第一幕


 第一幕



 これは僕の日記帳だ。いや、別に毎日の記録を正確に記すつもりは無いので、どちらかと言えば雑記帳と言った方が正しいのかもしれない。それに日々の出来事を淡々と綴るだけでは面白味が無いので、少しばかりの誇張や憶測を交えて、物語口調で書かせてもらう事にする。

 とにかく、時間だけは無尽蔵に有り余っているのだ。それにドン・キホーテと無印良品とダイソーから調達して来たノートとボールペンも、一生かかっても使い切れないほどの量が用意されている。だから読み切れないほどの量の文章をだらだらと書き連ねてしまったとしても、誰にも文句を言われる筋合いは無い。とにかく、この浅草で僕が体験した事を、可能な限り記録に残そうと思う。

 さて、まずは何から書き始めるべきだろうか。やはり今から一週間ほど以前の、事件が起こった七月のある日の出来事から記述する事にしよう。


   ●


 その日は平日だったが、学校が創立記念日で休校だった僕は、午前中から地元である浅草の街をぶらぶらと散策していた。

 浅草四丁目の自宅を出てから台東区と墨田区の区境である隅田川に向かい、そのまま川沿いの遊歩道を南下しながら初夏の木漏れ日を全身に浴びて、少しだけ汗をかく。そして吾妻橋の袂に程近いリンガーハット浅草駅前店に足を踏み入れると、昼食として、麺大盛りの長崎ちゃんぽんを注文した。今のところ、この時の会計が、僕が文明社会で経済活動を行なった最後の機会となっている。

 やがて長崎ちゃんぽんで腹が膨れた僕は店を後にすると、浅草の街の象徴とも言える雷門へと足を向けた。当然だが、雷門の周囲は今日もまた、世界各地からの観光客でごった返している。ヨーロッパ系の白人、アフリカ系の黒人、僕とさほど肌の色に違いは無いアジア人、そして修学旅行らしき制服姿の学生達。皆が皆思い思いに記念写真を撮り合い、僕はそれら観光客の間を縫って雷門を潜ると、仲見世通りを抜けて浅草寺の境内に辿り着いた。

「げぷ」

 本堂の階段に腰を下ろした僕は、背負っていたワンショルダーバッグから取り出したペットボトル入りのソーダを一口飲み下し、げっぷを漏らした。時刻は正午を過ぎており、サファリハットを被っていても、太陽から降り注ぐ陽射しが眼に痛い。そして浅草寺の境内もまた、雷門の周囲と同じく、世界各国からの観光客や修学旅行生で賑わっている。

 かつては日本最大の歓楽街だった浅草も、今ではすっかり落ち着いて、東京の下町の繁華街の一つに身を窶した。しかしそれはそれで、魅力的な街になったと僕は思う。新宿や渋谷の様ないかにも大都会と言った慌しさよりも、昭和の空気が未だに漂うこの街の風情の方が、僕は好きだ。

 そんな事を考えながらもう一口ソーダを飲み下したところで、不意に頭上の本堂の屋根に止まっていたカラスが一羽、ぎゃあぎゃあと鳴きながら飛び立った。するとそれを合図にした訳でもないのだろうが、今しがたまでがやがやと忙しない喧騒に包まれていた境内が突然静まり返り、僕は驚く。浅草寺の境内に足を運んでいた人々が、本当に突然、一言も発さずにその動きをピタリと止めたのだ。そして次の瞬間、それらの人々がバタバタと、糸の切れた操り人形の様に次々とその場に崩れ落ちた。

「え? え? 何?」

 ペットボトルを握り締めたままオロオロと狼狽する僕を尻目に、老若男女も観光客か地元民かも問わず、全ての人間が地面に倒れ伏して動かない。賽銭箱の前の階段に列を成していた参拝客達は将棋倒しになって階段を転げ落ち、石畳に打ち付けた頭から流血している人も見受けられる。五重塔の向こうの池の方角からは、誰かが橋から転げ落ちたのか、ドボンと大きな水音が聞こえて来た。そして再び、浅草寺の境内は静寂に包まれる。

「何……なの?」

 座っていた本堂の階段から腰を上げ、その場に立ち尽くしながら、僕は呟いた。眼前に広がるのは、僕以外の人間が全て地面に倒れ伏している、異様な光景。それはまるで、死屍累々の死体が転がる戦場において、僕一人だけが生き残ってしまったかのような光景にも見える。

「あ……う……」

 たっぷり五分ばかりも静寂が続いた後に、僕の耳に微かな呻き声が届き始めた。それと時を同じくして、倒れ伏していた人々がのろのろとした緩慢な動作でもって、地面から起き上がり始める。

「あの、大丈夫ですか?」

 僕は起き上がったばかりの手近な中年男性に近付き、声をかけた。するとこちらを振り向いた彼の眼はまるで焦点が合っておらず、だらしなく開いた口蓋の端からは涎が零れ落ち、生きている人間の様な覇気がまるで感じられない。そしてその中年男性も含めた境内を埋め尽くしていた人々は、まるで意味の無い呻き声を喉から漏らしながら、ぞろぞろと一斉に歩き始めた。浅草寺の本堂を中心として放射状に、文字通り蜘蛛の子を散らすようにして散開する。

「あの、ちょっと、どうしたんですか? 何があったんですか? 皆さん、どこに向かっているんですか?」

 のろのろと緩慢に、泥酔した酔っ払いの様に覚束無い足取りでもって浅草寺から遠ざかろうとする人波に向かって、僕は問いかけた。しかし当然ながら、群集から明確な返答は返って来ない。道行く人々は皆一様に、焦点の合わない濁った眼で虚空を見つめながら、浅草寺の境内から退避して行くだけだ。そして気付けば、本堂の階段の上で立ち尽くしている僕一人だけが、その場にポツンと取り残されていた。

