二章② ホルン村
※
「……うぅ」
目を醒ますと、そこは清潔なベッドの上だった。そこには自分以外、誰も居ない。
あるのは、質素だが手入れの行きとどいた調度品の数々だった。木目調の椅子とテーブル。日向の香りがするシーツに、ベッドの傍らに立て掛けられた布に包まれた杖。
それだけだった。
「夢、か……」
掠れた声で、シャナイアが呟く。からからに渇いた喉が痛むが、それ以外は特に昨夜と何も変わっていない。
服装に、眼帯。必要最低限の荷物も、いつでも外に出られるよう昨夜に準備したまま。
「ぐッ、いった……」
脇腹に走る激痛。吐き気さえもよおすその痛みに、身を捩り耐える。古傷はたまにこうして存在を思い出させるが、しばらくすれば収まるものだ。
「……大丈夫」
浅い呼吸を繰り返して、思考を落ち着かせる。大丈夫、大丈夫だ。自分に言い聞かせていると、次第に痛みは和らいできた。
這い出るようにしてベッドから降り、カーテンを引き窓を開ける。ひんやりと冷たく爽やかな空気が、汗ばんだ頬を撫でる。
「わあ、気持ちが良いな……」
ホルン村は、ブーゲンボーゲンとの間に山をいくつも挟んだ田舎にある。四方を色鮮やかな自然に囲まれた美しい村は、静かで穏やかだ。
東の空から朝日が顔を覗かせ、空が明るさを増していく。もう何度もこうして目にした光景であるが、改めて、シャナイアは感動した。
「綺麗……」
彼方に見える山脈には霧がかかっているのか、朝日が照らす様は滑らかな絹を纏っているよう。村の傍を流れる川は今日も変わらず穏やかで、どこかの家の鶏が元気に騒いでいる。
この世界は本当に美しい。脳裏に染み付いた血生臭さ、手に馴染んだおぞましい感触。視界の果てまで広がる紅蓮の景色や、鼓膜を切り裂く断末魔はどこにも存在しない。
悪夢の中だけで繰り返されているだけのこと。結果はどうであれ、もう戦争は終わったのだ。
「……ん?」
ふと、景色の中に見覚えのある人物が入り込む。ロイドだ。他にも、ちらほらと家から村人達が出て来るよう。
村には悪魔が一人も存在しない為、当り前だが皆、聖霊である。
農業と酪農を営むホルン村の朝は早い。あんな悪夢を見た後で、二度寝するような気分にはなれず。しかしこのまま部屋で過ごすのも勿体無いような気がして、シャナイアは窓を閉めた。
少しだけ悩み、杖を掴むと部屋を静かに後にした。
夏を慌ただしく押し退け、村に吹き込む風は早々と秋の気配を運んでくる。ホルン村の夏は昼間でもそれほど暑くなることはないが、冬はうんざりする程長く厳しいらしい。
「おー、シャナイア! 早起きじゃん、感心感心」
気分転換の散歩を兼ねて。柔らかな畦道を辿って行くと、ロイドが駆け寄ってきた。他の村人達も、シャナイアに気が付きにこやかに手を振ってくれる。
「旅人の朝は早いんだよ」
「へえ、旅人も大変なんだな? ま、いいや。暇してんなら手伝っていけよな?」
勝手に暇人扱いされた。全く以てその通りなのだが。
「良いよ、何をすれば良いの?」
村の仕事は多種多様である。これまでにも水やりやら雑草抜きや害虫駆除など色々と手伝ってきたが、今日は皆それとは違うことをしていた。
傍の荷車に杖を立て掛ける。
「今日は、カボチャの収穫。ほら、ハサミ。皮が濡れてて結構柔らかいから、ヘタを長めに切ってそこを持つと良いぞ。収穫したやつはあの籠の中に入れてくれよ」
「……カボチャ?」
刃がスプーンのように反り返った不思議なハサミを手渡されて。ロイドはカボチャと言ったが、辺りには蔓に繋がった深い緑色の丸みを帯びた果実しかない。
「カボチャって……どれ?」
「は? その辺にごろごろ転がってんじゃん」
訝しんだ様子で、ロイドが深緑色の果実を指す。おかしい、知っているカボチャとは違う。濃い黄色で、もっと一口大な筈。
そう言ったら、ロイドの目が皿になった。
「……それって、スープとか煮物になってるやつじゃね?」
「あ……もしかして、そういうことだったのかも」
「おーい、寝ぼけてんのか? それとも、まさか旅人のくせに初めて見たってことはないよな。お城で育った王子様じゃあるまいし」
ぎくり、と思わず肩が跳ねる。仕方ないじゃないか、それしか見たことがなかったし。
誰も教えてくれなかったし。
「あっはっは! カボチャにも細長かったり、黄色い皮のものとか色々あるからな。シャナイア君はこういう種類のカボチャを初めて見たってことだろ?」
ロイドの奥で作業していた中年のおじさんが見事なフォローを入れてくれた。うんうん、と頷くとロイドも何とか納得してくれたよう。
「……コレが一番、一般的なヤツだと思うけど」
納得してくれ、頼むから。胸中で必死に祈りながら、しばらくはロイドの指示通り作業に没頭した。
朝露に濡れた草木や土の匂い。どこかで咲く花の香り。やっと最近になってわかるようになってきた。
朝早くから汗を流して、自分たちが生きるために働く。当たり前に自分が食べているものがどうやって作られているのか、初めて知った。
自分が生きる世界について、シャナイアはあまりにも無知だった。
「おーい、そこの若者二人。こっちも手伝ってくれー」
奥の方の畑で、背中を曲げた老人がシャナイア達に手を振っている。レジーという、何かとシャナイアの世話をしてくれるお爺さんだ。
丁度自分たちの作業はひと段落したところだったので、ロイドと二人でのレジーの所に向かう。
「悪いねぇ、ちょっと腰が痛くてよ。二人でこの籠、あそこの荷車まで運んでくんねぇか?」
首にかけたタオルで汗を拭いながら、くしゃりと笑う皺だらけの顔。傍らには、シャナイアの腰ほどの高さの籠一杯に収穫されたカボチャ。
「げえ、これって……もしかしなくても超重いヤツじゃん」
ロイドががっくりと肩を落とす。一般的に悪魔に比べて聖霊は筋力が高くない為、力仕事などは苦手とされている。
それでも、奴隷の悪魔が居ない村ではどんな力仕事でも自分達でやらなければならない。
「うー、悪魔が居れば良いのにー。一人でも居たらこういう時ラクじゃん」
「バカもん! 滅多なこと言うんじゃない、悪魔なんか居ない方が良いんだ」
「じょ、冗談だって」
大きな街では、悪魔の奴隷は一般的になってしまっている。しかし、この村のような田舎ではまだまだ悪魔は恐ろしい敵対種族のままなのだ。
老人に怒られて、ロイドが困ったようにシャナイアを見る。
「……まあまあ。それなら、俺が運ぶからさ。二人は少し休んでなよ」
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