そうめんを食べ終わると13時だった。少しだけ夏らしい特有の白い雲が流れて来て、昼間の暑さがほんのりと涼しい気分になる。

 それでも実際は暑い。だけど何もないお祖母ちゃんの家に居るよりも、外を探検する方が面白そうだ。

 漫画も小説も持ってきていたけど、そんなのはすぐに飽きてしまう。野原を駆けまわるような歳でもないし、ここには野原もないけど、家に篭っているとろくなことを考えない。少しでも気分転換になればいい。そう思ってお祖母ちゃんの家を出た。

 お祖母ちゃんの家の前には小さな畑がある。畑と言ってもミニトマトやキュウリ、それからニンジンとジャガイモが少し。家庭菜園をちょっと大きくしたくらいの畑を横切って、目の前の道道を見つめた。

 せめて同じくらいの年の子がいれば、もっと気晴らしができたのだろうけど、小学校が廃校になったのは駅がなくなるよりももっと前で、子供がいるような家庭もなく、無理だろうと思う。

 生鮮品を買うには隣町のスーパーまで車で行くそうだ。

 思えば不便だと思いつつ、お祖母ちゃんはここの生活が気に入っているんだろうから、それはそれでいいんだろう。

 私は全く満足しないけれど。

 ブラブラと歩いていると、畜産農家のおばさんは片手をあげて手を振っていた。


「茉莉ちゃん。あまり遠くに行くんじゃないよー」


 小さい町の利点は、ご近所さんがすべて顔見知りな点。お祖母ちゃんの家から出てきた私を“茉莉”だとすぐに認識されている。

 数日も経てば、今の私と“小さな頃にたまに遊びに来ていた女の子”が合致するものらしい。

 こちらは全然覚えていないのだけど。


「ありがとう。気をつける―」


 そう言って、大きく手を振り返した。

 暑い道路に影を作る木陰を選んで歩きながら、徒歩で行ける距離なんて限られるだろう。“あまり遠く”の遠いは、一体どこまでを指すんだろうな。

 そう考えていたら、森の中に小路があるのを見つけた。

 雑草は生えているけど、間隔を置いて土に埋まっているのは間違いなく庭の石だと思う。

 昨日も通ったけれど、こんな場所にこんなものがあったことなんて気が付かなかった。

 昔、駅があった道なのかな? 何の気なしに足を踏み入れ、そしてしばらく歩くと目の前に青々とした芝生が目に入り、木々の隙間から見えたのは白い壁の洋館風の建物だった。

 真新しいその建物は二階建て、木の階段を上がると玄関なのだろう、凝ったレリーフが掘られたドア。そのわきにはテラス、テラスから玄関まで屋根が付いていて雨雪も防げそうだ。

 二階にはいくつかの出窓。その一つが空いていて、ここが廃墟でない証拠に綺麗な白いカーテンがふわりと揺れていた。

 誰か引っ越して来たって言っていたかな? 記憶を探ってみても覚えがない。

 こんな小さな町でこんな洋館が建ったのなら、誰かが何か言いそうだけど。お祖母ちゃんも何も言っていなかったし……。

 考えて込んでいたら、背後に近づいてきた陰に気付くのが遅れた。


「どちら様?」


 低い声は見知らぬ男の人の声だった。畜産農家さんのおじさんの声はどちらかというと高めで軽い。それに比べてこの声の持ち主は低く落ち着いていて、そしてよく響く。

 この家の人? 恐る恐る振り返ると、何故かプラスチック製の黄色いゾウさんのジョウロを持った男の人が立っていた。

 年の頃なら20代……後半とは思えないので前半だと勝手に決めつける。身に着けているものは黒いズボンに白い清潔そうなワイシャツ。

 少し前髪が長めだけれど、清潔そうでサラサラな髪をしている。その間から見えるアーモンド型の目はクッキリと二重で、すっきり通った鼻筋が男性的。とても“綺麗な”男の人だった。

 そして、やっぱり黄色いゾウさんジョウロに視線が向かう。

 見た目はとてもイケメン。衝撃的に黄色いゾウさんのジョウロが似合わない。黄色のゾウさんジョウロは小さな子供が持つものじゃないだろうか?