「何だよこれ……」

 僕は自分を落ち着けるために、手にしたペットボトルの中のソーダをグビグビと飲み干してから、深呼吸を繰り返す。そして浅草寺から花やしきの方角へと、歩み去った人々を追って駆け出した。

「居ない! 居ない! ここも、ここにも誰も居ない!」

 花やしきに向かう道中の飲食店にも、日本最古の遊園地とされる花やしきの園内にも、更には普段から観光客や浮浪者まがいの酔っ払いで賑わっているJRAの場外馬券売り場の周囲とその沿道にも、人影は全く無い。ほんの十数分も前まではあれだけの人で賑わっていた浅草の街から、突如として人が消えてしまった。

「居た!」

 場外馬券売り場から更に西に駆けて、やがて国際通りに辿り着いた僕は、ようやく自分以外の人間を発見して安堵する。浅草寺の境内とその周辺の通りや商店に居た人々が、何故か集結して人垣を成し、意味の無い呻き声を漏らしながら国際通りをうろうろと徘徊していたのだ。その数、ざっと見たところ数千から数万人。それだけの数の人々が歩道だけでなく車道までをも埋め尽くし、僕の行く手を遮る。

「あの……」

 国際通りを埋め尽くす人垣の中の、出来るだけ無害そうな若い女性を選んで、僕は恐る恐る声をかけた。すると女性はゆらりと緩慢な動きでもってこちらを振り向くが、その眼はやはり焦点が合っておらず、口蓋もだらしなく開いたままで、まるで生気が感じられない。そしてその女性は濁った眼で僕を暫く見つめた後に、不意にその口を大きく開いて一際大きな呻き声を上げると、殺意に満ちた形相をその顔に浮かべながら僕に向かって襲い掛かって来た。

「ひいっ!」

 襲い掛かられた僕は悲鳴を漏らしながらとっさに背後に飛び退ると、体勢を崩して転倒し、尻餅をつく。そして尚も襲い掛かって来る女性の魔の手から逃れるように、アスファルトで舗装された道路上を這う這うの体で逃げ出した。しかし予想に反して、女性は僕を深追いしては来ない。国際通りからほんの数mばかりも浅草寺寄りに進入すると、ピタリと足を止め、再び緩慢な動きでもって元居た場所へと戻って行ってしまった。それはまるで、国際通りを境界として、僕の居る浅草寺側とその外側との間に見えない結界が張られているようにも見受けられる。

「どうしよう……」

 遅い掛かって来た女性から逃れた僕は、国際通りよりも五十mばかり手前のパチンコ屋の前で立ち尽くすと、軽いパニックに襲われた。下腹から股間にかけてが、ぎゅうと締め付けられるように痛くなる。

「とにかく、一旦家に帰らなくちゃ……」

 今にして思えば何の意味も無い事なのだが、その時の僕は、何故か一刻も早く自宅に帰らなければならないと言う義務感に囚われていた。そしてパチンコ屋の脇の路地を北上すると、自宅の在る浅草四丁目を目指して走り始める。

「ここも駄目か……」

 パチンコ屋から二百mばかりも北上した先の言問い通りもまた、国際通りと同じく、呻き声を上げながら徘徊する人々で埋め尽くされていた。そしてやはり見えない結界が張られているかの様に、それらの人々もまた、言問い通りから浅草寺側へと進入して来る様子は見受けられない。しかしここから僕の自宅に帰るには、徘徊する人々で埋め尽くされた眼前の言問い通りを通過した後に、更に国際通りを五百mばかりも北上しなければならなかった。果たしてそれだけの道程を、決して運動神経が良い訳ではないこの僕が、五体満足のまま駆け抜ける事が出来るのだろうか。先程僕に襲い掛かって来た若い女性の殺意に満ちた形相を思い出しながら自問自答するが、答は出ない。

「とにかく、ここを突破しない事には家に帰れないんだ……」

 僕はそう独り言ちると、ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込み、覚悟を決めた。そして言問い通りを埋め尽くす人垣を蹴散らしながら疾走する自分の姿を想像すると、助走のための距離を取る。後はただ、一目散に駆け抜けるだけだ。

「待ちなさい!」

 言問い通りを徘徊する人垣に向けて突進しようとした、まさにその刹那。一歩を踏み出したばかりの僕の耳に、背後から呼び止める声が届いた。その声に急停止した僕は、つんのめって転びそうになる。

「焦るのは分かりますが、今は落ち着きなさい!」

 再びそう言って僕に自制を促す声は、若い女性の声だった。そして転びそうになった僕が体勢を整えて背後を振り返ると、そこに居たのはやはり、若い女性。それも手動式の車椅子に乗った僕と同年代の少女だったので、少し驚く。

「あなたは今、そこのおかしくなった人達に向かって突っ込もうとしていましたね? 気持ちは理解出来ますが、そんな無謀な事は止めなさい。そんな事をしてもあなたの身が危険に晒されるだけで、何の解決にもなりません」

「……えっと、キミは?」

 僕を諭す車椅子の少女に、僕は問うた。

「あたしは、塚田と言います。原因も理由も分かりませんが、どうやらあなたもあたしと同じで、他の人達とは違っておかしくはなっていないみたいですね。だったら今は焦らずに、事態が沈静化するまでは冷静に行動しましょう。ね?」

 そう言いながら、手で車椅子のハンドリムを回してこちらに近付いて来る塚田と名乗った少女の姿に、僕は自分以外にもまともな人間が存在した事を知って安堵する。そして改めて言問い通りの方角を見遣り、彼女が居なければ今頃は通りを埋め尽くす人垣の中に突っ込んでいたのかと思うと、背筋にゾッと悪寒を走らせた。

