三章⑥ 決別の時


 ホルン村に戻ったのは、空が充分に明るくなった頃だった。戻るべきでないことはわかっている。

 正体を明かしてしまった。もう村中に知れ渡っていることだろう。それでも、シャナイアは敢えて戻って来た。

 どうしても受け止めなければいけない『死』が、ここにもあるから。


「ひっ、る……ルイ様!?」


 棍杖の布と、眼帯を外した。たったそれだけのことで、住人は二度とシャナイアをシャナイアとして見ることはなかった。

 慌ててその場に膝を着き、額を地面に擦り付ける。


「ぞ、存じ上げなかったとはいえ、我々はこれまでに数々のご無礼を働いてしまいました。どっ、どうかお許しを……」

「……いや、俺の方こそ申し訳ありませんでした」


 力無く頭を垂れると、住人達が困惑にお互い顔を見合わせる。王家の者が、田舎の村人に頭を下げることなど有り得ないことだ。

 流石に疲労困憊で、ルイでいられる気力は無い。


「取り返しのつかないことをしてしまいました。俺は、すぐにこの村を出ます。二度と戻ることはありません。なので、せめてその前にロイドに会わせてくれませんか?」


 お願いします。命令ではなく、嘆願だった。住人は再び顔を見合わせると、一人の老人がシャナイアを案内してくれた。昨日、カボチャを運ぶ手伝いをさせてくれたレジーだった。

 あの楽しかった時間が、ずっと昔のことのように思える。自分の食べものがどうやって作られているかなんて、つい最近になってようやくわかり始めた。

 シャナイアに教え込まれたのは、殺戮の手段だけ。しかし、そんなものよりこの田舎村の方が比べ物にならない程に尊い。


「あの……こちら、です」


 レジーが立ち止まり、震える声で言った。間違いなく、ロイドの家だ。シャナイアは何回も訪れたことがある。

 年老いた両親と四人で暮らす家は質素だが、暖かく居心地の良い場所だった。余所者であるにも関わらず、いつもシャナイアを笑って出迎えてくれた。

 しかし、今日は違った。静かに扉を開けると、迎え入れたのは重く悲痛な空気だけ。それが何を意味しているのかなど、わざわざ聞かなくてもわかる。


「……ロイド」


 家の中を進み、彼の部屋に入る。そこにはロイドの両親と村の医者、そしてアイリが居た。

 アイリ以外の三人はシャナイアを見るなり、やはり平伏しようとした。それをやんわり制止すると、意を決してロイドに視線を映す。

 心のどこかで、ほんの少しだけ祈っていた希望が粉々に砕けてしまった。


「その人と、二人で話がしたいの。皆、部屋から出て行ってくれる?」

「あ、アイリ……この方は」

「お願い……」


 アイリの申し出に、シャナイアが頷く。不安そうな面持ちで彼の表情を伺うも、やがて静かに三人の大人は退室した。

 耳が痛くなるような、静寂。普段なら、村人達の活気溢れる声が飛び交い、朗らかな笑い声が響いているような長閑な村なのに。全部壊れてしまった。

 壊したのは、紛れもなく自分。


「……どうして、お兄ちゃん死ななければいけなかったの?」


 先に口を開いたのは、アイリだった。こちらに背を向け、椅子に腰掛けたまま。不気味なまでに感情を削ぎ落とした、彼女らしくない声で。

 現実が、シャナイアを責める。こんな田舎に、腹に重傷を負った青年を助ける術が無いことなど明らかだった。


「大丈夫って、言ったわよね? 何が大丈夫だったなの? ねえ、あなたはどうしてこの村に居るの? どうして、まだ生きてるの? 翠眼の英雄は死んだ筈よね?」


 抑揚の無い声が、悲痛な言葉を紡ぎ続ける。


「あなたって、悪魔に殺されたんじゃなかったの? 生きていたのなら、どうして悪魔を殺すことを止めてしまったの? ねえ、どうして悪魔はまだ生きているの? ねえ……悪魔さえ居なければ、お兄ちゃんは死ななかったんじゃないかしら?」


 ゆらりと立ち上がり、アイリが振り向く。真っ赤に腫れた目には、今にも涙が溢れんばかりに溜まっている。

 小さな手は、どす黒い紅でべったりと汚れていた。ずっとロイドの傷を押さえていてくれていたのだろう。何も出来なかった身の上で。彼女に返す言葉なんか無かった。


 血だらけの手が、シャナイアの胸元を掴む。


「どうして、どうしてなの!? どうしてお兄ちゃんが死ななくちゃいけないの! 戦争が終わったのなら、どうして悪魔がまだこのガーデンに存在するの? 英雄でしょ、答えてよ!!」


