四章⑤ 世間知らず


「……なぜ、私がこんなことをしなければならんのだ!」


 塗料で汚れた束子をバケツに投げ込む。ルカの苛立ちを一身に受けた束子は勢い良く濁った水面に飛び込み、近くに居た青年を思いのままに濡らす。

 ざまあ見ろ。


「うわっ、冷た! ていうか臭い!」


 シャナイアが喚く。かつては悪魔を大量に屠り、陰惨な殺戮劇を繰り広げた英雄殿。そんな彼が今、たった一人の足が悪い悪魔の少女の為に壁の掃除をしてやっているのだ。

 街の聖霊が知ったらどんな顔をするだろうか。呆れて物も言えない。


「もー、だからルカは宿屋で休んでて良いよって言ったじゃんか」

「そんなことを言って、私が離れた隙に逃げる気だろう?」


 どれだけ変わったとしても、彼は翠眼の英雄。明晰な頭脳と、呪術を使われて逃げられれば追うことはかなり難しい。だから、一瞬たりとも目を離すわけにはいかない。

 彼と戦うことだけが、ルカの目的なのだから。


「逃げないってば。信用無いなー」


 不満そうに、シャナイア。悪魔である自分が、聖霊である彼を信用するなどとどうして思えるのか。巧みな話術でいつのまにか掃除を手伝わされていたことも相まって、苛立ちが止まらない。

 加えて、先程から気になることがあった。


「……おい、貴様。やけに……遅くないか?」


 かれこれ掃除を初めて早二時間は経っただろうか。ルカに割り当てられた方の壁は、ほとんど汚れが落とされキレイになっていた。元々は赤茶色の煉瓦だったよう。

 対して、シャナイアの方は半分も綺麗になっていない。むしろ、汚れが間延びして先程より見た目が悪い。


「……あれ、そっち凄い綺麗になってるじゃん。ルカって掃除上手いんだね」

「貴様が下手なだけだろうが!!」


 感心するシャナイアに、ルカが声を荒げる。そもそも、こんなものは適当に擦るだけなのだ。上手いも下手もない。

 そうであるにも関わらず、シャナイアの方は全く進んでいない。


「えー? だって、やったことないから仕方ないじゃん」

「……は?」

「掃除とかさ、あんまりやったことが無いんだよね。ていうか、結構最近まで掃除ってそういう職業の人がやるものだと思っててさ。街では子供や老人、兵士や漁師に神父さん皆がやることだって知らなくてさ」