「あなた、お名前は?」

「あ、えっと、吉島です」

「そう。では吉島くん、まずは落ち着いて、状況を整理しましょう。それと、あたし達以外にもおかしくなっていない人は居ないか、もう少しこの周囲を見て回りましょうか」

 塚田さんはそう言うと、車椅子をクルリと半回転させて、浅草の中心部の方角へと車輪を向ける。そして手でハンドリムを回して車椅子を走らせる彼女の後を、僕は追った。

「あ、塚田さん、僕が押すよ」

 僕は車椅子の手押しハンドルを掴むと、塚田さんを乗せた車椅子を押して歩き始める。

「ありがとう、吉島くん。それと気を遣わせちゃって、ごめんなさいね。やっぱりこう言う時、人の手を借りないと車椅子は不便で仕方が無いの。ほんと、やんなっちゃう」

 申し訳無さそうな声色で溜息混じりにそう言った塚田さんは、パリッと糊の利いたブラウスとロング丈のスカートに身を包んだ細身の少女で、うなじの長さで切り揃えられた黒髪と端正な横顔が知的な印象を与えた。そしてその落ち着いた物腰と口調から、僕とさほど歳は変わらない筈なのに、やけに大人びて見える。

「吉島くんは、この辺りに住んでいるの? それとも、観光?」

「あ、僕はすぐそこの浅草四丁目に住んでいて、今もそこに帰ろうとしていたところです。今日は学校が休みなんでこの辺りをぶらぶらしていたら、急にこんな事になっちゃって……」

「そう。あたしは伯母さんのお見舞いで浅草寺病院を訪れていたら、突然病院中の皆がおかしくなっちゃったの。勿論、病床の伯母さんもね。それであたし以外にも正気を保っている人は居ないか探していたら、ここの路地に入って行くあなたを見つけたって訳。それで吉島くん、あなたには他の人達がおかしくなったのと、あたし達だけがおかしくなっていない原因に心当たりはある?」

「いや、それが全然。見当もつきません」

 車椅子を押して無人の浅草の街を歩きながら、僕と塚田さんは互いの素性を確認し合うように言葉を交わした。彼女が大人びて見えるせいか、僕はついつい敬語口調になってしまう。

「あれは、交番かしら? ちょっと寄って行きましょう」

 言問い通りの方角から再びJRAの場外馬券売り場の在る通りに戻って来ると、塚田さんがドン・キホーテ浅草店の向かいに建つ交番を指差しながら言った。そこで僕は彼女に従い、車椅子を押して交番に向かう。

「誰か、中に居るみたい」

 そう言った塚田さんの言葉通り、交番の中にはこちらに背を向ける格好で、一人の少女が立っていた。後姿だけでも美人だと分かる、長身痩躯で均整の取れたプロポーションの、髪の長い少女。

「ちょっとそこのあなた、大丈夫?」

 塚田さんが声をかけると、交番の中の少女はビクッと肩を竦ませた。そして彼女は恐る恐るこちらを振り向くと、僕と塚田さんを交互に見遣り、ホッと安堵する。

「あの、あなた達は……?」

 後姿から想像した通り、それは綺麗な少女だった。ワンピース型の制服に身を包んだ、やはり僕と同年代の少女で、色白の肌と大きくつぶらな瞳が印象的に見える。そして彼女はオドオドと何かに怯えているような、またオロオロと狼狽しているような表情でもってキョロキョロと周囲を警戒し、落ち着きが無い。

「どうやらあなたも他の人達とは違って、正気を保っているみたいね」

 そう言いながら塚田さんが近付くと、髪の長い少女は捲くし立てるような早口でもって、自分の置かれた状況を説明する。

「あの、私、そこのお店で友達と一緒にお買い物をしていたんです。そうしたら突然回りの人達がバタバタと倒れて、一緒に居た友達も倒れて、それで起き上がったと思ったら今度は皆で街の外に出て行ってしまって……。近付いたら噛み付こうとして来るし……。それで私、どうしたらいいのか分からなくなって、とりあえずここの交番に来てお巡りさんに助けてもらおうと考えたんですけれど……」

「お巡りさんは、居なかったのね?」

 最後は消え入りそうな声で不安げに語る髪の長い少女の言葉を、塚田さんが補足した。

「はい……。えっと、それで、あなた達は?」

「あたしは、塚田。こっちは吉島くん。あなたと同じで、たまたま浅草に居たところを、この不思議な現象に巻き込まれたの。何故か他の人達とは違っておかしくならなかった者同士、協力し合いましょ? えっと、あなたのお名前は?」

「あ、私は西鳥羽と言います。それで、今この街で、一体何が起こっているんですか?」

 西鳥羽と名乗った長い髪の少女がうろたえながら問うが、問われた塚田さんは首を横に振る。

「残念だけれど、それはあたし達にも分からないの。でも大丈夫、安心して。皆で力を合わせて冷静に行動すれば、きっと何らかの解決策がある筈だから」

 そう言って西鳥羽さんを励ます塚田さんは、決して大柄な訳でも力強い訳でもない車椅子に乗った華奢な少女なのに、やけに頼もしく見えた。

「西鳥羽さん、あなたの他にも、この辺りに無事な人は居るのかしら?」

 今度は塚田さんの問いに、西鳥羽さんが答える。

「さあ……。一緒に買い物をしていた私の友達は皆変になってしまって、周囲に居た人達も、全員街から出て行ってしまいました。ここに来るまでは、私以外に無事な人は一人も見ていません」

