第2話 幼女を弄ぶ男

 ネギマール伯爵邸の庭師ボラードはここ数日、庭の隅のとある場所を、なるべく見ないようにしていた。

 使用人が住む離れの軒下、ちょっとした庇があって影になっている一画に、ごろんと寝転んでイビキをかいている男がいる。ときどきモゾモゾと寝返りをうったり、起き出してフラフラとどこかへ歩み去ったりするが、基本的にはずーっと、午前中から日暮れ時まで仰向けで寝っぱなしだった。

 どう見ても浮浪者にしか見えないのだが、なんでも、旦那様がわざわざ遠国から招いた客人なのだという。最初は一階の廊下で寝ていたそうだが、メイド長に物凄い勢いで怒られ追い出されたらしい。

 執事長からは、関わるな、万が一話しかけられたら最低限の答えだけ返せと言われている。

 そういうわけでボラードも、時々ちらちらと気にしながら、近寄らずに自分の仕事をしていた。


 だがその日、午前中の水やりを終えて帰ってきたとき、ボラードはとんでもない光景を目撃する。

 離れに住んでいる使用人の娘……もうすぐ三歳になるネリナが、くだんの客人の上に乗っかっていた。

 仰向けに転がっている男の腰のあたりにまたがり、きゃっきゃっとはしゃいでいる。

 男は珍しく目をさましているようだが、幼児には全く興味がない様子で、両手を頭の下で組み、大アクビしていた。

 男が全く遊んでくれる様子がないのに、ネリナは両手を叩き合わせて、きゃーっという歓声をあげている。


 ボラードは迷いながら、その不思議な場面を見つめた。

 ネリナを引き離したほうがいいに決まっている。……だが、執事長の言いつけもある。男に近づくのはためらわれた。

 判断に迷いながら二人を見ているうち、ネリナが喜んでいる理由がわかる。

 男の顔は相変わらず眠たげな無表情だが、腰は小刻みに動いて、上に乗っているネリナをリズミカルに揺らしているのだ。

 きゃーっ! きゃーっ! とネリナが興奮して叫ぶのを、ボラードは口を開けて見ていた。これはまずい。非常にまずい気がするぞこれ、と思うが、足は凍りついたように動かない。あそこに近寄っていくのはイヤすぎる。

 やがてネリナははしゃぎ疲れたのか、ふらふらと身体を揺らして、ぱたんと男の胸に倒れこんだ。ほっぺを男の汚いシャツにすりつけ、とってもよかったわ、と言いたげに親指をしゃぶりながら、くったりと力を抜く。そのまま、小声で何かを話しているようだ。

 男がそれを聞きながら右手に持っていた何かを悠然と口にくわえ、ニヤ、と笑うのを見て、ボラードは耐えられなくなって目をそらした。

 やばい。あいつやばい。すっげえやばい。なんか全体的に意味がわからんがとにかくやばい。絶対近寄りたくない。

 四十二歳になるボラードは衝撃のあまりふだんの語彙を失いながら、そそくさと物置のほうに歩み去った。明日から当分、ネリナを庭に出すのはやめさせよう、と心に誓いながら。



☆★☆★☆



 厨房で働く女料理人のクシカは、時々、ちょっとしたズルをしている。

 クシカの仕事は料理の下ごしらえと、調味料の管理だ。出入りの商人から調味料が届くときは、そのチェックと支払も担当している。

 この時、商人がちょっとした付け届けをしてくれるのだが、それをクシカは、上に報告せずに懐に入れているのだ。

 といっても、付け届けは本当にちょっとしたもの……試作品の塩漬けとか、果物数個とかだ。わたしが黙ってもらっても、問題になるようなものじゃないよね、とクシカは思う。

 逆にいえば、料理長に報告してみんなで分けても、たいして損になるようなものではない。クシカの良心の痛みを考えれば、そうしたほうが得だ、といえるかもしれない。

 それでもクシカが付け届けを自分のものにしてしまっているのは、彼女に幼い娘がいるからだった。


 クシカは十八のとき、ネギマール伯爵の親戚筋のとある下級貴族の家に女中として奉公にあがり、そこの跡取り息子にむりやり迫られて妊娠した。

 生まれた娘のネリナは、その貴族からすれば一文の価値もない邪魔者にすぎず、クシカはごくわずかな退職金のみ押し付けられて屋敷を追い出されたのだ。

 とあることからこの件を知ったネギマール伯爵は激怒し、その貴族を絶縁して困窮に追いやった。そしてクシカとネリナを使用人として引き取ってくれた。

 クシカは、生真面目で苦労性な伯爵を恩人として慕っている。が、バカ息子によって植え付けられた、貴族への不信感も拭いきれていない。女中でなく厨房での下働きを希望したのも、なるべく貴族の客と会いたくないからだ。

 いつまた貴族の理不尽で屋敷を追い出されてもいいように、なるべく節約してお金を貯めなくては。ネリナのために……。

 強迫観念に近いそんな思いが、クシカのちょっとしたズルの動機なのだった。


 その日も屋敷の通用口で商人から届いた調味料のチェックを終え、同梱されていた付け届け……数切れのチーズを布巾で包んでポケットに入れると、クシカは重たい箱を持ち上げ、庭の隅を通って厨房に向かって歩き始める。