 私の視線の先に気が付いたのか、彼はそれを両手で持って眉を寄せる。


「近所の雑貨屋にこれしかなかったんだ。花壇の花を育てるくらいならこれで十分だし、花を育てるところを誰かに見せたいわけじゃないからこれでもいいでしょう?」


 唐突に語られた言葉は言い訳なのかもしれない。

 たぶん町で唯一の雑貨屋で買い物をしたのだろう。確かにあそこで買い物をするとびっくりするような……ある意味掘り出し物があって、私も驚いたことがある。


「ええと……悪くないです」


 見た目的には残念だけど。心の中での呟きに気が付いたのか、彼は眉間にしわを寄せたまま頷いた。


「そう。それで……君はどちら様? うちに何か用? 近所の子じゃないよね? 確かここに君みたいな子供はいないと思っていたけれど」

「あ。夏休みの間は祖母の家に滞在しているんです。用というか……散策していてここに……」

「ああ。なるほどね。やっぱり壁をつけるべきかなぁ。迷い人が来ることは想定していなかったよ」


 ゆるく笑うその人を見上げていたら、軽いめまいがして慌てて目を瞑る。


「……ちょっと、君。顔色が悪いよ?」


 声をかけられ、呆然と彼を見上げた。


「は……ええと。はい。大丈夫です」


 長時間歩いたわけじゃないけど、暑さに疲れが出たのかもしれない。


「大丈夫には見えないよ。こっちに来て、少し座りなさい」


 腕を引かれるままによたよた歩く。案内されて裏手の方にまわると、白い鉄製のガーデンテーブルセットが見え、その椅子に座らされた。

 木陰をうまく利用している。どこか涼しい風が流れて心地いい。微かにそよぐ風を楽しんでいたら、少し怖い顔をした彼に見下ろされる。


「真夏の炎天下に帽子もかぶらず歩いているなんて自殺行為じゃないのかい?」

「ええと……一応、陰を選んで歩いていましたし……」

「日射病は水分不足でもなるでしょう。少し待っていて。今、麦茶を持ってくるから」


 そう言って彼はスタスタと玄関の方に回って行った。


「……日射病」


 それって確か、熱中症の昔の呼び方だった気がする。今はあまり日射病とは言わないよね? 彼は若いくせにジジ臭い事をいう人種というだけなんだろうか?


「まぁ……いいか」


 そんな事はどっちだっていいじゃないか。足音が聞こえて振り向くと、テラスの方から彼がグラスをふたつ、銀色のトレイに乗せて戻ってくるところだった。


「冷たくしてあるから、とにかく飲んだ方がいい」


 そう言ってくれたけど、見知らぬ人から受け取ったものを簡単に口にできるほどには図太い神経をしていないと思う。たぶん。

 少しためらっていると、彼は自分の持っていたグラスに口をつけた。


「麦茶以外の何も入っていないよ。そもそも君をどうにかする目的があるのなら家の中の方が涼しい。そうしないのは妙齢のお嬢さんに対する一応の配慮なんだが」


 それもそうかもしれない。でも、こんな人里離れ……てはいないはずだけど、今は位置関係がよくわからないから近いということにしておいて、誰も来ないような場所では家でも外でも同じような気がする。