「そう。それじゃあ西鳥羽さん、吉島くん、もう少しこの辺りを見て回りましょうか。悪いけど吉島くん、引き続き、車椅子を押してもらえる?」

「勿論」

 塚田さんの要請を快諾した僕が車椅子を押しながら歩き始めると、少し遅れて西鳥羽さんが後に続いた。

「僕は、吉島。よろしくね、西鳥羽さん」

 改めて自分の名を名乗りながら、僕は握手を求めて、西鳥羽さんに右手を差し出す。しかし彼女は差し出された僕の右手と握手をしたものかどうか躊躇した後に、結局ばつが悪そうな表情をうかべながら、手を引っ込めてしまった。

「あ、よろしくね、吉島くん」

 そう言って言葉だけの挨拶を終えた西鳥羽さんは、僕と少し距離を取って歩く。どうやら彼女は、あまり異性との接触に慣れていないらしい。

「あれは?」

 やがて浅草演芸ホールの前を通過し、浅草ROXとTSUTAYAに挟まれた路地に差し掛かったところで、塚田さんが声を上げた。彼女の視線の先を見遣れば、進行方向向かって左側のROX3Gと磯丸水産に挟まれた路上で、学生服を着た小さな人影がウロウロと右往左往しているのが見て取れる。

「おーい、そこの人達ー」

 その小さな人影は僕達三人に気付くと、そう言って頭上で大きく手を振りながら、こちらへと駆け寄って来た。そしてバランスを崩して少し転びそうになりながら立ち止まると、ほんの数十m走っただけなのに、もう息を切らしている。

「良かった、未だ話が通じそうな人が残ってたんだ」

 僕達の元へと駆け寄って来てそう言ったのは、背中にデイパックを背負い、胸に紙袋を抱えた小柄で眼鏡を掛けた少年だった。その彼もやはり歳の頃は僕ら三人と同年代か少し若いくらいだが、掛けている眼鏡のデザインと寝癖が残ったままの頭髪から察するに、あまり自分の外観に気を遣うタイプではないように思われる。

「あなたもあたし達と同じで、この状況下でも正気を保っているようね」

「ええ、ええ、そうですそうです。それで一体、これは何が起きているんですか? テレビか映画の撮影? それとも新手のドッキリか、ネット動画のフラッシュモブ?」

 小柄な少年が、少し呑気で的外れな問いを塚田さんに投げかけた。だが勿論、彼女は首を横に振る事しか出来ない。

「それが、ここにいる誰にも、事の真相は分からないの。今分かっているのは、突然街の皆がおかしくなってしまって、何故かあたし達だけがそんな状況下でも正気を保っている事ぐらい。とりあえず、少なくともドッキリやフラッシュモブの類ではない筈よ」

「そうですか……。だとしたらどうして、皆ゾンビになっちゃったんでしょう?」

「ゾンビ?」

 日常生活ではあまり耳にする事の無い単語が少年の口から発されたので、僕は問い返した。

「ええ、そうです。ゾンビ。突然おかしくなった街の人達の今の姿が、映画に出て来るゾンビの姿と似ているんで、僕はそう呼ぶ事にしたんです。呻き声を上げながら徘徊する姿とか、どことなく似ているでしょ?」

「確かに言われてみれば、そうかもしれないけれど……」

 ゾンビ。生きた死体。小柄な少年の言う通り、今現在浅草の街の周囲を埋め尽くしながら徘徊している人々の姿は、ハリウッド映画やホラー系のビデオゲームに登場するそれに似ていなくもない。覚束無い足取りでウロウロとさ迷い歩き、焦点の合わない眼で虚空を見つめながら呻き声を上げているところなどは、むしろそっくりとも言える。しかし映画やゲームのゾンビとは違って彼らは腐敗した死体ではないし、そもそも生きているのか死んでいるのかも判然としない。そんな中途半端な存在をゾンビと呼称する事に、僕は若干の疑義を抱く。

「ゾンビねえ……。いまいちピンと来ないしなんだかふざけているみたいだけれど、他にめぼしい呼び方も無いようだし、とりあえず今はそう呼ぶ事にしましょうか。それでいいかしら、二人とも?」

 顎に手を当てた塚田さんが少し悩んでからそう言って、僕と西鳥羽さんに同意を求めた。

「塚田さんがそれでいいのなら、僕は構わないよ」

 腑に落ちない部分はままあるが、取り立てて異議を申し立てるほどではないので僕が同意すると、隣に立つ西鳥羽さんもコクリと頷く。一方で自分の提唱した呼称が採用された事が嬉しかったのか、小柄な少年は少しはにかみながら微笑んだ。その笑顔を見て、小動物っぽい可愛さのある少年だなと、僕は思う。

「それで、そのゾンビ達はどの辺りまで街の中に入って来ているのかしら? あなたは知ってる? ええと、お名前は?」

「あ、僕は柴です。柴犬の、柴。覚え易いでしょ?」

 塚田さんの問いに、小柄な少年が自分の手を犬の耳に見立てながら答えた。

「そう。柴くんね。あたしは、塚田。こちらの二人は、吉島くんと西鳥羽さん」

「吉島です、よろしく」

「西鳥羽です」

 僕達四人は互いに自己紹介の言葉を交わし合い、その上で塚田さんが柴くんに、改めて尋ねる。

「それで柴くん、ゾンビ達がどの辺りまで街に入って来ているのか、ご存知? この先の様子は知っている?」

「あ、いいえ。僕は周りの皆が倒れ始めちゃった時にそこのお店でシュークリームを買っていて、その後はこの辺りをウロウロしていただけだから、未だこの辺りより先がどうなっているのかは知りません。ええ」

