第十二章 古《いにしえ》の闇の鼓動
美咲は携帯を切ってポケットにしまうと、
「篠原さんに従うようにと所長から指示されました」
隣に立っている篠原に言った。茜を含め、三人はグランドビルワンの地下駐車場に来ていた。篠原は、
「葵もさすがに慎重だな。いつもなら俺がそばにいると邪険にするのにな」
「所長は篠原さんを信頼しているんですよ。そんなこと言ってはいけません」
美咲の大真面目の反論に、篠原は思わず噴き出して、
「美咲ちゃんももう少し柔らかくなると、俺の好みなんだけどなァ」
「こ、好み?」
美咲は真っ赤になってしまった。茜がそれに気づき、
「篠原さん、ダメですよ、美咲さんを虐めちゃ。所長に後でぶっ飛ばされますよ」
「じゃ茜ちゃんを虐めようかな?」
篠原が茜に顔を近づけたので、茜はビクッとして、
「わ、私は遠慮しときますゥ」
美咲の陰に隠れた。篠原は大笑いをして、
「冗談だよ。茜ちゃんを虐めたら、俺は大原に逮捕されちまうさ」
「もう!」
茜はそう言いながらも、大原の事に触れられたのが嬉しかったのか、ニコニコした。篠原は、
「とにかく、事務所に行こう。ここにいつまでもいるのは得策じゃないからな」
「はい」
美咲と茜は応えた。
葵達が出かけようと玄関に向かった時、ドアフォンが鳴った。葵は村田と顔を見合わせて、
「そう言えば、保科さんが来るんでしたっけ? 忘れかけてました」
「そうでしたね」
村田はヤレヤレという顔で言った。インターフォンの受話器を取ると、モニターに保科の顔が映った。
「申し訳ありません、お忙しいところ。先程お話しました通り、鑑識を連れて参りました。現場の検証をさせていただきたいのですが」
「わかりました。今ロックを解除しますので」
村田がドアに近づき、ロックを解除し、チェーンを外した。葵は改めて、自分は男と二人きりでこの狭い密室空間にいたのだ、と感じ、ハッとした。そんな葵のほんの一瞬の虚を突いたことが起こった。
「うわっ!」
村田はドアを開けて保科を迎え入れようとしたが、外にいた保科がいきなり村田の腕を掴み、外へ引きずり出してしまったのだ。
「えっ?」
葵は仰天し、すぐにドアを開いて外に出た。すると保科は村田に当て身でもくれたのか、彼を軽々と右肩に背負い、外廊下を端まで走って行くところだった。
「どういうつもり?」
葵が怒鳴った。すると保科はせせら笑いながら振り返り、
「まだわからんのか? この一件の黒幕が? 私の苗字は保科。これでわかっただろう?」
「まさか……」
葵の全身から冷や汗が噴き出した。保科は、
「我らが目的は、お前達一族の殲滅。首を洗って待っているがいい」
言い放つと、高笑いして姿を消した。葵は保科のヒントで全てを理解した。
「坂本は黒幕じゃない。奴は単なる捨て駒。そして、警心会すら、連中の隠れ蓑、フェイク。ほしな。この響きが全ての謎を解く鍵。何でこんなことに気づかなかったの?」
葵はすぐに保科を追いかけ、走りながら美咲に連絡した。
美咲は葵からの連絡に一瞬気が遠くなりそうになった。
「保科という刑事が、村田代表を連れ去ったそうです」
美咲は携帯をしまいながら、篠原に言った。篠原はソファに座って、
「やっぱりな。俺、あいつにどこかで会った気がしたんだ。やっぱりあのヤロウが、葵を蹴飛ばした奴なのか」
「でも、それだと妙なんです」
美咲は向かいのソファに腰を下ろして言った。茜がその隣に座りながら、
「どういう意味ですか?」
篠原も頷いて美咲を見た。美咲は二人を見て、
「保科は、所長が襲撃者と戦っていた頃、私達がいた廃工場にいました。少なくともあの時は、私達より長くあの場にいたはずです」
「そうか」
篠原は美咲の言葉に考え込んだ。美咲は、