 それならこの麦茶に何が入っていようが、ここで毒殺されたとしても……。

 そこまで考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさに自嘲した。


「ありうがとうございます」


 礼を述べてからゆっくりとグラスに口をつける。

 勢いよく傾けたから、唇の端からぽたり麦茶がこぼれてスカートを濡らした。けれどそれはすぐになまぬるくなる。

 口に含んだ冷たさの味は慣れ親しんだ麦茶特有の香ばしさ。それを飲み込むと、そこで初めて喉が渇いていたことに気が付いた。

 ゴクゴクとグラスを半分まで空にして、少し安心したようにしている彼を見た。


「……思っていたより喉が渇いてたみたいです」

「だろうね。次回散歩をする時には気をつけた方がいいよ。少し休んでいきなさい」


 そう言って彼は、開いていた向かい側の椅子に座る。

 それからぽつりぽつりと会話を交わしていくうちに、彼が藤堂武俊とうどう たけとしさんという名前だと知った。

 藤堂さんは若いくせにどこか落ち着いていて、時々笑いながら、時々心配そうに私を見ている。悪い人ではないのかもしれない。

 いや、実際には優しい人なんだろうけど、見た目は優しい人が事件を起こすなんて世の中よく聞く話だし……。


「ダメだなぁ……」


 ポツリと呟くと、藤堂さんが小さく首を傾げる。


「ちょっと……嫌なことがありすぎて、嫌な方嫌な方に考えが行くんだなぁって」

「嫌なこと……かぁ。まぁ、いろいろとあるものだよね」

「藤堂さんも?」

「そりゃあるよ。面倒くさくて、煩わしくて、腹が立つことも多いよね。そしてそういう思いをしている渦中の時は、考え方は前向きにはなりにくい」


 静かに話す言葉は淡々としているから、それが耳に心地よい。なんとなくストンと“そういうことなんだな”って思えてしまう。


「楽しいこと考えなくちゃって思うんです。でも、楽しい事も思いつけないし……」

「楽しい事って思いつくもんじゃないしねぇ。何? 友達と喧嘩でもした?」

「私が友達とじゃなくて、親が離婚しそうなんです」


 真面目に言うと、彼の笑顔が微かに固まった。それを見て私も思った。こんなこと、赤の他人にする話じゃないって。


「ええと……思っていた以上にヘビーな内容ですみません。初対面なのに」

「いや……まぁ。驚くけど。そう……そんな悩みじゃ、身近な人には相談しにくいな。それはよくわかる」


 彼は落ちてきた前髪を困ったようにかき上げて、それから小さく頷くと私の方に向き直った。


「聞くことしかできないと思うけど、言ったらスッキリするかもしれないし、しないかもしれない。この際だから言ってしまえ」

「言ってしまえって……そんなやけくそな」

「君自身がすでにやけくそだろう? こんな初対面の人間にそんなことをいきなり言い始めて」


 それは間違いない。でも彼に話したら、両親が離婚秒読みだってことが、この小さな町の人に知られてしまうかもしれない。そう思うと躊躇うけれど……。

 でも、きっとお祖母ちゃんは薄々気づいている。

 結果としてうちの両親が離婚した場合、町の人に知られるのが少し遅れるくらいの話なんだろうとも思う。

 それなら、初対面のこの人に言っても言わなくても同じじゃないか。どうせ同じなら、きっと言葉に出してしまった方がスッキリすると思う。

 だって、誰も何も言わないから、現に私は何も言い出せずにイライラしているじゃないか。

 母さんに引き取られたとしても、私がこの町に帰って来ることはないと思う。きっとたまに顔を出す程度。

 父さんに引き取られたとしたら、私は母の実家とはかなり離れた存在になるだろう。

 もし、両親いずれも引き取らなかったとしても未成年。お祖母ちゃんの家に居候することになるのかもしれないけど、そうなったらそうなった時の話だ。

 決心を固めると、難しい顔をして藤堂さんを見た。


「原因はわからないんですけど……」


 原因は本当にわからない。いつのまにかお父さんとお母さんは会話をする事が無くなって、一緒にご飯を食べることもなくなった。

 そう思って思い出した最期の記憶は、小学校に上がってすぐの誕生日くらい。その後の誕生日はいつも母さんとふたりだけだった。

 それまでは月に一度くらいは外食もしていたと思う。それが無くなって、ほとんど父さんの顔を見るのは朝だけになった。

 朝ごはんの時にも、母さんはキッチンに立って背を向けているだけ、父さんと私が二言三言会話をしながら、それかた父さんが慌ただしく会社に向かう。

 夜中にいつも帰ってきていた父さんと、会話らしい会話ができるのは朝だけだった。

 それでも学校の行事とか、何かあった時にはふたりで揃ってきてくれていたと思う。だけど大きくなるにつれて母さんだけが来るようになった。

 当時は“父さんは忙しいから”と言って苦笑する母さんに納得していたけど。きっともう、その時には仲が悪くなっていたんだろうと思う。

 夜中にされていた言葉を全部聞いたわけじゃない。

『茉莉をどちらが引き取るのか決めよう』

 そう言った父さんの低い声と、押し殺したような母さんの声。

 どちらも静かに低くしゃべるから、内容までは判らないけど、どちらも相手の言葉を否定しているようで、しまいには睨み合いになっていた。

 きっとどっちも私なんていらないのかもしれない。父さんにしてみたら、今まで母さんに任せっぱなしの娘の世話をしないといけないのは苦労だろうし、母さんにしてみたら、父さんと離婚したらきっと働きに行かなくちゃいけなくて、母子家庭で娘を育てるのは苦労する……って、テレビドラマでやっていた。

 苦労するのは目に見えてるから、どっちも私を持て余して、きっとここに夏休みの間、おいてけぼりにしたんだろうと。

 ブツブツと文句を言うようにして言うと、藤堂さんは少し考えるように口元を手で隠し、そしてまた首を傾げた。


「それで、君の意見は?」

「私の意見?」

「君にも意見はあるだろう? 離婚は当人たちの問題だとは思うが、その間にいるのだから」

「でも……私はまだ子供だから」


 苦笑しながら言うと、藤堂さんは難しい顔をした。

 だって、子供の意見なんて大人は聞いてくれないでしょう?

