乾坤一擲
響恭也
桶狭間の戦い
信長は寝所で一人襲い来る恐怖と戦っていた。戦国の世の習い、己の首が落ちるのは常に想定の内だった。だがまだ幼い我が子や妻たちまでも死の淵に追いやられることは耐えがたい苦痛と感じていたのだ。そのことを想像するだけで怖気が震えとなって表れる。
「いつから儂はこのように弱き心を持つようになったのかの…」
誰に問いかけるともなく一人ごちる。家臣や家族の前では見せられない弱気をわずかな囁きに乗せて吐き出す。
脳裏には幾度となく駆け巡った尾張の山野が鮮やかに映し出される。三河からの国境地帯は起伏に富んだ地形が多く、少数をもって多数を迎撃できる数少ない機会をそこに見出そうとしていた。
「兄上、伝令が参りました」
信長の寝所に現れたのは彼の実弟、喜六郎秀隆である。数年前に流れ矢に当たって死んだとされているが実際は死んでおらず、その後目覚ましい働きを見せたため、常に傍に置いていたのである。
彼の考えはいろいろと並外れており、信長はその奇想天外な発想を非常に重宝していた。
「通せ」
「はっ」
短いやり取りののち、使い番の兵がやってくる。
「今川治部の軍勢、国境を超えました!」
「ご苦労、して、数はいかほどか?」
「はっ、本隊は5000あまり、全軍で2万に届くと思われます」
「川並衆はいかがしておる?」
「間道に埋伏し行く先を探っております」
「であるか、下がってよい、ご苦労だった。ああ、厨にて飯を食って行け」
「はは、ありがとうございます!」
この時代の命は驚くほど安い。農民兵の手当てはひと戦に付き玄米二升であった。いま報告を上げた兵にしても年俸で一石である。腹一杯に飯を食える機会などそうないゆえに主にふるまわれる一食が褒美になるのである。
「兄上、かねてからの手はず通り」
「うむ、密使を熱田に走らせよ。上洛などと気勢を上げておるが、伊勢湾の交易権を奪われては儂は立ち行かぬによってな」
「服部党の押さえは?」
「犬に任せよ」
犬とは数年前に放逐された前田又左衛門利家を指す。元服前から戦陣で功を立て、信長のお気に入りとされていた。だが、同僚といさかいを起こし、信長の怒りにふれ放逐された。だが実際には利家が傲慢なふるまいを見せており、同僚からの妬みがはなはだしかったことがあり、いずれ戦場で後ろから刺される恐れすらあったのである。
そのことを懇々と諭して言い聞かせ、同じく素行の良くなかった兵たちを預け、表に出ない影の兵力として扱っていた。熱田衆の主力は信長に付き従う。それゆえ守りの兵力として配置した。
人間五十年 化天のうちを比べれば 夢幻の如くなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか
ひとさし舞う。様々な雑念が行きかい消えてゆく。生への未練は土壇場で迷いを生みかえって死を招く。一人の戦人となるための儀式であった。
「出陣じゃ、我に続け!」
「「「おおおお!!!」」」
その時信長に付き従ったのはわずか近習数十名のみであった。重臣と呼ばれる者すらついてゆけず、小者に甲冑を担がせて裸馬にまたがって駆けだした者すらいたという。
清州城内は混乱に陥っていた。城主が行先も告げず駆けだしたのである。そして自家の数倍の兵を率いて侵攻を受けている非常時とも相まって、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「静まれ! 殿の行く先は熱田神宮である。戦勝の祈祷を行い、野戦にて死命を決することとなった。我はと思わんものは続くのだ!」
秀隆が大音声で告げる。普段物静かな彼の剣幕に驚くものも多かったが、出撃できるものは手勢をまとめ駆けだした。
「さて、俺は俺で動くかね」
秀隆のつぶやきは誰の耳に入ることなく虚空へ消えていったのである。
そして彼自身も愛馬にまたがって城を出たが、その姿は熱田には現れることはなかった。
熱田神宮。伊勢湾北部の交易権を持ち、織田弾正忠家の庇護を受けている。商家の加藤家が実質の支配権を握り、宮司の千秋家と合議で町の運営を行っていた。
「お殿様、ご加勢ありがとうございます」
「うむ、儂は熱田を見捨てぬ。これより打って出て、今川治部めのそっ首叩き落してくれる!」
「かしこまりました。我らが熱田衆、存分にお使いくだされ」
「うむ、大儀じゃ!」
このやり取り自体はすでに筋書きが書かれたものだった。商人の情報網で、今川の狙いは熱田の支配を行い、伊勢湾交易の利益の奪取を行い、織田家を経済的に締め上げることにあった。そうやって徐々に勢力を削り、尾張一国を併呑するのが最終的な目的である。