「……いいのかねえ、その、ポケットに入ってるもの。バレたら娘が泣くんじゃないのかねえ」


 聞きなれない声が、すぐ耳元でした。クシカの全身が、総毛立つような嫌悪感で硬直した。


「おっとっと……そいつは落としちゃ駄目な荷物だろ。ひとまず地面に置いて、お話ししようじゃねえか」


 ねちゃっとした粘着質の声で話しかけているのは、数日前に屋敷に来た謎の男……汚れた服に身を包み、不潔な雰囲気を漂わせる、見るからに危険な匂いのする男だった。

 歳はよくわからない。三十前後にも、もっと若くも見える。

 クシカは箱を地面に降ろすと、きっと男を睨む。


「なにか御用ですか。いま仕事中なんで、失礼したいのですが、お客様」


「なに、用はすぐ済むぜ。あんたが素直になってくれりゃあな」


 男はニヤニヤと不気味な笑いを顔に貼り付けている。

 その顔を見て、クシカは礼儀をかなぐり捨てることにした。


「わたしに何をさせたいの?」


「あんたが仕事をクビになることに比べれば、なんてことないささいなことさ。俺は優しい男だからな、そう身構えなくていいぜ……」


 盗んだわけでもないチーズ数切れでクビになるわけがない。この男は、なんでもないことを大げさに言い立てているだけだ。……そうわかっていても、男のヒソヒソ声には、不安を掻き立てる魔力のようなものがあった。


「……俺と取引しようぜ。俺はあんたのちょっとした秘密を黙っておく。かわりに……」


 男の口の端がつり上がり、舌が唇をなめる。

 クシカの目にこらえきれない涙が滲んだ。このまま暗がりに連れ込まれて、あの日のような目に合うのだろう。また、わたしは何もできない……。


「俺にこの、料理酒をくれよ」


「……え?」


「もう三日も酒が飲めなくてな、気が狂いそうだったんだ。ヒャッハー、もう我慢できねえ! いいか? もらうぞ?」


 クシカの返事を待たずに男は地面の箱を開けると、大ぶりの瓶を引っこ抜いて、そのまま両手で口に持っていく。ぐぶぐぶ、ぐぶぐぶ、と音を立てて男の喉が動くのを、クシカは呆然と見ていた。


「ぶはああああっ! たまらねえな、おい!」


「ちょっとあんた、料理酒なんて直接飲むもんじゃないでしょ! 大丈夫なの?」


「らいじょうぶ……だ……」


「大丈夫じゃないじゃない! フラフラじゃない! 何やってんのよ、もう……」


 さっきまで感じていた不気味さは、男からきれいさっぱり消えていた。いるのは、下町育ちのクシカにとっては幼い頃からそこらへんにいた、酒びたりのグダグダの男の一人にすぎなかった。


「ていうか、何も料理酒飲まなくても、この家にはいくらでもいいお酒あるんだから……。一本二本抜いたってわかりゃしないのよ。言ってくれれば持ってきてあげるのに」


 そして下町育ちのクシカは、なんだかんだいってダメ男に甘かった。


「へ、気取った高い酒飲んでも酔えやしねえよ……。だからこれからも、たまーに、料理酒を都合してくれよ。な? 頼むよ……」


「しょうがないわねえ……。ま、わたしは仕事柄、料理酒ならなんとでもなるからいいけど……」


 あれっ? なんだかいつのまにかわたしたち、ダメなヒモとその金づるみたいになってない? とクシカは一瞬思ったが、男が次に発した言葉で、そんな考えは吹っ飛んだ。


「で……もうひとつ、あんたと料理長だけが持ってるはずの厨房の裏口の鍵を、他に誰が持ってるのか、教えてほしいんだがな」


「あ、あんた……!?」


「……おっと、その顔は図星か。へへ……」


「あんた、そんなこと誰からどこで聞いたのよ!」


「なに、ある女が寝物語でな……。作る必要のない料理を、あんたがこっそり作ってるとね……。そこから、まあ、いろいろ考え合わせてみたわけさ」


「お、女……? え、この屋敷にそんな女が……?」


 まさかその女というのが自分の幼い娘だとは思わず、クシカは混乱して頭を振る。


「あとで、離れの裏に来いよ。そこで、あらいざらい話してもらうぜ……」


 男はそう言うと、いつどこから取り出したのか、いつのまにか右手に持っていたイカゲソを口にくわえ、もぐもぐと口を動かしながら歩み去ってゆく。左手には料理酒の瓶をしっかり握っていた。


「へ、へんな奴……」


 取り残されたクシカはそう呟きながら男を見送ったが、やがてなんだか可笑しくなって、一人でクスクスと笑いだした。



☆★☆★☆



 深夜。

 厨房の裏口に、影が忍び寄ってきた。


 影は周囲を伺うと、音を立てないように注意しながら扉に近寄る。かちゃかちゃ、と鍵を使う音がする。

 慎重に扉を開けると、滑り込むように中に入った。

 厨房に人の気配はない。食材を置く大きなテーブルの上に、弱い魔術光をはなつ燭台が置いてあるが、光源はそれだけだった。

 燭台のそばに料理が盛られた皿と、パンが置いてあるのを見て、影はかすかに笑ったようだった。

 そして影はテーブルに近づこうとして……ガッ、と何かにつまずいた。


「……おうおう、人を足蹴にしやがって。どうしてくれるんだ、ええ?」


 粘っこい声がして、何かが床から起き上がる。影ははげしく首を振りながら、裏口から逃げようとしたが……起き上がった何かに腕を掴まれた。


「逃げるなや。あんたの家だろ」


 影はまだじたばたもがいている。


「まあ、十三歳の子供が夜中に腹が減らないわけがないわな。見込み通りだったぜ」


 くっくっ、と笑う男の声に、影はあきらめたように動かなくなる。


「あ、あなたは誰ですか?」


 発せられたのは、甲高い少年の声だった。

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