 そう答えた柴くんが胸に抱えている紙袋には、確かにすぐそこのROX3Gの中に店舗を構える有名なシュークリーム屋のロゴが印刷されていた。

「そう。それじゃあこれから皆で、この先の様子を見に行きましょうか。ゾンビ達が入って来れないのがどの通りから先なのかもはっきりさせておきたいし、もしかしたら、まだあたし達の他にも正気を保っている人が居るかもしれないものね」

 塚田さんがそう言って仲見世通りの方角を指差したので、僕は彼女が乗った車椅子を押し始める。そして柴くんと西鳥羽さんの二人が、その後に続いた。

「あ、皆さん、これ食べます? まだ口をつけてませんから、綺麗ですよ?」

 そう言いながら、柴くんは抱えていた紙袋の中から取り出したシュークリームを僕達に向かって差し出す。

「いいの?」

「ええ、これを食べる筈だった友達は、皆ゾンビになっちゃいましたから。それにこんなに沢山有っても、僕一人だけじゃとても全部は食べ切れませんからね」

「それじゃあ、遠慮無く。いただきます」

「ありがとう、柴くん」

「ありがとうございます」

 僕達は柴くんの手からシュークリームを受け取り、それに齧りついた。焼きたてサクサクのデニッシュ生地の中に詰まったカスタードクリームの甘さが、心身に溜まっていた疲労と緊張を緩和してくれる。それにしても、本来はこのシュークリームを一緒に食べる筈だった友達がゾンビになってしまった事を、柴くんはあまり悲嘆してはいないように見受けられた。

「この辺りは、まだ安全圏みたいね」

 芋羊羹で有名な舟和の本店の前を通過したが、塚田さんの言葉通り、ここまではゾンビ達は入って来られないらしい。その代わりに、通りの左右に立ち並ぶ店舗の隙間から垣間見える雷門通りは、呻き声を上げながら徘徊するゾンビ達で埋め尽くされている。果たして彼らが進入出来るエリアと出来ないエリアには、何の違いがあるのだろうか。

「どうしてあいつらは、ここまで入って来ないんだろう?」

 僕がボソリと呟くと、その話題に柴くんが食い付く。

「そうですね、どうしてなんでしょう? どうしてゾンビは、向こうの通りからこっちには入って来ないんでしょうね? そもそも、ゾンビとは何なんでしょうか? ゾンビが発生したのはウイルスとか宇宙線とかの何か科学的な理由があるのか、それとも呪いとか魔術と言ったオカルト的な理由なのか。考察すればするほど、興味は尽きません」

 やや早口で興奮気味にそう言う柴くんは、こんな異常事態に巻き込まれている当事者の一人だと言うのに、やけに嬉しそうだった。どうやら彼は見た目に反せず、生来のオタク気質らしい。

「ここも、無人ね」

 やがて雷門と浅草寺を繋ぐ仲見世通りに辿り着くと、周囲を見回しながら、塚田さんが溜息混じりに呟いた。普段であればたとえ平日でも観光客でごった返している筈の仲見世通りに、今は人っ子一人、猫一匹見当たらない。土産物屋がシャッターを下ろしている深夜や早朝ならともかく、こんな天気の良い昼日中に無人の仲見世通りを目撃するのは、この地で生まれ育った僕にとっても生まれて初めての経験だ。

「ちょっと、雷門の様子も見ておきましょうか。吉島くん、お願いね」

「了解」

 塚田さんの要請に従い、僕は彼女が乗った車椅子の車輪を雷門の方角へと向けてから、改めて押し始める。仲見世通りの土産物屋の品揃えが珍しいのか、僕らの後ろを歩く柴くんと西鳥羽さんの二人は、キョロキョロと店舗のショーケースの中身に目移りして落ち着きが無い。

「吉島くん、あれ!」

 不意に塚田さんが、前方を指差しながら叫んだ。その指差す先を見遣れば、雷門の少し手前の路上に一人の少女が身を屈めているのが眼に留まる。そしてその少女は短距離走のクラウチングスタートの体勢を取ると、雷門の大提灯の向こうに垣間見えるゾンビに埋め尽くされた雷門通りに、今まさに駆け込もうとしているところだった。それはまるで、塚田さんに制されなければ言問い通りのゾンビの群れに飛び込んでいたであろう、ほんの数十分ほど前の僕の様に。

「吉島くん、彼女を止めて!」

「分かった!」

 車椅子に乗った塚田さんをその場に残して、僕は駆け出した。今日の僕の足元は走るには適していないサンダル履きだったが、それでも可能な限りの全力でもって、ひたすらに走る。そして少女がスタートを切ったその瞬間に間一髪で間に合うと、彼女の下半身に背後からタックルを敢行し、力任せに押し倒した。もんどり打つような体勢でもって、勢い余った僕達二人は路上を転がる。

「何しやがる!」

 僕によって押し倒された、もしくは押し潰された少女はまるでガラの悪い輩の様な口調でもってそう叫ぶと、僕の顔面を躊躇無く殴り飛ばした。それも女の子らしい平手ではなく、固く握り締めた拳を鼻っ柱に的確に叩き込んで来るのだから堪らない。そしてゴキンと言う音を立てて、まるで煉瓦か何かで殴られたかのような強烈な衝撃と激痛が、僕の顔面を襲う。

「ちょっとあなた! 止めなさい!」

 自分の手でハンドリムを回しながら車椅子をこちらへと走らせて来た塚田さんが叫び、その声を聞いた少女が、ようやく僕を殴る手を止めた。不安定な体勢からの殴打だったので幸いにもそれほど深い傷を負わずに済んだが、それでも僕の鼻腔からは一筋の鮮血が滴り落ちて、口中に鉄の味が広がる。

