第2話 「暴れ坂東と、広瀬川の関係」


 前橋市の中心部を、南北に走る弁天通り商店街から、横へ入る小さな露地が有る。

仕事を終えた人たちが家路を急ぐころ。

見落としそうな小さな露地道に、ポツポツと赤提灯の明かりがともる。

40メートル足らずの露地道に、肩を寄せ合うように、呑み屋が並んでいる。

それが呑竜(どんりゅう)と呼ばれる、呑んべェ横丁だ。

人々は古い慣習のまま、この露地をいまだに『呑竜マーケット』と呼んでいる。


 営業しているのは、スナックや居酒屋などの飲食店ばかり。

すべての店が、薄い壁1枚で仕切られている。

1店舗あたりの面積は、13~16平方メートル(5坪~6坪)という狭さ。

カラオケ目当ての客たちが、今日も狭いカウンターへ集まって来る。

一生懸命、マイクを握って離さない。


 康平の居酒屋も、その中ほどに有る。

貞園は台湾から、絵画を学ぶためにやって来た。

どちらかといえば、スレンダーな美人だ。

日本に滞在するようになってから、早くも10年が経つ。

すらりとした綺麗な容姿にもの言わせて、某大手家電メーカー下請けの

冷暖房設備会社の社長愛人に、ちゃっかりとおさまった。


 「他人が見るほど、愛人というお仕事も、気楽なものではありません。

 愛人暮らしは、窮屈です。

 結構、肩身の狭い生活を強いられます。

 台湾には、公娼制度がいまだに有ります。

 ある意味。セックスに関しては、開放的な国と言えます。

 でも日本ときたら、いまだにセックスのことを”秘め事”と呼んでいるわ。

 陰湿なものという見方が、はびこっている後進国です。

 女に関しても、男尊女卑の思想が横行してる。

 ウチの社長ときたら二言目には、女遊びは男の甲斐性だと、啖呵を切る。

 あげく今頃は、夜来香(いえらいしゃん)のママと、2泊3日で

 いちゃついている頃だ。

 まったくもって日本の文化と、金持ちの男達には頭にくる。

 仕事ができる男たちは、色を好む。女を見ればすぐに遊びたがる。

 日本の社長族は全員、揃いも揃って、ドスケベばかりです。」


 

