阿佐ヶ谷にほどかれて

えびあさ

阿佐ヶ谷は、「ほどいてくれる」街である

 新宿駅から電車で十分弱。隣駅の高円寺ほどは有名じゃなく、反対側の隣、荻窪ほどには大きくない。土日祝日には快速電車に飛ばされる。

 それが私の住む街、阿佐ヶ谷あさがやだ。

 都心に近いのにローカルな雰囲気。時代の流行も我関せずのマイペースな街。

 マイペースな街では、人もマイペースに生きられるらしい。阿佐ヶ谷に惹かれて住みつくのは実に多彩な人々。芸人やアーティストなど一芸を極めた人、極めようという人も多い。井伏鱒二とか太宰治とか、昔の有名な作家もこの界隈を気に入って住んでいたとか。

 最近阿佐ヶ谷神明宮で知り合ったミカって子は、この街はおくるみに包まれているみたいに居心地が良いなんて、のほほんと言う。

 居心地が良いってのは同意見だけど、私の阿佐ヶ谷の印象には、もすこし、苦みがある。

 ほのかに哀しい微笑に刻まれた皺、それでも高らかに人生を謳歌し共に唄おう、みたいな。

 なんて感じるのは、自分の来し方のせいか。

 私が阿佐ヶ谷に住むようになったのは、数か月前から。アサガヤン(阿佐ヶ谷住民の通称)としては新参者。父と離婚した母が、実家のある阿佐ヶ谷に戻っていて、私も最近父のもとを離れて母の実家に移り住んだ。

 私が小学校中学年の頃、母は突然「歌手になる」と宣言。父とかんかんがくがく、しまいにぶっつり離婚した。

 小学生の私は、父のほうが母より案外弱くて傷つきやすいから、そばにいてやろうと思って、父と住むことを選んだ。けど、弱い人間にはその弱さを補う相手がすぐ現れるように、世の中はできているんだね。一緒に住むようになった女は、私をいない者として扱い、父に甘えつつ、うまく父を甘やかした。私は、父にとってもお邪魔虫になった。

 近所の女子高に通うようになったけど、合わない校風だったし、校舎の立地も良くなかった。繁華街と高速道路に囲まれた「溜まりやすい」場所だったんだ。

 何が溜まるかというと、この世に生きる人間の悪想念とか、悲しみや憎しみを抱えたこの世ならざる存在たちとか、そういう、本来目には見えない瘴気みたいなもの。

 私には、それらが見える目があるから、やっかいだ。第六感ってやつ。

 この世には無菌状態の場所なんてないし、誰しも菌に対してある程度耐性はある。でも当時の私は、不安定な家庭環境で不安定な心の状態だったこと、かつ高校という新しい環境で神経が尖っていたことから、「見えざる世界」への免疫力が弱っていた。

 校内で、自殺した女の霊に付きまとわれたり、男の生霊に足をつかまれ転ばされたりした。恨みがましい霊や悪意に満ちた妖怪が教室の天井や窓から私をじっと見つめてきた。

 私は彼らの放つ悲憤の毒気に中てられ、みるみる気力が奪われた。同級生も私を囲む毒気を敏感に察し、私に近づこうとしなかった。

 ある日、

「この世界のどこにも私の居場所なんかない」

 と絶望しきっている自分に気づいて、はっとなった。このままじゃいけない。

 私にとって第六感は要らないお荷物だ。その程度のものに自分をつぶさせちゃならない。

 私は阿佐ヶ谷にいる母に会いに行った。幼い頃から色々見えてしまう私を気にかけて、母は頻繁に連絡を寄こしてくれていたけど、会うのは久しぶりだった。

 歌うのが好きで、家の中でよく口ずさんでいた母。彼女は才能を表に出すべく、私と父と別れて暮らす決断をした。離縁して歌に人生をかけさせるなんて、才能って、なんて思い切った行動を人にさせるんだろう。

 才能や能力の声に従い生きることを選んだ人間は、どう生き、生かされているのか?

 薄暗いスナックで、母はライトに顔を浮かび上がらせ、泣きたいような笑いたいような表情で、大好きな昭和歌謡を歌っていた。お客さんたちは、聞いている人もいたし、聞かずに内輪で話に夢中の人もいた。そんな中、母は自分の魂を声に乗せ、自分を表現できる喜びに感謝しているみたいに、のびやかに歌った。

 私は、母の声の振動で、私を縛りつけていた紐がするするほどけていくのを感じた。母は良い歌手だなと思った。全然有名じゃないし、母親としてつれないところもあるけど。

 深夜、母は以前より増えた皺を深めて言った。

「ねえ、マミコ。能力っていうのは自分と別々に存在するんじゃないわ。自分の不可分な一部であって、人生を生きるのは自分よ」

 あなたはあなたの人生をどう生きたい?

 次の日、私は父に母の家に移ることを告げ、休学届を出した。


 人と異なるあり方には一種、哀しみがつきまとう。

 人と異なる道を歩むことにも、孤独の寂しさがまとわる。

 そんな哀しみや寂しさを丸ごと受けとめてくれるのが、阿佐ヶ谷の懐の深いところ。

 母も、この街に受けとめられ、自分を生きている。母の声に、不要なからみつきを解き、その人自身を取り戻させる波動が備わっているのはきっと、阿佐ヶ谷で癒され、阿佐ヶ谷に培養されたからだろう。

 私も、私自身を生きられるように、この街に腰を下ろしてみようと思う。

 空を見やると、雲間に、微笑んでいる人の姿が見えた。羽衣をまとった上品な女の人。

 私も微笑み返した。人と分かち合い難いものが見えてしまう私だけど、時々、私にしか見えないきれいなものも見られるんだ。

(了)

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