 思わぬところで温室育ちということを思い知らされる。そう、考えてみれば彼は英雄であると同時に大事な王子なのだ。掃除をやったことがなくて当然なのかもしれない。

 当然なのかもしれないが、納得は出来ない。


「……まともにやったことがないくせに、やるって言ったわけか」

「だ、だって……良いだろ、やってみたかったんだし」

「好奇心か、好奇心でやるって言ったのか?」

「勉強です。社会勉強の為です」


 苛立ちが収まらない。一発殴ってやろうかと拳を握る。すると、不意に頭上からしゃがれた声が落ちてきた。


「おい、ガキ共。早く終わらせねぇと日が暮れちまうぞぉ?」


 にやにやと、不気味な笑み。男は二階の窓から顔を出し、嫌味な文句を投げつけた。そして、満足したのか頭を引っ込め窓をカーテンと共に閉める。

 ブチッ、と。ルカの中で何かが切れた。


「……貴様、今すぐあのジジイの前で眼帯を外してこい。土下座させろ、泣くまで許すな」

「ルカさん。気持ちはわかるけど落ち着いてください」


 あの傲慢な男とて、英雄に掃除をさせていたと知ったら謝ることくらいはするだろう。

 男にしては細くそれほど背も高くないシャナイアなら肩に担げそうだ、なんなら二階までよじ登ってやろう。

 そこまで本気で考えていると、扉が開いてメグが顔を覗かせる。


「あの、本当にすみません……お二人のこと、説明したんですけど。丁度良いから働かせておけって」

「……ああ?」


 わかっていてやっているのか、あのクソジジイ。ルカと目が合うなり、メグが背をびくびくさせるのも腹立たしい。


「あー……大丈夫だよ。やることもなくて暇だったし。このお姉さんも見た目は怖いけど、いきなり噛み付いてきたりしないから」


 にっこりと笑うシャナイアに、ほっと安堵の息を吐くメグ。彼こそが、悪魔にとっては一番の脅威なのだが。

 色々と腑に落ちないので、黙っておくが。


「わー、凄く綺麗になりましたね! 残りはあとでわたしがやりますから、良かったらお茶でもどうですか?」

「おっ、良いの?」

「はい! 中へどうぞ、すぐにご用意しますね? お掃除の道具はそのままにしておいてください」


 文句すら言わせずに、中へと戻ってしまうメグ。扉は開け放ったまま。流石に嫌気が差し始めた。

 意気揚々と向かおうとするシャナイアの髪を鷲掴みにする。痛い痛いと喚く様は、良い気味だと思った。


「おい、貴様いい加減にしろよ。いつまであのガキに関わるつもりだ?」

「痛いってば! いいじゃん、疲れたし喉も渇いたし小腹も空いたし……それにルカ、よく考えてみろって」


 鮮やかな金髪が、指の間をすり抜ける。猫のように柔らかい感触に、一瞬苛立ちを忘れてしまう。理由はよくわからない。


「お茶屋さんでお茶飲んで、お菓子食べればそれなりに金かかるけど。ここでメグにお礼して貰えればタダだぞ、タダ。旅を始めてからタダと無料以上に魅力的な二文字に会ったことがないね」


 英雄であり、王子である者としてその発言はいかがなものか。呆れて物も言えなくなったルカを残し、シャナイアはさっさと邸の中に入ってしまう。


「……本当にあれが翠眼の英雄なのか?」


 一人、呟く。それは間違いないのだが。ルカの覚えている翠眼の英雄と今のシャナイアが上手く結び付かず、眩暈までしそうで。

 仕方なく、邸の中へと入る。混沌とした外観とは違い、中は想像していなかった装いだった。


「……本?」


 廊下に階段、少しでも隙間があれば本、本、本の山。少しでも触れれば崩してしまいそうな景観に、思わず圧倒されてしまう。

 ルカはほとんど本を読まないので、ここまで本で敷き詰められた空間は見たことがない。ガーデン中の書物がこの邸にあるのではないかと錯覚してしまいそうである。


「ごめんなさい、ルカさん。歩きにくいですよね、一応出来るだけ片付けてはいるんですけど」


 なかなか来ないルカが気になったのか、メグが足を引き摺りながら歩み寄る。一体どこまで健気なのか。

 ふと、少女を見やる。先程の頭巾や軍手は外され、代わりに白いエプロン姿という軽装だ。流石に邸の中で容姿を隠すことはしないらしい。

 小さな手には絆創膏や小さな切り傷。そんな彼女に妙な違和感を感じるも、それが何なのかはわからない。

 あまりに注視していたせいか、メグが怯えたように見上げて来る。


「あの……本当にすみません」

「……別に、問題無い」


 そっけなくルカ。それからは口を開くことなく、彼女の案内に従って奥へと進む。古い紙と、劣化したインクの醸す独特の匂いが空気に溶け込んでいる。

 通された食堂にもやはり本が積み重なっているが、木目調の食卓や椅子は埃一つなく磨かれている。天井から吊り下がる控え目なシャンデリアに、几帳面に棚にしまわれた食器類。

 どれもが落ち付いた雰囲気を纏っており、不思議と好感が持てる。


「おー、懐かしい本が沢山ある! これとか、これも……小さい頃に読んだなぁ」


 既に好意に甘え切って茶でも啜っているかと思いきや、シャナイアは部屋の隅に重なっている山の一部を開拓していた。しゃがみ込みながら一つ一つ手に取り、ぱらぱらと頁を捲っている。

 英雄が子供の頃にどんな本を読んでいたのか、興味をそそられてその手元を覗く。

 絵本か、小説か何かの図鑑か。そんなルカの思惑は、ことごとく裏切られてしまう。

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