第十五章 頂上決戦
葵は気をさらに高めていった。薫はその尋常ならざる気の大きさに驚愕していた。
「何だ、お前は? 人間なのか?」
薫の問いに葵はもう答えられない状態になっていた。彼女の目は、猛禽類のような鋭いものになり、ギラッと輝いたように見えた。
「ついに、行っちまったか……」
篠原がそう言うと、それを聞きつけた美咲が、
「どういうことなんですか?」
篠原は美咲を見て、
「あれは、一族に伝わっていた『鬼の行』だ。四百年前に禁じ手とされてるものさ」
「えっ? 禁じ手って、そんなものを使ったりしたら、所長は……」
美咲はびっくりして葵を見た。篠原はムスッとして、
「そうさ。まずいんだよ。場合が場合だけに、一族追放にはならないと思うけどな」
茜は篠原の言葉に仰天して、葵を見ていた。
「!」
薫が認識する間もなく、葵は彼女の間合いに飛び込み、強烈な正拳突きを見舞っていた。
「グオッ!」
薫は数メートル飛ばされ、転がった。葵の攻撃は止まらない。起き上がろうとした薫に、さらに突進し、その顔面に回し蹴りを入れた。
「ブッ!」
薫は涎と血が混じった飛沫を上げながら、後ろに倒れた。それでも葵は容赦しなかった。倒れている薫目がけて、ジャンプしてそのまま正拳を繰り出した。薫はこれを紙一重の差で何とかかわし、コンクリートを砕いてしまった葵の破壊力に脅威を感じながら、その拳がめり込んで動けない葵に攻撃を仕掛けた。
「愚か者が!」
薫の前方宙返りで勢いをつけた踵落としが葵の首に決まった。葵はガクンと片膝を突いたが、次の瞬間、拳がコンクリートから抜けた。薫は素早く葵から離れ、間合いを長く取った。
「さっきは不意を突かれたが、今度はそうはいかない」
薫はそう呟き、身構えた。葵は拳に食い込んだコンクリートの破片を取り除きながら、薫を睨んだ。
「す、すげェ……。葵も凄いが、それに対応している、あの女、本当に凄い……」
葵が「鬼の行」を発動すれば、一瞬で勝負がつくと考えていた篠原は、このままでは辺り一面が廃墟になるのでは、と危惧したくらいだった。
「しかし、それ以前に、あいつの身体がどこまで鬼の動きについて行けるかだな」
篠原の本当の心配は、勝敗の行方より葵の身体だった。戦いが長引けば、間違いなく葵はその人間の限界を超えた動きに耐え切れず、死んでしまう。それだけは避けたい、と思う篠原だった。
「さすが、我が一族が一度は遅れを取っただけのことはある。それがお前達の最終手段か。だが、私にはそんなものすら通用しないのだという事をわからせてやる」
薫の顔が険しくなった。
「お前がうさぎやねずみを狩る猛禽類なら、私はその猛禽類を叩き伏せる狼となろう」
「何?」
篠原は薫がまだ強くなろうとしているのを知って、驚愕した。
「星一族にも、秘技があるのか」
篠原は絶望的になった。
( 今の今まででも、葵が優勢だったのはほんの一瞬だ。また突き放されるというのか……。ダメだ。勝てない……。どうする? )
篠原は脱出方法を考え始めた。
( 美咲ちゃんに何とか村田代表を救出してもらい、茜ちゃんには自力で脱出してもらうしかない。俺は命を賭けて葵を守り、何とかあいつから逃げる。里の連中に応援を要請して……)
篠原がそんなことを考えているうちに、葵が動いた。
「葵!」
篠原の呼びかけにも全く無反応の葵は、そのまままっすぐ薫に向かった。葵が薫の間合いに踏み込んだ瞬間、薫は消えた。そして葵の真後ろに現れ、彼女にハイキックを見舞った。葵はそのまま前に倒れ、転がった。
「どうだ? もはや私はお前がいくら足掻いても届かぬ高みにいるのだ。さァ、死を覚悟しろ」
薫は不敵な笑みを浮かべて、起き上がる葵を余裕で見ていた。
「所長……」
美咲がそう呟いて目を閉じ、念じた。茜も、
「所長……」
目を閉じ、念じた。
( 鬼の行の最高峰には、葵の気では届いていないのか? 美咲ちゃんと茜ちゃんは、それを感じ取ったのか? )
葵の一番の理解者を自認する篠原は、少しばかりショックを受けていた。そして、苦笑いをした。
「ムッ?」
葵の身体に、別の気が宿るのを薫は気づいた。
「何をしたのだ?」
