閑話 井伊直虎

 文禄4年。井伊直虎は死の床に就いていた。若いころの無理がたたり、体が弱ってきている。病ではない、だが確実に衰弱する自分を直虎は冷静に見つめていたのだった。夫である秀隆は隠居なのに忙しい身に都合をつけて枕頭に座っていた。穏やかなまなざしで自分を見つめる夫との時間で、彼女は間違いなく満たされていたのだ。


 思えば波乱の人生であった。生まれたときは双子で、兄だか弟はすぐに養子に出され今も生死不明である。そもそも父にはその子の他に息子がいなかったのに養子に出したということは、生まれながらに何かあったのではないだろうか。

 井伊谷の領主であった父直盛は桶狭間で散った。あの戦を指揮していた立場である夫に最初は思うところがあったが、武家の習いである。仮にも領主としてふるまっており、その考えが染みついていたことと、秀隆は良い夫であった。また正々堂々と敵を破り、卑怯なふるまいはなかった。策謀を巡らすのは武人として当然のことである。

 そして一番直虎の心を掴んだふるまいは、父のことに一切触れなかったのである。討ったことを誇られても困るし、謝罪などを受けてはかえって恥辱である。戦の結果はそれ以上でもそれ以下でもない。

 祖父によって養育されたが、許嫁であった直親が讒言にあって出奔、戻ったときにはすでに妻を迎えており、子供まで生まれていた。そして今川の疑心によって忙殺されてしまう。

 これにより、半ば今川からも離反し半独立となったが、国力が違いすぎる。数百の兵を揃えるのが精いっぱいの狭い土地で、今川の大軍を迎えて勝てるはずがなかった。

 今川の命により反乱鎮圧に兵を出すが、かえって重臣が討ち死にするなど、氏真の指揮能力にも疑問符が多いにつく有様であった。

 こうして戦の中で一族のものが死に絶え、成人している者がほぼ直虎だけという状況になってしまったのである。永禄5年の事であった。

 その後に井伊谷には苦難の時が続く。井伊次郎法師と名乗り領内の統治に尽力するが、女の身ゆえに反発される。少ない手勢を率いて自ら先陣に立ち、男勝りの働きで敵を破った。だが女領主を快く思わない勢力は今川にもおり、半ば独立している井伊谷を屈服させようと家臣の小野氏を調略し、家老の小野但馬は今川の助力を得て直虎一派を放逐することに成功したのだった。

 ここで井伊家は遠江に侵入してきていた徳川に接近する。家康の援兵を得て井伊谷の奪還に成功し、同時に今川の影響力の排除に成功した。だが、結局頭上にいる相手が今川から徳川に代わっただけであった。そして元亀3年の武田の侵攻により、井伊谷は陥落する。徳川の援兵はなく、直虎は何とか脱出に成功し、浜松に身を寄せた。武田勢は三方が原で敗れ、直虎は井伊谷を再び奪還する。だが武田の兵の略奪にあい、領土は荒れ果てていた。田畑は焼かれ領民は逃散し、蓄えは奪われている。家康に救援を要請したが、自身も敗戦の損害を回復するため余力がない。申し訳程度の食料の援助はあったが、冬を越すめどが立たなかった。

 そんな折、もと家康の腹心であった本多弥八郎というものが訪ねてきた。領民を率いて尾張に移住しませんかとの申し出である。旅費は移住先の黒田城主、織田秀隆様から出ますと、直虎はいっそ騙されているのではないかとの気持ちであった。

「実はですな、使者になった家臣の方も言っておらぬかと思いますが…」

「なんですかな?」

「実は家康殿が貴女を側室にとお望みです」

「なんですと?!」

「そのお話、お受けいたしますか?」

「私の身を差し出させ領民を救えとおっしゃるか?」

「そう取っていただいても結構」

「一つ懸念がある。先日の武田が攻めてきた時、家康殿は井伊に一兵もよこしてくれませなんだ。それゆえにわだかまりがある。私の身を引き取った後この地は見捨てられるのではないかと」

「家康さまが信用ならぬとおっしゃるか?」

「ありていに言えばそうです」

「ふふ、はっきりと申されますな。なればもう一つの道を示してよろしいか?」

「もうひとつ?」

「尾張はいま未曾有の発展を遂げており、いうなれば人が足りませぬ。仕事は増えており、新田開発も始まりました。ですがそこに住む民がいないという状況です」

「この地を捨てて尾張に行けと?」

「尾張の統治を統括するはわが主黒田城主、織田秀隆公にござる。先日三方が原で武田に逆撃を加えられた方ですな」

「あの方ですか…わかりました、尾張に行きましょう」

「よろしいので?」

「はい、あの方ならば信用できる気がします」

「あー…一目惚れってやつですか」

 弥八郎の余計な言葉に直虎の顔が真っ赤に染まる。


(一目ぼれ?! いやそんな、確かに凛々しい方だと思いましたが。家康殿のようんみでっぷりもしておりませんし。戦の指揮もお見事でした。ってあれ? 悪い要素がない…? これって運命?!)


