安土築城と天王寺決戦

 天正4年は様々なことが大きく動くきっかけとなった年であった。

「城を築く。琵琶湖南岸、安土山じゃ。奉行は五郎左が務めよ。貞勝、補佐をせよ!」

「「はは!」」

「励め!」

 琵琶湖を望む安土山。北は湿地帯が広がっており、南に主要な街道を扼す交通の要衝であった。近江のほぼ中央部に位置し、船を使えば1日で京に出ることができる。織田家の分国のほぼ中央に位置するここは東西を佐和山、長浜、坂本の城で守られ、最も前線より遠い地でもある。東西南北の物流が交わる地に本拠を置き、城下は楽市とすること。東西の往還で、通行する者は安土で宿泊することを義務付けた。

 一部重臣からは間者が入り込むとの反対意見も出たが、信長の一言で退けられた。

「この地の繁栄を目の当たりにしたならばぜひ詳しく語ってもらおうではないか。岐阜でも同じことをやったが織田の力を見せつけることによって敵は減った。この世の極楽とは安土のことである。そのつもりで普請せよ!」

 力を見せつけること。織田の分国の繁栄を広く知れ渡らせることで敵を内部崩壊させる。関を開くことで旅人は織田の国を目の当たりにする。ことさらに税を搾り取らぬでも国は潤い、民の暮らし向きも良い。税が他国よりも安いことで食い詰めた流民が流れ込む。彼らをさらに生産力にする余剰もあり、分国内の繁栄がより加速するのである。


 5月。石山本願寺が動いた。補給線が徐々に寸断されてゆく状況を問題視した下間頼簾が雑賀孫一と諮り水路を利用して兵を展開し、包囲網の数か所で同時に奇襲を行った。運悪く南に築かれた天王寺砦の主将、原田備中が流れ弾に当たり戦死する。救援に現れた惟任光秀と佐久間甚九郎は必死に原田勢の残兵を救援するが、ここぞとばかりに雲霞と湧き出る一揆勢に押され、ついに砦に立てこもるしかなくなる。

 京にいた信長は本願寺の逆襲を聞きつけ、わずかな手勢のみで天満が森から若江城に入る。秀隆は亰にいて動員令によって集結した兵を編成する任を負う。

 とりあえず真っ先に駆け付けた羽柴勢2000をそのまま向かわせ、秀隆は補給物資の調達にとりかかる。諸国の兵はほぼ身支度のみで駆け付けるため、彼らを運用するための輜重がないと継戦能力に問題が出る。

 史実の戦いを知る秀隆は信長の負傷も含めて対策を練る。曲直瀬道三に守備兵を付け前線に出した。これにより負傷兵の手当てをしてもらう名目である。


 大和、河内、和泉、摂津の将領が手勢を率いて若江城に入るが、各戦線に兵を置いているため、若江場の主兵を入れても3000あまりであったが、羽柴勢2000が加わって何とか5000に届いた。

 天王寺の砦には1500あまりで、10倍以上の一揆勢が取り巻いている。

「光秀と甚九郎を死なせてはならぬ、このまま突っ込むだぎゃ!」

「大殿、無茶にございます。おっつけ京から援軍が来ましょう!」

「信盛、先陣はおぬしじゃ。1500で行け。松永弾正、長岡藤孝、介添えをせよ!」

「はは! ありがたき幸せ!」

 さすがに息子の命がかかっている場面である。普段のように悲鳴を上げることなく即座に応じる。

「二の段は滝川伊予、羽柴筑前、ほか美濃衆2000じゃ。残りは儂が率いる。あ奴らを死なすな、かかれ!」

「「おおおおおおおおおおう!!」」

 信長の激に応えた5000の兵は喊声を上げ切り込む。松永の鍛えた鉄砲隊が火を噴き、一揆勢の陣列に穴を開ける。そこを宙を飛ぶかのような勢いで佐久間勢が鉾矢形の陣で突破してゆく。藤孝は歴戦の将らしく敵の手薄なところや佐久間勢の背後を守るよう牽制の攻撃をかける。

 信盛は日ごろの温和な表情でなく、必死の形相で敵陣を突き抜いてゆく。日ごろからこの戦いぶりであれば、鬼佐久間のあだ名がついてもおかしくはないほどの勢いであった。先駆けの鬼玄番盛政は、自らの手勢を率いて当たるを幸いと一揆勢をなぎ倒す。