薫は美咲と茜を潰すために動こうとしたが、さすがに葵に背を向ける事はできなかった。ジレンマである。
「何をしようと、私の勝利に些かの揺るぎもない!」
薫は葵に突進した。薫は瞬間的に葵の背後に回り、彼女の首に手刀を叩き込んだ。しかし、そこには葵はいなかった。
「くっ!」
薫は、いつの間にか自分の右にいる葵の突きを紙一重でかわし、逆に回し蹴りを見舞った。ところがそこにも葵はいなかった。薫が着地した真後ろに、葵はいた。
「グハッ!」
背中に蹴りを入れられ、薫は受け身をとりながら前転し、素早く向き直った。葵は数メートル離れたところに立っていた。
「バカな……」
薫の自信が揺らぎ始めていた。かつてないほどの焦りが、彼女の心を支配していた。
( あり得ない……。私がここまで追いつめられるなど、あり得ない……)
薫の一瞬の隙を突き、葵が動いた。
「くっ!」
薫は葵を目で追いかけながら、葵に近づくのをやめ、彼女との距離を保ち、チャンスを待つことにした。
( この女の気の高まりは、長時間は持たないはず。やがて、自滅する。時間を稼ぐ戦い方をすれば、何も問題はない )
薫の強さの秘密は、戦略の才能に溢れている事にもある。彼女は最強の戦士であるとともに、一族の優秀な指揮官でもあるのだ。
「いかんな」
篠原は薫が葵から離れ始めているのに気づいた。美咲が、
「どうしたんですか?」
篠原は美咲を見て、
「あの女、葵と距離を取り始めてる。まずいぞ。長期戦に持ち込むつもりだ」
「えっ?」
美咲は篠原の言葉で全てを理解した。
「所長!」
美咲は薫の作戦変更を伝えようと、葵に向かって叫んだ。しかし、葵にはそんな美咲の思いは届いていないように見えた。
( この女、強さを求めるあまり、理性まで捨てたか。しかしそれでは戦略も何もない。ただがむしゃらに戦うのみ。そんな戦いが通用するのは始めだけ。やがては全く意味をなさなくなる )
薫は葵の気がそれでもまだ高まり続けているのに気づいていた。
「まだあきらめないのか。私に追いつく事など、絶対にできない!」
全く感情を表さない葵の顔に苛ついたのか、薫はついに痺れを切らせて攻撃を仕掛けた。
「動いた!」
篠原と美咲が同時に叫んだ。薫が葵の間合いに飛び込むと、葵はサッと飛び退き、薫の攻撃をかわした。しかし薫の進撃はそれだけでは終わらない。さらに彼女は葵に接近し、右の鋭い突きを、葵の喉元に見舞った。しかし葵はそれをまるでいとも簡単に払いのけ、右の正拳を薫の顔面に叩き込んだ。
「ブアッ!」
薫は予想もしなかった反撃を受け、もんどりうって仰向けに倒れた。葵はさらに攻撃を仕掛けた。倒れた薫がかわす暇もないほどの速さで、彼女は薫の顔面を正拳で殴った。血飛沫が上がり、涎とも汗ともわからない液体が宙を舞った。
「ヌアアアッ!」
執拗な葵の攻撃に、薫が切れた。彼女は空いていた両脚で葵の背中を渾身の力を込めて蹴った。葵はそのままつんのめるようにして倒れてしまった。
「殺す! もう殺す!」
薫も理性が吹っ飛びかけていた。もはや獣同士の戦いのようである。
「ウオオオオッ!」
薫の連続攻撃が葵を襲った。葵はそれをかわしながら、逆に薫を蹴り、殴った。薫はまたしても倒れ伏し、すぐさま飛び起きた。
「バカな……。何故だ? どういうことなのだ?」
絶対に勝てると考え、戦いを仕掛けたはずなのに、自分の方がどう考えても不利なのだ。薫は戦況を分析しようとしたが、そんなことは無駄だと悟った。
「こんな支離滅裂な戦いをする者を相手に、作戦を考えても意味がない」
薫はそう判断し、無念無想で戦う事にした。つまりは「忍びの本能」に任せる事にしたのである。
「ヌオオオオッ!」
凄まじいなどという言葉では言い尽くせないような戦いが始まった。篠原と美咲は、二人の動きを見るのが精一杯で、どちらがどれだけの手数を出しているのか、全くわからなかった。
「まさしく、月と星の、頂上決戦だな」
篠原は呟いた。美咲は祈るようにして戦いを見ていた。
「所長……」
二人の戦いは、いつ果てるともなく続き、辺り一面に相当量の血が飛び散って行った。
「すげえ……。俺もう絶対葵を怒らせるの、やめよう……」