 現にお父さんもお母さんも私に何も言ってこなければ、何も聞いてこないのが証拠じゃない?

 私の意見なんてあっても、どうせ“大人は勝手に決めてしまう”ものでしょう?


「そんなに悩んでいるのに?」

「悩んでなんて……!」


 言いかけて口を閉じた。悩んでなんかいない、それは嘘だ。

 悩まないはずはない。親からしたら子供だけど、子供だからこそ考えることもあるんだ。

 お父さんについて行くなら引越しはなくて、名前も変わらない。だけど一戸建て住宅が立ち並ぶ住宅街。近所付き合いは希薄だとしても町内会はある。

 いつもゴミ捨て場の所に近所のおばさんたちがいて、こそこそと、時には大きな声で笑いながらおしゃべりしているのを聞いている。

 どこそこの息子は留年したくせに予備校にも通わず部屋に籠っているだとか、引っ越して来たばかりの若夫婦は挨拶もろくにしないとか、人の悪口ばかりを吹聴する。それに私のうちの噂も加わるんだろう。

 中学校の生活はスタートしたばかり。それなのに急に母さんがいなくなるってどうすればいいのかな。思えば教えてもらわないことだらけで不安になる。

 でも、お母さんについて行くなら当然引っ越しはあるだろう。お母さんも働きに出るだろうし、夜も遅くなるのかもしれない。

 かぎっ子の友達がいないわけじゃないけど、誰もいない家に帰ると思うとちょっと悲しい。

 ご飯は一人で食べるんだろう、もちろん転校もあるだろう。始まったばかりの中学校生活は、ほとんど小学校の延長だから急激に変わったわけじゃないけど、転校すると全く知らない人たちだらけになるんだろう。

 もしかしたらなじめないかもしれない。なじめなくていじめられるかもしれない。

 全部、全部が自分の事ばかり。自分勝手に自分が嫌だから、だから好き勝手に不安になる。本当に悪い方、悪い方に考えていく思考が辛い。


「子供にも意見はあって当然なんだけどね。それとも、何もしないで君は受け入れるだけで十分?」

「……それは」

「子供だって一個の個人なんだ。もちろん親は自分たちのいいように扱える子供を持てはやすけどね。子供は親の所有物ではない。何もしなければ何も変わらないし、何かを変えたければ何かをしなければならないんだよ?」


 静かな声に突き放された気がして目頭が熱くなった。


「だって、自分勝手な意見だもん」

「君の両親だって相当自分勝手じゃないのかい?」

「でも、私は私のことしか考えてないんだもん」

「普通、人間は自分のことしか考えていないものだよ。博愛主義者がいないわけではないけれど、それは稀だ。ある程度は同情してくれる人がいるかもしれない。でも自分の許容範囲を超えると、あっさり見捨ててしまうのも人間だと思う」


 藤堂さんはそう言って、どこか暗い笑みを見せる。


「僕みたいに落ちこぼれた人間がいう事じゃないけどね」


 落ちこぼれ? 驚いて目を丸くすると、彼は周りを見渡して溜め息をついてから、遠くを見るように視線を空に向けた。


「僕は親の期待には応えなかった。答えられなかったという方が正しいのかな。勝手に敷かれていったレールに乗るのを拒んで、自分の好きな事をする方を選んだ。それでもうるさい人間関係が煩わしくなって、こんな田舎の誰も来ないようなところに家を建てて、一人で住んでいる。まぁ、親からすると親不孝者だよね。だけどこの結果は僕が選んで僕が進んできた道だし、そうしようとして望んだことだから仕方がない。後悔しないかと言われれば、全くしないわけじゃないが、それでも後悔しないように考えられる」


