第3話 「広瀬川と、18歳の貞園と初めての出会い」

「ねぇ、康平。

 広瀬川のプロムナードを歩いていくと、萩原朔太郎の碑があるわよねぇ。

 その碑に、白く濁って流れたるという一節が有るけど、あれにはいったい、

 どんな意味が秘められているの?」



 黒霧島が注がれた有田焼のぐい呑みを、貞園が小刻みに揺すっている。

ぐい呑みは酒器の一種。猪口よりは大きく、湯のみよりは小ぶりな器。

素材や形のバリエーションが豊富なために、コレクションする愛好家も多い。

有田焼や鍋島焼(伊万里焼)などに、沢山の逸品がある。


 「朔太郎は、明治時代の詩人だ。

 前橋で生まれた、近代詩人の先駆者のひとり。

 白く濁りたる水が流れる広瀬川、という碑のことだろう。

 彼が生まれた明治19年頃は、前橋が生糸生産の最盛期を迎えていた。

 日本で最初といわれている官営の製糸工場・富岡製糸場が出来る前、

 前橋に、民間の機械製糸工場が建てられた。

 日本で最初の、機械製糸の工場だ。

 残念ながらその工場は消えてしまったが、記念碑が今でも

 その場所には残っている」


 煮物の火加減を終えた康平が、貞園を振り返る。

3時過ぎに店にやってきて、2時間ほどかけてその日の煮物やお通しを作る。

それが開店以来、まったく変わらない康平の日課だ。



 「ボイラーが登場したことで、生糸を取り出す技術が一気に発展した。

 大量に蒸せるようになったことで、簡単に糸を取り出す準備が出来るようになった。

 糸の取り出しは、熟練した糸取りの工女の技術に頼らざるを得ない。

 準備ができた繭は、糸取り器の前に置かれた、大きな湯釜の中へ移される。

 熱湯の中に浮かんだ繭から、生糸の糸口が引き出される。

 優秀な繭なら、一個から1000mを越える糸がとれるという。

 この作業でつかわれた熱湯は、すぐに汚れて、白く濁ってしまう。

 そのために、たびたびの交換作業が必要になってくる。

 河の中を白く筋になって流れて行くのは、使用済みになった熱湯のことだ」



 「へぇぇ・・・機械製糸といっても、繭から糸を引き出すのは、

 人の手に頼っていたんだ。

 いつか見たおばあちゃんの赤城の座繰り糸と、やり方は同じなんだ」



 「糸を巻き取る方法が、手動によるものか、回転式のものか

 動力による機会を使うものかの差がある。

 だけど、糸を引き出すための作業は、基本的に同じだ。

 貞園は、赤城の座繰り糸を見たことが有るのかい。

 実に貴重な体験だ。今のうちに、もっとたくさん、見ておいたほうがいい」



 「それって、もう・・・・後継者たちが居ないと言う意味なの?」



 「その通りだ。

 赤城山麓の南面で紡がれたものを、特に、赤城の糸と呼んでいる。

 農家の副業として、細々と受け担がれてきたものだ。

 手作業のため、生産量に限度がある。

 終戦後。数十軒あったという座繰り糸の農家も、高齢化がすすんだため、

 いまでは、わずか数名と言う状態だ」



 「消えていく運命にある、古き良き時代の日本の伝統文化ですか・・・・

 もったいないわね。良いものが時代の波に押されて、消えて行ってしまうなんて」



 「お前。日本人でもないくせに上手い事をいうなぁ。

 ただの愛人じゃないな、お前さんは。

 何処か見どころが有ると思っていたが、日本人より日本人らしいな。

 お前さんという、女は」



 「愛人暮らしをしている女の一人です。わたしは・・・・

 あの時、もうすこし私の悩みを康平が、真剣に聞いていてくれていたら、

 こんな生き方には、なっていなかったかもしれません・・・・

 今となっては、とうの昔のお話です。

 康平。思いっきり酔っぱらってみたいから、もう一杯ちょうだい。

 あんたの、黒キリシマ」



 「荒れているなぁ、今日は。

 酔いたいと言う意味は、もう広瀬川の話には興味が無いということか?」



 「聴きますよ。広瀬川の話くらい。いくらでも。

 あなたは私の話を真面目に聞いてくれなかったけど、私はよろこんで、

 あなたの話に耳を傾けます。

 あれれ。いつのまにか康平に・・・・からんでいるなぁ。わたしったら。

 もう酔ったのかしら、あたしは。あっはっは」



 康平がカウンターの中で苦笑する。

貞園が語り始めたのは、二人がはじめて出会ったころのことだ。

もう10年も前の出来ごとになる。

「水と緑と詩の町」を象徴する広瀬川の河畔に、朔太郎の記念碑が有る。