「ただ、トリプルスターを斬殺したのは、保科の可能性があります。所長のところに行く前にあそこに現れ、三人を斬ってから村田代表のマンションに素知らぬ顔で行けばいいわけですから」
「そうだな。あの時の影が奴なら、一度会った気がしたのは、間違いじゃなかったわけだな」
「そうですね」
美咲は少し間を置いてから、意を決したように、
「所長はこうも言っていました。ほしなという音が、全ての謎を解く鍵だと」
「ほしな、が?」
篠原は一瞬キョトンとしたが、すぐに、
「そうか。忘れていたな。奴らの名を」
「ええ。四国の一族は、星一族です。やはり、背後に彼らがいたということですね」
美咲は言った。篠原は腕組みをして、
「だが、どういうつもりなんだ? 何故、トリプルスターを殺した? 警心会とはどういう繋がりなんだ?」
「そうですね。まだ、わからないことだらけです」
その時茜が、
「ああっ!」
大声を出した。美咲と篠原はびっくりして茜を見た。
「どうしたの、茜ちゃん?」
茜は恐る恐る、
「トリプルスターの三人の苗字は、『星』なんです」
「ええっ?」
篠原と美咲は異口同音に叫んだ。
「単純な謎かけだったんだな。トリプルスターって、三つの星ってことだもんな。バカにしやがって」
篠原は悔しそうにそう言った。
「つまり、トリプルスターは殺されてはいない。カモフラージュのために殺されたと思わせ、後で襲撃して、遺体を盗まれたように見せかけた。これであらゆる謎が解ける」
「トリプルスターが星一族なら、あのマネージャーもそうですよ」
美咲が言うと、篠原は、
「あいつは違うだろう」
「いえ、そうじゃないんです。最初にあの人達に会った時、マネージャーがおかしなことを言ったんです」
美咲の発言に、茜はその時の事を思い出してみたが、別にマネージャーは妙なことは言っていなかった気がした。
「あの人、私達が出かけようとしていた時に、地下駐車場に現れたんですが、『危うく誰もいない事務所に行ってしまうところだったんですか』と言ったんですよ。おかしいんですよ。どうして私達が出かけると、事務所に誰もいないと知っていたんでしょう?」
「ああっ!」
茜は美咲の記憶力と洞察力に驚嘆していた。彼女が最初からトリプルスターを怪しんでいたのは、マネージャーのその一言があったからだったのだ。
「葵はどうしているんだ?」
篠原が美咲を見た。美咲は、
「保科を追っているようです」
「まずいな。星一族は単独で行動はしない。それは俺達も同じだが、葵の奴、虚を突かれて頭に血が上っちまったか」
篠原は携帯を取り出し、葵に連絡した。しかし葵は出ない。
「カッカして追跡中のようだな。あいつの欠点の一つだ。頭に来ると、周りが見えなくなる」
篠原は携帯を内ポケットにしまうと、
「俺は葵のところに行く。二人は葵のマンションで影達と一緒にいろ。敵はあまりに危険な連中だ。迂闊に動くな」
「でも、マネージャーもトリプルスターも星一族だとすると、篠原さん一人じゃ、手に負えませんよ」
美咲が反論した。篠原は苦笑いして、
「葵の親父殿に言われているんだよ。あいつを必ず守ってくれってね。この頼みだけは、どうしても断れない」
「長の頼みは頼みとして、篠原さんの身に何かあったら、所長はどうすればいいんですか?」
美咲は真剣な表情で言った。篠原は肩を竦めて、
「葬式くらい出してもらいたいけどな」
「篠原さん! 冗談を言っている場合じゃありませんよ!」
美咲はムッとしていた。篠原は、
「わかったよ。一緒に行こう。但し、自分の身は自分で守るしかないぞ。それでもいいな?」
「はい」
美咲と茜は頷いて言った。
葵は全速力に近い速さで保科を追いかけていたが、先行された分がなかなか詰められないでいた。保科は村田を肩に乗せたまま、次々にビルの屋上を飛び移っていた。
