第6話 牢に入る男

「ねえ、最初に聞かせてちょうだい。ここに来るのに、どうやって屋敷に忍び込んだの、ゴル?」


 帝国屈指といわれる密偵「影の姉妹」のファルネは、すぐ横にいる男……ゴルに小声で囁く。声が響かない発声法を、密偵になるときに叩き込まれている。


「忍び込んでない。昼からずっと屋敷にいたぜ」


 ゴルも、同じ発声法で答える。やっぱり、こいつはゴロツキなんかじゃない、訓練を積んだ密偵だ。……と過去何度もファルネは確信し、そのたびにその確信をひっくり返されてきた。


「……なるほど。門番をごまかしたのね」


「まあな。上司に協力してもらったよ」


「その上司はもういいの?」


「ああ、あいつの役目はもう終わった。奴の家庭生活に幸福あれ」


 全く心がこもっていない祈りだった。


「さて、情報交換といこうか」


 ゴルの視線がこちらを向くのを感じとって、ファルネはかすかに身じろぎする。


「……嫌よ。なんであんたに情報をやらなきゃいけないの? 調子に乗らないで」


「その言い方だと、たいした情報は掴んでないか……」


 闇の中で、やれやれと肩をすくめるのが見える気がした。


「今日やっとここにたどり着いた奴に、言われたくないわね」


「この屋敷の見取り図は?」


「ないわ。そもそも誰も建築図なんて必要としてない。行き当たりばったりに増築してきた屋敷なのよ。見取り図があるとしても、埃をかぶった書庫の奥の奥ね」


「ふむ……ということは、あれがあるかね……」


「あれ? あれって何よ」


「まあ、当たりだったら教えるから安心しな。あとは、第三王子の情報だな……」


「ファーレは苦労してるみたい。さすがに、王城だからね……」


「あいつの隠密なら、どこへでも入れるだろ?」


「入れても、秘密を探れるかどうかは別よ。第三王子については、ほとんど手がかりが見つからないみたい。伯爵の坊っちゃんの、勘違いかもね……」


「そうか……。俺が王城に入れるなら、手伝ってやってもいいんだがな。あいつはいい奴だ、おまえと違って」


「は!」


 思わず声が大きくなり、ファルネは自分の口を手でふさいだあと、深呼吸する。


「その手には乗らないわ。あんたとつるんで仕事なんかしない。ロクなことにならないのは知ってるから」


「ファーレは喜んでくれると思うがなあ」


 また大声を出しそうになって、口を手で抑える。抑えた手が少し震える。むかつく。ほんとこいつむかつく。


「ねえ……あの子に手を出したら殺すからね?」


「クク……おまえならいいのか? あの時みたいに?」


 ニヤニヤしてるのがわかる。駄目だ、殺したい。


「今度そういうこと言ったら、脾臓を後ろから一突きにしてやるわ」


 凄みのある声を出したつもりが、ゴルはまだ、ククク……と笑い続けている。本気で殺したい。


「ところで、使用人の数が少し多い気がしたな」


 ゴルの言葉に、ファルネの興奮はすっと静まった。


「……さすがね。もうじき、公爵の誕生日よ。盛大なパーティーが開かれるわ。その準備で人を増やしてる」


「宰相派の勢いを見せるパーティーってことだな」


「そうね。貴族はみんなそう見てる。だから、国王はもちろん、慎重派の第一王子も第二王子も出ないでしょうね。王妃や王子夫人が代理で来るでしょうけど、すぐ引き上げることになると思うわ」


「なるほど……すると、問題は第三王子ってわけだ」


「いまや注目の的よ。パーティーに第三王子が来るかどうか。来なければ、エレンギーナ嬢は可哀想ということになる。来れば、宰相派に近づいたと満天下に知らせることになる。まだ十四歳、これといった大人の相談役もいない。ミノリル王子は、事態をわかっているのかしらね……」


「……大人の相談役がいない、か……」


「ええ、ファーレの報告によると、王子はいつも、エリンギーナ嬢と、護衛のピーマという女騎士と三人で行動しているそうよ。家庭教師はいるし大臣たちとの付き合いもないわけじゃないけど、いつも見ている相談役はいないらしいわ」


