっと、照喜名さん。ここの手伝いはいいから、皆を呼んで来てもらえるかな? そろそろ晩御飯が出来上がるから、レストランに集合してくれって」

「うん、分かった。今日の晩御飯はその海老で、何を作るの?」

「海老のチリソース炒めだよ。それに卵とわかめのスープと、レタスとブロッコリーのニンニク炒め」

 虎鉄から晩飯のメニューを聞き出した照喜名さんは、ニコニコと微笑んで手を振りながら、厨房を後にした。そんな彼女の後姿を眼で追う虎鉄は心ここにあらずと言った按配で、頬を赤らめたまま、熱に浮かされたようにポーッとしている。

「虎鉄。……虎鉄!」

「え? あ、えっと、何? どうしたの、慧?」

「鍋。鍋が煙を噴いてるよ」

「うわっ!」

 僕に注意されて我に返った虎鉄は、熱し過ぎて中華鍋に引いた油から煙が立ち上っている事にようやく気付くと、コンロの火を急いで弱めた。そして気を取り直して、海老のチリソース炒めの調理を再開する。きっと彼は今夜、照喜名さんの豊満な肉体の柔らかさと温かさを思い出しながら、ベッドの中でオナニーに耽る事だろう。

 それにしても、新たに僕達の仲間に加わった三人は、どいつもこいつも三者三様に至極個性的だ。彼らがこれから先、何か大きな問題を起こさなければ良いのだがと思いながら、僕は下茹でされたブロッコリーをつまみ食いする。

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