「あの男、代表を担いだままでどうしてあんなに速く動けるの?」
葵はかなり苛ついていた。
「星一族には謎が多いから、簡単には近づくなって言われていたけど、クライアントを連れ去られて、そんなこと守っていられないわ!」
葵はさらに加速して、保科との距離を詰めた。
「速いな。さすが、月一族最強の忍びだ。だが、俺如きにこれほど手こずっていては、我が一族最強の使い手の足下にも及ばないぞ」
保科はせせら笑いながら言い放った。葵はムッとして、
「うるさいわね。今ぶちのめしてやるから、待ってなさい!」
高く飛び、隣のビルの壁面を蹴って保科の頭上に出た。
「何?」
保科は葵の動きに唖然とした。
( これが、水無月葵の実力なのか……)
「ほーら、もう追いついたわ!」
葵は保科の顔面を思い切り蹴飛ばし、村田が落下するのを抱き止めて、隣のビルの屋上に着地した。保科はそのまま真っ逆さまに地上に落ちて行った。
「代表、大丈夫ですか?」
葵は村田の肩を揺すって呼びかけた。村田はかすかにうめき声を出し、
「こ、ここは?」
目を開いた。葵はニッコリ笑って、
「ビルの屋上です。保科が事件に関わっていたようです。でも、もう大丈夫ですよ」
村田は苦笑いして、
「ま、どうしてこんなところにいるのかは、後でお聞きしましょう」
立ち上がったが、よろけてしまった。葵は慌てて村田を支えた。
「無理しないで下さい。私の肩を貸しますから」
「すみません」
二人が屋上から立ち去ろうとした時、
「なーにが大丈夫なんだよ。俺はまた生きてるぜ」
保科が二人の前に現れた。村田はギョッとして後ずさった。葵は村田を庇うように前に出て、
「当たり前よ。殺すつもりはないもの。まだ元気そうね、警部さん」
皮肉っぽく言った。保科は口から流れる血を拭って、
「村田の身柄は、最低限のノルマなんだよ。邪魔するんじゃねえよ、バカ女!」
怒鳴った。葵は保科を鼻で笑い、
「下品で弱い男って最低よね」
「何だと? 俺の実力を過小評価しているようだな。今すぐ後悔させてやるぞ」
保科は内ポケットから、黒い粒を取り出し、それを呑み込んだ。
「何?」
葵は保科の行動の意味が分からなかった。だが、危険な感覚に襲われたので、
「代表、私から離れないようにして下さい」
「は、はァ」
村田は完全に呆気に取られていた。無理もない。忍びと忍びの戦いなど、一生のうちでそんなに見られるものではないのだ。
「へへへへヘーッ!」
保科の様子が変わった。一種のトランス状態に見えた。
( さっき口に含んだのは、何かの薬? そう言えば、星一族は妙な薬を使うと聞いたことがあるわ……)
「死ねーっ!」
保科が先程とは比べ物にならないほどのスピードで、葵に突進して来た。しかし、
「イノシシか!」
葵の踵落としが炸裂し、保科は屋上のコンクリートの床に顔面を打ちつけた。葵はその時、すぐ後ろで村田が見ていたことを思い出し、ギクッとした。
( み、見られたかな? )
彼女は妙な心配をしてしまった。それでも何とか冷静さを保って、
「片付きました。信頼できる人を呼んで、こいつを拘束させます」
「はい」
村田は葵のスカートの中など見てはいなかったが、その技の凄まじさに、完全に放心状態に陥っていた。
「片付いてねェよ。俺はまだ生きてるぜェ」
背後で保科が立ち上がった。葵はその声が信じられなかった。
「嘘……。どうして気を失っていないの?」
彼女はその時、保科が薬を呑んだことを思い出した。
「もしかして、あれは、人の限界を超えさせてしまうもの?」
葵は立ち上がった保科の様子を見てそれを確信した。明らかに保科は、心ここにあらず、という顔をしていた。鼻血と口からのヨダレ混じりの血がダラダラとたれているのに、拭おうともしない。理性が崩壊してしまったように見えた。
