九州征伐
天正9年10月。
竜造寺の敗退により、阿蘇氏が島津に降った。これにより肥後はほぼ島津の手に落ちる。このまま傍観すれば九州は島津の手に落ちると判断した信長は四国勢に出陣を命じる。長宗我部元親を先陣に、丹羽長秀を目付とし、1万余りで豊後へ上陸した。中国からは吉川、小早川の兵とともに、五郎秀信が大将として、門司に上陸した。明智日向率いる丹波勢も加わり、一万五千の大軍である。これと大友が兵を出したが、練度が違いすぎて逆に足手まといになりかねないありさまで統制が取れず、各拠点の防衛を命じることとなった。
ここで秋月と城井の両家が島津に通じた。これにより肥前への連絡が途絶える。竜造寺を孤立させ各個撃破を図ったものであろうか。秀信は大友勢に城井谷の包囲を命じ、自身は秋月城を取り囲んだ。柳川が島津に降伏したため、ここはすでに最前線である。鷹取に島津の先遣隊が現れたため、城の包囲を光秀に任せて、秀信は打って出た。
相手は肥後衆だったため、あっという間に蹴散らされる。その姿を見て秋月は降伏した。中間地点の鳥栖に陣所を築き、勢福寺への連絡を確保した。これにより筑前を平定し、竜造寺と連携できるように体制を整える。
だがそこに急報が入った。豊後に侵入してきた島津家久の兵を大友宗麟が迎撃に向かい、戸次川で会戦し大敗した。宗麟も行方不明であり、ほぼ討死と思われる有様である。どうも義昭が暗躍したようだ。ここで島津を破れば…などと考えたのであろうが、まともに合戦をしたのがすでに10年以上前の義昭にまともな指揮など執れるわけもなく、将軍の権威も島津には全く通用しなかった。そして義昭も行方不明である。
かろうじて嫡子の義統が逃れたが、臼杵城の守備兵を引き抜いての戦であったため、かの城も守備兵のほとんどいない状態のため降伏した。府内も城主不在の混乱を衝かれ陥落する。だがこの時点で織田の四国勢は杵築に引いており、損害は免れていた。岡城は何とか持ちこたえているが明らかに後詰めが必要な情勢である。
秀信は光秀と相談の上、中国勢のうち吉川の兵と立花勢を増援として回そうとしたが、城井谷が邪魔になる。杵築に三好長治の兵五千が着陣し何とか兵力的には一息つけたが、物資のかなりの量を府内に置き去りにする羽目になったため、反転攻勢ができない状態だった。長門から毛利の軍船を利用して中津経由で補給を行うが、現状維持が精いっぱいである。ここで戦況は押し込まれた状態で膠着した。
11月。秀隆と六郎信秀、そして初陣の七郎長隆と尾張勢が着陣した。畿内の抑えは松永弾正である。冗談のような人選だが秀隆は平然としていた。
秀吉も播磨を発って、岩屋に嫡陣する。安土より援軍として長谷川秀一が派遣されてきたが事実上の軍目付である。率いてきた手勢の中に、秀一の副将として宗茂の姿があった。
竜造寺はまともに動かせる兵力がない。よって肥前国境を固めてもらう。そして陽動のため鍋島勢を日の江に向けて出撃させる。これには小一郎秀長が援軍に向かったので、うまく妨害を排除できれば日の江を落とすことも可能な兵力だ。
これにより肥後の兵力を分散させ、一気に攻め入るのが秀吉の意図である。秀吉は張り切っていた。秀隆と轡を並べて戦う機会はあまり多くなく、小者より取り立ててもらった恩をここで少しでも返すのじゃと気勢を上げる。そんな秀吉を官兵衛が適度に押さえる。冷静さを欠いては勝てる戦も負けますぞと。
秀隆は別動隊を編成し、臼杵城を奪回する動きを見せた。別府湾を渡って、一気に衝くはずだったが、上陸地点で迎撃を受ける。そしてそこに、織田水軍の大安宅から砲撃が叩き込まれ、島津軍を混乱に陥れた。海に耳目を集めた本命の立花勢が一気に府内に攻め入る。
さらに岡城に籠っていた軍が、ひそかに打って出て朝日嶽の陣所を落として見せた。これは佐伯衆を味方につけたことで挟撃を行うことに成功したためだ。これによって豊後から島津の撤退を促すことに成功した。ついにというか、事ここに及び城井谷が降伏した。島津が豊後より撤退の報をわざわざ知らせたのである。城内の士気はぽきぽきとへし折れたことだろう。さすがの秀隆も容赦はできず、城将は切腹を命じられた。
さて、ここで裏話となるが、実は四国勢には秀隆から下知があった。豊後上陸後は中国勢との連絡を密にするため、中津からの連絡線と補給線を確保するようという内容だ。これによって大友宗麟の暴走に巻き込まれることを防ぎ、結果、織田軍はほぼ無傷で残ったのである。
同時進行で、自身の武功もなく援軍にだけ任せるような態度を取れば国替えか改易は確実だと宗麟に吹き込んだ。島津が攻め込んでくることはほぼ確実である。この一言で宗麟の兵は壊滅し、自身も生死不明の状態である。
「奴隷貿易をするような奴には天罰よな」
普段は陽気な秀隆が底冷えのするような声で呟き、近習は怖気に襲われたという。
秀隆がいることで、島津は東部戦線を主力と見た。門川城を放棄し、高城まで下がる。秀隆は門川城に入り、後方への連絡線を構築しなおす。三好勢には高森城を攻めさせることで、肥後に圧力をかけ始めた。秀長の兵が日の江に迫ったあたりで、秀吉は南下の指令を下す。五郎秀信を先陣に進軍を開始した。あっという間に豊後が奪還されたこともあり、阿蘇氏が織田に降る。これにより肥後北部は陥落した。南肥後の拠点を守るため戦線を構築するが、ほとんどを日向に振り向けているため、防ぎきれる可能性はかなり低い。ここで島津が考えた方策はかなりむちゃくちゃだった。南肥後を死守しつつ、日向方面で敵を撃破し、そちらの兵力をそのまま肥後に振り向けるというものである。島津は兵が強いが、その兵の力を過信するきらいがあった。確かに野戦でまともに戦えば勝つのは難しい。信濃の戦で武田軍を一方的に屠った戦を大規模に再現するつもりであった。
島津の意図は高城を取り囲ませて、それに対する後詰め戦で挟撃することであろう。それを付け城戦術による防衛線の構築で迎撃を予定していた。築城術を得意とする光秀が秀隆のもとに合流し、徹底的な銃火で島津を圧倒することが基本となる。戦場予定地点は高城南方の根白坂であった。
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