「なんだ、突然背後から襲い掛かって来たから敵かと思ったら、まともな人間か」

「なんだじゃないよ、まったく。痛いじゃないか、この糞っ垂れめ……」

 他人を殴打しておきながら事も無げな少女に、僕は鈍痛の走る鼻を押さえながら悪態を吐いた。相手が年端も行かない女の子でさえなければ、僕も拳でもって反撃していたところだ。しかし少女からは僕を殴った事に対して謝罪する素振りも、悪びれた様子もうかがえない。むしろ涼しい顔でさっさと立ち上がると、再びゾンビの群れに突進しようと身を屈め、体勢を整える。

「ちょっとあなた、落ち着きなさい! そんな事をしてもあなたの身が危険に晒されるだけで、何の解決にもなりませんよ!」

 僕を引き止めた時と同じ言葉でもって、塚田さんが少女に自制を促した。すると少女はようやくクラウチングスタートの体勢を解いてこちらを振り向くと、僕と塚田さん、そして柴くんと西鳥羽さんの顔を順繰りに睨め回す。

「あんた達は?」

 そう言った少女は髪を短く刈っており、やけに小柄で痩せていたので、制服のスカートを穿いていなければ少年と見間違えそうな風貌だった。しかも眼光が鋭くて太い眉が凛々しく、ぶっきらぼうな口調も粗暴で攻撃的に感じられ、いかにも育ちの良いお嬢様と言った風体の西鳥羽さんとはまるで真逆の印象を与える。それでもかろうじて眼がパッチリとした大きな二重で睫毛が長い事を除けば、その外観からは、女の子らしい可愛さは微塵もうかがえない。

「初めまして、あたしは塚田。今しがたあなたを引き止めたのが吉島くんで、こちらは柴くんと西鳥羽さん。あなたもゾンビにはならずに、この状況下でも正気を保っているみたいね」

「ゾンビ?」

「そう、ゾンビ。こちらの柴くんの提案で、突然おかしくなって徘徊し始めた街の人達の事を、あたし達はそう呼ぶ事にしたの。それで、あなたもあたし達と同じで、ゾンビになってはいないんでしょう? だったら一緒に、事態が沈静化するまで協力し合わない? ええと、お名前は何て言うのかしら?」

 塚田さんが尋ねると、少女は僕達が信用に足る相手なのかを値踏みするように思案してから、答える。

「あたしは、相田」

「そう、あなたは相田さんと言うのね。どう? 無理してここを出て行こうとしないで、あたし達四人と一緒に行動しない? きっとその方が安全だし、この状況を解決する方法も早く見つかると思うの」

「……よし、分かった」

 相田と名乗った少女が、やはりぶっきらぼうな返答でもって塚田さんの説得に応じた。そして二人は握手を交わし、僕達は総勢五名のちょっとしたグループと化す。

「それじゃあ皆、今度は隅田川沿いの方を見て回りましょうか」

「あ、ごめん。ちょっと待って」

 探索の再開を提案する塚田さんを、僕は一旦制した。そして着ていたポロシャツを脱ぎながら、その理由を説明する。

「今の全力疾走とタックルで、かかなくてもいい汗をかいちゃったからさ。それと倒れた時に地面で背中を打ったんだけれど、痣とか擦り傷とか出来てない?」

 ポロシャツを脱ぎ終えた僕はそう言うと、下着代わりのタンクトップシャツから覗く背中を他の面々に向けた。するとその場に居合わせた全員が、僕の背中を見て息を呑む。

「吉島くん、あなた、ネモムンプス・チルドレンだったの?」

 そう言った塚田さんが凝視する僕の背中の中央には、白い羽で覆われた一対の小さな翼が生えていた。ヨーロッパの宗教画に描かれた天使の背中に生えているような、小さな翼が。

「実は、そうなんだ。珍しいよね? 驚いた?」

 僕はそう言いながら、きっと皆はこの翼を気持ち悪がるだろうなと予想した。しかしその予想に反して、塚田さんは告白する。

「今この場でブラウスを脱ぐのは恥ずかしいから背中の翼は見せられないけれど、実はあたしも、ネモムンプス・チルドレンなの」

「え?」

 彼女の告白に、僕は驚きの声を漏らした。しかも告白は、塚田さんだけに留まらない。

「実は、僕も」

「私も」

「……あたしも」

 その場に居合わせた僕ら五人全員が、ネモムンプス・チルドレンだった。


   ●


 ここで少しだけ、脇道へと脱線させてもらう。話の腰を折ってしまって読者には申し訳無いが、これはあくまでも、僕の日記帳だ。だから僕がどんな構成で物語を記述しようとも、誰にも文句を言われる筋合いは無い。少しばかり冗長で説明的な文章が続く事になるが、我慢して最後まで読んでもらえれば幸いだ。とにかくネモムンプス・チルドレンとは何なのか、それを解説しない事には僕達が抱える事情や苦悩を察してもらえないだろうから、そのためにページを割く事は致し方無い。

 ネモムンプス・チルドレン。ネモムンプスの子供達。出来損ないの天使もどき。その呼称は多岐に渡るが、僕達がそう呼ばれるきっかけとなった事件が世間を騒がせたのは、今から十二年も前の事だ。

 その年、日本国内に住む小学一年生だった僕達は、各地の学校なり医療機関なりで一斉におたふく風邪の予防接種を受けた。そしてその時に接種されたワクチンの名前こそが、厚生労働省によって承認されたばかりの新薬、『ネモムンプス』に他ならない。このワクチンはそれまでの物と比べてはるかに安全で安価と言う触れ込みで、文部科学省は太鼓判を押してお墨付きを与え、これを予防接種の項目に新規採用したと聞く。ちなみに『ムンプス』とは、おたふく風邪の学名だ。