( どうすればいい? 殺さない限り、こいつは立ち上がって来るの? )
月一族の長の娘として、一族最強の称号を得た者として、敵を殺すことだけはできなかった。掟を破れば、例え長の娘と言えども、一族から追放されてしまう。全ての記憶を奪われた上で。その先に待っているのは、死よりも残酷な人生だ。
「それなら、こうするまで!」
葵が逆に保科に突進し、保科の攻撃を巧みにかわしながら、彼に何かを巻きつけて行った。数十秒の格闘の末、葵は保科の右手と左足、左手と右足を細い紐で縛ってしまった。
「ぐおおおおっ!」
保科はゴロンと転んでもがいたが、どうすることもできなかった。
「こいつ、どうしたんですか?」
やっと我に返った村田が尋ねた。葵は乱れた髪を手櫛で整えながら、
「こいつらの一族は、妙な薬を使うんです。恐らく、限界を超えても、脳が制動をかけないような薬を使ったのでしょう。そんなものは、使い方を間違えると、人間としての全てを失ってしまいます」
「ええ……」
村田はもがいて叫び続ける保科を哀れむように見た。
「いくら暴れたって、その紐は切れないわよ。ハイテク素材なんだからね。それに高かったんだから、切ったらさっきより強く蹴飛ばすわよ」
葵は保科に近づいて言った。もちろん、理性が崩壊し、人格が破壊されてしまった保科には、何を言っても通じなかっただろうが。その時、
「大した奴だな。そいつは雑魚だが、そんなに簡単にやられてしまったことはない」
声がした。葵はハッとして、声がした方を見た。そこには、トリプルスターのマネージャーが立っていた。しかしその顔つきは、「残忍」という言葉が一番似合っていた。口元の笑みも、狡猾そのものだった。
「お前とは初めて顔を合わせるな。噂に聞く、月一族最強の、水無月葵か?」
「だったらどうなの?」
葵は村田を庇いながら、マネージャーに言い返した。マネージャーはニヤリとして、
「俺は星一族の三番手、星川豹馬。村田の身柄、預かりに来た。そしてついでに、お前の命もいただく」
葵はフンと笑って、
「三番手? 相手にならないから、出直して来てよ。一番強い奴呼びなさい」
星川は、そんな葵の挑発めいた言葉に臆することなく、
「なるほど。自信過剰もそのくらいまで行くと、滑稽を通り越して、哀れだな。俺は星一族では三番手だが、月一族でなら、一番手だ!」
叫んだ。そして、
「この俺の動きが見えるか?」
スッと姿を消した。しかし葵は軽蔑の眼差しで、
「バッカじゃないの」
動き回る星川をあっさり捕まえた。
「な、何だと?」
襟首を掴まれた星川は、驚愕した表情で、葵を見た。
「あんたは、星一族の三番手じゃなくて、いつも三番手くらいに戦いに参加する卑怯者なんでしょ?」
葵の言葉が図星なのか、星川の顔のいたるところから汗が噴き出した。
「保科が私と戦っているのを見て、私の動きを見切ったつもりなんでしょうけど、あんなオジさん相手に、私が本気出すとでも思ったの?」
「……」
星川は、借りて来た猫のように大人しくなった。葵はその機を逃さず、星川を縛り上げた。
その後葵は、携帯に篠原からの着信があったことに気づき、携帯をかけようと開いた。その時だった。何かが掠めたかと思った次の瞬間、携帯が粉々に砕けてしまった。
「何?」
葵は辺りを見回した。気配はしない。そして姿も見えない。しかし、確実に何かがいるのだ。
( もしかして、一番やばい奴がご到着なの? )
葵は何年かぶりに、背筋がゾッとする思いだった。
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