第十章 同時多発的展開

 美咲と茜は、忍び装束から元の服に着替え、ミニバンで町を当てもなく走っていた。そんな時、葵からメールが入った。美咲はミニバンを路肩に停め、携帯を取り出した。

「村田代表のマンションに、何者かが侵入して、所長を襲ったらしいわ」

 美咲が言うと、茜はヘーッという顔をして、

「随分命知らずな奴ですね。それで、その襲撃犯は生きてるんですか?」

「それどころか、危うく所長が倒される寸前だったらしいわ」

「ええっ? どんな化け物なんですか、そいつ? あっ、大人数で押し掛けたんですね?」

 茜の自信満々の推理に美咲は首を横に振り、

「違うわ。敵は一人だったみたい。でも、篠原さんは何人かいたって言ってたらしいわ」

「篠原さん? どうして篠原さんがそこにいたんですか?」

 茜はキョトンとした。美咲はフフッと笑って、

「それだけ所長のことが心配なんでしょ。所長は迷惑だってコメントしてるけど」

「なーるほど。で、所長は大丈夫なんですか?」

「ええ。ちょっと脇腹を蹴られて痛いみたいだけど、動けないほどじゃないらしいわ」

 美咲の答えに茜は神妙な顔になり、

「所長に一撃見舞うなんて、かなりハイレベルですね。この前の連中と同等か、あるいはそれ以上かも」

「そうね。それにしても、次から次へといろいろな事が起こって、目が回りそうだわ」

 美咲が言うと、茜はハッとして、

「トリプルスターの皆さんを探さないと。まだ工場内にいるのかも知れませんよ」

「でも今は警察が現場検証中よ。とても近づけないわ」

 茜は美咲の言葉に口を尖らせて、

「警察は警心会の味方なんですよ。私達が脱出したことを知ったら、三姉妹の命が危ないですよ」

 反論した。美咲は溜息を吐いて、

「わかったわ。戻ってみましょう」

「ああ、その言い方、まだトリプルスターの皆さんを疑ってるんですね?」

「そうじゃないわよ」

 美咲はミニバンを発進させ、Uターンした。


 葵は美咲には強がりを言い、篠原には憎まれ口を叩いてしまったが、実はかなりダメージを受けていた。彼女は元のスーツに着替えたが、脇腹の痛みが酷くなり、一瞬動けなくなった。

「今になって効いて来た。一体何者? やっぱり四国の?」

 葵は痛さに耐えかねて、ソファに横になった。

( 護にはあんなこと言っちゃったけど、ホントはあいつが来なかったら、私は確実に殺されていたのかも知れない )

