後編


 奮発して焼き肉を食べに行く事にした。しかもこの界隈じゃ一番高級な焼き肉屋さんに、勿論、私はサラダと冷麺しか食べないけど、ユウ君の送別会みたいな物だから、彼の好きなもの食べさせてあげないと罰が当たる。

 サシが沢山のった桃色の肉を焼いて、頬張るユウ君は、恍惚の表情を浮かべ、心の底から美味しそうに高級なお肉を味わった。

 私がお魚しか食べられないから、あんまりお肉を食べさせなかったけど、こんな事になるならもっとお肉を食べさせてあげればよかったと、今更ながら後悔していた。

 焼き肉屋さんの帰り道に、レンタルビデオショップに寄って、例の海外ドラマを続きからシーズン1の最終巻まで借りて、家に帰り、お風呂で焼き肉の残り香を落としてから観たけど、途中でユウ君は眠ってしまい、結局、シーズン1の最終回を観る事は出来なかった。

 ソファーで寝ているユウ君に毛布を掛けて私はベッドに潜り込んで目を閉じたら、貴重な時間をこんな事に使っていいのだろうか疑問に思えてきて、枕元にあったスマホで時刻を確認すると、最終日の日曜日に代わって数分経っている。

 暗闇に慣れてきた目でソファーで眠っているユウ君を見た。そこにいるのは素性の知らない女子高生。でも、どうして彼女がこんなにも愛しいのか、自然と身体は動き、ベッドを出て寝息を立てる女子高生に覆い被さった。

 滑らかな長い髪を優しく撫でみると、「ん」という甘い声を出し、寝息と共に微かに動く唇に自分の口を近づけると「ナオ?」不意にユウ君の目が開いて視線が合う。

「ユウ君、ごめん。その‥‥‥」

「いや、いいんだ」 

 妙な沈黙が暫く続き「本当は俺だって、ナオが欲しい」とユウ君は言て、私を少女の細い腕で抱き締めてくれた。

「こんなの、辛い、辛すぎるよ。ユウ君、今日でお別れなんて‥‥‥」

「最近、よく泣くよな」

 そう言うユウ君の目にも涙が溜まっている。

「よし、逃げてしまおう!」

「えっ!?」

「まだ大半の人が眠っている明け方、朝日に向かって逃げる若い二人。なんかカッコよくないか?」

「下手なポエム。カッコよくないよ」

「小説家志望に言われると自信なくすな。でも‥‥‥」

「でも?」

「気持ちは本気だ!」

 二人の行動は早かった。すぐに起きると明かりを点けて荷造りを始めた。旅行用のボストンバックやキャリーケースに衣類や日用品をまとめて、私の軽自動車に乗せる。出発の準備が整った頃には時刻は丑三つ時に差し掛かっていた。朝日ではなく月夜に向かって逃げる。ユウ君のカッコよくないポエムのようにはいかなかったが、何故か私はワクワクしていた。

 未成年を連れて逃げるのに罪悪感は全くない、長い旅行に出掛けるような気持ちである。何処へ行くかは決めてある。私が自分の小説のモデルにした街だ。

 ユウ君に運転させるのは法律上問題が発生するので、私が運転席に乗りエンジンを掛けると、カーラジオからベン・E・キングの”スタンド・バイ・ミー”が流れ始めた。

 適当な英語で曲に合わせて歌い始めるユウ君、ハンドルを握りながら私もつられて歌い出した。

 月明かりに照らされた住み慣れた街。もう戻ってくる事はないと決心した逃避行。

 曲が終わり陽気な女性DJが喋りだした時、ユウ君はカーステレオの電源を切って「後悔はしないか?」と聞いてきた。

「しないよ。寧ろ、ユウ君を手放す方が後悔する」

「そうか」とだけ言って、長い髪をかき上げて窓の外を静かに眺める。

「けど、どうして急に逃げようなんて言ったの?ユウ君らしくない。もっと大人しくて温厚だと思っていたのに」

「たまには冒険もいいだろう」

 郊外の田園地帯の真ん中に交差点があり、信号があり赤になった。深夜なので私達以外に車は走っていないが、一応停めた。

「ナオ、こんな時に言うのもおかしいかもしれないけど‥‥‥」

「なに?」

「俺と結婚して欲しい」と言って、ケースに入った指輪を私に見せた。胸が締め付けられる程、嬉しくて私は言葉を失い両手で口を押さえながらただ頷く事しか出来ない。

「俺が最後に出ていった日。プロポーズするつもりだった。けど、あんな事があったから指輪を渡せなくて、この世に留まったんだと思う」

「成仏しそう?」

「いや」と言ってユウ君は笑った。

 信号が青になる。しかし交通量の少ない深夜、私の車以外に走っている車両はなく、私はブレーキを踏んだままでも、文句を言う人なんていなかった。左手を差し出し「指輪、はめてよ」と言った。ユウ君は何も言わずケースから指輪を取り出し私の薬指にはめた。銀色に輝くエンゲージリング、飾られた小さな一粒のダイヤモンドは一等星のような強い輝きを、深い夜の闇の中でも輝いていた。

