第十三章 最強の敵

 葵は村田を見て、

「代表、その場に身を伏せて、決して動かないで下さい」

 村田は黙ってゆっくり頷き、身を伏せた。葵はそれを確認してから、

「ちょっと! 人の携帯を壊しといて、何よ。隠れていないで出て来なさいよ!」

 怒鳴った。すると彼女の背後でパキンと何か音が聞こえた。

「!」

 葵は後ろの気配を探ったが、村田と保科と星川がいるだけだ。しかも村田はピクリとも動いていないし、保科も星川も、もがいてはいるが、何かをした様子はない。次の瞬間、葵は驚愕した。

「バカな……」

 彼女の目の前に、真っ黒な忍び装束に真っ黒な仮面を着けた影のようなモノが立っていた。しかもその仮面は、目すらわからない、漆黒のものだった。

( どういうこと? 突然目の前に現れたような……。そんなこと、あり得ない。魔法使いじゃないんだから……)

 葵の額を汗が流れ落ちた。影からは、殺気はおろかその生体反応すら感じられない。まさしく、影のような存在だった。

「あんたが、私の大事な携帯を壊したの? どういうつもりよ?」

 葵がそう尋ねたが、もちろん影はその質問に答えるつもりはないらしい。全く動かない。

( 一見、隙だらけのように見えるけど、そうじゃない。気配の消し方が尋常じゃないわ。こいつ、とてつもなく、強い。多分、今の私よりも……)

 葵自身がそう認めざるを得ないほど、敵は壮絶な存在だった。


 美咲の運転するミニバンは、村田のマンションの近くに来て停止した。周囲は、すでに通勤する人々でごった返し始めている。

「どこに行ったんでしょうか?」

 美咲が助手席の篠原に尋ねた。篠原はウィンドーを開いて、

「ちょっと待ってくれ」

 クンクンと犬のように匂いを嗅ぎ始めた。後部座席の茜がギョッとして、

「もしかして、所長の匂いを辿ってるんですか?」

 篠原はクンクンしながら、

「そうだよ。あいつの体臭は、俺の匂いセンサーに入力ずみだからな」

 茜は美咲と顔を見合わせた。篠原は、

「こっちだ。左に行ってくれ」

「はい」

 美咲は慌ててミニバンを発進させ、交差点を左折した。

「あいつ、そうとうやばいぜ。いつもの葵の匂いじゃない」

「そ、そうなんですか……」

 美咲と茜は、篠原の凄い能力に、すっかり引いてしまっていた。


 坂本は、村田が党本部に来ていないことを知り、焦っていた。

( 村田を拉致するような計画は、俺は聞いていない。奴をビビらせて、尻込みさせるだけのはずだ。警心会にも、そこまでやれとは言っていない。誰だ? 誰が違う指示を出しているんだ? )

 坂本は自分自身の身の安全が確保できていないことに気づいた。

「やはり、俺を捨て駒にする気か。そうはいかんぞ」

 坂本は歯ぎしりして拳を握りしめ、部屋を出た。

「あいつを信用した俺がバカだった。畜生!」

 坂本はいつもの不敵な笑いはどこかに忘れて来たかのように、鬼の形相で廊下を歩き、職員達を仰天させていた。

「俺は、今まで捨て駒にされて来た連中とは違う。必ず一矢報いてやるぞ」

 坂本は呟き、改進党本部を出た。


 葵と影の睨み合いはまだ続いていた。

( 挑発するのも恐ろしい気がする。全く読めない。こいつ、どれほどの実力なの? )