 しかし安全な筈のネモムンプスは、僕の様な一部の子供達に牙を剥いた。接種した翌日から強烈な頭痛と発熱と吐き気、そして全身の倦怠感と痛痒に襲われ、僕は心配する両親の前でもがき苦しんだらしい。果たして何が起こったのかと言えば、およそ一万人に一人の割合で、このワクチンを接種した子供の一部に副作用が発症したのだ。そして一週間ばかりも苦しんだ後に、僕達の背中には小さな瘤が出来、気付けばそこから小さな翼が生えていた。白い羽で覆われた、天使の様な小さな翼。それが生えると同時に僕の容態は急速に改善し、やがて健康体を取り戻したと言う。

 こうして僕達の背中には翼が生え、この副作用が発症した子供達の事を、世間はネモムンプス・チルドレンと呼んだ。

 だがこの翼、困った事に全く意味が無い。一応は随意的に動かす事も可能ではあるが、当然ながら空を飛べる訳ではないし、むしろ日常生活では邪魔になるだけだ。そこでネモムンプス・チルドレンの中には外科手術で翼を切除した者も少なくないが、何故か何度切除しても、この翼は手術痕から再び生えて来ると言う。

 そして何よりも僕達を苦しめたのは、ネモムンプス・チルドレンを取り巻く世間との折り合いをつける事だった。優劣を問わず平均的な他者と比べて差異が存在する事を、日本の社会は著しく忌避する。僕達は異質な存在として白眼視され、要は学校で虐められた。その虐めの詳細は思い出したくもないのでここでは記述しないが、この日記を読んでいる人は自分の学生時代を思い出して、察してほしい。とにかく学校では奇形児扱いされて虐められるし、マスコミには珍獣の様にセンセーショナルに書き立てられるし、天使の降臨だと言って僕達を神聖視する変な宗教団体には誘拐されそうになるしで、幼少期の僕の思い出はどれも暗澹としている。

 またこれも当然の帰結だが、副作用の存在が明るみになった事によって、ワクチンとしてのネモムンプスは全て回収及び廃棄された。そして翌年からはそれ以前に接種されていたのと同種のワクチンが再び採用されたために、背中に翼が生えたネモムンプス・チルドレンは、世界中でも僕と同い歳の日本人にしか存在しない。つまりこの世界で、不慮の事故や病気で死んだ者を差し引かなかったとしても、今現在高校三年生のおよそ百二十人程度だ。

 さて、これでネモムンプス・チルドレンに関しての概要は、概ね理解してもらえたと思う。そして浅草の街で邂逅した僕達五人全員がその希少種だった事に、その当事者達がどれほど驚いたかも想像してほしい。

 それでは、閑話休題。物語を本筋に戻させてもらおう。


   ●


 塚田さんの提案により雷門から更に東進して隅田川沿いの江戸通りを探索し終えた僕達五人は、言葉少なだった。また江戸通りが言問い通りと交わる地点まで可能な限り隈無く見て回ったが、雷門で相田さんを発見して以降は、ゾンビと化していない人間とは一度として遭遇していない。どうやらこの街で無事に正気を保っているのは、僕達五人だけだと思われる。

「暗くなって来たね」

 街の中心部へと戻るために都立産業貿易センター台東館の前を歩きながら、空を見上げた柴くんがボソリと呟いた。言われてみれば確かに、そろそろ夕闇が空を覆い始める時刻だ。

「浅草寺を抜けた先に、比較的新しく出来たホテルがあったでしょう? 無銭宿泊は心苦しいけれど、今日のところはとりあえず、そこに泊まらせてもらいましょう」

 そう言った塚田さんの言葉に従い、僕達はぞろぞろと連れ立って、浅草の街を歩き続ける。そして浅草寺の境内を抜けて木馬館大衆劇場の前を通過すると、やがてリッチモンドホテル浅草の前に辿り着いた。地上十一階建てでイタリアンレストランが併設された、なかなか立派なホテルだ。

「誰も居ませんね、と」

 塚田さんを乗せた車椅子を押しながらホテルへと足を踏み入れた僕は、確認するように呟いた。その呟き通りホテルのロビーは無人で、フロントにも誰も立っていない。おそらくはスタッフも宿泊客も皆ゾンビになって、街の外へと出て行ってしまったのだろう。しかし人気が無いにもかかわらずロビーは照明が灯っていて明るく、幸いにも未だ電気は供給されているらしい。

「ふう」

 僕はロビーの、とは言ってもエレベーターの正面の狭いスペースにソファとテーブルを並べただけに過ぎないのだが、そこに設置された黒い革張りのソファに腰を沈めて一息ついた。

「ご苦労様、吉島くん」

 車椅子を押し続けた僕を塚田さんが労ってくれるのと同時に、西鳥羽さんと相田さんの二人もそれぞれソファに腰を下ろす。柴くんはフロントの隣のイタリアンレストランに行って、何かを探しているようだ。

「向こうに未だ温かいコーヒーが残ってたから、持って来たよ。皆、飲むでしょ?」

「ああ、ありがとう」

 コーヒーが注がれたポットと空のカップが乗せられたトレイを持って柴くんがレストランから出て来たので、僕達は彼に礼を言ってからそれを受け取った。そしてコーヒーをカップに注いで一口啜れば、柴くんがくれたシュークリームを食べた時と同様に、心身に溜まっていた疲労と緊張が一気に緩和される。

「さてと、それじゃあちょっと、状況を整理してみましょうか」

 落ち着いた物腰でコーヒーを飲み終えた塚田さんが、ロビーに集まった一堂をぐるりと見回してから口を開いた。

「今日の昼過ぎ、浅草の街の人間が突然倒れたかと思うとゾンビになって立ち上がり、街の周囲を徘徊し始めた。その原因は、分からない。ゾンビに近付くと、彼らは襲い掛かって来る。そして何故かここに居るあたし達五人だけはゾンビにならずに、こうして街の中で自由に行動する事が出来るけれど、その理由は分からない。ここまでは、いい?」

