三章⑦ 逃亡



 その日の夜は、見事な満月だった。


 銀色の満月が、世界を青白く照らす。そんな冷たい月光から逃げるように、隠れるように、少年は大木の根元に蹲っていた。棍杖を抱き締めるように、座り込んでいた。

 呼吸する度に、脇腹の傷が激痛に叫ぶ。兵士を一掃した後、誰かが持っていた松明で傷を焼いた。血は止まったが、痛みは比べ物にならないくらいに増していた。

 だが、そんなことより。


「どうしよう……」


 弱々しい呟きが、夜の闇に溶ける。りんりんと、どこかの草むらで虫が鳴いている。

 逃げてしまった。砦から闇雲に逃げた為に、記憶にある地図では自分が今どこにいるのかなんてわからない。

 逃げてしまった、セイロン王から。戻れば殺される。それはもう、疑いようのない事実だ。

 だが、夜になって。少年は独り、知らない森の中で膝を抱えながら考えてみれば、間違ってしまったのではないかと感じ始めていた。

 自分は、死ぬべきだった。

 なぜなら、自分は王子でもなければ、英雄と呼ばれる資格もないのだから。


「どうしよう……」


 色違いの双眸に涙が滲み、大粒の雫が溢れ頬を伝う。顎の先から落ちる雫は、乾いた返り血に黒く染まり生臭く、なんとも汚らわしかった。


 それだけ、自分は汚らわしい存在なのか。

 きっと聖霊でも、悪魔でもない。化け物なのだ。

 生きていてはいけない、罪深い存在。

 それが、自分。


「……っく。ひっ、ぅ……」


 どこかに、自分を殺しに来た兵士が潜んでいるかもしれない。必死に堪えようとするも、最早嗚咽を堪えることなんか出来なかった。

 今まで、何の為に生きてきたのだろう。

 少しでも、セイロン王の為にと思って努力したつもりだった。

 その結果が、今の状況である。

 死ね、と言われたのだ。


「お、れは……何の為に」


 何の為に、生きてきたのか。死ぬしかないのか、死ななければいけないのか。少年はベルトに引っかけていたナイフに手を伸ばす。

 小型のそれは、あくまで護身用。それを、自分の首に宛がう。氷のように冷たい刃が、肌に食い込む。


 あとは、ナイフを引くだけ。

 簡単だ。自分は悪魔も聖霊も、数え切れないくらい殺してきた。


 自分を殺すことくらい――


「ッ!!」


 少年が、ナイフを放る。心臓が張り裂けそうなくらい鼓動し、刃が触れた血管がどくどくと脈打っている。

 出来ない。自分を殺すことなんか、出来なかった。

 そしてそれを責める者が、辺りに誰も居ないことに気が付いた。


「…………」


 静かだった。夜風が草木を揺らし、虫が飽きもせずに鳴いているだけ。ふと、思う。

 あの虫は、何の為に鳴いているのだろう。

 背中を預けるこの大木は、なんという名前なのだろう。


 ここで自殺することが、自分に相応しい死に方なのだろうか。


「……俺、この世界のことを……ガーデンのこと。まだ、何も知らない」


 セイロン王が要らないというなら、この命は自分だけのものになったということ。

 自分は自殺出来なかった。それは、まだ生きていたいと心が思っているから。

 それなら、もう少し生きてみよう。

 せっかくだから、この世界のことを知りたい。

 知って、学んで。そうすれば、自分に相応しい死がどういうものかわかるかもしれない。

 罪を犯した自分に、誰もが納得する死に方を。


「ルイ・セレナイトとは……もう、名乗れないよな」


 棍杖を支えに、ゆっくりと立ち上がる。城に戻ることはもちろん、兵士などに頼ることも出来ない。ルイとして生きることは、もう不可能だ。

 それなら。指先が、棍杖の先を撫でる。血がこびり付いてしまっているが、指の腹は確かな感触を伝えている。


「シャナイアと名乗っても、良いよね」


 答えは、無い。否定も肯定も、返ってこない。ならば、自分で決めてしまおう。

 自分に相応しい死が訪れる、その日まで。この名前を名乗り、世界を知る旅に出よう。誰も知らない決意を胸に抱き、彼は地面を踏み締め、歩き始めた。

 

 かくして英雄――シャナイアはガーデンの表舞台から姿を消したのだった。

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