11月12日 午前
月曜日の授業は昼からなので、いつもは11時くらいに起きるのだが、今日ばかりはなぜか早めに目が覚めた。時計を見ると、まだ午前7時である。一昨日の事を思い出す。山奥で洞窟に入った所までははっきり覚えているのだが、それからの記憶がどうも曖昧だ。記憶喪失とかそういうわけではなく、たった一昨日の事がもうすでに遠い過去の出来事のように思えてならない。そのせいか昨日は何もすることなく、一日中家で寝ていた。早く目が覚めたのはそのせいもあるのだろう。なまった体を無理やり起こし、朝の準備に取り掛かった。
結局家を出たのは予定よりも随分と早い時間だった。授業まではまだ3時間以上ある。特にこれいった用事も無かったのだが、家にいても気が滅入るだけだったので、気晴らしの散歩も兼ねて外に出てみたのだ。季節は秋。もうすでに、コートなしで外に出る事は許されない寒さになった。秋晴れなんていうものはまやかしで、実際、週の半分くらいは曇っている。木の葉が舞い、なんとなく中気が沈みゆく中、とりあえず暖を求めて学校の方へ向かう足取りも速くなってきた。今日はとてもじゃないが散歩できる気温じゃない。やはり、もう少し家にいた方が良かったかもしれないと後悔し始めたころ、ようやく学校の正門前までたどり着いた。午前中の授業には遅すぎて、午後の授業には早すぎる時間のせいか、歩いている生徒はほとんどいない。高校と違い、大学と言うのは与えられる場所が極端に少ない。僕みたいな中途半端な人間には居づらい場所であると、この時はしみじみと思った。それでも、行くべきところはもう決まっていた。数少ない僕の居場所の一つであり、このキャンパスの隅っこにひっそりと建つクラブ棟、その中でもとりわけ小さくこじんまりとしている部屋がある。それが、僕が所属する非科学研究会の部室である。
部室の前に立つと、小窓から明かりがもれていた。誰か中にいるのだろう。僕は安堵して扉をノックして中に入った。すると中には、大柄の男がパソコンの画面に顔を擦り付けるようにしながら、キーボードを叩いていた。
「よう、
キーボードを叩くのをやめ、こちらをちらっと見た。
「おう、
月一発表会とは、各月に一人か二人がテーマを決めて、それを研究し発表するものだ。といっても実態は、一応部としての活動をしていないと大学の方から注意され、最悪は活動停止、部室の没収などといった事になりかねないので、体裁のためにそれらしい事をしているだけにすぎないのだ。しかし、実際の内容は研究などとはほど遠いもので、旅行日記やグルメレポートなどでも、とにかく科学的でない事を少しでも書けばそれで許されていた。
「そういや、そうだったな。何を発表するつもりなんだ?」
「それはまだ言えねえんだよ。言ってしまうとつまんねえだろ」
「何言ってんだお前、お前がこないだもそんなこと言って、さんざん引っ張ったあげく、発表した内容、昆虫の観察日記だったじゃねえか。あげくの果てに、昆虫は宇宙より飛来した暗黒の使者だとか言いだすし。さすがにあれは全員ひいてたぞ」
「おい、そのことはもう言うんじゃねえ、頼むから…」
本人としても、あの場の空気から感じ取ったものは大きかったのだろう、終始誰からの発言も出てこず、いい年下男が発表後に死んだ顔をしていた。
「今度は本当に大丈夫だ。前回は授業のレポートと重なって、考える時間がなかったんだが、今回はこの通り、日ごろから積み重ねていっている。大いに期待してくれていいぞ」
「まあ前よりも悪くなる事はないだろうから、期待しとくよ」
実際、ここ最近は真面目に調べ物をしている周を見ていたので、大丈夫だとは思うのだが、こないだ図書館でまたもや昆虫図鑑を眺めているところを見てしまったので、少し不安に思うところはある。周はもうこれ以上作業をする様子ではなかったので、少し話をすることにした。
「今月は周の他にも発表者がいただろ。それ誰だっけ?」
と、当たり障りのない事を言ったつもりだったのだが、答えは予想と過ごし違った。
「今月は俺一人だ、というかずっとここのところ一人ずつやってきただろ」
「あれ、そうだっけ?最近は確かに一人発表ばっかりだったから、珍しいと思ってたんだが」
そう、確かにもう一人の発表者は誰かと言われれば思い出せないし、今何でこんな勘違いをしていたのかすら思い出せない、脳の奥で、ほんの僅かに何かがきしむ音が聞こえた。
「ここ数年は、うちの部も人数不足だからな。一昨年入ってきたころは、もっと賑やかだったのにな。あのころの華やかな雰囲気に憧れて入ったと言うのに、寂しいもんだ…」
「華やかな時期なんてなかっただろ、ここはずっと変わり者の集まりだよ」
「何でだよ、あのころはよかったじゃないか。だって、
京さんというのは、去年までうちの部にいた女の人だ。色白でスタイルが良く、長髪が似合う超が付くほどの美人だった。しかも、後輩の面倒見が良かったおかげで、皆からもものすごく慕われていた。実際去年までは、その人目当ての男子部員が他に何人かいたのだが、彼女が部活を去ると同時に、彼らもまた姿を消していった。まあ、もともとそういう奴らはあまり積極的に活動していなかったので、問題ないと言えば問題はないのだが、やはり言われてみれば寂しくなった気がしてきた。
「まあでも陽には関係ない話だったな。お前にはあの子がいるからなぁ」
「おいそれ以上は止めろ!」
自分でも少し顔が赤くなったのが分かった。
「まあ照れるなよ、俺はいいと思うぞ、あの子」
周と二人っきりになるといつもこの話題を出される。
「でも、その反応だと、まだ付き合ってはないんだよな?ほんとお前はどうしようもねえな」
返す言葉がない。
「気移りしないうちに勝負かけた方がいいと思うぜ」
「そう言うんじゃないんだって…」
僕の言葉に力はなかった。それに気が付いてか、周が突然話題を変えた。
「ところで、陽、週末はどうしてたんだ?」
「週末は…」
あの出来事を口に出そうかと思ったが、すぐにためらわられた。そう簡単に言っていいことのようには思えなかったし、何よりさっきの話題からでは大文分が悪い。
「なんだ、別の女と一緒にいたのか?」
なぜかこんなときだけ鋭い奴である。しかし、俺も平静を装った。
「そんなわけないだろ、ずっと家にいたんだよ」
「まあそんなところだろうと思ったよ」
じゃあ聞くなよ…
「俺は週末な…」
と、そこから取りとめもない会話をしばらく続けた後、時計を見るともう12時を過ぎていた。
「もうこんな時間か。俺はここで昼飯食べるけど陽は?」
「俺はこの後授業だから、行きがけに何か食べるよ」
「そうか、夕方また来るよな?」
「ああ、もちろん」
月曜は活動日なので断る理由はない。
「周はもしかして、ずっとここにいるつもりか?」
「そうだよ。悪いか?」
こいつに授業はないのだろうか…
「いや、全然。発表頑張れよ」
「おう、ありがとう!」
それっきり、俺は部室を後にして授業へ向かう事にした。
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