第11話、遥かなる記憶

「 古いけど、広さだけは自慢だよ? ・・ま、冬は、寒さが強調されそうだけどね 」

 格子に組まれた引き戸の玄関を入りながら、八代が言った。


 石油ストーブの匂いがする。

 玄関は、かなり広い土間だ。 カチカチに踏み固められた土の床で、まるで石のようである。

 靴や草履、ビニールに包まれた野菜などが隅に置いてあり、使い込まれた簀( すのこ:細い板材を並べ、角材を打ち付けたザラ板のようなもの )があった。

 床より1段低い位置に上がり板があり、木製のガラス戸を開けると10畳ほどの畳部屋である。

 上がった正面の襖を隔て、その奥には、更に広い和室があった。


 ・・薄暗い土間玄関を見上げる、美緒。


 黒く、くすんだ板張りの天井から、長い布巻きコードにぶら下がった裸電球があった。

 北の方角と思われる隅には、神棚がしつらえてある。 かなり高い位置にあり、脚立を使用しないと手が届かないだろう。 だが、榊が枯れていないところを見るに、頻繁に手を入れている事がうかがえる。


「 まずは、上がってくれ 」

 八代の案内で、美緒たちは10畳間に上がった。

 南に面して、隣部屋とつながった長い縁側がある。 日の光が降り注ぎ、開け放たれた障子とガラス戸からは、今、歩いて来た茶畑が見えた。


 使い込まれ、磨り減った縁側の板張り。

 クギの浮いたレールに乗った、木製格子のガラス戸。

 黒光りする木の柱の上部には、神社の御札が貼られている・・・


 絵に描いたような、田舎の旧家だ。

( ドラマか映画に出て来る、田舎の旧家のセットのようね・・・! )

 さながら、湯呑に入れた茶とミカンを傍らに、日の降り注ぐ縁側で、将棋を指しているシーンが似合いそうである。


 北側の閉ざされた襖の奥から、八代と誰かの話し声が聞こえた。 若干、トーンの高い老婆の声だ。 おそらく、八代の母親だろう。

 はたして、襖が開けられ、腰の曲がった老婆が、盆に湯呑と急須を乗せて入って来た。

「 こぉ~んな田舎に、よ~う来て下さったのぅ~ 」

 小柄で、白髪。 濃紺のフリース地のズボンを穿き、グレーのハイネックセーターの上に、赤と黒のストライプ模様の綿入れを羽織っている。 盆を、畳の上に置くと、正座して両手をつき、鼻先が畳に触れるかのようにお辞儀をしながら、美緒たちに言った。

「 良幸の母、キエでございます 」

「 ・・あ、・・は、初めまして・・! 日高と申します。 この度は、御世話になります 」

 慌てて畳に正座すると手を突き、美緒は、挨拶を返した。

 坂井が言った。

「 婆っ様、元気か? 腰の具合はどう? 」

 坂井は、キエと面識があるらしい。 おそらく、役場の仕事で、何度か会っているのだろう。

「 ああ・・ 最近は、ええのう。 お前さんこそ、どうじゃ? 若いのに、ギックリ腰なんぞになりおって 」

 体を起こしたキエが、坂井に言った。

「 いつの話、してんですか? それ、去年の夏ですよ 」

「 ・・ん? そうじゃったかのぅ? ボケたんかのぅ~ 」

 八代が、数個のミカンを入れた菓子盆を持ち、10畳間に入って来た。

 片手で菓子盆を持ち、後ろ手で襖を閉めると、笑いながら言った。

「 オフクロにとっちゃ、去年の夏でも、昨日の事と一緒だ。 のほほ~んと、過ごしてるからよ 」

 キエの横に、あぐらをかいて座り、ミカンの入った菓子盆を、美緒の前に差し出す。

 坂井も添田も腰を下ろし、一同は車座に座った。


 ・・・柱に掛けられた、振り子時計の音。

 縁側から続いている庭先の、芝をついばむ雀の鳴き声・・・


 ここには、都会を連想させる、わずかな片鱗すら無い。

( 田舎って、こんなに静かだったんだ・・・ )

