信長の反撃

 元亀4年4月。将軍義昭が二条で挙兵した。信玄の後ろ巻きを信じ、信長が岐阜を離れれば美濃は制圧されるとの希望的観測に基づいている。信玄死去が本願寺から知らされても義昭は聞き入れず、籠城の構えを見せたが、幕臣らが信長に通じており兵も次々と離反する。織田軍による上京の焼き討ちで完全に士気をくじかれ戦闘すらほとんどない状況で義昭は降伏した。

 その後再度槙島に立てこもったがこちらでも衆寡敵せず、再び降伏した。

 この義昭挙兵にあたり信長はかなり粘り強く和議を模索したが、もはやこの神輿は担ぐに能わずと判断し、三好義継の居城若江場に追放する。ここに事実上室町幕府は滅亡した。

 元亀の元号を天正へと改元し、信長は一旦岐阜に帰還する。


 天正元年7月下旬。信長は2万の兵を率いて岐阜を進発した。近江に入り、横山に詰める木下勢2000と佐和山の長政の兵3000を加え、25000の兵力を展開する。湖西地方からも浸食を進め、北国往還は半ば閉鎖されていた。越前への通路も限られた状態であるが、手筒山に在番していた朝倉の手勢が変に気づいて一乗谷に急報している。また、城将朝倉景亘も兵を出し、小谷との連絡を何とか確保していた。


「此度は勘九郎の武者はじめじゃ。お主ら励め!」

「「はは!」」

 信長は信忠を虎御前山の砦に入れ小谷城を監視させる。そして諸将を派遣して浅井支配下の村や集落を焼き払わせた。

 しばらくにらみ合いが続いたが、8月中旬には後詰めの朝倉勢15000が着陣する。小谷に籠る浅井の手勢は5000足らずだが、城砦に籠る分で戦力的には互角と言える。

 信長は木下勢を先鋒に、小谷と朝倉勢の中間地点である山田山を制圧した。そのまま築塁を始め付城を多数築いてさらに塁壁で各城砦を繋ぐことで長大な野戦陣を築き上げた。黒鍬衆の練度はいまや戦国最高と言える水準に達しており、短期間での野戦築城に力を発揮した。


 そして8月12日暴風雨が襲う。天候の悪化を見越して諸将には注意の触書が回っていた。そして夜半、信長本陣から陣鐘が打ち鳴らされる。

 信長は馬にまたがり出撃の下知を下す。そして唐突に駆けだした。それに続くのはわずかな馬廻のみ。天候も含めて桶狭間の再来のようなありさまだった。

 わずかな手勢を率いて大嶽の砦を落とす。ここからは小谷山を見下ろすことができ、これにより朝倉と小谷の連絡は完全に断たれた。

 城兵をあえて逃がすことで、敵は撤退するに違いなしと諸将に改めて下知を下す。暴風は13日に入ってもやむことはなく、これでは戦にならぬと諸将は考えていた。

 事態は信長の読み通りに推移した。朝倉勢は夜陰に紛れて撤退を試み、信長の馬廻衆が槍先を連ねて突入する。すでに撤退となっているので、踏みとどまって戦うものもなく、朝倉勢は大混乱に陥った。そしてそこに長政率いる佐和山衆が攻めかかる。猛将磯野丹波と先駆け山崎俊秀が目覚ましい働きを見せ、山崎吉家を討ち取る武功を上げた。頑強に守りを固める朝倉親族衆を木下勢が巧みに包囲し徐々に兵力を削り取るや、仙谷権兵衛が単騎突入し敵の前衛を蹴散らし、勝負を決した。

 若干遅れて戦場に到着した柴田、丹羽、佐久間らは信長の叱責を受けるが、汚名を返上戦と奮戦し、朝倉勢は四分五裂して蹴散らされる。

 翌14日朝まで追撃を行い、3000を超える首級を得た。戦後処理の後そのまま織田本隊は逃げ伸びた朝倉本隊を追撃する。

 17日、信長は越前へ乱入した。若狭武田氏の兵が先導を勤め、一乗谷に向け進軍する。遮るものはなく栄華を誇った朝倉氏の落日は誰の目にも明らかであった。

 18日、織田軍の乱入により、一乗谷の城下は焼き払われる。そのまま越前大野郡に逃れていた義景は、従弟の景鏡に背かれ、捕らえられた。景鏡がそのまま朝倉氏の家督を継ぐことを認められたが、領土は大野のみに限定され、越前は朝倉旧臣に分割して与えられた。


 8月26日、木下勢を先鋒に、織田本隊が小谷城下に帰還した。縛り上げられた朝倉義景を門前にさらし、朝倉は滅んだ、今降れば助命は保証すると降伏勧告を行う。

 翌日、返答がなかったため勧告を拒絶したとみなし、信長は小谷攻めを命じた。


 浅井長政を主将、木下秀吉が副将となり、合わせて5000が小谷城に攻めかかる。城下の関門は長政の呼びかけで内応した部隊が出てあっさりと突破できた。そのまま進撃し、兵力に優る長政の手勢が大手から攻め寄せる。盾をかざしてじりじりと迫り、銃撃で敵兵を削る。そちらに耳目をひきつけ、木下勢が堀切を乗り越え山肌を登り、中腹の京極丸を落とした。

 これにより、本丸と大手門のある三の丸の連絡が絶たれ、事実上本丸のみとなる。そのまま木下勢が攻撃をかけ、本丸が陥落し、浅井久政は自害して果てた。

 長政は複雑な顔をしていたが、これも乱世の常と割り切り、特に感情を表には出さなかった。久政に従っていた老臣もあるものは自害し、ある者は斬り死にして本丸に籠っていた兵は玉砕した。


「秀吉の武功、武門の面目である! 近江北東部四郡と小谷城を知行とせよ」

「は…ははああああああああ」

「長政にはそのまま佐和山を授ける。また湖西地方の指揮権を与える」

「はは!」

 長政には事実上加増なしとなったが、そもそも織田に背いた浅井の当主であったのだ。命があっただけ寛大な処置と言えよう。城代扱いであった佐和山を知行として与えられたのは、なんだかんだで信長の信頼が厚いということである。

 また、坂本は明智十兵衛に与えられた。彼は坂本城を再築城し、京を軍事的に支援する位置に置かれた。宇佐山を守っていた森三左衛門は、美濃金山に転封となった。柴田は東美濃の押さえを任され、信濃方面の侵攻を命じられた。


 一方そのころ、秀隆は近江、越前の戦線には参加せず、飛騨にいた。もともと飛騨には大きな勢力はなく、国司姉小路家を横領した三木氏が最大勢力ではあるが、そのほか中小の豪族が割拠している。そこに秀隆率いる2000が侵攻してきた。飛騨一国の兵力をすべて糾合してもいいところ5000である。そして、いまだまとまりを欠く国情もあって、各個に撃破されていった。飛騨南部は瞬く間に秀隆の支配下に収まった。

 秀隆は温泉に浸かって体を伸ばしていた。何のことはない、湯治が彼の目的であったのだ。まあ、後付けっぽく木曽に圧力をかけるとか言っていたが、温泉で伸びきっている彼を見れば全く説得力に欠ける光景だったという。

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