 そこで藤堂さんは首を傾げ、私を見る。


「それは、僕が僕の意見を言った結果だから」


 それは、なんだか素敵な言葉に聞こえる。


「……藤堂さんひとりなの?」

「まぁ、こんな田舎に好きでわざわざ来る人は少ないよね」

「お嫁さんいないの?」

「……君は、少し言葉を選んだ方がいいと僕は思うんだが。それに僕はまだ26なんだけれど」

「26でこんな素敵な洋館に住んでるの!?」


 驚いたら逆に驚いた顔をされた。


「素敵な洋館かい?」

「うん。私は好き。将来こんな洋館に住んでみたい」

「……ここは不便だよ? 雪も深いし交通機関はないも同然だし」

「知ってるよ。でも車の免許を将来取ればいいよね? 藤堂さんは車の免許ないの? うちの祖母ちゃんも持ってるよ。食品は隣町まで買いに行かないといけないから大変だろうけど、慣れちゃえばへっちゃらなんだって。だけど今の私には困るかな。免許もないし、自転車もないし」

「……君は思っていたより饒舌じゃないか」


 それはよく言われる。実際の私はよくおしゃべりって言われる。そんな事も忘れていたような気がする。


「……うん。よくおしゃべりって怒られる」

「先生に?」

「先生にも、たまに友達にもうるさいって言われるかもしれない。でも秘密は守るよ! 約束したことは守るもん!」


 約束は約束だ。

 そう考えて、結婚もある意味で約束だって気が付いた。


「……約束って忘れちゃうものなのかなぁ」


 ポツリと呟くと、藤堂さんは困ったような、笑いだしそうな、悲しそうな、そんな微妙な顔をする。


「時間が経つと忘れるのも人間だよね。でも、少しは浮上したみたいだね」

「うん。なんか藤堂さんに言ってみて、私はスッキリしたみたい。だって、私は何もしてないもん。何もしてなくせに不安ばっかりため込んでも仕方がないよね。びっくりするかもしれないけど、ちゃんと自分の思ってることを言ってみることにするよ」


 そう言うと、彼は小さく吹き出した。


「若いなぁ」

「若いよ! だって13歳だもん!」

「うわぁ……子供だと思っていたけど、そんな子供か……」

「小さな子供でもないし、大人でもないし、思春期って歳だよ!」

「いや。もう、それいいよ。なんか一気に俺が老け込むから」


 そんな事を言って笑い合った。それからは他愛もない話をして、しばらく経つとグラスの麦茶もなくなった。


「そろそろ帰るね。あまり遅いと祖母ちゃんが心配するかもしれないから。麦茶ご馳走さまでした」

「うん。もうフラフラしない?」

「大丈夫みたい。今度はちゃんと帽子被って出歩くことにする!」


 立ち上がると、藤堂さんは隣を歩いて送ってくれるみたいだ。並んで歩くとやっぱり背が高い。


「そう言えば、君の名前は?」

「え? あ、名乗っていなかったね。細川茉莉ほそかわまつりっていうの」

「そう。細川さんなんて名前の人はいたかな?」

「祖母ちゃんのうちは母さんの実家だから。もしかして、母さんに引き取られたら加瀬かせになるかもしれない」


 そう言うと、彼は“母さんに引き取られたら”には言及しないで頷く。


「ああ。加瀬さんちのお孫さんなんだ」

「そう。ねぇ。また明日も来てもいい? 夏休みの間はいるんだ」

「いいけど。甘いお菓子はつかないよ? 僕は滅多に買い物に行かないから」

「いいよ。だっておしゃべりして楽しかったんだもん。約束ね? 私は約束したら守るって決めたんだ」


 そう言って小指を差し出すと、彼は薬と笑って小指に小指を絡ませてくれる。


「なんだか懐かしいな。ゆびきりげんまんってやつかな?」

「そう! ハリセンボン飲ますんだよ!」


 笑いながらゆびきりして歩きだすと、彼は途中で立ち止まった。


「じゃあ、気をつけて」


 その言葉に振り返り、手を振ろうとして瞬きをした。


「あれ……?」


 目の前に広がるのは雑木林。鬱蒼とした森に蝉の鳴く声。青々とした芝生も、白い素敵な洋館も消えている。


「え。あれ……藤堂さん?」


 そこにいたはずの彼の姿ももちろんない。すぐさっきまで隣を歩いていた。気をつけてって言われたのに……。

 あまりの出来事に、暑さも忘れて鳥肌がたった。一体何事かわからなくなってパニックになりかける。

 だけど……。

 ぎゅっと握ったスカートを見下ろして、そこに着いた小さな茶色いしみに気が付いた。

 飲み損ねて、こぼれた麦茶の跡。そのしみを見つめて、本当に眩暈がしそうになった。










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