朔太郎の碑へ貞園を案内した時から、2人の不思議な、長い付き合いがはじまった。


 康平が、22歳の誕生日を迎えた時のことだ。

貞園は18歳の美術留学生だった。

梅雨が明けると広瀬川の柳が、川辺の風に気持ちよく揺れはじめる。

川幅いっぱいを流れる水は、群馬県がに本格的な雷の時期が来たことを告げる。


 2人が最初に出会ったのは、駅前の『けやき通り』だ。

野菜を調達するため、康平が駅へ続くけやきの並木道を歩いていた時、

途方に暮れているひとりの女の子を見つけ出す。

画材の入ったバッグを肩から下げ、ぼんやりしている貞園だ。

途方に暮れている姿を見つけたのが、康平はそのまま貞園の横を通り過ぎる。

通り過ぎたものの何故か気になり、数歩先で康平が振り返る。


 「どうしたの君。道に迷っているみたいだけど?」


 「前橋は、初めてです。

 水と緑と詩の町といううたい文句と、朔太郎にあこがれてやってきました。

 でも見たい広瀬川が、どうしても見つかりません・・・・

 狭い街だから、簡単に見つかると思っていたのに、当てが外れました」



 「日本人ではなさそうだね。君は。

 何処から来たの、まだ、若い年齢のように見えるけど」



 「人に物を尋ねる時、質問はひとつずつにしてください。

 何処から来たと言われれば、出身は台湾です。

 いまは都内のアパートに、ひとりで住んでいます。

 美術学校へ通っています。

 若いみたいだがと言う表現は、たいへん失礼な言い方です。

 ついこの間、18歳になったばかりです。

 失礼すぎますねぇ。田舎の街に住んでいる、初対面のあなたは」



 「悪かった。大人びて見えたもので、つい口が滑った。

 へぇ・・・台湾の出身で、18歳になったばかりの女の子か。

 買い物の途中だが、広瀬川でよければそこまで案内してあげよう。

 失礼な口をきいた、そのおわびだ」



 「あら。お兄さん、見かけによらず親切な方ですねぇ。助かります。

 よかったぁ~お兄さんは暇そうな人で!

 そうなの、私は朔太郎の、広瀬川が見てみたいのよ!」



 「暇はないが、親切心で君を案内してあげるだけだ。

 こうみえても料理人のはしくれだ。

 仕込みのために、こうして買い出しの最中だ」



 「和食は、大好きです!

 みんなは、お寿司とか天ぷらが良いというけど、私は野菜を煮たものが大好きです。

 四季を通じて、いろいろな野菜が楽しめるもの。

 初夏の今頃から出回る日本の夏野菜は、最高です。

 生で食べても美味しいもの。

 どうせなら、旬の野菜を、たっぷりと食べてみたいです!」



 「なんだかなぁ。変わっているねぇ、君は。

 その程度のお願いなら、お安い御用だ。

 帰りに、俺の店に寄ればいい。

 旬の野菜でよければ、腹いっぱい、たっぷり食べさせてやる」



 「駄目駄目。私はすこぶるの方向音痴です。

 なんとかなると思ったけど、結局また、道に迷ってしまいました・・・・

 広瀬川へ案内したあと、あなたの買い物が終わったら、また私にを迎えに来てよ。

 一緒に着いて行けば、広瀬川と旬の野菜をゲットできるでしょう。

 わぁ~。道に迷ってしまったけど、今日は、本当に最高の一日だ!

 幸運が、次から次へ舞い込んでくるもの!」



 「実に大胆な子だぁ。

 知らない土地で、知らない人に着いていって、まったく平気なのか君は?

 行動的で勇気があるんだねぇ。今時の美大生は・・・・」



 「あら・・・・私なら全然、平気です。

 日本にやって来た瞬間から、すべてにおいて迷子みたいなものだもの。

 病んでいても、仕方がないでしょ。

 前向きなのよ。台湾からやってきた留学生は。さァ行きましょう!

 あら。まだ自己紹介をしていませんねぇ。私たち。

 私の名前は朴 貞園。

 台湾では『パク・ジョウオン』と発音するけど、難しいので

 日本風に『ていえん』と呼んでください。

 あなたの、お名前は?」



 「俺の名前は、康平。

 呑竜マーケットの康平と言えば、少しは知られた名前だ。

 といっても半径が50m足らずの狭い範囲に、限定されているけどね。

 あっはっは」



 「康平か。いかにも和食が似合いそうな名前です。

 前橋っていい街ですねぇ~。

 私いまからこの街が、日本の中で、一番好きな街になりました!」


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