 カウンターへ肘を置き、頬杖を突いて、貞園が愚痴をこぼす。

カラカラとグラスの氷を指でかきまわしたあと、『ふんっ』といつものように

小鼻へ皺を寄せる。そんな風に決まって、おどけてみせる。


 「康平は催促しなければ、私の傍に寄ってきませんねぇ。

 何をいまさら、警戒しているの。

 別に、取って食べるわけじゃありません。

 寂しい女の独り言に、もうすこし真面目に付き合ってくれてもいいじゃない。

 バチなんか、当たらないと思いますけど」


 「一人で飲むのには、なにやら、寂しいものがあるのか?。

 もう少し待て。仕込みが終わったら、いつものように愚痴を聞いてあげるから」


 「少しだけよ、待つのは。

 それにしても、絵の勉強をするために、はるばる台湾から来たと言うのに、

 どこをどう間違えたんだろう。

 気が付いたらわたしは、いつのまにか愛人暮らしだ。

 あ~あ、私の人生は、こんなはずではなかったのに、なぁ~・・・・」


 いつものように貞園が、愚痴をこぼす。

社長は接待と称して、仕事仲間や取引先たちと、前橋市内の繁華街を

夜な夜な元気に呑み歩いている。

帰りを待つ身の貞園は、愚痴をこぼしながら今夜のように康平の店で、

時間を潰す。それがすっかり最近の、定番になっている。



『呑竜マーケット』の西を、関東と新潟を結ぶ国道17号線が走っている。

国道17号線が、前橋市の住吉町一丁目にさしかかると、広瀬川に架かる

厩橋(うまやばし)のたもとに「前橋残影の碑」が建っている。


 この碑は、生糸の町・前橋を象徴して建立された。

中世の頃から前橋では、「赤城の座繰り糸」と呼ばれる座繰製糸が盛んだった。

薪で沸かした熱湯で、ふつふつと繭を茹でる。

柔らかくなった繭から、糸を引き出す。

手作業によって引き出された、独特の風合いと個性を持った糸のことを、

「赤城の糸」と呼んだ。


 明治維新以降。

広瀬川の豊かな水を利用して器械による製糸と、撚糸が盛んになった。

碑には「相葉有流」が詠んだ、前橋残影の句が刻まれている。


 「繭ぐるま 曳けばこぼるる 天の川」とある。

座繰りをする女性の姿が描かれ、白御影石で造られた繭型の湧水が置いてある。

大きな繭からは、絶えず清らかな水が流れ出す。

それを前橋市の紋章を象った丸い台座が、しっかりと受け止める。


 鉄道が発達するまで、多くの物流を利根川が担っていた。

高崎市に近い倉賀野や、もう少し下流にある伊勢崎市の境町には、

水運のための大きな河岸が有る。

幕末から明治にかけて、上州で生産された大量の生糸や繭、蚕種などが

開港されたばかりの横浜を目指して、ここから船で送られた。


 谷川岳を水源に、山の間を一気に下って来た利根川は、

豊富な水量と勢いのある急な流れを、前橋市の周辺まで保ってくる。

利根川には、『暴れ坂東』の異名が有る。

折にふれて、反乱を繰り返すからだ。


 広瀬川は、市内の北部に取水口を持っている。

『暴れ坂東』の急流域を迂回させる目的で、広瀬川の流れは作られた。

前橋の市内を通り、30キロほど南に下ったところで、ふたたび利根川と

広瀬川の流れが合流する。

市内を流れた広瀬川の豊かな水流が、長年、前橋市の製糸業を支えた。


 「へぇぇ・・・・赤城の座繰り糸か。

 で、良く聞くけども、その明治時代と言うのは、いったいいつ頃のことなの。

 例の坂本竜馬が、新撰組とチャンチャンバラバラを繰り広げた、

 あの、古い時代のことでしょう?」



 「大政奉還が1867年のことだ。いまからざっと、一世紀半も昔のことだ」



 「じゃあ、19世紀の中ごろだ。

 台湾でいえば中国本土の支配を受けていた他に、オランダとスペインがやってきて、

 植民地にされていた時代だわ。

 台湾に居住していた現住民は、10民族あまりで、いずれも少数民族ばかり。

 その後、主に、福建省から移住してくる人たちが増えてきた。

 いまでは台湾の人口の大半を、漢人たちが占めています」



 「漢人? 台湾では中国人のことを、そんな風に呼ぶのかい?」



 「日本人は、和人でしょ。

 日清戦争以降、50年間も日本に統治されたことで、私のひいおばあちゃんは、

 日本語がペラペラよ。

 私が早く日本語を覚えたのも、その血を引いているせいかしら」



 「へぇぇ。貞園は、どこで日本語を覚えたの。

 留学の目的は美術大学で、絵画の勉強をするはずだったと思うけど」



 「愛人暮らしの、ベッドの中。

 肌を共にすることで、あっというまに、異民族の言葉を吸収します。

 愛も、セックスも、言葉も全部、本能のままに身につくものです」



 「・・・・あのなぁ、貞園。

 客が居ないとはいえ、過激すぎる発言には要注意だ。

 俺だって男だぞ。男を挑発するような言い方には、充分に注意しろ」



 「あら・・・・この程度の表現で過激になるの?

 そうよねぇ。日本ではあれのことを、『秘めごと』と呼ぶくらいだもの。

 ほらほら、康平。お仕事の手が停まっています。

 早く仕込みを終えないと、お客さん達が集まって来ちゃうわよ。

 うふふふ・・・」

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