 佐久間勢の空けたとは別の位置から秀吉の麾下、蜂須賀小六の率いる国友鉄砲衆が早合で鶴瓶撃ちに弾幕を張り、伊勢でその名を知られた滝川勢がその武勇を縦横に振るう。稲葉一徹の率いる美濃衆がそこに続く。さらに信長自身が率いる馬廻の精兵が切り込んでゆき、包囲網の突破に成功した。

 櫓の上からその有様を見ていた光秀は、配下の明智秀満に出撃を命じる。門を開くと同時に鉄砲隊の射撃を浴びせ、そこに秀満の部隊が突っ込む。佐久間甚九郎も手勢を率いて突撃をかける。

 そのまま突破してきた部隊の先鋒と合流し、城門前に居座っていた部隊を蹴散らして道を切り開くと、信長率いる救援部隊とともに砦に駆け込んだ。城壁上からは光秀率いる鉄砲衆の的確な射撃で敵の追撃を断ち切った。

「信吉、しっかりせえ!?」

 信長をかばって銃弾を受けた信吉は重傷を負っていた。

「父上、大殿を守る役目、果たしました」

「おう、ようやったぞ!」

 一揆勢からも迎撃の射撃を受け、地に伏せて射撃をやり過ごして突撃を繰り返していた。銃弾を受け倒れる者も多かったが、雑賀衆にも多大な被害を与えることに成功していたのである。

「このまま籠っておっても勝ち目はない。打って出て敵の出鼻をくじくのじゃ!」

「大殿、無茶です。援軍を待ちましょう」

「なればうぬは砦に籠っておれ。出るぞ、続け!」

 信長は門を開かせると馬廻を率いて打って出る。やむなくほかの将も手勢を率いて続く。まさか打って出るとは思っていなかった一揆勢は混乱しなぎ倒される。

 翌日、織田の援軍が現れた。秀隆は山内盛豊を京に残し、坂井右近の手勢1000とともに先発した。途中の砦などから物資と兵員を供出させ、荷駄を最低限のまま急行したのである。また、使者を出し北の砦から荒木村重の兵で牽制する構えを見せた。本気の攻勢ならば被害も大きくなるが、北に耳目をひきつけるための攻勢であれば、何とか応じてくれた。

 援軍として現れたのは実は3000ほどであったが、旗指物を大目に立てたりすることで敵の物見を欺いた。そこに流言を流す。敵は5万を動員した。あれは先遣隊の1万に過ぎない(実数は3000あまり)。近隣の農民を動員し、旗を立てて立ってるだけの簡単なお仕事で銭を与える。敵兵が来たら逃げてよいとも伝えている。そのため遠目には万を超える兵に見えていた。

 敵陣に動揺が広がるころ合いで秀隆は攻撃の命を下す。坂井右近と嫡子久蔵は先頭に立って斬り込む。さらに砦から再び兵が打って出た。狙いすましたかのように包囲陣の本陣を突く。大混乱に陥った一揆勢は押し出されて川に飛び込んで溺死する者多数であったという。

 この戦いで石山の番衆は大打撃を受け、野戦戦力をほぼ喪失した。また、雑賀衆にも大きな損害が出ており、孫一討ち死にの風聞が流れた。実際には討ち死にはしていないが重傷を負っており、雑賀衆の戦闘能力は大きく減衰していたのである。

 天王寺の野戦は織田の勝利で幕を閉じた。信長はさらに多くの付城を築くよう命じ、若江城に引き上げた。また、この戦いで武功を上げた佐久間甚九郎には父の持っていた摂津の所領を与えた。また信盛には近江に知行を与え、佐久間屋敷を作り与えることを約した。この褒賞に信盛はやっと安堵の地がと涙したという。

 重傷を負った羽柴信吉は、秀隆があらかじめ派遣していた曲直瀬道三率いる医療部隊によって一命をとりとめた。

「信吉が働き誠に殊勝なり」

 信長の言葉に親子で感涙を流したという。


 天王寺砦の主将、原田直政が戦死したため、後任の在番は光秀に任された。

 石山の補給線を断ち切るために北の尼崎から水軍を繰り出していたが、なかなか効果を上げることができない。天王寺の戦いで目立った実績を上げることのできなかった荒木村重は焦りを隠さないようになっていったのである。

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