 葵はついうとうととしてしまい、疲れと痛みのため、そのまま寝入ってしまった。


 ほとんど車も走っておらず、人は一人も歩いていない夜明け前の道路を、通称「茜号」は疾走していた。

「もっと急いで下さいよ!」

 助手席で茜が大騒ぎをしているのを美咲は完全に無視して、ミニバンを運転していた。その時だった。

「キャッ!」

 茜の携帯が鳴り出したのだ。彼女はびっくりした顔で携帯をバッグから取り出して、相手を確かめた。

「あっ、これは確か……」

 登録されていない番号なので、相手の名前は出ていないのだが、茜はそれが誰からの連絡なのかわかった。

「無事だったんですね?」

 通話を開始すると同時に、茜は相手に言った。電話をよこしたのは、トリプルスターの薫だった。

「今どこにいらっしゃるんですか? えっ? 事務所のビルの前? わかりました、すぐに行きます」

 茜は携帯を閉じて、

「美咲さん、薫様からです。グッドカンパニーのビルの前にいるそうです」

 美咲は前を見たままで、

「どうしてそんなところに?」

「気がついたらそこにいたそうなんです。詳しいことは向こうに着いてからということで」

「わかりました」

 美咲は対向車がいないことを確認して、ミニバンを再びUターンさせた。

「とにかく、皆さんが無事で良かったです」

 茜は嬉しそうに言った。しかし美咲は、

「そうね」

 素っ気ない返事をした。


 坂本は真っ暗な部屋でノートパソコンで何者かと通信をしていた。テレビ電話のようである。

「警心会の方は、連中に気づかれたらしく、失敗した。村田の方は、邪魔が入って退却した。次はどうする?」

 坂本が問いかけると、相手が、

「心配するな。想定内のことだ。着々と計画は進行中だ」

「そうか。私はどうすればいい?」

「恐らく探偵共はお前のことを疑っているはずだ。注意を別の人間に向けさせるから、それまでは何もするな。例え連中がどんなに油断しているように見えてもだ」

「わかった」

 坂本は通信を終え、パソコンの電源を切った。漆黒の闇が彼を覆い尽くした。坂本は手元のロウソクに火を点けた。ボンヤリとした炎の光で、坂本の狡猾な顔が浮かび上がった。

「くれぐれも私を囮に使ったりするなよ。お前達は今までいつも他者を犠牲にして生き延びて来たんだからな」

 坂本は呟いた。


 美咲と茜は、トリプルスターの三人とマネージャーをグッドカンパニーの事務所があるビルの前で拾うと、また当てのない旅に出た。

「どこに行きましょうか?」

 茜が美咲に尋ねた。美咲は前を向いたままで、

「そうね。どこに行こうか?」

 尋ね返した。そんな素っ気ない美咲の態度に茜は口を尖らせて、

「皆さん、どこかいいところ知りませんか? ヘタなところだと、警察が張っているかも知れないので」

 後部座席のトリプルスターを見た。薫が、

「そうですね。私達がレコーディングに使っているスタジオはどうですか? あそこなら関係者以外誰も来ませんし、警察もいないと思いますよ」

「スタジオ、ですか?」

 茜が目を輝かせて美咲を見た。美咲はチラッと茜を見て、

「取り敢えずそこに行ってみましょうか。場所を教えて下さい」

 美咲は薫をルームミラー越しに見て言った。薫は頷いて、

「わかりました」

 そして身を乗り出して進行方向を見ると、

「この先の交差点を右折して下さい。五百メートルほど走ったら、突き当たりを左折して、そこから二百メートル行った左手のビルの地下がそうです」

「わかりました」

 美咲は茜に目で合図した。茜は頷いて、カーナビを操作した。

「はい、完了」

 茜は満面の笑みで美咲を見たが、美咲は酷いしかめっ面だった。茜は美咲が機嫌が悪いのかと思い、ビクッとした。しかし美咲は機嫌が悪いわけではなかった。彼女はまだトリプルスターを疑っているのだ。特に証拠はないのだが、合点がいかないことが多過ぎると考えていた。

( あの五人の死体が襲撃犯だとしたら、トリプルスターはどうやってさっきの場所まで移動したの? 襲撃犯が殺されたのでなければ、どうしてトリプルスターは解放されたの? もしかすると、これは次の罠の始まりなのでは? )

 美咲の警戒レベルはMAXに達しそうだった。

( そして、これが罠だとして、トリプルスターの役回りは? ただの囮? それとも共犯者? )

