『ブックカバー』
広瀬弘樹
ブックカバー
私はしがない大学院生だ。修士論文を書く傍ら、象牙の塔から俗世へ回帰するために職を探す毎日である。
昨今の就職難は骨身にこたえるが、私の鞄の中には必ず一冊の文庫本が入っていた。
本は暗澹に落ち込む気分を吹き飛ばす猫の写真集や小説だったり、次のゼミでの発表に使う参考文献であったりしたが手に馴染んだブックカバーをかけて文庫本を持ち歩くのが私の習性なのだった。
ある日いつも使っているブックカバーがほつれてしまっていることに気が付いた。
このブックカバーはある飲料水を買ったときにオマケとしてついてきたもので、黄色と黄緑の間の色をした生地に紅い鈴蘭らしき花と笹のようにまっすぐな青い葉の模様がプリントされた安物である。鮮やかな緑の細いリボンが縫い付けられて栞代わりに挟めるようになっている。
特別思い入れもなかったが以来使い勝手のよいブックカバーが見つからなかったのでずるずると使い続けてきたものだ。
一度綻びを見つけてしまうとどうにも座りが悪い。
そんなわけで私はここ数日ブックカバーを新調しようとあちこちを回っている。しかしどうしたわけかどれもこれも私の好みに合わない。
どうせ使い潰すのだからさほど高価なものでなくとも構わない。だからといって紙やセロファンでは脆すぎて面倒だ。なので適当な布のブックカバーを求めてあちこちの雑貨屋やら本屋やらを虱潰しに当たっている。
大学の購買に置いてあるブックカバーはこの地方の特産である職人の手で織られた織物にでかでかと大学の紋章が入っていて、さほど愛校心が強くもない私には恥ずかしくて外で使う気になれない。
街に出掛ければと思ったが布製のブックカバーを見つけても価格が高すぎるか柄が気に入らないかのどちらかだった。
いっそのこと自分で作ってしまえばいいのではないかとも思ったが自分の不器用な手では縫い目もぐちゃぐちゃで目も当てられない代物になるという不安が勝った。
さてどうしたものか。改めて理想のブックカバーを思い描いてみる。
サイズは文庫用のそれこそありふれた物だ。
しかし文庫本といっても100ページもないものからレンガの如きものまで私の本棚に収まっている。できれば厚みに合わせて調節できるものがいい。
材質は布が良い。
皮では夏の暑い時に持ち歩きたくはないし、紙やセロファンでは外で読むときに心もとない。しかし帆布では布が厚すぎる気がしてならない。やはりリネンかそれに準ずる生地が好ましい。
さて次は色と柄だ。
落ち着いて本を読めるようなのが一番だと思っている。だがそれでいて華やかさも欲しいのだ。なので寒色か、明度の低い色合いの生地に模様が描かれた布が良いのではないかと思った。
そこではたと思い出す。そういうブックカバーを探してどれもこれも気に食わなかったのではないか。
適当なものでいいと口では言ったものの結局妙にこだわりが多いではないか。こんなことだからいつも時間を無駄に使ってしまうのに、この悪癖からは逃げられないようだ。
新しいブックカバーを探すのは止めて、いつものブックカバーを洗い、ほつれ止めでも買ってきて修理すればまだ使えるはずだ。無理に探すことはないさと思い直した私は早速いつものブックカバーを洗濯機に放り込んだ。
結果は失敗だった。
まず色が落ちてしまっている。気になっていたほつれも縫い目まで及んで崩壊寸前だ。私は無暗な行動で最後の砦まで失った事を後悔した。
時計を見ると既に午後八時を指している。今から外に出ても開いている店はこの辺りにはない。
腹を括って裁縫箱と端切れをしまった段ボール、それからクローゼットの奥に眠っていた小型ミシンを引っ張り出す。簡単なものであればすぐに作れる。もとより小物作りは得意な質だ。
端切れを漁ると随分前に衝動買いした青い花がプリントされた綿布が出て来た。ああ、まさにこういう柄を求めていたのだ!
嬉々として型紙に当てたが青い花の綿布は悲しいかな、長さが足りなかった。あと10センチ横幅があればまさに理想のブックカバーが出来たのに。
意気消沈しながら次の布を見繕う。青と水色、それに白のシーチングを発見したが少々厚みが足りない。白と黒の市松模様の布もあったが更に薄く、布の向こう側が見える程だ。
フェルトは何色も大きなものがあるが外で読む為のブックカバーだ。すぐに毛玉が付いたりするに決まっている。
やはり紙で誤魔化すかと思案に暮れる中、ある事に気がついた。市松模様の布を表地にして白いシーチングを裏地とするどんでん返しでブックカバーを作ればいい。
どんでん返しで作るブックカバーの片端は袋状だがもう片方はベルトで本を固定する。本の厚みにあまり左右されないタイプだ。布も二重になるので強度も十分だろう。
私は早速型紙を写し、布を断って表裏の布とベルトになる予定の長方形の端切れを作った。それから白い3ミリ幅のリボンを適度な長さに切った。これを栞としてつければ申し分のないブックカバーになる。
どうせ作るなら少しでも丈夫にしたいと思い、接着芯も準備する。裁縫を始めた時に買ったはいいが結局使うこともなく仕舞いっ放しになっていた物だから遠慮はいらない。
接着芯をつけるのには当て布をしてアイロンをかけろと説明書きにあった。ハンカチにアイロンをかけるついでに当て布代わりにすると面倒だった家事がするりと終わった気がした。
接着芯を付け終われば次はバンドの四方を縫って、裏地に縫い付ける工程に入る。ここで位置を間違えると面倒なので慎重にレシピに従って縫い止める。
後は裏表に二枚の布を合わせてガイドの線通りに縫うだけだ。順調に縫い上げていく。ほとんど直線を縫うだけなので縫い残した場所からひっくり返すと綺麗なブックカバーの姿が出て来た。
これをアイロンにかけて落ち着かせ、縫い残しを閉じれば完成である。私は鼻歌混じりにアイロンをかけて意気揚々と仕上げをした。
出来上がったブックカバーを早速読みかけのラヴクラフト全集の三巻に掛ける。布と糸、リボンにボタンと様々な裁縫道具が散乱した部屋の中で産声を上げたブックカバーは素人仕事なりに丈夫そうで、ほっと一息ついた。
明日からはこれを使うのだと思うとなんだかむずがゆい気持ちになり、早々に後片付けに入った。流石に寝場所は確保してあるがこのまま就寝するのも落ち着かないなどと訳もなく独り言を言いながら。
あらかた部屋を片付けたところで細く白いサテンのリボンが一筋机に置いてある事に気がついた。17,8センチ程度に切り取られたその白いリボンは恨みがましげにてらてらと光っている。
嫌な予感がした。
先程出来上がったばかりのブックカバーを確認する。何かを示すように短い縦線が文庫本の背の中央辺りにチャコペンで書き込まれていた。
そして思い出す。私は栞代わりにこの白いリボンを市松模様のブックカバーに付けようとしていたのだった。
時間が経つと消えるというチャコペンのインクは数日たった今も消えていない。しかし新しい相棒はまるで何年も共にあったかのように私の手に馴染んでいる。
理想通りのブックカバーではないが自分で作った自分のブックカバーだ。そう悪い気はしないし、反省は次に活かせばいい。何だったら栞も作ってしまえばいいのだ。
市松模様のブックカバーを掛けた本をバッグに入れ、今日も私はリクルートスーツに身を包む。気長にやれば自分にあった職場も見つかるだろう。
『ブックカバー』 広瀬弘樹 @hiro6636
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