 影は相変わらず表情も感情もわからないままだ。葵は身体中の水分が全部汗で出てしまうのではないかというくらい、全身汗まみれだった。

「!」

 ほんの刹那、影の戦闘力が落ちた気がした。葵は間髪入れず、攻撃を仕掛けた。

「やァッ!」

 葵の回し蹴りが、影に炸裂した、かに見えたが、そこには影はいなかった。葵の回し蹴りは虚しく宙を斬った。

「そんな……」

 葵はバランスを崩してよろけた。そこへ影が襲いかかった。

「くっ!」

 葵は影の突進をよけ、逆に反撃に出ようと影に向かった。ところが、全く別の方向から影が現れ、葵を蹴飛ばした。

「キャッ!」

 葵はコンクリートの上を転げた。身体中傷だらけになった。

「あっ!」

 立ち上がろうとした葵に、さらに影の攻撃が向かって来た。葵はかろうじてそれをかわし、走った。するとまた別の方向から影が現れ、葵の顔を正拳で殴った。葵はもんどりうって仰向けに倒れてしまった。

「ど、どういうことなの?」

 葵は口から流れ出る血を拭い、バッと忍び装束に着替えながら、影を睨んだ。

「速過ぎる。あんな変幻自在の攻撃、かわし切れない」

 彼女は敗北を覚悟した。このままでは、ただ嬲(なぶ)られて殺されるだけだ。何とか反撃しないといけないが、今の自分にはもう手段が残されていない。絶望が葵の心を支配し始めていた。

「諦めるな、葵。カラクリは解けたぞ」

 篠原の声がした。この時ほど、彼の声が嬉しかったことはない、と葵は思った。

「種明かしと行こうか、星一族さん」

 声がした方に、忍び装束姿の篠原、美咲、茜がいた。影は篠原達を見た。篠原は葵に、

「お前がそんな酷い顔になったのは初めて見たぜ」

 葵はムッとして、

「うるさいわね。そんなこと言いに来たの?」

「まァ待てよ」

 篠原は影を睨み、

「もういいんじゃないか、正体を明かしても。トリプルスターのお三人さん」

 言い放った。葵はギョッとした。

「三人?」

 彼女には影の気配が一人に感じられた。しかし、篠原は「三人」と言った。どういうことなのかと、葵は混乱した。

「イリュージョンの要領だよ。葵の視点からだと、一人にしか見えない。でも、違う角度からだと、三人いるのがはっきりわかる。だから、村田代表のマンションでお前とそいつらが戦った時、俺が現れた途端に逃げ出したのさ。種が割れたら、マジックショーは終わりだからな」

 篠原の説明に、自分の名前が出たので、村田はギョッとして顔を上げ、篠原を見た。

「ククク……」

 初めて影が声を発した。低い笑い声だった。一人に見えていた影が、三人に分かれた。葵はその事実を見せられて、驚愕していた。

「ショーは終わりだ。降参しろ。お前らは三人。俺達は四人。しかも必殺の三位一体技が使えないとなると、随分と不利だぜ」

 篠原の止めの一言に、影達は投降するかと思ったが、三人は仮面を取り、大声で笑った。三人は篠原が言った通り、トリプルスターであった。茜はそれを認めたくなかったようだが、もう受け入れざるを得なくなっていた。

「何がおかしい?」

 その癇に障る高笑いに、篠原が苛々して怒鳴った。すると長女の薫が、

「私達の強さが、三位一体の目くらまし戦術だと思っていたのか? 愚かな」

「何?」

 篠原は薫の言葉が虚勢でないことに気づいた。一体でいた時より、はるかに大きな殺気が、屋上全体に漂っていたのだ。

「まずいぞ。美咲ちゃん、茜ちゃん、逃げろ。こいつら、一人だけでもとてつもなく強い!」

 篠原の言葉が終わらないうちに、三姉妹の攻撃が始まった。たちまち美咲と茜はフェンスまで飛ばされて金網に叩きつけられ、篠原も一撃目はかわしたものの、次の攻撃を避け切れず、コンクリートの床に叩き伏せられてしまった。