 美咲の思考を茜が知ったら、激怒していただろう。


 一方葵は、近づいて来た人の気配にハッとして目を覚ました。

「あっ」

 それは村田だった。彼は葵の計算よりも早く目が覚めてしまい、ソファでグッタリして寝息を立てている葵に気づいて心配になって近づいたのだ。

「も、申し訳ありません、不寝番だなんて言って、眠ってしまったみたいで」

 葵は慌てて起き上がって頭を下げた。村田はニコッとして、

「いや、別にそんなことは構いませんよ。それより、窓ガラスが割られているようですが、何があったのですか?」

「大したことではないです、と言いたいところですが、ちょっといろいろありまして。とにかく、詳しい話は朝になったら致しますので」

 葵は痛みに耐えながら答えた。村田は納得のいかない顔をしていたが、

「そうですか」

 それ以上追求はしなかった。葵は壁に掛けられた時計を見て、

「まだ四時前です。もう一度お休み下さい。お時間になりましたら、声をおかけしますので」

「わかりました。くれぐれも無理はしないて下さいね」

 村田は寝室に戻って行った。葵は、

「ありがとうございます」

 村田は葵の返事に振り返り、会釈してドアを閉じた。

( こんなこと初めてだわ。大失態ね。茜に知られたら、大威張りされそう )

 葵は両手で頬を叩き、目を覚まそうとした。その時彼女は美咲からのメールに気づいた。

「トリプルスターを救出。但し問題あり?」

 美咲の謎の報告に首を傾げた葵だったが、今は美咲達のことを心配している余裕はなかった。

「この痛み、倍にして返してやるから!」

 葵は襲撃者に怒りの炎を燃やした。そして携帯で誰かに連絡した。

「ちょっとお願いがあるんだけど」

と葵は相手に言った。


 美咲達が到着したビルは、道路を挟んでお堀があるところだった。葵の事務所からそれほど離れていないところにレコーディングスタジオがあるのだ。

「わあ、私達の事務所のそばですね、ここって。知らなかったなァ、皆さんがこんな近くでレコーディングしていたなんて」

 茜が大はしゃぎして車から降りた。薫が、

「ここは最近になって使い始めたので、まだCDになった曲はここでは録っていないんです。これからですよ」

「そうなんですか」

 茜はニコニコして三人について行く。美咲はマネージャーを促し、辺りを警戒しながらビルに近づいた。

「あっ」

 鑑が何かにつまずいたのか、よろけた。茜が慌てて彼女を支えた。

「大丈夫ですか?」

「ええ。すみません」

 鑑は顔色が悪い。篝が、

「この子、事務所の車以外に乗ると、酔っちゃうんですよ。軟弱者なんです」

 鑑は言い返す気力もないのか、篝を睨んだだけで何も言わなかった。茜は鑑を支えて歩き出した。心配そうに立ち止まっていた薫も歩き出した。篝はツンとして鑑と茜を追い越し、薫に追いついた。美咲はそんな様子を見ながら、

「あれから警心会からの連絡はありませんか?」

 マネージャーに尋ねた。マネージャーはビクッとして美咲を見ると、

「いえ、ありません。何しろ、車に押し込まれて眠ってしまってから、事務所の前で目を覚ますまで、どこでどうしていたのか、全くわからないんです」

「トリプルスターの皆さんも同様ですか?」

 美咲の問いにマネージャーは薫達の方を見て、

「ええ。何はともあれ、全員無事で良かったですよ」

「そうですね」

 美咲はまだ終わっていないと考えていた。トリプルスターがどのようなポジションにいるにせよ、このままですむとは到底思えなかったのだ。

その時だった。

「はっ!」

 美咲は背後から迫る強烈な殺気に身構え、振り返った。道路の反対側に、真っ黒な服を着た、まるで影のように見える人間が立っていた。人間なのはわかるのだが、男女の区別はつかなかった。

「茜ちゃん!」

 美咲が叫んだ。茜はその声のトーンにハッとして鑑から離れ、美咲のそばに戻った。

「何ですか、あれ?」

 茜も、強烈な殺気に気づき、その黒い人物に目を向けた。美咲は茜を見ないままで、

「少なくとも私達を助けに来た人じゃないようね」

「そうみたいですね」

 茜も身構えた。トリプルスターとマネージャーは何が起こったのかわからないまま、凍りついたように動かなくなっていた。

「あっ!」

 美咲も茜も反応すらできないくらいの速さで、影は動いた。影は美咲と茜を飛び越え、一直線にトリプルスターに突進していた。

「しまった!」

 美咲と茜はすぐさま影を追った。しかしほんの一瞬の差が全てを決していた。篝、鑑、そして薫の順に、影は鋭い刀のようなもので斬った。斬撃ごとに月明かりを刃が反射してきらめいた。それと同時に三人共血飛沫を上げて倒れた。まさしく一瞬の出来事だった。マネージャーは返り血を浴び、そのまま卒倒してしまった。

