第3話 未成年飲酒を強いる男

 ネギマール伯爵の三男ツークは、十三歳になる今まで、いま目の前にいるようなタイプの人間に会ったことがなかった。

 弱い魔術燭台の光に斜め下から照らされたその顔の下半分は、見るからに小汚い伸び放題の髭に覆われている。その中に、酷薄そうな赤くて薄い唇があり、両端をつり上げて笑顔を作っていた。笑顔なのに見ていると気持ちが冷えてゆくような気がする。


「俺は、あんたのパパに雇われたんだぜ。あんたから事情を聞き出すためだけにな……」


「……信じられません」


「ま、そうだろうな。名門の伯爵様が、家庭問題でゴロツキ雇ったとかよ……。でもまあ、事実だからな」


「……僕は、何も話しませんよ」


「そうか、ならしゃーねえな。かわりに一つだけ、俺の言うとおりにしてくれりゃいい。伯爵家の息子が、台所に忍び込んで使用人のまかないを貪り食ってた、なんて恥をおおっぴらにされたくなきゃな……」


 囁くような嘲弄するような声で言われてみると、たしかに空腹に耐えかねて台所に忍び込んでいたのは、とても恥ずかしいことのように思えてきて、ツークは思わず小さくうなずいた。


「ただ、あんまり無体なことは拒否しますよ……」


「ああ、なんてこたあない頼み事だよ。つまりさ、俺はあんたともう少しだけ話をしてみたいのさ」


 男はテーブルの下から一本の瓶を取り出した。家の夕食で父が時々飲んでいる、普段使いのワインだ。伯爵家専用のラベルが貼ってある。


「ま、これでも一杯飲んで、一時間ばかり話をさせてくれや。それが俺の頼み事さ」


「ええ……そんなことでいいなら。ただ、しゃべらないことはしゃべりませんから」


 酒は十五歳の成人から、という建前になっているが、貴族の宴席では子供でも酒に口をつけることが多い。ツークにとってはワインの一杯ぐらい、たいしたことではなかった。


「さすが上級貴族の息子、しっかりしてるねえ。……っと、いいワインだ、きれいな深いぶどう色だぜ、さ、一杯やんな」


「……いただきます」


「そんな遠慮することはないぜ。あんたん家のワインだからな! ハハハ! 飲みながら、屋敷のよもやま話でも聞かせてもらおうかい」


 男が破顔して大笑いすると、さっきまでの冷酷な印象はきれいに消え、そこには酒好きで話し好きの気のいい男がいた。ツークはなんだか少し安堵して、グラスにゆっくりと口をつけた。



☆★☆★☆



「へええ、ジェズはクシカに気があるってのかい? 仕事でもめったに話さねえ関係みたいだがな」


「……ええ、間違いありませんよっ! 僕はジェズとは仲が良くてですね……もー、お見通しですっ! クシカは男性不信ぎみなんでですね、まず、娘のネリナを可愛がってやれっ! って、アドバイスしたのに、これがもうジェズときたらダメダメでですね……」


「ほほー、……でもさ、そういう恋愛ごとは、執事長とメイド長が厳しいんじゃねえのか?」


「いや、あの二人は意外とですね……」


 話は弾む。ツークは普段、使用人の話題を口に出すことを自分に禁じていた。ちょっとした言葉が、使用人の境遇を大きく左右しかねないからだ。だが、誰かに話したいネタは、実はたくさん溜まっていた。


「いやー、あんた若いのに、よく人を観察してるな」


 厨房のテーブルの斜め向こうで、男は感心したように頷いている。


「おじさんこそ、来てそんな経ってないんですよね? よく屋敷の中のこと知ってますねえ……」


「おいおい、おじさんはよせよ。俺はゴルディアスってんだ、ゴルって呼んでくれや」


「オーケー、ゴル!」


 アハハハ、とツークは笑う。いい気持ちだ。なんでも好きなことを好きなように話せて、それを全部すんなりと受け止めてくれる。お酒を飲んで話すというのは、こんなに楽しいものなのか。