もともと尾張は今川家の所領も含まれていた。那古屋城は今川氏が築き、織田信秀が奪い取った城である。織田と今川の因縁は根深い。
さて、熱田神宮には清州ほか各拠点から集まった兵が集結を始めていた。戦勝祈願の祈祷を行い、善正寺砦に向かうと告げる。
尾張南東部は数年前から今川に蚕食されていた。清州城の南方の守りを担う重要拠点であった鳴海城が、城主一族の山口氏の寝返りによって奪われ、その直後に後ろ盾であった斎藤山城守道三が長良川の戦いで戦死する。西は長島を拠点とする一向宗の圧力がかかり、まさに四面楚歌の情勢であった。信長の代になってからは美濃との大規模な交戦は今のところないが、少なからぬ防衛兵力を貼り付けることとなっているのである。
優先順位として、交戦中の今川家との防備に注力し、兵力差があり鳴海城を一気に落とすことはかなわないため、多数の付け城を築いた。鷲津、丸根、中嶋、善正寺などの砦群である。信長を裏切った山口氏は、何度か小競り合いを繰り返していたが、裏切り者に最前線を任せられないと判断した義元により誅されている。そして子飼いの岡部元信に預けられた。
善正寺砦に着いた信長にもたらされた情報は悲報であった。鷲津、丸根の砦が落ち、佐久間盛重が討ち死にしたとの知らせである。砦の兵をも糾合し、3000の兵を整え中嶋砦へ向かった。まさに乾坤一擲の覚悟であった。
砦に着いた信長は報告を待った。だが正午を過ぎても報告がなく、しびれを切らした信長は中嶋砦の梶川平左衛門も引き連れ、出立する。義元本陣を一気に突く事のみに勝機を見出していた。
一方、今川本隊は大高城に向かう道を変更し、鳴海城へ向かうこととした。先遣部隊はそのまま前進させ、大高城に入れる。より熱田に近い経路を使うことで織田の勢力に圧力をかける狙いがあった。
街道沿いに近隣の農民が土下座をして出迎える。新たな領主を歓迎し、媚びることで無体を防いだり、税を増やすことを避けようとの狙いだ。義元もそれを理解しており、鷹揚に頷く。あえて大々的に尾張侵攻を喧伝していた狙いがうまく出ているようだと考えていた。
献上された酒は濁りがなく透き通っていた。目の細かい布で酒を漉し、雑味を取り除いたと村長から説明があった。もたらされた食料も多量かつ上質のもので、義元は山上に陣を敷いたのち軍に休息を命じた。
これほどの貢物を献じる余力があるならば、どれほどの税が取れるかと計算していた。また、信長の支配力の弱体化を予見していたのであろう。
「村長よ、この山はなんと申す?」
「はい、おけはざま山と呼んでおります」
「左様か、そちらの心づくし、ありがたく思うぞ」
「はは、ありがたきことにて…」
その時義元は織田勢の進退の報告が一切入ってきていないことを疑問に思うべきであった。物見は各部隊から放たれており、行く先の動静を見極めずに進む阿呆はいない。だが、あまりの兵力差と支配下の民にも見放されたかという驕りがわずかながらでも目を曇らせた。そしてそのことが義元の首を落とす一因となったのである。
尾張山中、国境付近。
「小六殿。首尾はいかに?」
「おお、御舎弟殿。順調にござるよ。しかし驚きました。目の前で義元本隊が進路を変えたときは魂消るかと」
「ふふ、勝ちつつあるものはそれを確定するために拙速の一手を打つことがあります。だがそれは焦りという魔物と表裏一体なのですよ」
秀隆のいいようにわかったようなわからないような、小六は若干首をかしげつつも答えを返す。
「え、ええ…左様にござるか」
「敵の物見は始末できておりますな?」
「はい、将右衛門の手勢が動いております」
「でありますか。さすがの手並み。この喜六郎感服いたしました」
「いやいや、御舎弟殿の眼のほうが何層倍も価値がござる。まるで天からすべてを見通すかのような」
「それも貴公らの働きあってのことでござるよ」
山中に抑えながらも朗らかな笑いがこぼれた。信長と秀隆の作り上げた包囲網は徐々に今川勢をからめとってゆく。
「さて、義元は予想通り山に陣取りましたな。出羽守殿を使者に出しましょうか」
「承知!」
秀隆の指示により、信長の部下で情報収集を担当していた梁田出羽守が現れる。
「おお、出羽殿。お役目ご苦労です。義元の居場所を兄上に報告願いたい。決戦の地は桶狭間にござる」
「御意、部下をすぐに向かわせます!」
使い番がすぐに駆けだした。この伝達が死命を分ける。小六たちは祈るような思いで背中を見送っていた。
「小六殿、手勢をまとめましょう。桶狭間山の背後に回り込みます」
「おう、承知した!」
まだ人事を尽くし切っていない。天命に任すには少し早いですよと秀隆の言葉に小六は笑みを返し、部下に集結の合図を送るよう走らせていた。
