第2話 アイシス=フレイヤ=フリッグと言う女
02
その時、彼女は内心で歓喜の声を上げた。
今は、卒業式の真っ只中。
目の前では、自国の王子が婚約の「宣言」を行っている……確かに予想とは違っていた形ではあるが、恐らく驚かすために趣向を変えたと言う事なのだろうと思った。
悪気のない可愛い悪戯ならば、好みかと問われると首を傾げるものの。とは言っても嫌いと言うわけでもない。だから、即座に動くのではなく一拍のタイミングをずらした方が効果的だろうと思ったのだ。
自分が、あのスポットライトできらきらと輝く舞台に上がるのならば。
「私と婚姻して……そして、共に国の発展の力を貸して欲しい」
この時だ、今この瞬間で「はい」と答えて手を伸ばし、立ち上がれば……。
「アルテミシア」
え?
と、彼女は固まった。
立ち上がる前で良かった、その声に即座に反応した人達が黄色い悲鳴を上げていて良かった。
無様に立ち上がる事もなく、演技に色を添える様になる事もなく。
けれど、周囲からちらちらと視線を向けられているのは感じた。
さもありなん……ここ暫くは大人しくなったものの、少し前までは狂乱と言う言葉が如実に表されてた状態だった。ちなみに、ここ暫くが大人しかったのは単純な話として国を挙げての学校行事と言う「失敗は許されない」環境で「色恋沙汰? んな暇あるか!」と一蹴される状態で毎年の事である……学校間関係者と卒業生のいるご家庭では歴史ある周知の事実ではあるが、知らない者は知らないので知らないのだ。
故に、彼女も知らなかった。
少し前までは、周囲から「色々」とある程の視線や言葉やらあったと言うのに。まるで、今までの事が夢であったかの様にパタリと出会う事も声をかける事も、手紙さえも来なくなったからだ。事前に「卒業式があるから忙しくなる」と言われていた為に、寂しかったけれど耐える事は出来た。それまで、どんな思い……善意か悪意かは知らないが、彼女に向けられた人々さえも忙しそうにしていた為に日常が静かになったとほっとした程度の事しか考えていなかったくらいだ。
いつも、特に暫くは「賑やか」だった事もあって常に側にいた人物さえも近くにあるのは難しい事も多く、済まなそうな顔をさせてしまうのは少し心苦しかった。
でも、それも今日でおしまい。
そう、思っていた。
「はい……喜んでお受けいたします」
何故? どうして?
彼女の中では、そんな言葉がぐるぐると渦を巻いていた。
僅かな時の後で、周囲からかすかに聞こえる程度の声がした……どれもが彼女を、アイシスを嘲笑っている声に聞こえた。
実際にはそうで無かったとしても、アイシスには関係なかった。
◆◆◆
アイシス=フレイヤ=フリッグ、それが彼女の名であり今の構内で知らぬ者はモグリと言われる程の人物だった。
何故か?