「ツーク坊っちゃんには、好きな女はいないのかい? ええ? 隠さずに言ってみなよ、ほらほら!」


「えー、いませんよ……」


「なんだい、あんたならさぞモテるだろうによ……」


「えー? そんなことないですって!」


 強面の大人から持ち上げられて、ツークの頬は自然にゆるんだ。


「えーと、なんだっけ、ほら、王子にいつもくっついてるっていうお嬢さんはどうなんだ?」


「えっ……エリンですか? いやー、あの子は殿下に夢中なんで……。それに、可愛い子ですけど異性って感じじゃないですねー。妹ですよ……彼女は」


「お? いま遠い目をしたな? 坊っちゃん、いま別の女のことを思い浮かべたよな? 正直に言ってみなよ……」


「ええ……? ゴル、やめてよ、つつかないでよ……。ええー、言うのー? ……いやあの、いま殿下の警護についてる騎士のピーマさんは、ちょっといいな、と……。きれいな金髪で、こう、きりっとしててですね……」


「ほほう! 坊っちゃんは凛々しいタイプが好みなのかい。……でもさ、ミノリル王子のそばについたってことは、その騎士もエリン嬢ちゃんと同じ、側室候補なんじゃねえのかい?」


「いやー、それはないんじゃないかな……。殿下はいま、そんな感じじゃないから……」


「女の子どころじゃないって感じかい?」


「うん。……ここだけの話だけどね、殿下は前から、陛下派と宰相派が対立してることを心配なさってて……。最近、このままじゃいけないって、ご自身が動かれるつもりでいらっしゃるようなんだ……」


「へえ……まだ十四歳だっけ? 成人前なのに真面目な、いい王子様じゃねえかい」


「……うん。そうなんだよね……」


 ツークが口ごもるのを、ゴルはじっと半目で観察していたが、ツークはその視線には気づかない。


「だが、坊っちゃんは何か言いたいことがあるようだな、殿下に」


「…………」


「……言っちまえよ、ほれ。ここにゃ他に誰もいないぜ?」


「……僕、殿下とは赤ん坊の時から一緒だけど、最近の殿下は、何か違う気がするんだよ」


「違う気がする?」


「うん……。すっごく正直にいうとね、ここのところの殿下は、やる気がありすぎる気がするんだよね……。小さい頃の殿下は、もっと怠け者で気だるい感じだったのに……。なんか、いまの殿下は殿下じゃない気がするんだ」


「……まさか、別人だってのかい?」


「……うん。言っても誰も信じてくれないから、黙ってたんだけど……。いまの殿下のそばにいるのは怖いよ。なんか、背筋がぞぞーっ、てするんだ……」


「それで、部屋に閉じこもってたわけか。なるほどなあ……」


「他にどうしようもなかったんだ。下手なことを言うと、父上に迷惑がかかるし……。父上も信じてくれないよ……」


「そりゃ、背筋がぞわっとします、だけじゃあな」


「……うん。他にも、王城にいると時々、頭がくらっとしたり……。やっぱり僕がヘンなのかもしれないなって思ったりさ……。でも……」


「……それでも、直感ってのは大事なもんだぜ。いまは表立って言えなくても、思ったものはしょうがねえやな……」


「うん、ありがとう、おじさん……」


「おじさんじゃねえっての……」



☆★☆★☆



「ツーク様に触るな」


 テーブルに突っ伏して寝てしまったツークを揺すってみようとしたゴルは、厨房に滑り込んできた執事長に強い口調で制止された。


「何もしやしねえよ……やれやれ、過保護なことだ」


「黙れ。成人前の子供にがぶがぶ飲ませおって……」


「そうですよ、全く……」


 執事長の後から、不機嫌そうなメイド長が現れる。


「貴方のせいで、今後ツーク様が酒を過ごさぬよう、よく気をつけなくてはならなくなりましたよ」


「ふ、あんたは爺さんよりさらに過保護なようだな」


 ゴルは唇をゆがめて、メイド長に話しかけた。


「クシカにこっそり夜食を用意させたり、坊主が部屋を抜け出しやすいように警備をゆるくさせたり、さ……」


「ふん。大事な坊っちゃんを気鬱にさせるわけにはいきませんからね。夜中のちょっとした冒険はむしろ歓迎すべきです。それに、部屋を抜け出しても屋敷の外に出たりはしない方ですからね、ツーク様は」