 弥八郎の前で真っ赤な顔で百面相を始める直虎。なんかくねくねしている。井伊の女地頭殿もなかなかに可愛らしい方ではないかとのつぶやきは幸いにして誰の耳にも入らなかった。


 そして冬の寒さが本格化する前に希望者を募り、尾張へと旅立つ。弥八郎に意思を伝えてすぐに路銀と食料が送られてきた。それは家康がよこしてきた申し訳程度の援助の数倍にも上った。ただ、畿内を押さえている織田家と三河を押さえただけの徳川とでは経済力が違う。だがこれから先秀隆の指導(暗躍?)により徳川領も織田の発展の余波を受け、豊かになっていくのであった。


 那古野城下で率いてきた民を休ませる。そこに弥八郎が訪ねてきた。

「次郎法師殿。大殿に話を通しておきましたぞ」

「はい? ああ、移住の件ですか?」

「いえ、秀隆の殿と結婚する話ですが?」

「ははははははははははははいいいいいいいいいいいいい!?」

「え? だって乗り気だったでしょう? というかもう話し進んじゃってるんで、秀隆様の嫁になる以外選択肢がないです。なにやら徳川から横やりがあったそうで」

「どういうことですか?」

「井伊直虎は当家の家臣にて、引き抜きは許しがたいと」

「なんですと!? あの古ダヌキ、討ち取ってやろうかしら…」

「いやいやいやいや、ちょーーーっとお待ちを。そうならないように話を詰めましたからね?」

「ならばよいのです。まあ、秀隆様ほどの方ならば私の夫にふさわしいですし…でゅふふふっふふ…じゅる」

「あー、婚期逃した女っておっかないな…」

 弥八郎のつぶやきを地獄耳でとらえた直虎の右手がひらめいた。弥八郎は髪の毛一筋も入らない位置で寸止めされた脇差の冷たさを感じ震え上がる。

「なにかもうしましたか?」

「我が主君は幸せ者にござるなあ、このような美しい女性を迎えられるとは。はっはっはっは」

「いやですわ、もういい年ですし」

「まあ、明日には黒田に着くということで先触れを出しますので」

「弥八郎殿、ご厚情感謝いたします」

「そのお言葉、拙者にはもったいのうござる。我が主君に直接お伝えくだされ」

「わかりました」


 こうして直虎は黒田の地に着く。そして改めて一目ぼれした秀隆のところに押しかけ女房となったのであった。コブ(万千代)付きで。


 そうして黒田城主夫人となり、夫の仕事を手伝う日々が続く。なぜか兵の調練が多く割り振られていたのは家老の坂井政尚には言いたいことがいくつかあったが、まあ夫の役に立つならばと任に励む。そうこうしているうちに懐妊し、姫を授かった。夫を持ち、我が子を育てる。そんな当たり前の幸せを持つことができたことを神仏と夫に感謝する。そして手塩にかけて育ててきた万千代が元服し、次代の腹心となっている。主従でありながら兄弟という二つのきずなで結ばれた信秀と直政は、幾度も手柄を立てていった。九州で島津を破った手柄を聞いたときはうれし涙が流れた。


 月日は流れ、自らも年を取った。夫である秀隆は隠居し、以前よりも家にいる時間が増えた。城も息子に譲り、城下にこじんまりとした屋敷を立てて暮らしている。娘も嫁ぎ、孫世代が屋敷に出入りすることが増えた。直政の嫡子、直隆は幼いながらも利発さを見せ、秀隆の相好を土砂崩れさせている。

 そして直虎は倒れた。見る見る弱ってゆく体から自らの死期を悟る。直政を呼びつけ、井伊家当主としての心得を確認する。そして、かわいい孫が見舞いに来る。そんな日々を過ごすうち、未練がきれいさっぱりと消えてゆくのを感じた。そんなさなか、一人の僧が秀隆のもとを訪ねてきた。万松寺の僧ではないという。

「姉上、お初にお目にかかる」

「貴方は…?」

「双子の弟にござる。養子先というか今川の人質になっておりましてな。駿府落城のごたごたで武田に捕らわれ、そのまま寺に入りました。というか自身の素性を知ったのはつい先日でして、生き別れの双子の姉がいると知り、いてもたってもおられず訪ねてきた次第にて」

「よく顔を見せて…ああ、父上にそっくりです。もう私は逝くけれど、最後に会えてよかった」

 はらはらと落涙する。直虎はこれも秀隆の差し金であると薄々感じていた。夫はいつも私を気遣っていた。結果として直虎の人生を捻じ曲げてしまったと常に負い目があったのではないかと思う。だけどそんなことは一度も気にならなかった。よい生涯であったと、死を目の当たりにして心からそう思えたのだ。


 翌日、井伊直虎は眠るようにその生涯を閉じた。末期の言葉は秀隆に対しての感謝の言葉であったという。

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