それは、端的に言って彼女には才能があったからだ。その才能は学力でも体力でもなく、人を……異性を誑し込めると言う才能だ。元々、その体質はあったのだ。彼女の今は亡き実母からの遺伝と言うもので、だからと言って僅かに「嫌われにくい」と言うだけで即時に恋愛感情に持ち込めるかと言えば、そうでもないのだが。
ただし、アイシスにしてみれば充分に波乱万丈だったと言えるだろう。
そもそも、実母フレイヤは平民も平民。ドがつくほどの平民だった。生まれどころか知っている限りのどこを見渡しても貴族どころか有力者など身内に存在したことはなかった……それでも、近くの男爵家でメイド業に就けたのは今思えば魅了に近い体質のお陰とかいうのもあったのかも知れない。実際、顔立ちが物凄い美人と言うわけでもないのにモテていたと言う過去はある。
男爵家は奥方に多少の勘気こそあったものの、特別に裕福でもなければ貧乏でもない男爵家は緩やかな衰退をしていた……特別にこれといった名産があるわけでも無ければ、有力な家と子供を嫁がせようと言う話もなく親達は子供達の言動に興味を持たなかったというのもある。ただし、特別に冷たいとか金遣いが荒いという事もない彼らは非常に「平均的な貴族」と言えただろう。そう言う意味からすれば、男爵家は特別に悪人という程に酷い家でもないし人達でも無かった。ただ、運が悪かったのだろう。
ただ、同じ程度に自分達や領民の生活を向上させようと言う意欲が欠片も想像出来なかっただけの話だ。
その日、男爵家には客が訪れていた。伯爵だ。
男爵家より上位の家、しかも当主が訪れるのに失礼な真似をするわけにはいかなかったので人当たりが良いフレイヤが伯爵の相手をした。伯爵に襲われたフレイヤではあるが、男爵夫人にくれぐれも伯爵の機嫌を損ねてはいけないと強く言われていた事や、上手く立ち回る事が出来なかった為に抵抗しきれなかった。
その後、フレイヤは子供が出来ている事が発覚……当時、フレイヤは体調が酷く起き上がる事さえままならなかった為に男爵夫人は男爵との間に出来た子供だろうと思い込んだ。当の男爵が所要で留守にしていた事や、奥方の勘気に恐れをなした男性に、男性に気に入られやすいと言う事を面白く思っていなかった女性に庇われる事がなかった事も理由の一つだろう。
陥れる、と言う事は誰もしなかったが。だからと言ってフレイヤに有利な証言と言うのも一つもなく曖昧模糊な証言ばかりだった事も、勘違いや思い込みを増長させる原動力となった。まさしく、燃え盛る炎に燃料を大量投下した上に風を起こす程の勢いだった。
その為、フレイヤは身重の体で男爵家から出される事となった。実家に戻る事も考えないでも無かったが、当時のフレイヤは実家に戻るだけの体力も無かったのだ。その為、男爵家からほど近い所で立ち止まるしかなかったが男爵夫人の勘気は領内に広がっており、まともな場所に居住を構える事は出来なかった。そこで普通ならば息絶えてもおかしくなかったのだが、異性にのみ効果のある魅了体質と体を壊す程の妊娠のおかげで周囲から迎え入れられ……場所的に言えば、とても治安のよい場所ではなかったのだが。それでも、赤ん坊が生まれるまではと温かい目で見つめられていた。
それが女の赤ん坊、アイシスである。
アイシスが生まれる時に立ち会った人々は事情を知っているが、残念ながら産後の肥立ちが悪くまともに動ける状況にまで回復しないフレイヤの事をよく思う者は少なかった。特に、半分寝たきりになっている状態だと言う事で良くする男性に思うところのある者からしてみれば視線は冷たい……それでも、アイシスにとっては生まれた時から過ごした場所だった。母親程ではないが体質を受け継いだ身の上では女性からは冷たく厳しくされたし、男性からは甘やかされた。
そんな厳しくも優しい日々は、突然終わりを迎えた。
実の父だと名乗る貴族が、その姿を現したからだ。
