第4話 性の罠を仕掛ける男
「あの者からの連絡は?」
「ありませぬな。一週間、全く音沙汰なしです」
「やはりか……。そのまま消えたか」
「もともと、ゴロツキには荷の重い仕事ですからな。まあ、こちらも前払いの経費を少しくれてやりましたが、たいした出費でもございません。忘れて構わないでしょう。それより……」
「うむ、連絡を取って依頼した。迷ったがな……小さな疑惑も潰しておくのが、私のやり方だ」
「荒唐無稽な話ですが、ふだん真面目な坊ちゃまの言われることですからな……」
「そのツークはどうしている?」
「いまだ部屋におられますが、軽い運動など始められたようで」
「そうか、ならばよい。それだけでも、彼には感謝せねばな……」
☆★☆★☆
アマカラーの下町、スラム街のすぐそばに店を構える酒場の主人は、グラスを磨きながら考えていた。
あの客は、もう来ないのだろうか。
昨夜まで一週間、隅の二人掛けのテーブルに、開店から閉店までずーっといて、いろいろな酒をボトルで何本も頼んでいた客だ。周囲の喧騒に耳を傾けながら、時々ナッツを注文し、ゆっくりしたペースで休むことなく飲み続けていた。その強さに呆れ返りながら見守っていたものだ。時おり外から持ち込んだつまみも口にしているようだったが、上客なので見逃した。
小汚い髭に黒布で髪を巻き、のばした前髪で目を半分隠していた。見るからに一癖ありそうな暗い感じの男。
彼が口を開くのはほぼ酒とナッツの注文をするときだけだったが、三日目の夜だったか、カウンターの中を覗き込むようにして声をかけてきたのを憶えている。
「なあ、噂の<すげえ元気になるやつ>ってのはないのか?」
主人は何を言われているのか一瞬わからなかったが、意味がわかると笑いだした。
「ありゃ酒じゃないんだよ。だからうちじゃ置いてないさ。薬屋に行きなよ」
「……薬屋にも置いてないんだろ?」
「ああ、よくわからんが、どうも材料がご法度のものらしいからな」
「どこに行けば手に入る?」
「なんだ、その若さでもう自信がないのかい?」
「笑うなよ、深刻な問題なんだぜ……?」
「どっかの商会が独占で扱ってるって話だ。それ以上は知らねえがな……」
男は「そうか」とうなずくと銀貨を一枚置き、手を振りながらテーブルに戻っていった。
それから四日。今夜は、彼の姿がない。
例の、<夜の薬>を探してどこかへ行ったのだろうか。
いい客だった。また来ねえかな。
そう思いながら、主人はグラスを磨き続ける。
☆★☆★☆
「あんた、女にモテるだろ?」
スターミン商会の営業主任ソセージは、ある晩、いきつけのバーで突然そう話しかけられた。
「いや、そうでもないよ」
「謙遜するなって。あんたぐらい男の色気ってヤツがある男は珍しいぜ。見ればわかるさ」
「……褒めてもなんにも出ないぞ?」
さすがに過褒というやつだ。相手には何か目的がある。
そう思っていても、やはり褒め言葉は耳にくすぐったいものだ。ソセージは肩をすくめて半笑いしながら、話しかけた相手を見た。
綺麗に髭をあたった青白い頬。髪を柔らかく分け、小奇麗な上着を来てあけっぴろげな表情でこちらを覗き込んでいる。
行商人か何かだろうか?
「なあ、<超たくましくなるやつ>はいらないか? あんたみたいな奴には必要じゃないかと思うんだがな」
「ん?」
笑顔を作ったまま、ソセージは内心ひそかに驚愕していた。<超たくましくなるやつ>、つまり特定用途の強壮剤は、スターミン商会がある顧客に向けてだけ扱っている、極秘ルートの商品だ。商会の利益のニ割以上を稼ぎ出している。
それがスターミン経由以外で出回っているとなると、大問題だ。
「噂は聞いたことがあるよ。あればそりゃもちろん欲しいが、普通じゃ手に入らないそうじゃないか」
慎重に探りを入れる。
「まあ、普通じゃな。だが、特別なルートでこぼれてきたブツが、いくつか手元にあるんだ。……どうだい?」
「興味はあるが……その話だけじゃ、本物かどうかわからないね。偽物に大金を払うのは勘弁願いたいな」
「さすがは色男。賢くて慎重だね」
男はニヤッと白い歯を見せると、ぽんと肩を叩いてきた。
「ま、信用できないのも無理はないさ。俺も、今日どうしてもって話じゃない。まずは飲み友達として付き合おうじゃねえか。商売の話は、いったん置いといてさ」
「ああ、そうだな。私も、飲み友達が増えるのは大歓迎さ」
男は陽性の笑顔になり、バンバンと肩を叩いてくる。
「よっし! じゃあ、今夜は俺のおごりだ。別の店で飲み直そうぜ。どうだ?」
ソセージは一瞬迷った。飲みすぎて帰るのは、あんまりうまくない。ソセージの妻は口うるさくて怖いのだ。さんざん女遊びしてきたソセージの自業自得ではあるが。
だが、男の話が本当だとしたら、夜の薬の裏流通の情報は集めておかなくてはならない。ここで別れたら、また会えるかどうかわからないのだ。
「ああ、いいよ。今夜はとことん付き合うさ!」
ソセージは、営業用の顔でにこやかにでそう答えた。