 八代は、傍らにあった群青色の大きな陶器製火鉢を引き寄せ、灰に刺さして立ててあった火箸を手にすると、炭をまとめながら言った。

「 ま、こんなカンジのトコだ。 囲炉裏は、台所の方にある。 後で、案内するよ。 ・・見事にクソ田舎、ってトコだろ? どこを、どう撮ってもらっても構わないからね 」

 美緒が答える。

「 最高です・・・! ゴチャゴチャした都会で暮らしている私としては、全てが新鮮です。 せっかくの機会ですので、明日カメラマンが来たら、撮影のカットを増やして撮ってもらいます。 イメージカラーの素材としても、うってつけですから 」

 八代は、ミカンの皮をむきながら笑っていた。

 キエが、呟くように言った。

「 美緒ちゃん、キレイになったのぅ~ どこぞの、お嬢様のようじゃわい。 時々、良幸が連れて来ておったのぅ~ 可愛らしい女子だったのが、今じゃ、こんな立派な大人になったんかい 」

 キエは、幼い頃の美緒を覚えているらしい。

 相変わらず、ここで暮らした記憶が思い起こせない美緒。 心苦しい気分が、恥ずかしそうな表情に拍車を掛ける。

 美緒は、顔を赤らめ、答えた。

「 有難うございます・・・ その節は、御世話になりました 」

 とりあえず、社交辞令的に答えてみた。

 先程は『 初めまして 』と挨拶した手前、『 お世話になりました 』は変だが、気良く言ってくれたキエに対し、同調した方が良いだろうと美緒は判断した。 矛盾も、そうは気にならないだろう。

 キエは、ニコニコしながら言った。

「 台所裏の水場で、よく水鉄砲で遊んでいたのう~ 洗い場にブチ落ちたのは、いつだったかのぅ~・・・ 」


 瞬間、美緒の脳裏に、キラリと光る記憶が蘇った・・・!


 透き通った、揺れる水面のようなものに反射する、夏の太陽。

 それが目に飛び込んで来たかと思いきや、途端に、幾つもの水泡が目の前に浮遊する。

 大きな泡、小さな泡・・・

 無数の水泡が目の前を登って行く。

 そして、誰かの笑い声・・・


( ・・・浅い所よ・・! )


 美緒は、直感的にそう思った。

 そう・・ 美緒は膝上くらいの、石垣を組んだ水引き水路のような所に落ちたのだ。

 両膝を、水底について起き上がる美緒。

 少年の笑い声。

 ずぶ濡れの髪から滴る、宝石のような雫・・・!


 浅い所。


 一瞬にして思い起こされた、遥かなる記憶のかけら。

 冷えた涼水の冷たささえ、首筋に感じられる・・・ あれは幼き頃の、夏の日の記憶だ。


 突然、脳裏に蘇った記憶に、美緒は呆然としていた。

( 1番星に続いて・・ この、水の記憶・・・! )

 やはり、美緒はここに住んでいたのだ。

 それは事実として分かってはいたが、あまりに乏しい記憶に、戸惑いすら感じていた美緒。 今、それが実感として感じられる。

 ミカンを一房、口に放り込みながら、八代が言った。

「 脛を、擦り剥いちゃってさぁ、美緒ちゃん。 わあわあ泣き出して、オレ、どうしようかと思ったよ 」


 ・・・笑い声が聞こえていた・・・

 あれは、少年の笑い声だ。 おそらく、声の主は八代だったのだろう。


 水の沁みる痛さに、泣き出した美緒。 そう・・ キズに、水が沁みたのだ・・・

「 ・・・・・ 」

 走馬灯のように、次々と脳裏に蘇る、遥かな記憶。

 真っ白な心の空間に突如、現れた映像は、途切れた記憶をつなぎ合わせるかの如く、空白なる心の領域を、新たな記憶へと置き換えていく。

( 今まで、1度も思い出さなかった。 それなのに・・ なぜか、自然に思い出が蘇って来た・・・ )

