3.
こんな夏の昼下がり、猫がいそうな場所。――となると避暑地だ。
川の向こう岸は、草木が生い茂っているのだから、こちら側に比べると遥かに涼しいに違いない。猫が好みそうな場所だ。
ビビに呼びかけようと振り返ると、また前足を舐めていた。
「まずは向こう岸に渡ろうか」
「え。でもさっきあっちにも行ったよ」
「ああ、そうなのか。いや、けどこっちよりはいると思う、猫」
「じゃあ一応……行ってみる?」
嫌そうな顔をするビビを尻目に、向こう岸に渡ろうと橋の方へ歩いた。僕らがあっちへ行くためには、この、木で出来た、宙に小さな弧を描く橋を渡るのが手っ取り早い。ぼくのお気に入り、あの涼みスポットの上を通る橋は、コンクリートで出来た車専用の道路だし、そもそもどの道を辿ればあんなに高いところまで行けるのかわからない。一度ビビと、あの高さから街を見下ろしたいな、という話をしたが、どこをどう歩いても行き着けなかったから諦めた。
足裏に木の柔らかさを感じながら弧状のおしゃれな橋を渡りきると、すこし向こうに猫の後ろ姿があった。茶色くて、毛並みは揃っていない。ところどころまばらに、毛が短くなっている。
「
ぼくが声をかけると、ゆっくり振り向いたのは、やはり伊達さんだった。彼はぼくをその隻眼でじっと見たが、何も言わない。それからひとつ、あくびした。目をつぶったまま橋を渡りきったビビがぼくのお尻に頭をぶつけた。
「その高さで怖いって言ってたら、到底あのコンクリートの橋なんか行けないぞ」
こっちの橋は、弧状の一番高いところでも、水面まで人間一人分だ。あっちのは、たぶんその五倍はある。
「高いのは平気だけど、水が……」
「じゃあどのみち、あっちの橋も登れないじゃないか」
「かもね」
そう言ってえへへ、と笑うビビは、前へ向き直った瞬間、伊達さんを認めたらしい。「伊達さんだ!」と叫びながら走り寄った。その後に続いて、僕も歩み寄る。
「こんにちは!」
「ああ、お前ら、久しぶりだな」
伊達さんは、脳に染み込む低い声で返事をする。右目を怪我していて、それで、伊達政宗から名前を取って、伊達さん。またしても少女が名付け親だ。
「伊達さん、今日、猫、少ないと思いませんか」
僕は三つ年上の彼に敬意を表して話しかけた。ビビは伊達さんの渋さが好きらしく、彼を見かけるといつも興奮気味になる。いまだって、鼻息が若干荒い。
「何か、あるんですか?」
ビビが恐れ多いというふうに聞く。伊達さんは左前足の怪我をしているところをひとつ舐めた。
「きっと、あそこの路地裏に集まってんじゃないか」
「あそこって……」
「ああ、お前らが今渡ってきた橋を戻って、土手を上がるだろ。それから道が広くなるまで右に歩いて……いや。面倒だな。案内してやる」
「わ、ありがとうございます!」
ビビがしっぽをぶんぶん振る。それから、歩きだした伊達さんの後ろを、微妙な距離、憧れが生む距離を保ってついていく。僕はそんなビビを半ば押しやるように歩いた。ビビは橋に差し掛かっても、憧れ効果か、怖がる素振りを見せなかった。
ここにきてから春、夏、秋、冬、そして春、夏、と、もう大分経った気がするが、まだ僕らは、どんな街なのかあまりよく知らない。僕らにも俗にいうなわばり意識というものはあるのだが、その範囲がたぶん、犬なんかに比べれば遥かに狭いのだと思う。橋を渡り切って元の岸に戻ってきた。僕らは普段、この石畳が続く地面しか歩かない。正直言って、どこかほかの場所に行くのは面倒だ。ビビは少なくとも僕よりは探検が好きらしく、たまにこうやって散歩なんかすると、元気になる。
伊達さんはただただゆっくり歩いているのに、僕らは小走りでなければそれについていけない。これが現代では猫のみぞ使える縮地法という技なのかもしれない。
土手をのぼり、道路に出た。のどかだ。瓦屋根の家が道沿いに並んでいる。日差しを集めて焼けるように熱くなっているコンクリートの地面――これだから僕は土手を上るのが嫌いだ――に白で何か描いてあるが、あいにく意味は分からない。そろそろ僕も、文字を読めるようになってみたいものだ。
しばらく伊達さんの後を小走りで追いかけると、瓦屋根の家でなく、真四角の、石畳と同じ柄で出来た建物が立ち並ぶ所へ出た。伊達さんが足を止めると、その建物どうしの隙間から、黒猫がさっと飛び出してきた。黒猫は走りながら僕らを一瞥したあと、道路に沿って向こうへ去っていった。
「そこの隙間ですか」
「そうだ、ここの路地だ。俺は群れるのが嫌いだから、ここから帰る」
そう背中越しに話す伊達さんに、ビビが寂しげな視線を送る。
「行ってみよう、ビビ」
「う、うん」
伊達さんの話では、この隙間に、猫が溜まっているという。ああそうか、ぴんときた。夏だもんな。きっとこんな建物同士の隙間は、涼しい。
振り返って後ろへ歩き出した伊達さんの向こうに、――あの少女が見えた。少女は、友達だろうか、同い年ぐらいの女性と、笑いあいながら、四角い建物に入っていった。少し遠いが、その横顔は、なんだろう、上手く言えないがやっぱりいびつな表情をしていた。僕らに見せる笑顔と、どこか別物の、別人の顔だった。
人間用の笑顔と、猫用の笑顔と、があるような――
「行かないの?」
不思議そうに僕を見つめるビビにはっとして、僕は「行くよ」とだけ答え、目は彼女の残像を捉えたまま、足は路地に向けて、歩き出した。
すこし暗い、その向こうに、たぶんちょっと開けた空間と、毛むくじゃらがいくつか見えた。
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