☆★☆★☆
ちょっとだけ酸味のある酒の匂い。蜂を漬け込んだという蒸留酒の匂いだ。独特の風味で美味かったが、おそろしく酔いが回った。
自分の吐息にいまも残るその酒の香りに、鼻をひくひくさせながら、ソセージは目覚めた。
身体の下にはなめらかな絹の敷布の感触。身体の右半身には……しっとり湿った、ひんやりぷにぷにの感触。女体の感触だ。
右顎の下に、女の頭が乗っている。髪の匂いが、蜂酒の匂いにかわってやってくる。
……ソセージは、はっ、と目を開いた。
「……ここはどこだっ!?」
枕から頭だけ起こし、周囲を見回し、顔をしかめる。はやくも二日酔いの鋭い頭痛がする。右頬の下にある女の頭は、ぴくとも動かない。
「連れ込み宿、ってやつだよ」
そう声がして、ソセージはベッドの横を見る。
今夜知り合った男が、椅子を前後逆にしてまたがり、背もたれに両腕を乗せた姿勢で笑っていた。
「まったく、俺がいるのも忘れて、おっぱじめちまうんだからな。さすが女たらしの達人、とんでもないぜ」
「な!」
痛む頭で記憶を探る。大笑いしながら一気飲みした記憶。肩を組んで大声で歌った記憶。そして……どこからか現れた見知らぬ女に、ふざけてキスをしていた記憶。
記憶はそこで途切れている。
「私は……騒いでいただけだろっ! 何もしてない!」
「いやいや……それは通らないだろ。いまのあんたの格好、見てみろよ」
言われて気づく。下半身に……何も履いてない。薄い毛布の下は、すっぽんぽんだ。そこに、正体もわからない女の太ももが乗っかっている。
若いころは遊び人だった。だから、同じような姿勢で女とベッドに寝ていたことは何度もある。が、女が誰だか全くわからないというのは初めてのことだった。ベッドの横に、男が笑いながら座っているのも。
「剥き出しはあんまりだと思って、俺が毛布かけてやったんだぜ。でもまあその前に、あんまりモノが立派だったんで、スケッチしちまったよ」
頭だけ枕から起こして目を剥いているソセージの眼の前に、男が一枚の紙を差し出して見せる。
素人離れした、巧妙なスケッチだった。ゆるんだ顔の男が、裸の下半身を晒し、ベッドにもたれて笑っている。その首筋に、若い女が抱きついて陶酔の表情になっていた。
男の顔は、誰が見ても間違えようもない。ソセージだった。
「な、な、な……」
ソセージは言葉も出ない。
「あんた、右腰に大きなアザみたいなほくろがあるんだな。それに手術跡もある。おかげで、顔なしでも誰かわかるな。……見る人が見れば」
「……まさか……」
「奥さんに送ってみるか……」
「た、ただの絵だ……。なんの証拠にも……」
「裁判じゃないんだから、証拠もクソもないんじゃないか? 奥さんにどんな言い訳ができるか、ぜひ見学したいもんだ。あんたは婿養子で、家を追い出されたら何にも財産がないんだよなあ……」
「貴様……ハメやがったな……!!」
ソセージは、がばと上半身を起こす。弾かれた女は、「う、なに……」と言いながら転がって離れる。ちら、と顔を見たが、やはり見覚えのない、平凡な顔の若い女だった。
「我ながら古典的な手だが……きれいにハマってくれたもんだぜ。彼女も、出るとこに出て証言してくれるとさ」
「そういう約束だからね。もらうもんもらったし」
平凡な女は、平凡な声でそう言うと、ごろんとうつ伏せになり頬杖をついた。
「……何が望みだ? あんまり無茶なことなら、私も自滅覚悟でおまえらを道連れにするぞ」
「まあまあ。そうイキむなって。実のとこ、あんたに頼みたいのは、ほんのちょっとしたことなのさ……」
男は、さあ交渉だ、と言いながら楽しげに両手をこすりあわせ、にんまりと笑った。
☆★☆★☆
「ほう、秘書か……」
「ええ、個人的に雇いましたので、店には迷惑をかけません。よろしいでしょうか?」
「……例の取引きにも、連れてゆく気かね?」
「ええ。そのために雇ったので……。身分のある方が相手ですので、いろいろ、危険を感じることもあって……」
「なるほど、護衛を兼ねてか……。だがわかっているな。万が一にも、例のものの情報が外部に漏れたら、おまえの商人としての人生はおしまいだぞ」
「は、わかっております……」
神妙な顔でかしこまるソセージを見て、スターミン商会の副会長は、老眼鏡を指で押し上げた。
「ま、よかろう。ただしそいつを店の奥に入れるのはなしだ。この部屋までだぞ」
「わかりました……。ほら、副会長にご挨拶するんだ」
「ゴルと申します。商人として決まりごとは守りますので、どうかよろしくお願い致します……」
ゴルは深々と頭を下げた。
挨拶を終えて副会長の机がある事務所を出ると、ソセージはゴルを冷たく睨みつける。
「これで満足か? ゴロツキが……」
「ああ、満足さ。ゴロツキだからな。これからよろしく頼むぜ、上司さんよ」
ゴルは平然とした顔で、ソセージにお辞儀をしてみせた。
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