「ユウ君」

 恋人、いいえ、生涯のパートナーの名前を呼ぶ。

「これからは、ずっと一緒だ」

 お互い強い引力で引き寄せられたかのように、自然と2人の顔が近づく、私達の旅路をもう邪魔をする者はいないと思っていた。

 不意に車のエンジンが止まり、おかしいなと思ったとき、電源を切った筈のカーステレオから「ルール違反だよ!」という声がノイズに混じって聞こえてきた。


 

 プロポーズされた喜びと高揚感はすぐに消えた。背筋が凍っていくのがわかる。慌ててエンジンを再稼働させよとしたが、空回る音が虚しく鳴るだけだった。

「ルリを返してもらう!」

 また、カーステレオから声がした。

 嫌だ!折角、ユウ君と再会出来たのに、将来を約束したのに、またお別れなんて嫌だ。

「後ろにいる」

 ユウ君が言った。見れば車の後方、数メートルの所に人影が近づいてきている。きっとあの人影がユウ君が初日に言っていた”お迎え”なのだろう。

 私は半泣きになりながら、何とかエンジンを再稼働させようと試みたが、上手くいかない。 

「ナオ、俺はどこにもいかないよ」

 そう言ってユウ君は車を降りた。

 ユウ君はお迎えに向かって歩いていく。不安になり私も車を降りついていこうとしたら、「そこで待ってろ!」と止められて、車のトランクの辺りで成り行きを見守るしかなくなる。ユウ君はお迎えのすぐ前に立つ。

 こうして見るとお迎えは小柄なルリよりも、頭1つ分程、背が低く、パーカーを着て顔を隠している。

「ルリの身体で何処かに逃げるなんて卑怯じゃない?借りたものを無断で盗んで罪悪感とかないの?」

 それは若い女の声、10代後半から20代前半と予想された。

「深夜のドライブを楽しんでいただけさ」

「ドライブのわりに随分と大荷物なんじゃないかい?プロポーズまでしちゃってさ」

「俺達の事は筒抜けだった訳か、どこかに盗聴機でも仕込んであるのか?」

「まあ、そんなところだね。もう未練なんてないでしょう、最愛の人と永遠の愛も誓ったんだし、ただ別れが早かっただけと思ってよ」

「ああ」

「じゃあ、ルリを返してもらうから」

 お迎えの手がユウ君の頭に向かって伸びていく、駄目、何故か得たいの知れない力がルリの身体からユウ君を追い出してしまうと思ったとき。

「まだ、やり残した事がある!」とユウ君が言うと、突如、何かが光放った。

 ユウ君の手が煙を上げながら光って、厳密にはユウ君の持っている短い筒が輝いている。

 発煙筒だった。

 音と光と煙を放っている発煙筒を、お迎えに向かってユウ君は振り回している。恐らく車の助手席に常備してある発煙筒を持ち出して、上着の袖に中に隠してあったのだろう。

 お迎えが怯んだ隙に体当たりをして突き飛ばし、踵を返すと、走ってこっちに戻ってくる。

「早く車に乗れ!」

 ユウ君に言われて乗る。ユウ君も助手席に乗り込んできた。

「早く、車を出すんだ」

「わかってるよ!」 

 頼むエンジンよ。復活してくれと強く願いを込めて、キーを回すとエンジンがかかった。慌ててアクセルを踏み込んで、車を発信させた。

 ルームミラーで後方を確認するとお迎えは、まだ地面に膝を着いたままだった。逃げ切った。さっきの不調が嘘のように車は、田園地帯を抜けやがて、大きな河川に掛かった長い橋についた。

 橋の上を走っていく。やはり交通量は極端に少ない。世界に存在するのが、私達だけのような気がしてくると、安堵し自然と笑みが溢れてきた。それはユウ君も一緒だった。橋の中心を過ぎたとき2人は声を出して笑いあった。

 追っても振りきり、新しい門出は順風満帆。ユウ君は生物学的には女性なので籍は入れられないけど、そんな事はどうでもいい。2人が幸せなら役所の手続きなんて取るに足らない。