 悲痛な叫びに、胸が締め付けられるように痛む。縋るアイリの手が、可哀想なくらいに震えている。それでも、シャナイアにその手を握り返すことは出来なかった。

 紛い物の優しさを与えることすら、許されないとわかっていたから。 


「何でなの……悪魔さえ居なければ、こんなことにはならなかったじゃない。あなたが悪魔を一人残らず滅ぼしてくれたら」

「アイリ、俺は」

「お兄ちゃんは死ななかったのに……ずっと、三人で居られたのに。一緒に、居られたのに。隣に……居たかったのに」


 ふっと、シャナイアの服を掴む手から力が抜ける。ずるずると、アイリが膝を折るとそのまま力無く座り込んで、深く深く俯いた。


「どうして、あなたはこの村に来たの? どうして、あなたはアタシの前で正体を隠していたの? どうしてあなたは生きているの? どうして……」

「そ、それは」

「どうして、優しくなんかしたのよぉ……」


 アイリの声が震える。もう、それだけで。シャナイアには全てわかってしまった。

 彼女が自分のことをどう思っていたか。そして、それを踏みにじるしかない自身の非道さも、全部わかった。


「あなたの、隣に居たかったのに……それが叶わなくても、あなたのことはずっと……ずっと好きなままでいたかったのに。もう、ダメだよ。アタシ……あなたのこと、もう」


 そして、ついにアイリの瞳が堰を切った。ぼろぼろと大粒の涙が、頬を伝い床を濡らす。

 彼女にかける言葉なんかわからなかった。ロイドに詫びることだって許されていないと知った。シャナイアはそのまま踵を返すと、振り返ることなく家を後にした。

 村の中を歩いても、誰もシャナイアを呼び止めなかった。むしろ、向けられる視線は全く逆の意思を物語っている。

 言葉にこそ出さないものの、彼等が何を思っているかなど手にとるようにわかった。


「……お世話になりました」


 なんとかそれだけを言うと、シャナイアは村を後にした。目の奥に籠もる熱は、両眼共同じだった。

 泣いてしまおうかな。鼻をすすって独り言を漏らした瞬間、背後から声が飛んできた。


「おい、そこの泣き虫」


 ひどい言われようだ。シャナイアは拳で両眼を拭っていると、彼女が隣に並んだ。

 視界の端で揺れる銀色。乱暴な声に、苛立ちを隠そうともしない傲慢な態度。

 しかし、剣を抜く気配は無い。


「……泣いてないし」

「ふん、英雄ぶっていてもガキなことには変わらんか」


 好きで英雄と呼ばれているわけではない。しかし、そんなことを彼女に訴えたところできっと聞き入れてくれることはない。

 シャナイアが肩を落とすと、ルカが先に踏み出した。


「いつまでこの胸糞悪い村に居る気だ」

「あんたさぁ……本当に付いて来る気なの?」


 あれからいつまで経っても、文句を言いつつもルカがシャナイアから離れることはなかった。

 何を今さら。ルカが言う。


「やっと貴様を見つけたんだ。みすみす逃すようなことをするわけがないだろう。貴様は私が倒す、それは誰にも邪魔させないし、誰にも譲る気はない」

「本当に、もの好きだなぁ」


 呆れて溜め息を吐く頃には、もう涙は止まっていて。村から続く山道を遠くまでじっくりと見据え、


「……あんた、野宿は?」


 棍杖で示す。それはとてもじゃないが道と呼べないような、獣道。悪魔の屍はそのままにしておくしかなく、再びそこを通るのは避けたかった。


「上等だ」

「蛇とか虫とか居るかもよ?」

「望むところだ。出来あがった退屈な道を行くよりよっぽど面白そうだ」


 ルカが強気に微笑する。とんでもなく綺麗な笑みに、シャナイアはもう迷わなかった。


「じゃあ、行こうか……ルカ。あ、あのさ……質問なんだけど」

「何だ」

「カボチャってさ……収穫してからどれくらいで食べられるようになるの?」


 何だコイツ。言葉にはしなかったものの、彼女の表情は露骨にそう言っていた。

 馬鹿な疑問だと思う。それでも、どうしても知りたかった。


「……一カ月くらいだったと思うが、それが何だと言うんだ?」

「いや、別に」


 先を歩き、シャナイアが苦笑する。


「食べてみたかったな、って思ってさ」


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