「そこらへんがお坊ちゃんだよなあ」


「黙りなさい」


「もうちっと世慣れねえとな。俺みたいな悪いヤツの口車に、かんたんに乗っちまうことになる」


 ニヤニヤと笑い出すゴルを睨みつけたあと、メイド長は呆れたように額に手をやった。


「貴方の口車が巧すぎるんですよ。あんなに口をつぐんでいた坊っちゃんをあっさりと……。屋敷に長く置いたら、屋敷ごと食われそうです。いやだいやだ……」


「……お、なんならあんたを口説いて食ってもいいぜ。まだまだ美味そうじゃねえか……」


「黙りなさい、ゴロツキ……!」


 そう言いながらメイド長の厳しい顔がほの赤くなるのを、執事長は振り向いて見てぎょっとしている。


「……メリアの言うとおりだな。おまえには、一刻も早く屋敷を出ていってもらわねばならんようだ」


「ああ、言われなくても出ていくさ。これで依頼は完了だ。あんたら二人も聞いてたろ? 坊主が閉じこもってた理由を」


「……ミノリル王子は偽物かもしれない、とな……。うむ……たしかに理由は聞けたが……いくらなんでも……」


「そうかい? 世の中は、意外となんでも起きるもんだぜ」


「だが、どうやって調べればいいのか……」


「さあな。それを調べるのは俺の仕事じゃねえな」


「……おまえの行くところ、真実は必ず明らかになる、と言われているそうだが?」


「は? 知らねえよ。俺は探偵でも密偵でもねえ、ただのゴロツキだぜ。今度も、キューがまた何か勝手な約束をしただけでよ……。報酬とやらもぜんぶキューに行くんだろ? 俺には何にも旨味がねえんだ、これ以上はごめんだな」


 執事長はそれを聞くと、得意げな笑みを浮かべた。


「ふむ、おまえの言うことは一理ある。しかし……もし王家に何かの秘密があってゴロツキがそれを知ったとしたら、当家としては、それを黙っておいてもらうために口止め料を払わねばならんな。たとえば……こんなものをな」


 メイド長が、細長い物体の束をゴルに差し出す。


「さ、試してごらんなさい」


「……こりゃなんだ?」


「当家に昔から伝わる秘伝の燻製肉だ。数本で、そこそこの宿に一晩泊まれるぐらいする貴重品だぞ」


「……なんだと?」


 ゴルは軽く唾を飲むと、細切りの肉を一本取り、口に入れてきゅっと噛む。いつも眠たげで皮肉っぽい眼が、大きく見開かれた。


「……これは!」


「ふふ、どうだ? 燻製専用として育てたタレシオス牛を、最高のモミザクラチップで燻した逸品だ」


「くっ……。噛みしめると、煙と樹の香りが口から鼻に駆け抜けやがる……。強烈なのに食べ飽きねえ……」


「旨味の塊だろう? 赤ワインはもちろん、蒸留酒にもぴったり合う珍味だ。ことによっては、これを一年分、くれてやる必要があるかもしれんな?」


「……ククク、おそれいったぜ。……んじゃまあ、伯爵家にタカれないもんか、試してみるかね」


「そうか! 旦那様もお喜びになるだろう」


「だからまあ、今夜はその予行演習だ。もうちょっとその燻製を出しな。一杯やろうぜ」


 執事長もメイド長も、おもわず半目になった。


「いいから出ていきなさい。貴方の寝床は星空の下です」


「おい! まだ野宿させる気かよ! おい!」


 ゴルはさんざんごねたが老練の二人には通じず、毒づきながら離れの裏に消えていった。

 それを見送ったあと、執事長とメイド長は、ハア、と揃ってため息をついて、暗闇のなか顔を見合わせる。


「このままじゃ寝付きが悪いな……。どうだ、一杯だけやるか」


「何が悲しくて貴方と顔を突き合わせて飲まなくてはならないのやら……でもまあ、ちょっと冷えますからね、付き合いますよ」


「相変わらず文句の多い女だ……」


 言い合いながら、二人は厨房に入っていった。

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