「ナオ」

「何?」

 私は甘い言葉を期待した。運転中なのでユウ君の方は見ない。

「停まれ」

「え?」

 首に何か冷たい物が押し当てられた。

「もう十分じゃん!一緒に遠くへ逃げる程の愛を実現できたんだから」

 カーステレオからじゃない。すぐ頭の後ろでお迎えの声がした。道路の路肩に車を寄せて駐車した。

 ユウ君の方に視線を向けると、青ざめた顔で私の首元を凝視している。首に押し当てられている物がなんとなくわかった。おそらくナイフだろう。


 ユウ君が何故どうやって車に潜り込んだのか聞くと、「死んだ恋人が女子高生になって戻ってくるとか、散々、非日常的な体験をして、どうやって車に潜り込んだとか、常識的に考えるわけ?」と言った。

 それがお迎えの答えだった。彼女は後部座席から私の顔を片腕で、抱えるように押さえ付けもう一方の手に持ったナイフを私の首筋に当てている。

「頸動脈を切られたら数分と持たず出血死だよ」

「止めろ。ナオを離せ!」

「君達と同罪。これでおあいこでじゃん!」

 お迎えがそう言った時、チクリとした痛みが刃の当たっている所に走る。

「ユウ君‥‥‥」

 殺される恐怖と不安に耐えられなくて、夫の名前を呼んだが、万策つきたのか苦いものを噛んだような渋い顔をしたまま、ユウ君は微動だにしない。

「それとも恋人、いいや、奥さんが死ねばあの世で一緒になれるとでも、思ってるのかな?」

 数日前まで、雷が直撃して死んでもいい、強盗に襲われたら舌を噛みきって自殺してやろう、そんな風に考え生きる情熱を失っていたのに死にたくないと思っている自分がいた。

「ナオを殺さないでくれ!」

「じゃあ、ルリを返して!」

 沈黙が車内に充満した。熱く冷たい視線をユウ君とお迎えは交わし、その不気味な静けさを破ったのはユウ君だった。

 ユウ君は車のドアを開け外にでると、扉を開けっぱなしのまま、橋の隅に歩いていく。

「何をするの!?」

 お迎えが尋ねるが、ユウ君は答えず、橋の両端に設置された手すりによじ登って、その上に立ち背中を向けたまま言った。

「少しでもナオを傷つけたら、ルリを殺す!」

「なんて身勝手なんだよ!こっちは身体を貸し出しておいて!」

 お迎えは叫んだ。

「恋ってそんなもんだろう」

 恐れを感じないのか、なんの躊躇いもなく、ユウ君は手すりの上でくるりと回ってこちらを向く、見ているこっちがハラハラした。風は吹かず穏やかで静かなのは、微動だにしないユウ君の長い髪が物語っている。強く輝く月を背負って、私を‥‥‥いいやフードの影に表情を隠したお迎えに、氷のような眼光を放っている。そんな冷たいユウ君を見たのははじめてだった。

 少しでもバランスを崩し足を踏み外せば、川にまっ逆さまだ。それなにユウ君は眉一つ動かさない。ユウ君の感覚に恐怖が欠如しているのか、それとも一度死んでいるから、死ぬのが怖くないのか、この切迫した状況をどう切る抜けるのだろう、ユウ君もお迎えも一歩も譲るつもりは無さそうだ。

 私の顔を掴んだ腕が微かに震えているえていた。そして後ろから虫が鳴くような小さな声で”ルリを失いたくない”と聞こえてきた。

 ああ、そうか、わかちゃった。お迎えがどんな人かわからないけど、こんなに必死に私達からルリを取り返そうとしているんだ。大切な人に違いない。それは、私にとってユウ君のような存在であり、ユウ君にとって私のような存在なのだ。

「ユウ君、もう止めよう。ルリを返してあげよう」

 表情のなかったユウ君の顔に、驚きという熱が戻る。

「どう考えても、悪者は私達だよ。自分達の幸せだけの為に、女の子1人の人生を台無しにしても、いつかきっと罰があたる。だから、もう止めよう。幸せだった。死んでも戻って来てれて、一緒に逃げてくれて、こんなにも愛されて私はとても嬉しい。だから、もうこの愛に後悔はないから、成仏して!」

 ユウ君は何も言わず見上げた。その背後の空は少しずつ紫色に染まりつつある。夜明けが近いのだろう。

「死者は墓場へ、魂はあの世へ‥‥‥俺は間違っていたのか?」

 誰も答えなかった。私も私の背後のお迎えさえも、ただ、ユウ君と私は自分達の愛を貫きたかっただけ、ある文豪の”愛することは、命懸けだよ。甘いとは思わない”という言葉を思い出した。確かに私達の行為は誉められたものではない。本来感謝すべき時間を与えてくれた人の親切を、踏みにじったんだから。けれど私達は愛に命を懸けた。だから2人で逃げた。