「…………」


「……どうしたの?」


「相手が王城じゃ、いまんとこ本命には直接手を出せねえ。王城に夜の薬を売りに行くわけにもいかねえからな……」


「あんた、昼のあれは夜の薬売りにきてたんだ……。最低ね」


「ククク……。帝国屈指の密偵のくせに、子供みたいな反応だな?」


「うるさい。話を進めなさい」


 自分が話をそらしたことは無視してファルネは言った。


「だからな、いま俺たちにできることは、第三王子がもし偽物なら、って考えてみることさ。わかるか?」


「……ええ。もし偽物なら、そこに陰謀がある。……なんのための陰謀?」


「さてな……。だが、陰謀なら、必ず操り手がいる。……俺はこの屋敷で、可能性を潰すことにするぜ」


「え、何をする気? もっと具体的に言ってちょうだい」


「しばらく消えるかもしれんが、心配するな。言伝したいときは、この場所に何か置いておく……。じゃあな」


「あ! ちょっと!」


 思わず大きめの声を挙げたとき、もうゴルの気配は遠ざかっていた。


「……ていうかわたしが、あんたの心配するわけないでしょ……」


 誰もいない暗がりにそう独り言をつぶやいたあと、ファルネは、自分はいま激しく馬鹿みたいだと感じて肩を落とした。


 そして翌日から、ゴルの気配はほんとうに消えてしまった。屋敷のどこにも、彼がいた痕跡はなく、彼の噂もなく、もちろんなんの言伝もない。

 数日経つと、あの日のゴルは幻だった気さえ、ファルネにはしてくるのだった。



☆★☆★☆



 ブルストは、頭が昔ほど働かなくなったことを、自分でも知っている。よーく知っている。と、おもう。

 まあ、もともと頭はよくなかった。先代さまは、おまえはもうちょっとまわりが見えれば、最高の兵士なのだがなあ、とおっしゃった。すみません、とブルストは謝った。よいよい、そのぶん俺がまわりを見てやる、と先代さまは高笑いされ、まわりもみんな大笑いした。

 しあわせな。しあわせな時代。

 いや、いまでもしあわせだ。息子は当代ぼっちゃんのもとで、働いているし。あいつは頭がいいからな。

 もう、すいぶん会ってない気がするが。

 ブルストも、この歳になっても、まだ仕事をさせてもらっている。そうだ。これが、しあわせでなくてなんだ。

 ブルストは、朝飯の用意をする。ばあさんは死んだ。ずいぶん前だ。娘は嫁に行った、とおもう。たぶん。

 だから、自分で粥をつくって半分食べる。あと半分は夜用だ。

 鎧を着て、槍を持って。

 正門の近くに、兵士用の配膳所がある。毎朝、配給の弁当が並んでいる。ブルストはもう五十年以上、昼はこれを食いつづけている。兵士。兵士ってのは、そういうもんだ。

 ブルストの弁当は、いつも一個だけ、ぽつんと残っている。また出遅れた。公爵家の兵士は、みんな本当に朝がはやい。いいことだ。先代さまのおかげだ。そうだ。しかも、近頃、弁当の横に冷たいお茶がついている。とてもいい。公爵家は、すごい。

 ブルストは、ゆっくりと庭を歩いて、仕事に向かう。

 庭にいくつか東屋があるが、ブルストの持ち場は、そのひとつ。端っこのほうにある、古い石造りの建物。

 そこに入って、鍵を取り出し、奥にある扉を開ける。すると、階段がある。そこを下りてゆくと、牢屋がある。

 地下牢。公爵家の地下牢を守るのが、ブルストの仕事だ。


 ブルストが地下牢の守衛になって、どのくらいたったか。じつをいうともう、はっきりしない。

 牢屋は六部屋あるが、誰も中にいない。ブルストが、ここに来るようになってからずっと。誰もいない。

 いやちがう。昔、だれかいたような気がする。だれだっけ? おもいだせない。かわいそうになあ、とブルストは言った気がする。そこまでせんでも、と言った気がする。でも、はっきりとはおもいだせない。

