木崎原の戦い
元亀二年。
薩摩の太守、島津貴久が逝去した。後を継いだ義久を若年と侮り、また様子見を兼ねて大隅の肝付氏が薩摩に侵攻をし始める。そして同時に日向の伊東義祐は人吉の相良氏のもとに密使を送り共同で島津を攻める密約を結んだ。
翌年五月三日、伊東加賀を総大将に、一族の若手を中心とした三千の兵を繰り出した。本隊は飯野、妙見原に布陣し、島津義弘の居城である飯野城の抑えとし、もう一手を義弘の妻子がいる手勢五十ほどの加久藤城に差し向けた。
伊東勢は加久藤城付近の民家を焼き払い、島津勢を挑発する。その炎が戦国屈指の殲滅戦、木崎原の戦いの開幕を告げる烽火となったのである。
未明、義弘の寝所に家臣が訪れた。
「殿、加久藤の方角より火の手が」
「うむ、手勢を集めよ。伊東が攻め寄せたに違いなし」
前年よりの不穏な動きを察知し、いずれ来襲があるであろうと備えを怠っていなかった義弘は落ち着いていた。まず狼煙を上げさせ、かねてよりの手はず通りとして新納忠元らに急を知らせた。
この時点で、義弘の手勢は三百余りである。四十の兵を五代友喜に率いさせ白鳥山野間口へ、五十の兵を付けて村尾重侯を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。
また加久藤へは六十の兵を後詰めに向かわせる。
そして義弘自身は百三十を率いて出陣、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張る。
伊東新次郎は五百を率いて加久藤城に攻め寄せた。搦手より攻め上るが狭い道の上、断崖に阻まれ思うように進まない。島津方にも失策があり、別動隊が発見され、包囲殲滅の憂き目にあうが、そのほかの伏せ勢が奇襲に成功し、新次郎は兵を退かせる。
一方人吉から出撃した相良軍であるが、義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込みそのまま人吉へと引き返していた。
加久藤城の戦いで退却した伊東新次郎は池島川まで退く。彼が率いる一手のみですでに義弘の手勢以上の数である。数的優位に驕ったか、兵たちは川で具足を脱いで水浴びをしていたという。
義弘は事前に周囲の地形を綿密に調べ、相手の兵数はどの程度か、進行するならばどこか、どのように攻め寄せるかを考え抜いていた。そして兵を休息させるならここであろうと目星をつけた場所で敵兵が油断しきっている。
「伊東新次郎目を討ち取ってくれよう。者ども、続け!」
「「「「チェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエィ!!!」」」
義弘率いる百三十は真一文字に伊東新次郎の手勢に斬り込んだ。
「よき首以外はいらん、討ち捨てにせよ!」
「「「「チェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエィ!!!」」」」
袁叫が轟き伊東新次郎の手勢はにわかに混乱をきたす。総大将自らが槍を振るい敵兵を突き倒す。五人一組として協力して敵に当たる島津の軍法は自軍より多数の敵に当たるときにその力を発揮した。
混乱して効果的な反撃もできないまま一方的に打倒される。伊東勢は四分五裂の有様だ。
身なりの良い武者を見つけた義弘は彼に声をかける。
「よき首と見たり。一手所望する」
「われは伊東新次郎なり!」
名乗りを上げたころ合いで義弘の槍が閃く。
「敵将、伊東新次郎はこの島津義弘が討ち取った!」
この一声で勝負は決まった。五百の伊東勢は半数にも満たぬ島津勢に殲滅の憂き目にあったのである。
敗走する新次郎の兵を義弘は敢えて見逃した。彼らは本隊に合流し、新次郎の戦死と島津の大軍に襲われたとの報告を上げるだろう。まさか半数以下の兵に敗走したとは思っていないはずである。
伊東加賀は白鳥山経由で高原城に撤退を始めた。だがあらかじめ白鳥山には義弘の手が回っている。近隣の農民に旌旗を持たせ、鬨の声を上げさせることで、伊東勢は伏兵を恐れ退く。
義弘は手勢を率いて正面から突っ込む。だがさすがに多勢に無勢。二十倍の兵を相手にしては分が悪い。6人の武者が捨て奸となって義弘隊の撤退を援護し、木崎原まで退く。
伊東軍は義弘を討てば勝ちとばかりに追撃してくる。だがここで運は義弘にあった。加久藤から城兵が義弘救援のために出撃してきたのである。
義弘は加久藤の兵を吸収し陣列を整える。敗走しているとみて、陣列を乱しつつも駆けてきた伊東勢の先手はきっちりと陣を敷いた義弘の手勢に跳ね返される。
そして開戦直後に義弘の派遣していた伏兵が伊東勢を包囲する形で襲い掛かった。
冷静に対処すれば、伊東勢は島津の十倍の兵力である。それこそ各々の伏兵に一手を当てることで、正面の義弘の陣に攻めかかればよかった。だがここで、先だって破れていた伊東新次郎の手勢が崩れる。ここから裏崩れがおき、伊東勢は小林城に向け敗走を始めた。
ここでも義弘の命は徹底しており、名のある首以外は打ち捨てにさせた。潰走を始めた伊東勢に新納忠元の百五十が横槍を入れ、ここで足の止まった伊東勢はさんざんに叩きのめされる。
総大将の伊東加賀を始め、一門に名を連ねた名のある武者が数知れず討ち取られていった。最終的に伊東勢の使者は800にも上り、さらに戦死者のうち半数近くが一門、士分と言った指揮官級の武者であり、この戦いを機に伊東氏の勢力は崩壊を始めるのである。
一方島津川の損害であるが、300ほどのうち257名が戦死という壮絶な結果であった。猛将と名高い島津義弘会心の戦であったと伝わる。
この戦は戦史まれにみる激戦であった。この時代の戦闘は一割を失えば敗戦である。そもそもそれ以上の損害が出ている時点で士気を喪失し戦闘を継続できない。自軍の損害を顧みないとしても限度がある。そこを可能にさせたのは、組の者が失態を犯せば、連帯責任で全員死罪とした苛烈な軍法であろう。薩摩は貧しいがゆえに多くの兵を養えない。死を恐れぬ、または恐れるがゆえに死中に活を求める兵をもって幾多の戦いに勝利した。木崎原の戦はその嚆矢となった。
ただし、義弘は士卒を愛しいたわったという逸話も多く残されている。法や恐怖で縛るのみならず、配下に子が生まれればそれを祝福し、子弟には直接声をかけて回った。自身も愛妻家で、妻には自分が死んでも子を守って生き抜いてくれと書き残している。
義弘死去の際には13人もの家臣が殉死したということからも、そのカリスマがうかがえる。
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