当初、男爵の不義の子だと思われてフレイヤを追い出した男爵夫人だったし、戻った男爵をなじったりもした事で夫婦仲は険悪。ありもしない罪で責め立てられれば当然だが、使用人達は気が気ではなかった……男性は自分達がメイド一人を守る必要はなかったとしても。罪もない事は「知って」いたからだ。女性は「僅かな嘘」により雇い主と妻の仲を拗らせた自覚があったからだ。
男爵は寄り付かなくなるし、男爵夫人の八つ当たりは日に日に激しくなっていくと言うもので罪悪感からではないのが笑うポイントかも知れない。
そんな折、以前にも訪れた伯爵が再び訪れ爆弾を投下した。
「あの娘は具合が良かったから、また部屋付きにして欲しい」
ここで、男爵夫人の顔色は悪くなった……男爵夫人は自分の思い込みで罪もない娘を追い出した事よりも、上位の家である伯爵の機嫌を損ねると言う問題に気が付いたからだ。同じく、男爵夫人と同じ女性も顔色を悪くさせていたのは、より男爵夫人の機嫌が損ねられるのが決定した事で更なる八つ当たりをされる可能性と。自分達の発言から雇い主よりも高い身分の人物の機嫌を損ねた事で生じるかも知れない「不幸」であって、身籠った一人の娘へ命の危険性が高く酷い目に合わせたから、と言う人道的な話からではない。
そして、男爵はようやく事情を把握して痛む頭でどうしたものかと考え込み。男爵付きの男性使用人達は「それ見た事か」と表情こそ隠しているが内心で女性を蔑んだ目で見ていた。
何とかその場は「あの娘は家の事情で辞めました」と男爵がフォローしたが、かと言って伯爵も諦め切れなかったのか話題にフレイヤの実家を教える様に言ってくるし、と言う事でごまかし切る事が出来なかった……その為、伯爵はやる気のなさそうにフレイヤ探索に乗り出した為に時間がかかり、ようやく探し当てたのはフレイヤが亡くなった2年ほどたった頃だった。
母親が男性の温情で生かされているとは言っても、女性からは睨まれていたためにアイシスは弱った母親の代わりとばかりに物心ついたから働いていた……働かされていたと言っても良いだろう。幼い頃はまだ温情もあったが、ある程度の成長を見せると母親と同じように男性からの扱いは良くなって行ったので評判はよく無かったが、女性同士での立ち回り方を覚えたので嫌われるほどは酷くなかった為に、そう言う意味では母親より上手く生きてきたと言えるだろう。
ただ、もう少したてばアイシスも年頃になるので男の目がどんどん熱を帯びてゆくのが判っていたのが悩みどころだった。少なくとも、アイシスの眼鏡にかなう存在は近場には存在しなかったのである。
周囲からは地域の有力者の愛人か、商人の後妻か、貧乏貴族の長男以外の嫁あたりが妥当ではないかと言われていた……アイシスを狙っているのは、その当たりが一番熱を上げていたからだ。とは言っても、こんな治安の悪さが目につく地域でまともな結婚など望むことも出来る筈もなく……弱って行く母親の為に身売りでもしようかと思ってた矢先に亡くなったのだ。
悲しさは何よりもあったけれど、心のどこかで「それ以外」の感情があった事をアイシスは否定しないだろう。聞かれないから言わないけれど。
そんなわけで、アイシスにはしばらくの時間が与えられた……その2年間の間に色々とあった事もあって、お年頃になったアイシスが時間と言う最大の敵に追い詰められた頃。
フレイヤが2年程前に亡くなっている、そう告げた時の伯爵の顔は思い出せない。
初めて会う父だと名乗る人物にとっては、正妻との間に生まれたのが男子だけだったので娘のアイシスを何とも思っている様には見えなかった。普通ならば、いっそ憎まれてもおかしくはないのではないかと言う気が何となくしたアイシスではあったが、それでも覚えている母親と伯爵の中のフレイヤとは同じ人物でありながら別人なのだろうと判断した。
だからだろう、伯爵は「お前が彼女の娘であるなら、私の庶子にしてやっても良い。ただし、お前は今から男爵家後見の元で学校に行き、広い人脈を作れ。それが出来たら認めてやろう」などと言うのだから、頭が痛い話である。