篠原は軽口を叩いたが、それは本音であった。葵の強さはついに薫を凌駕した。薫は防戦一方となり、後退していた。その時である。
「!」
葵の後ろ回し蹴りが、薫の鳩尾に決まった。薫は数メートル後方に吹っ飛び、倒れた。
「まずい!」
篠原が走り出した。
( 葵はもう、いつものあいつじゃない。止めないと、殺してしまう……)
篠原は必死になって二人のところに走った。
「うっ!」
薫は葵が自分に馬乗りになっているのに気づいたが、もはやそれをはね除ける力もなかった。
「殺せ。このままおめおめと生き延びるつもりはない。妹達も同じだ。私を殺したら、二人も殺せ」
葵はそんな薫の言葉にも何も表情を出さず、右手の拳を振り上げた。
「ぐっ!」
その振り上げた拳を、薫の頭蓋骨が砕かれる寸前に、篠原が止めた。
「グアアアアッ!」
すでに誰が誰なのかわからなくなっている葵は、今度は篠原に襲いかかった。篠原は葵の突きを腹に喰らい、倒れた。葵はそれでも手を緩めず、篠原に攻撃を仕掛けた。
「止めて下さい、所長! その人は、貴女のかけがえのない人なんですよ!」
美咲が涙を流しながら叫んだ。
「所長!」
茜も嗚咽を上げながら叫んだ。しかし葵は止まらなかった。彼女の右の突きが、篠原の左肩と胸の間に突き刺さった。
「葵、しっかりしろ!」
篠原は故意にその突きを食らったのだ。葵の右手をこうして封じると、彼は葵の頭を掴んで引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。
「ああっ!」
美咲は涙を拭いながら赤面した。茜はキョトンとして、その光景を見ていた。村田は、何が起こったのかわからないのか、呆然としていた。
二人の口づけは、長い間続いた。始めはもがいていた葵も、やがて手刀を抜き、篠原の首に腕を回した。
「はァ……」
篠原は葵が戻って来たのに気づき、唇を離した。葵は照れ臭そうに篠原を見ていた。その目は、野獣の目ではなく、いつもの彼女の目だった。
「おかえり、葵」
「只今、護」
葵は篠原に手を貸して立ち上がらせ、もう一度キスをした。そして、
「やっぱり、貴方しかいないと思ってた。私を鬼の行から連れ戻してくれるのは」
「当たり前だ。お前の親父殿と約束したんだからな」
篠原は真面目な顔で答えた。
「所長!」
美咲と茜が、よろけながら葵に近づいた。葵は二人を見て、
「無理しないで、二人共。そこにいなさい。とにかく、ありがとう」
「はい」
葵の言葉に、美咲と茜は嬉しそうな顔で応じた。
その頃、坂本は首相官邸の五階にある、官房長官室にいた。
「何の用ですかな、坂本さん」
官房長官の椅子に座った男が尋ねた。男の名は「保志 将(たすく)」である。オールバックの髪に、長身痩躯、切れ長の眼。ダークグレーのスーツをファッショナブルに着こなしている。言うまでもなく、彼は星一族であり、この事件の全ての黒幕でもある。坂本を捨て駒にしようとしたのは、彼なのだ。
「とぼけるな。貴様、俺に話した筋書きと違う事を始めたな。村田を誘拐する計画など、俺は聞いていないぞ」
坂本が保志に詰め寄った。保志は全く動じる様子もなく、クククと低く笑い、
「当たり前だ。教えるつもりはなかったからな。お前も橋沢も、皆、捨て駒だ」
「何だと!」
坂本はすでに爆発寸前だった。しかし、それは保志の望むところである。彼は坂本を挑発していたのだ。坂本はもはや、そんな単純な罠にすら気づかないほど、己を見失っていた。
「貴様がどれほどの男か知らんが、進歩党の中ではこの俺の方が上なんだ。今、思い知らせてやる!」
坂本は机越しに保志に掴みかかった。保志はスッと坂本の右手をかわし、自分の右手に隠し持っていた、髪の毛ほどの太さの針を坂本の心臓に突き刺した。
「フオッ!」
坂本は動きを止めた。保志は針を抜き、袖の中にしまった。坂本はそのまま後ろに仰向けに倒れた。
「坂本さんが急に倒れてしまった。すぐに救急車を呼んでくれ」
保志は机の上のインターフォンに言った。
「わかりました」
男の声が応えた。保志はそれを聞いて、ニヤッとした。
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