「……」

 葵には三人の動きが見えなかった。

「何、今の?」

 葵の額に幾筋もの汗が流れた。三姉妹は、スッと向きを変え、葵を見た。

「わかったァ、おバカさん達ィ? 私らは、みーんな、強いの。あんた達なんか、問題じゃないのよ」

 鑑がバカにしたような口調で言い放った。茜は金網に叩きつけられて意識が遠のいていたが、

「何ですって……」

 呟いた。美咲もやっとまともに呼吸ができるようになり、三姉妹を睨んだ。

「大口を叩いたような感じだけど、本当にそうだわ……」

 彼女はこのままでは全員殺されると感じていた。

「まずは貴女を殺すわ、水無月葵。一族の長の娘にして、最強の称号を持つ貴女を嬲り殺しにして、その後ゆっくり時間をかけて、月一族を根絶やしにしてやるわ」

 篝が葵を指差した。葵は思わずビクッとした。

「あお……い……」

 篠原は鼻血を流しながら、顔を上げて葵を見た。

「そんなに簡単にられはしないわ」

 葵は深呼吸をし、気を高めて行った。篠原は、

「ダメだ、葵。その程度で勝てる相手じゃないぞ……」

 葵には聞こえていなかった。薫がニヤリとして、

「月一族の必勝の態勢か。しかし、それでは我らとの戦いに勝てはしない」

「どうかしら!」

 葵は玉砕覚悟で突進し、まずは一番格下と思える鑑に向かった。

「そう来ると思ってたわ、オバさん!」

 鑑はあっさりと葵の動きを見切り、彼女の後ろに素早く回り込むと、背中に強烈な正拳突きを食らわせた。

「うっ!」

 葵はそのまま前のめりに倒れ、勢い余ってコンクリートの上をズズズッと滑った。葵は顔を擦りむき、血だらけになってしまった。

「しょ……ちょう……」

 その痛々しさに、美咲は涙が出そうだった。

( あの所長が、ここまでやられてしまうなんて……。信じられない……)

 葵は顔に着いた汚れを血と共に拭うと、よろけながらも立ち上がった。鑑がケラケラとけたたましく笑って、

「もう立ってるのもやっとじゃない。オバさん、無理しないでよ」

 すると薫が、

「お前は今、水無月葵が、お前の正拳が当たると同時に前に飛んだのがわからなかったのか。今のはほとんど効いていない。あの顔の傷も、自分でわざと着けたのだ。そんなこともわからず、大口を叩くな」

 叱責した。鑑はギョッとして、

「そ、そんな……」

 キッとして葵を睨んだ。すると葵は、

「あんた今、私の事、オバさんて二回言ったわね。覚えとくわよ」

 鑑は、

「はァ? 何言ってんのよ、オバさん? オバさんだからオバさんて言ったのよ、何が悪いの?」

「五回」

 葵は鑑の挑発を無視して、回数だけを言った。薫は葵の気がさっきより高まっているのに気づき、

「下らない事を言い合っているな、鑑。手早く片づけるぞ」

「わかったわ、姉様」

 三人はススッと下がった。薫が、

「水無月葵、お前の戦術は読めた。時間を稼いで、気を高めて行くつもりだろうが、そんなことはさせない。今すぐ殺してやる!」

 叫んだ。

「ムッ?」

 篠原は葵の気がいつもと違う事に気がついた。

「まさか……」

 篠原は仰天していた。

「葵、それはまずい。いくら相手が強くても、その方法はまずいぞ……」

 篠原が恐れているのは、一体何であろうか?