これは、深読みすると「男を誑し込んで来い」と言う事になるのだが、身分制度がある以上は男爵家の後見があると言う事は平民だと主張する事で養子扱いにすると言ったので流石に問題だと言う事は理解していたのだろう。大した違いではない気もするが、その違いが後々に響く可能性もあるのだから出来る事はするに限る。
実際、貴族の後見がつくのは元から平民か貴族から平民堕ちをした者に限られるし。養子として扱われる場合は身内のどこかしらに貴族の血が入っている事が暗黙の了解で、そうなると周りの対応と言うのも、ころっと変わるのだから難しいと言うより手間のかかる問題である。
実際、アイシスに渡された人物リストは王子を筆頭とした上位貴族が名を連ねている……大商人と言われる人達の名や、今はまだ中堅に差し掛かっているあたりだが伸びしろのありそうな家の名も入っているあたり人を見る目はあると思われる……アイシスにしてみれば実行する方の身にもなってくれと言いたい所ではあるし、別に伯爵家のご令嬢になりたいかと言えばそうでもないが、実際には名前だけとは言え養父母となり実母フレイヤを追い出し結果的に命に関わる事になった男爵家に一矢報いる事が出来れば、それで良かったのである。
確かに、結果的にフレイヤが亡くなった原因と言えなくはないが。そもそも元凶は自称実父なのだから恨むべき相手は、どちらかと言えば伯爵の方になるだろう……一度しか会わず、代理人として男爵が指定されたので恨むに恨めない状態ではあるが。
ただし、ここで断ればろくな目に合わないだろう思った事や。断る事など欠片も考えていない伯爵がどう出るか想像が付かなかった事、それと一人きりではなく幼い頃から共に過ごした準男爵家の子息……嫁入り候補の一人が一緒に行く事になっているのだから、僅かに不安は減少したと言うのも行く事を決めた理由の一つである。
正直、アイシスは別に誰かを恨んだりしてはいなかった。
恨んでも良い人物や、恨んでも良いと言われた相手ならば何人かいる……幼馴染の準男爵家子息なども言っていたけれど。手間暇や情熱を考えると疲労度の方が高いだろうなと何となく思うあたり、別に情に薄いわけでも無いのだが。
実母フレイヤの人生には、可哀想だと思うし憐れんだりもしている。最後に息絶える時を、辛そうな様子でいたのに仕事だからと家を出たアイシスはフレイヤの瞬間を知らない。しかも、帰ってきたアイシスが見たフレイヤは……殺されていた。
調べた所、アイシスは知らなかったが何人かの男性に見張られていた犯罪者の一人が入り込んだ所に踏み込んだ女性との痴話喧嘩に巻き込まれた末だった。それでも、普段ならばもう少し逃げるなり何なり出来たのだろうが体調が悪化していた為に逃げ遅れたのだ。
貴族の家で使用人になれたのは幸運としても、幼い頃から異性に目をつけられ同性に嫌われて、挙句襲われ孕ませられて、しかも襲った相手が別人だと思われて追い出され、出産までもあれこれあったし出産すれば半分は寝たきりで……フレイヤの人生とは、一体何だったのかと思える程度には娘として女として同情していた。
それに、周囲の気持ちも判らなくはないのだ。
体質である事は知らなかったが、異性に好かれている姿を見て同性は良い気分には見えないだろう。自分と大差ない、絶世の美女と言うわけでもない、特権階級の人と言う訳でもない「特別に好かれる理由」が同性であると言うだけで理解出来ない。
なのに、自分と彼女が同じ事をしても自分は窘められて彼女は苦笑されたり褒められたりする。時に自分の妻や恋人、娘より大事にされていれば当の妻や恋人、娘が面白いわけもない。
何より、人々の中には母親に冷たく当たった女性でも後悔している人もいたし。そんな親のもとで生きるには強くなければ難しいと思った人達から、指導もあったのだ。もちろん、母子揃って意地悪をしてくる女性もいれば母に辛く当たった罪悪感で親切にしてくれる人もいたのは事実ではあるけれど。