 僕も含めた塚田さん以外の四人は、コクリと頷く。

「それと国際通り、言問い通り、雷門通り、江戸通りの四つの通りに囲まれた浅草の中心部にはゾンビは入って来れないらしいけれど、その理由も分からない。……こうして列挙してみると、分からない事だらけね」

 塚田さんはそう言うと、天を仰いで嘆息した。そんな彼女の言葉に、僕は少しだけ補足させてもらう。

「そして何故かゾンビにならなかった僕達は全員、ネモムンプス・チルドレンだ。これは偶然かな? それとも、必然?」

「そう。その事実が益々、謎を深めるの。果たしてあたし達全員がネモムンプス・チルドレンである事が今回の事件と相関関係があるのか。あるとしたら、その原因と理由は何なのか。確率から考えると関係が無い訳が無いんだけれど、あたしの知識と経験では、これ以上の事はさっぱり分かんない。誰か、何か分かる人は居る?」

 塚田さんはそう言って再び僕達を見回したが、彼女に分からない事が僕達四人に分かる筈もない。そして塚田さんはコーヒーを攪拌するのに使ったスプーンを、空になったカップの中にそっと投げ入れる。文字通り、匙を投げた格好だ。

「それじゃあ今夜はこのホテルに泊まらせてもらって、また明日、事態の推移を見守りながら助けが来るのを待ちましょう。それまでは各自冷静になって、不用意な行動は可能な限り慎むように。いい?」

 再び、僕達四人はコクリと頷く。

「さて、と。幸いにもこんな立派なホテルが浅草寺のすぐ傍に在ってくれたおかげで、今夜は食事にもお風呂にもベッドにも困らずに済みそうね。とりあえず、一安心と言ったところかしら。そこで提案なんだけれど、腰を落ち着けたここらで一度、改めて自己紹介をしない? 考えてみればあたし達、まだお互いの名前すらも、名字でしか知らないでしょう?」

 言われてみれば確かにその通りだったので、僕達が塚田さんの提案を拒否する理由は無い。

「まずは、言い出しっぺのあたしから。フルネームは、塚田君子つかだきみこ。今日は千葉県の柏市から伯母の見舞いで浅草寺病院を訪れていたところを、こんな事態に巻き込まれちゃったの。それと見ての通り、弛緩性対麻痺で生まれ付き両脚の膝から下が動かなくて車椅子生活だから、そのせいで皆に迷惑を掛けちゃったらごめんなさいね。……ああ、それとこれはここに居る全員がそうだと思うけれど、高校三年生の十八歳で、ネモムンプス・チルドレンよ」

「僕のフルネームは、吉島慧よしじまけい。気軽に下の名前で、慧って呼んでくれればいいから。この浅草の街で生まれ育った地元民で、今日は学校が休みだからこの辺りをぶらぶらしていたら、こんな事になっちゃった。皆の力になれるような得意分野とかは特に無いけれど、この辺りの地理には詳しいから、何か探している店とかがあったら気軽に声を掛けてよ。よろしく」

「えっと、私は西鳥羽琥珀にしとばこはくと言います。今日は秋田県の秋田市から、修学旅行でこの浅草まで来ていました。えっと、その、あまりお役に立てませんけれど、よろしくお願いします」

「あ、僕は柴虎鉄しばこてつです。柴は柴犬の柴で、虎鉄は動物の虎に金属の鉄で、虎鉄です。よく身体は小さいくせに名前だけは強そうで、外見も中身も名前負けしてるって言われますけれど、覚え易い名前でしょう? 出身は北海道の函館市で、西鳥羽さんと同じく、今日は修学旅行で浅草まで来ていました。生まれて初めて北海道の外に出れたのにこんな事になっちゃって、なんだか凄く驚いています。えっと、趣味は読書と映画鑑賞です。今後とも、よろしくね」

「……相田郁美あいだいくみだ。出身は神奈川県横浜市。今日は社会科の校外学習で、ここまで来ていた。よろしく」

 僕達五人は、それぞれの言葉でもって自己紹介を終えた。そして再び、ホテルのロビーには無言の時間が流れる。

 雷門の前で僕達五人全員がネモムンプス・チルドレンだと発覚して以降、僕達は多くを語らずに言葉少なだったが、何故か皆少しだけ微笑んでいた。それはきっと、嬉しかったんだと思う。生まれて初めて、自分と同じ境遇、つまりはネモムンプス・チルドレンだけでこうして集まる事が出来たのだ。この集団の中では、もう自分が特別扱いされ、白眼視される事も無い。そう考えると、自然と口端に笑みが零れる。

「お腹も空いたし、そろそろ何か食べない? さっき隣のレストランの方に行ってみたらランチメニューのパスタソースが未だ沢山残っていたから、スパゲッティでも茹でて食べようよ」

「賛成。皆で、晩御飯にしましょう」

 柴くんの提案に、塚田さんが同意した。勿論残りの三人も異論は無いので、僕達はぞろぞろと連れ立って、隣のイタリアンレストランへと移動を開始する。なんだか修学旅行みたいで、少しだけ楽しい。


   ●


 さて、前置きが少し長くなってしまったが、こうして僕達ネモムンプス・チルドレンだけによる、ゾンビに囲まれた浅草の街での奇妙な共同生活は始まった。そしてこの日から一週間ばかりが経過した今現在の僕達がどうしているのかを、ここから先は記述させてもらう。ようやくこの日記の内容も本格的に展開し始めるので、どうか、心して読んでほしい。

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