長島征伐と近江の発展

 天正元年9月、信長は尾張、美濃、伊勢に動員令を出し、長島討伐を宣言した。

 長島は尾張と伊勢の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指す。幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域であった。要するに網の目のように水路が行きかい、大軍を展開できない。生い茂る葦は伏兵の格好の隠れ蓑になり攻め難い地勢であったのだ。


 今回は九鬼水軍も動員し、海上を封鎖したうえで徐々に包囲網を縮めてゆく。丁寧に一つ一つの城塞を攻め落とし、支配圏を削り落とすかのような戦いは、神速の織田軍の普段の姿からは予想だにつかぬ姿だった。

 長島方も番衆が集まらず、物資の補給も農村が離反する中で難しくなってゆく。そして頼みの綱の海上補給は九鬼水軍によって阻まれ、さらに外縁部の城塞が落ちるたびに信長は兵を解き放ち内部の城や砦に追い込む。願正寺の坊主が気付いたときにはすでに物資は一月と持たぬ状況になっていたのである。

 包囲の手は緩むことなく、逃亡も交戦もままならぬ状況で、食料は食いつぶされてゆく。末端の門徒兵から飢えてゆき、寺内はさながら地獄絵図だった。

 その後ひと月も持たず長島は開城した。織田の下知に従うのであれば、ひとたびは許すと触れを出し、食料も与えた。その後、秀隆の政策で荒れ果てた近隣の農地に入れ、再開発を促す。地侍は土地から切り離し、城詰の兵として再雇用する。すでにかなりの範囲で思想的には一向宗の支配からはずれ、しかもしっかり働けば食い詰めることもない。その有様をみて、織田に降る門徒はかなりの数に及んだ。城内で、坊主中心に食料が配分され、飢えてゆく門徒を見捨てたことも要因である。

 長島の敗戦と、織田の統治の様子が広まるにつれ、織田の分国内では一向宗の求心力は減少してゆくのである。

 願正寺の門徒や坊主で、降伏を受け入れなかった者は石山に移送された。だが石山の本山側としても、織田の間者が潜んでいる危険のある門徒を受け入れられない。秀隆のやり口もそれなりに認知されてきており、夜陰に紛れて城門を開かれてはたまらないと、近隣の砦や、三好勢の城に送り込まれる。

 そこで、秀隆の流言が効果を発揮する。

「石山の坊主は、こちらなら落ちても問題ないと長島の門徒を送り込んできたそうじゃ」

「長島の門徒には織田の間者が混じっているというぞ」

「奴らは信用ならぬ」

 そういう扱いを受けた長島の門徒は当然面白くない。しかも、わざと危険な戦場に立たされたり、物資も後回しにされるなど露骨に差別を受けた。それでお互いの不和が頂点に達したところで秀隆の調略が行われる。寝返れば長島で土地を与える。罪も許すと。

 こうして短期間の複数の城塞が落ちた。陥落のきっかけが、元長島門徒勢の寝返りということで、さらに不和が顕在化する。結果として石山本願寺自体には被害が及ばないが、出城を見捨てるがごとき扱いをしたと、落とされた城の番衆が恨みに思いだす。そこに流言が仕掛けられ、石山の門徒衆は不穏な空気の中で戦いを強いられることとなった。

「信盛殿。とりあえず奴らをひっかきまわしたので、うまく利用してください」

 さらっという秀隆に信盛は恐怖を覚えたという。まあ、ちゃっかりと出城を落とし自らの武功にしているあたり、彼も立派な信長の部下であった。


 越前に変事が起きた。加賀の一向宗が雪崩れ込み、朝倉旧臣を討ち取って越前を制圧したのである。侵攻の時点で信長は明智十兵衛を浅井長政を援軍として差し向けていたが、衆寡敵せず、一乗谷に攻め込まれた時点で撤退させていた。金ヶ崎の北に陣屋を築き、攻め寄せる門徒を鉄砲の掃射で撃退したが、結果的には織田の敗北であり、門徒衆を勢いづかせる結果となった。

 信長は今は越前に兵を送る余裕はないと判断し、金ヶ崎を最前線として防ぐことを命じる。浅井の手勢が在番し、明智十兵衛は畿内に転戦することとなった。


 近江は織田の分国の中央に位置する。同時に畿内を含む日本の中央に位置し、京を守る位置関係となっていた。織田家が京を維持するのに最も重要な国であり、守山、草津、瀬田などの拠点は直轄領として、馬廻から代官を選んで派遣している。

 もともと経済的に発展した土地柄であり、琵琶湖の水運の運上は莫大な金額に上った。名実ともに近江を統一した織田家の金蔵となるべき土地である。国友村は鉄砲鍛冶の集う在所となっており、木下秀吉が収める領域となっていた。国友を任せたあたりからも信長の秀吉に対する信頼がうかがえる。

 秀吉も国友藤兵衛を直臣として、かの在所を直接支配した。鉄砲の生産力はすなわち軍事力の増大の指針となる。


 さて、北近江旧浅井領を拝領した秀吉だが、秀隆とも協議したうえで琵琶湖の湖岸、今浜の地に新城を築き始めた。建材を得るために、長政に断ったうえで小谷城を解体している。平城であるが、3重の水堀を備え、さらに背後の琵琶湖が天然の堀でかつ退路となる。そもそも琵琶湖の水軍衆である堅田衆は織田に降って久しかったため、実際にこの城が戦場となることは考えづらい。

 城下の発展により、北国往還と琵琶湖の水運による運上がそのまま秀吉の収入となる。領土はそれほど広くないが、うまく発展させれば非常に大きな成果を出せる可能性が高い。秀吉は元々秀隆のもとで土木工事についても学んでおり、小谷の付城なども解体し、城下やそれを守る出城、街道を監視する番所などを多数作った。敦賀港からあがる産物を美濃、尾張に送る経路にもなり、最近景気の良い両国は人口も増大し一大消費圏となっている。秀吉の笑いは止まることはなかった。

 こうして天正元年は過ぎ去っていく。史実より1年早い長島の陥落はどのような結果をもたらすか、すでに秀隆にもわからなかった。

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