確かに、こんな境遇になった原因である男爵夫妻と伯爵は人としてどうかと思うが、もうアレは理解出来ない別種の生き物なのだと思えば恨みつらみも少なくて済んだ。
何より、その日まで会った事も無ければ聞いた事も無かったのだ。
フレイヤは、我が子に誰かを恨んだり呪ったりする人物になって欲しくないと思っていたのか。アイシスにしてみれば、調子が良くても一日の半分以上を寝たきりで過ごしていた為に、恨み言を口にする余裕がなかっただけではないだろうかと言う気もしないでもないけれど。
アイシスにとって、貴族と言うのは己とは異なる生き物だと言う認識だった。
確かに、似たような形をしているけれど中身は同じ生き物として見るのは難しいと感じていたからだ。けれど、初めて有力者の子供達の集団に放り込まれて困惑したのも事実だ。
育った地域は、治安が良いとは言えないけれど秩序があった。
弱肉強食はメインではあるが、それだけならば乱暴狼藉を働くならず者の集団にしかならない。特に、女子供は速攻で消え失せると言う羽目になる……それでも、ある程度の割合で子供は生まれるし、子供が生まれると言う事は女性も居ると言う事だ。女性が居ると言う事は、腕力だけが上下関係を定める世界ではないと言う事でもある。
けれど、貴族とも言い切れない子供達は何と言うか……普通に感じたのだ。
もちろん、その価値観から「あ、こりゃどうしようもないや」と思う事は少なくなかったけれど、それでも大人になりきっていないからか実の父だと名乗った伯爵より人間味を感じた。少なくとも、どう言う意図かは知らぬが基本的に用事がある時は手紙でやり取りをしていたので会いに行った事も無ければ来る事もない男爵夫妻もそうだろう……ちなみに、男爵夫妻の中は決定的に拗れて男爵夫人は別邸で半ば軟禁状態で社交界に出る事も出来ず、男爵は男爵夫人を見限って都市の邸宅に女性を住まわせていると言う話も耳にしたが、アイシスにとっては「ふーん」の一言で終わる。
そう言う意味からすれば、幼い頃から共に過ごしていた準男爵家の子息であるユーノ=デュールも貴族のくくりに入るのだろうが、特に領地があるわけでもなく治安の悪い地域で普通に過ごしていた一家を見て貴族と思うのは難しかった。
だから、なのかは判らない。
ただ、アイシスは思うままに振る舞っただけだ。
貴族であるならば眉を顰められる言動ではあるし、アイシス自身が貴族だと認識されていなくても貴族と付き合いがあると言う時点で身に着けておかなければならない制約は幾らでもある。
実際、名ばかりではないかと思っていたユーノでさえ正式な場ではきちんとした振る舞いは出来るのだ。
だと言うのに、見目の良さで近づく女性に辟易する者があれば「駆け引きだと思えば良いじゃない、それが嫌なら薬や刃物で顔を潰せば?」と言い放ち。実家の権力に引き寄せてられる人々にウンザリする者があれば「実家を捨てるか相手を踏みつければ?」と助言にもならない事を口走り、己の出来の良さの為に望まぬ兄弟喧嘩を周囲に決めつけられた者があれば「責任を取らせれば良いじゃない」と告げた。
どれも、アイシスにしてみれば考えるだけ無駄じゃないかと思える程度の事ではあったが、それは大体が良い方向に行ったらしい。特に、兄弟喧嘩に至っては後に王家の王太子と弟王子の話だと聞いて「相互理解がなってないって怖い……」と白目をむいたほどだ。
流石に、不敬罪と言う言葉と意味くらいは知っている。
アイシスに言わせれば、行く先々で待ち伏せかと思うほどの頻度で苦悩に満ちた麗しい男子生徒と言うものが目の前に転がってくる程度の認識でしか無かった……時折、教職員とか修羅場に巻き込まれかけるとか言うのもあったが、忠犬か背後霊かと呼ばれているユーノが撃退してくれるので物理的な問題は少なかった……精神的な問題と疲労はおなか一杯だと断言出来る程ではあったが。