「お殿様、使い番が参りました。卍衆の印を持っております」
卍衆は川並衆の物見に長けた兵の事である。この合戦を左右する重大な報告であると信長は直感的に悟った。
「すぐに通せ!」
「御舎弟殿からの伝言です。敵は予定の位置で足止めに成功。機を待って撃破されたし。以上です」
「あい分かった。ご苦労」
「はは!」
信長は立ち去る使い番を一瞥もせず、諸将に声をかける。
「義元の位置が分かった。一気に打ち破るぞ!」
「は、はい?」
「なんじゃ権六、何かあるのか?」
「いえ、どのように敵情を探られたのかと…」
「ふむ、教えてやってもいいが今は時が惜しい。清州に帰ったら話して進ぜようほどに」
その一言に周囲の将兵はおののく。この戦が全て目の前の主君の掌の上であったかのように思えた。
「全軍、桶狭間山に向かう。続け!」
信長率いる手勢は間道を抜け駆け抜ける。夏空がにわかに掻き曇り、日差しが遮られ始めた。敵の物見はあらかじめ川並衆が始末している。遮られることなく走り、桶狭間山のふもとにたどり着いたその時、曇り空が一変し、雷鳴がとどろいた。にわか雨に混じり雹が降り注ぐ。本来ならば陣列を整え、奇襲にも対応できる備えが雨宿りする兵が出て乱れる。全く知らせが入っていないこともあり、敵軍がまさか目の前にいることも想定していなかった。
そして雨が上がったときに今川軍が目の当たりにしたものは、織田本隊であった。
「よいか、今より義元本陣に斬り込む。首はいらぬ。討ち捨てとせよ。一人でも多く相手を倒すことが功名じゃ。よいか! わかったなら鬨を上げよ!」
「「「おおおおおお!!」」」
「すわ、かかれい!」
鬨を上げ、信長本隊が突撃を敢行する。陣列は乱れ、宴会で鎧を脱いだ者すらいた義元本隊は大混乱に陥った。そこに拍車をかけるように兵が叫びをあげる。「裏切り者が出たぞ!」と。
織田勢は槍先をそろえて突っ込み、前衛を瞬く間に蹴散らした。応援に向かうべき兵は流言に惑わされ疑心暗鬼で動きが取れない。そこをさらに突き崩される。
川並衆が放った忍びがまとめて繋いであった馬を解き放ちさらに混乱させた。義元は塗輿に担ぎ上げられたが、目立ったため其処に射線が集中する。五指に余る矢が突き立ち、義元は徒立ちで撤退を図る。
川並衆は物見狩りで分散していた兵を取りまとめ、400の同勢が集結していた。後方の街道に埋伏し、総大将を中心に円陣を組んで退いてきた旗本勢に奇襲をかける。雨覆いと特製火薬を調合している彼らは雨中でも鉄砲を撃つことができた。50の筒先をそろえ左手から撃ち放つ。そして反対側から前野将右衛門らが切り込む。
阿鼻叫喚の巷であった。命を脅かされた兵はいきりたち、歯をむき出しにして威嚇する。訳も分からず刀槍を振り回した兵は、息を切らしたところを狙われ槍玉に挙げられる。血しぶきが舞い、五体は切り裂かれ、鉄錆に似た血臭が立ち込める。
義元旗本勢は四分五裂し、織田軍の突破を許してしまった。
「織田上総介が荒小姓、服部小平太、推参なり!」
「下郎、下がれ!」
振りおろされる刀を避け、突きを返す。小平太もそれを躱ししばしにらみ合う。そこに新手が現れる。だが、義元近習が現れ必死に防ごうとする。
「服部小藤太、参る!」
小藤太はその近習たちを切り伏せ、小平太のもとに向かわぬよう牽制する。
義元は小平太の突きを躱し、体勢を崩したところに切りつけた。小平太は太腿に重傷を負い倒れ伏す。そこに信長勢の新手が到着する。
「毛利新介、推参なり!」
わずかな時間であったが激しい斬り合いで義元は息を切らしていた。そこに新手が襲い掛かる。後方は川並衆にふさがれ徐々に打ち減らされてゆく旗本たち。そして毛利新介の突き出した槍が義元の胸を貫いた。
「今川治部大輔、毛利新介良勝が討ち取った!」
この宣言で今川勢は完全に潰走した。槍先に挙げられた主君の首を見て士気は崩壊。織田勢は追撃で今川勢をさんざんに打ち破ったのである。
清州城に向かってくる軍を見つけ、城内は色めき立った。使者が飛び込んできて信長の戦勝を伝えてはいたが、敵方の偽報の可能性もある。留守居の林ら重役は油断なく軍を見据える。
軍の中心に信長の姿を見た城兵は歓呼の声を上げた。全滅を免れぬと思われたた主君が戻ったのである。
たすき掛けをし、薙刀を手に数名の女性が飛び出した。信長の妻である帰蝶たちと、その子供たちである。子供たちを抱き上げ笑顔を見せる信長の周囲には避難していた民や、留守番の女子供が集い、歓喜の声が上がる。
信長と秀隆は今川軍を退け、滅亡の危機を潜り抜けたのであった。
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