 警心会では、総帥とスリーピースの男が狼狽えていた。

「トリプルスターを誘拐させた連中が全員、殺されたというのはどういうことなのですか?」

 総帥は手を震わせて、スリーピースの男を問いつめるように言った。スリーピースの男は、縮み上がる思いで、

「全くわかっておりません。同志に手を尽くして調べさせておりますが、トリプルスターも殺され、あの探偵達もどこに行ったのかわからないそうです」

「……」

 総帥の額に汗が流れた。

「やはり、我々はまずい連中と手を組んでしまったのですよ、総帥。このままでは、会は消滅してしまうかも知れません」

 スリーピースの男の言葉に、総帥は項垂れて椅子に沈み込むように座った。

「どううすればいいのだ?」

 彼は呟いた。


 薫、篝、鑑の三人は、次第に動く速度を上げながら、葵の周囲を走った。逃走経路を断って、瞬殺するつもりのようだ。

「……」

 葵はそれをなす術がないような表情で見ていた。

「!」

 薫と篝は、葵に仕掛けようとした時、篠原と美咲が割って入って来たので、虚を突かれたようだった。

「何?」

 篠原は薫を、美咲は篝を、正面からガッチリと止めていた。

「まだそんな余力があったのか。ならば順番を変更するか」

 薫はニヤリとし、スッと姿を消した。

「何だと?」

 篠原はすぐに気配を追ったが、薫がどこにいるのか、彼には全くわからなかった。

「ぐはっ!」

 突然薫は篠原の背後に現れ、彼の背中に回し蹴りを入れた。篠原は何の防御もできず、そのまま吹っ飛ばされた。

「バカね、あいつら。姉様達にたった一人で立ち向かおうとして。死ぬわよ、もうすぐ」

 鑑は愉快そうに葵を見て言った。彼女は葵のすぐそばで、ヘラヘラしながらゆっくりと、右に左に動いていた。

「放しなさいよ、あんた! 痛いわよ!」

 美咲に両手首を掴まれた篝は、激怒して叫んだ。しかし美咲は、

「貴女にはここで私の相手をしてもらうわ。動かないで!」

「くゥッ!」

 ミシッと音がして、篝の手首が歪んだ。彼女は美咲の手を振り解こうとしたが、美咲の力に対抗できるわけもなく、どうする事もできないでいた。

「何をしている、篝?」

 篠原にもう一撃入れようしていた薫が、篝の思わぬ苦戦に気づき、叫んだ。

「!」

 美咲は薫の強さを感じた。

( この長女、所長より強い? )

 認めたくなかったが、そう感じてしまった。

「お前から殺すか?」

 薫はゾッとするような笑みを浮かべ、ゆっくりと美咲に近づいて来た。

「く……。美咲ちゃん……」

 それに気づいた篠原が立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。茜も金網から何とか離れたが、とても美咲の応援に行ける状態ではなかった。

「美咲!」

 葵も美咲のピンチに気づき、叫んだ。しかし鑑が、

「オバさんは私が相手をしてあげるよ。あっちのお姉ちゃんは、薫姉様が始末してくれるわ」

 けたたましく笑った。

「六回」

 葵はまだ「オバさん」発言を数えていた。鑑はイラッとして、

「いつまで言ってんのよ、オバさん!しつこいわよ!」

「しつこいのは生まれつき。あんたのバカも生まれつきなの?」

「えっ?」

 鑑が葵の攻撃に気づいた時、すでに彼女は意識を失っていた。葵の左右の正拳が、鑑の顔面を捉えてしていたのだ。

「一、二、三、四、五、六、七!」

 鑑は崩れるようにして倒れた。葵は倒れ伏した鑑に、

「二十代の女性に対して、オバさんとか言うんじゃないわよ、バカガキ」

 言い放った。

「ムッ?」

 美咲に近づきかけていた薫は、鑑が倒されたのに気づいて葵を睨んだ。篝も、美咲の手を振り解くのを諦めかけていたが、鑑が倒れたのに気づき、

「あんたら、始めからこれが目的だったのか?」

 怒りの目を美咲に向けた。美咲は落ち着いた顔で、

「敵は各個に撃破せよ。当たり前の戦術よね」

 言い返した。

「なるほど。無謀な突撃のように見せかけて、鑑を一人にしたのか。しかし、私と篝はそうはいかない。そして、今、戦力は互角。二対二だ」

 薫は淡々とした声で言った。葵は薫を睨んで、

「そこまでの自信、星一族最強を名乗るのなら、虚勢ではないようね。でも、あんた達の野望は阻止するわ。あんた達の後ろにいる、政界のクズ共に思い知らせるためにね」

 葵の言葉に、薫は感心したように頷き、

「ほォ。そこまで見抜いていたか。しかし、少し違うな。後ろにいるのは、我が一族の方だ。あの物欲の塊の男は、その事を知らない」

「何ですって?」

 葵はギョッとした。村田も顔を薫に向けて、

「どういう意味なんだ?」

 呟いた。

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