異性間の問題は、ある意味でどうでも良かったが問題は同性間だ。そちらは準男爵家で子息でもあるユーノには手が出せない領域な為、アイシスは自力で立ち行かなければならなかった。
故郷と呼ばれる所では、おべっか使いだろうが何だろうが女性を持ち上げて代わってあげて、ついでに相手の望む情報を示してあげればある程度は回避出来た処世術だ。構内でも多少は鼻薬や太鼓持ちは効果があったが、彼女達にしてみればアイシスが声をかけられる時点で気に食わないし、断れば鼻持ちならないと言うし、受け入れれば生意気に映るしと八方塞がりなのだろう。理不尽である。
言う事もやる事も、純粋培養された貴族では毎日が命を張った生活をしていたアイシスにしてみれば大したダメージにはならないが……かと言って、全く影響がないわけでもない。流石に、小さな嫌がらせを延々とされると鬱陶しいことこの上ないのだ。積み重なればいい加減に嫌になる。
だから、かも知れない。
その日の事は、思い出しても色々とおかしかったと言えるだろう。
アイシスは元が平民で治安も悪い地域にいたので、たかだかお嬢様程度の嫌がらせなど何とも思わない。何しろ、百戦錬磨には程遠い世界の住人達なのだから小説の受け入れぐらいしか意地悪の知識など持ちえない……それはそれで地味に面倒な嫌がらせではあるが、かと言ってやり返す程の必要性も感じないのだ。
日常生活で怪我をする可能性さえ持ち合わせない人々と、毎日が生死不明状態のアイシスでは最初の立ち位置からして違うのは事実だ。
元を潰せば良いのでは? と思わないでもないし、構内にいる間は出来るのではないかと思ったりもしたが……実際には彼ら上級貴族には大なり小なり護衛がついているのだから無駄な行為だった事だろう。その護衛が同じ学校の生徒である場合もあれば、影とか闇とか呼ばれる立場の人達である事もある……他にも何かしらあるらしいが、そのあたりは詳しくは知らないのは良かったのか悪かったのか。
たまたま、その日は寝起きが悪くて。
たまたま、引っ付き虫のユーノは留守にしていて。
たまたま、定期連絡が届いて。
たまたま、昼食のメニューに食べたいものがなくて。
たまたま、たまたま、たまたま……。
一つ一つをみれば些細な事ではあるのだ、普段ならば寝起きどころか体内コントロールに長けていなければ生きて行くのは難しいし、ユーノとて普段からずっと一緒にいるわけでもない。定期連絡は男爵家からは自分達を伯爵に売り込むような命令書だし、伯爵からは手の内のものがいるのか逐一細かいので報告者は女性なのかも知れない。好き嫌いなんてしていたら食いっぱぐれる事もあったが、食べたら体に合わなくて死にかけて以来食べられないものが出た。
そんな風に心が折れそうになった時に、うっかり優しくして貰ったのだ。王子に。
エンドヴェリクス王子に……あまつさえ、エドと呼ぶ許可まで貰った。
これで、有頂天にならいのはおかしいだろう。
過ごす時間が増えて、お嬢様達も過激になって行った。当事者であるアイシスは最も堪えてはいなかったが、これまでの経験と勘から「傷ついた乙女」で居る方が心証は良いだろうと言う判断でしゃしゃり出ない事にしていたあたり良い性格である。
恐らく、アイシスの本性を知っている存在があれば目を丸くして驚いた事だろう。見た目は儚げな少女なのに口から出るのは割と辛辣な言葉が多いのだ、これは必要以上に優しくしていると思われないようにする処世術ではあるが、効果はいまひとつと言った感じだろう。
苦しい顔を浮かべて、悲しげな雰囲気をまとえば、勝手に男達は思い込んでくれた。
中には、勝手に婚約破棄をする男子生徒もいたらしいがアイシスが望んだわけでもない事までも明後日の所で責任を押し付けられるのは冗談ではなく、遠回しではあるがエンドヴェリクスには恋愛感情がある事を伝えていたのだ。
だから、信じて疑う事は無かった。
その時まで。
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