 八代が続けた。

「 泳ぎ、得意だったからさ、美緒ちゃん。 洗い場に落っこちたくらいじゃ、大した事ないと思ってたのに、泣き出しちゃったもんだからさ 」


 ・・・そうだ。 水泳は得意だった。


 通っていた小学校で催された水泳大会では、1位の男子に続いて2位だった。 女子で入賞したのは、美緒だけである。

( また、忘れていた記憶が・・・ )

 水泳が得意だった事すら、忘れていた。

 体育の授業や、中学時代の水泳大会、友人と出掛けた海・プール・・・ 水泳をする機会は、その後、いくらでもあった。 水と戯れる事を心地よく思う事はあっても、水泳自体が得意であった事は、いつの間にか忘れ去られてしまっていたのだ。


 そう・・ あの頃の夢は、水泳選手になってオリンピックに出場する事・・・ 確か、小学校の卒業文集にも、そう書いた記憶がある。


 ・・・次々に思い起こされる、遥かな、遠い記憶。

 美緒は、正座している膝に乗せた両手が、かすかに震える感覚を覚えた。


「 白菜、要らんかね? 美緒ちゃん 」

 キエの声に、美緒は、ハッと我に返った。

「 その洗い場に、今朝採って来た白菜がある。 良かったら、持ってけばええ 」

「 荷物になるだろうに。 欲しけりゃ、後で、宅配で送ってやるよ 」

 八代が言った。

 美緒は、キエの顔を見つめながら答えた。

「 あの・・・ 洗い場・・ 見せて頂けますか? 何か・・ すごく懐かしいです 」

「 そこの、台所の勝手口から出て、すぐじゃ 」

 キエは、北側の襖を指差しながら言った。

「 もう、落ちんようにな。 ・・ま、今じゃったら、足先が濡れるだけじゃがのぅ 」

 皆の笑いが、板張りの天井に響いた。



 絶え間なく流れる、清流。

 近くの山肌から湧き出る清水をまとめ、勝手口の裏まで、石組みの水路が引かれてある。

 造作したのは、かなり昔のようだ。 石組みの丸石には、びっしりと緑の苔が付いていた。


 勝手口の前に、1メートル四方くらいの石組みの桶があり、地面より1段低くなった石の階段が設けてあった。

 ここで、畑から採って来た野菜、食器などを洗うのだ。 時には、野良着などの洗濯もするのだろう。 洗剤のボトルが置いてある。


 石の階段は、踏み磨かれ、硯のようだ。

 雪が降ると、滑り止めに、藁で編んだ簡素な茣蓙( ござ )が敷いてあったのを、美緒は思い出した。


 石組みの縁には、鎌や鍬の刃などの農具と共に、金属製のコップや、口の欠けたガラスコップなどが置いてある。

 長い間、風雨に晒され、艶をなくしたプラスチック製の石鹸入れの中に、干からびたような小さな石鹸があった。

 無機質ながらも、生活感が感じられる・・・


( 静物も、都会で感じるモノとは、全然、違うわ・・・ )


 美緒は、そう思った。

 せせらぎに揺れる、石組みの間から伸びた、小さな野草。 そこから、幾重にも緩やかに棚引く水面の筋・・・

 傍らに置かれた、木製の大きなタライの中の水には、畑から採って来たであろう野菜が漬してある。

 タライ横の、石組みの上に置かれたタワシと、歯の欠けた菜切り包丁。

 

 ・・・全てが、新鮮に映った・・・


 冬の日差しに照らされ、タワシの下に、かすかに黒く残る、水の跡・・・

 美緒は、それら静物の呼吸を、瞼に焼き付けるかのように眺めた。

( あたしは、ここに住んでいた・・ そう、こんな静かで、こんな美しい所に住んでいたのよ・・・ なのに・・ なのに、どうして今、息が詰まるような喧騒の中で暮らしているの・・・? )


『 1番星ぃ~! 』


 美緒の脳裏には、幼き頃の自分の声が、無邪気に響いていた。

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