「ルリの身体は返すよ」とユウ君は言って手すりから降りようとした時、この静かな夜に似合わない、まるで嘘のような突風が吹いた。ユウ君の長い黒髪は扇状に広がり、明るくなりつつある夜空を隠しながら、バランスを崩し、こちら側でなく、川の方へ倒れてしまった。

 視界から消えるユウ君。私は何も考えず車から飛び出した。落ちる寸前でユウ君の腕を掴んだが、落下する威力を私の力じゃ、消すことは出来ず。手すりを軸に私の身体は一回転し、一緒にユウ君と橋から転落した。

 私達の冒険はここで終わった。


10


 空を眺めていたら、灰色の雲から雨粒が落ちてきた。気分は優れないけど、涙は出ない。本当は泣きたい気分なのに、何故か悲しみは結晶にならず、私の代わりに空が泣いているようだった。こんな気持ちにデジャビュを覚えつつ、病院のベッドから、ユウ君のいる方を向く。彼の姿は遠く離れた所にいるので、今、元気にしているのかわからない。

 ユウ君は雨の落ちてくる方向にいる。結局、別れの挨拶をまた出来なかった事は、どうしようもないが悔やまれる。

 あの冒険の最後、私とユウ君、そしてユウ君の魂を入れたルリは、一緒に橋から転落した。私は無傷で助かり、岸辺に流れ着いて気絶しているところを早朝、ランニングしてるおじさんに発見されたらしい。両親やバイト先の同僚、友人からはユウ君が亡くなったショックで自殺を試みたんじゃないかと思われた。本当の事を言っても、信用してくれないので朝日をみていたら、誤って落ちてしまったと適当な嘘をついた。

 まるで幻のような週末、夢だったんじゃないかと自分でも思うけど、左の薬指で輝くダイヤモンドの指輪だけが、真実を語っていた。

 ルリはどうなったのだろう。彼女の親切を踏みにじって、身体を奪おうとした私なんかが、安否を心配する資格なんてないかもしれないけれど、どうしても彼女が無事なのか気になる。もし、得体の知れない不思議な力が働いて、私が無傷なら、きっとルリも無事な筈だ。そんな希望的観測しか、病室のベッドの上ではできない。


 後日談


 梅雨前の清々しい五月晴れの日、私はリクルートスーツに身を包み電車に揺られていた。座席は埋まっているので、つり革に掴まっている。

 随分と遅れてしまったけど、就職活動の真っ最中だった。だって、これからは1人で生きていかないといけないんだから。ユウ君の事は、私は生者で、彼は死者。もう、相容れないと割りきっているけれど、寂し日や悲しい日は未だに巡ってくる。けれど、いつか自然とそんな感情が消える日が来るだろう、その時まで、私は私の感情に素直になって、涙を流すのも悪くなと思うようになった。

 創作はまだ続けている。専業作家でなくても、働きながら小説を書けない事はないという結論に至った。

 面接の帰り道、まだ帰宅ラッシュの時間ではないけど、スーツを身に付けた性別年齢様々な企業戦士がすくなからず電車に揺られていた。もうすぐ私も彼らの一員となるのだ。

 駅に到着し、乗客数名が入れ替わり、私の隣に立った人物を見て思わす「ユウ‥‥‥」と声に出してしまった。その人物は読んでいた文庫本から目を外し、眼鏡ごしの黒い瞳で私を見つめ「あの、何か用ですか?」と言った。

「ゆ、ゆ、揺れるから気を付けないとねえ」

「はあ」と生返事をして文庫本に目を戻した。

 服装はブレザーの制服、長い黒髪で眼鏡をかけた女子高生。車窓がスライドさせる街の風景を眺めるふりをしながら横目で観察する。読んでいる文庫本の内容はぱっと見ただけじゃわからないし、ブックカバーでタイトルは隠されていた。私の偏見だけど、芥川龍之介や夏目漱石、三島由起夫か太宰治だと勝手に予想をたててみた。

 何か話しかけようと思ったが、特に話題が見つからない、彼女が文庫本を何ページかめくっている内に、車窓の風景の流れはだんだんと緩やかになり、次の駅に着いた。

 彼女、ルリの舞台から退くべきだと思い自分の降りる駅ではなかったけれど、電車の外に出る。彼女の無事が確認できただけでも良しとしよう。

 プラットホームへと降り立つ、家まで少し遠いけど散歩するには調度いい晴天だ。

 電車の扉が閉まる前に、もう一度だけルリの方を振り向くと、お互い目が合った。合った時、扉が閉まった。

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私の代わりに空が泣く 東樹 @guyaguyaguay

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