 ブルストは、槍を立てかけて、自分用の椅子に座る。目の前に、小さな机がある。机にはチェス盤が乗っている。ボロボロになったチェスの本も。

 ブルストは、チェスを指す。研究する。ふむふむ、と時々うなずく。そして、昼になると、弁当を食う。食べ終わったら、冷たくて少し苦いお茶を飲む。

 夕方になると、立ち上がって、槍を握って、地上に戻る。

 起きてから寝るまで、誰とも話すことはない。兵士はむだ話をしない。そういうことだ。

 それが、ブルストのくらし。公爵家ひとすじに仕えた兵士、ブルストのくらしだ。


 ある日、事件が起きた。大事件だ。

 地下牢に、人が寝ていたのだ。


「や、や」と、ブルストは言った。あまりにびっくりしたからだ。


「やあ、どうも」と、寝ている男は言った。


「あんた、悪さしたのかね?」と、ブルストは聞いた。


「悪さか。それなら、生まれてこのかた、し続けてるな」


「そりゃ……大変だあ」


 これは、とんでもない悪人が入ってきたもんだ。ブルストは困惑した。


「で、わしはどうすればいいかね?」


 あんまり困惑したので、囚人に聞いてしまった。


「ま、ぼちぼち行こうや。人生は長いぜ」


 その通りだ。ブルストは感心した。悪人のくせに、いいことを言う。


「とりあえず、俺は酒を飲んで寝るから。おまえさんは、いつものようにチェスを指してなよ」


「そうだな」


 ブルストはうなずく。することがはっきりしたので、気分が落ち着いた。


「ん?」


 なにか、おかしくないだろうか?


「どうしたんだ?」


「なにか、おかしい気がしたんだ」


「気にするな。そういうこともあるさ」


 男はそう言うと、牢の床に敷いてある汚い布の上から瓶を取り上げて、ぐびぐびと飲んだ。


「そうだな。そういうこともあるな」


 ブルストはなんとなく納得してうなずいた。そうだ。そういうこともある。人生は長いのだ。



☆★☆★☆



「やあ、おはよう」と囚人は言った。


「うむ、おはよう」とブルストは答えた。

 挨拶をするのは気持ちがいい。今日はいい一日になりそうだ。


「ん?」


 いつもの椅子に腰掛けると、ブルストは首をかしげる。


「どうした?」と囚人が聞いてくる。

 この囚人は、ブルストを気にかけてくれる。なかなか優しい男だ。


「なにかヘンだな」


「ほう、なにがヘンなんだ?」


 囚人の顔を見ながら考える。なにがおかしいんだ?

 あれっ、とブルストは思った。気がついた。今日の彼は、頭が冴えている。


「あんた、昨日はこっち側の牢屋にいなかったか」


 昨日は入り口に近い右側にいたのに、今日は左側にいる。おかしいと思ったのは、話しかけるときに反対を向かなくてはいけなかったからだ。


「ああ、それか」と、男はうなずいた。


「まあ、事情があってな。気にするな」


「気にしないわけにはいかんじゃろう……」


 ブルストは考え込む。これは大事件ではないのか。


「牢から出たわけじゃない。脱獄じゃないんだから、問題はないだろう? 違うかい?」


「おお……!」


 言われてみれば、その通りだ。囚人はちゃんと牢屋の中にいる。


「ま、でも、心配かけたから、これをやるよ。チェスやりながら食べてくれ」


 牢屋の檻の隙間から、囚人は何か差し出してくる。ブルストは、おっかなびっくり受け取った。

 くるっと巻いた、生き物の触手みたいなものだ。気持ち悪い。


「これをな、きゅっ、と噛むんだ。ほら、こんなふうにな」


 囚人は自分のぶんを口にくわえると、モグモグと口を動かしてから、幸福そうに笑った。


「ああ、やっぱたまんねえ……。ベアリグ海の真実イカ……味が深いぜ」


 そう言いながら、ぐびぐびと酒を飲む。

 ブルストはためらった。見れば見るほど、食べ物に見えない。でも、好意でもらったものを無下にするのは、よくない。よくない、と思う。

 目をつぶって、口に入れて、おそるおそる噛んだ。


「!!!」


 潮の匂い。ブルストには馴染みのない、なにかの塩辛い調味料の刺激。なにかがこみ上げてくる。なんだろう、なにがこみ上げてくるんだろう。


 海だ。

 父親に、たった一度連れていってもらった、東方の海。太陽に照らされてキラキラと光る水面。

 しあわせな。しあわせな少年時代。父と、母と、先代と、屋敷の仲間たち。子供の汗の匂い。焚き火の匂い。星空の下の空気の冷たい匂い。寝る前に消すランプの油の匂い。


 ブルストの目に涙があふれ、すうっと頬を下ってゆくのを、囚人は静かな目で見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る