「イヤーッ!」

 茜が絶叫した。美咲は一瞬呆然としたが、すぐに正気を取り戻し、影に向かった。影は美咲をかわそうと後ろに飛び退いたが、美咲の方が速く、彼女は影の右腕を掴んでそのまま投げ倒そうとした。しかし影は美咲の投げをいなし、逆に彼女の右手をねじ上げて折ってしまった。

「ううっ!」

 美咲は影に投げ飛ばされ、地面に倒れ伏した。その光景を目の当たりにした茜は、すっかり仰天してしまった。

「み、美咲さんが投げ飛ばされた?」

 美咲は右手を庇いながら立ち上がった。影は次に茜に狙いを定めた。茜はまるで蛇に睨まれたカエルのように動けなくなっていた。

「茜ちゃん、逃げて!」

 美咲の叫びも虚しく、茜は全く動けないでいた。影の手が茜に届く直前、

「ぐはっ!」

 影は何者かの飛び蹴りを喰らい、吹っ飛んだ。

「大丈夫か、茜ちゃん、美咲ちゃん?」

「篠原さん!」

 美咲と茜が同時に叫んだ。篠原はすぐに起き上がった影を見て、

「お前、さっき俺の女に蹴りくれた奴か? もう一発見舞ってやるから、そこ動くなよ」

 すると影はサッと後ろに飛び、逃げ去った。

「追いかけない方がいい」

 影を追おうとした茜に、篠原が忠告した。茜は立ち止まって、

「だって、トリプルスターの皆さんが、あいつに……」

 涙ぐんで反論しようとした。篠原は、

「とにかく今は大原に連絡するんだ。正体のわからない敵を追いかけるのは、得策じゃない」

「はい」

 茜は仕方なさそうに追跡を諦めた。篠原は美咲に近づいて、

「ちょっと痛いけど、我慢してくれ」

 折れ曲がった美咲の右手をグイッと捻って元に戻した。美咲は顔を歪めて激痛に耐えていたが、目には涙が溢れていた。相当痛かったようだ。篠原はびっくりして、

「おいおい、泣くなよ、美咲ちゃん。君を泣かしたなんて葵に知れたら、俺は多分殺されるよ」

「ごめんなさい、とても痛かったので、涙が出ちゃって……。気にしないで下さい、篠原さんのせいじゃありません」

 美咲はハンカチで涙を拭いながら言った。篠原はホッとしたような顔で頷き、

「ちょっと遅かったな。葵からの連絡で、君達のところへ急いでくれって言われたんだけどな」

「所長からの? でもどうしてここがわかったんですか?」

 美咲はハンカチを畳みながら尋ねた。

「葵のマンションから、あいつの影の一人に、このミニバンの出している信号をキャッチする受信機を持って来てもらったのさ」

 篠原は小さな無線機のようなものを見せた。そしてトリプルスターの惨状を見て、

「ひでえな。あの華やかな三人が、見る影もない」

 その言葉に我慢していた感情がついに留められなくなったのか、茜が大声で泣き出し、

「篠原さーん!」

 篠原に抱きついて来た。篠原は思いもよらぬ茜の行動に、いつものスケベさはどこへ行ってしまったのか、オタオタしていた。

「……」

 美咲は倒れている四人を遠目に見ていたが、

「茜ちゃんは大ファンだったんですよ、この人達の。だから、しばらく泣かせてあげて下さい。大原さんには私が連絡します」

「ああ、わかった」

 篠原は茜の頭をまるで愚図る子供をあやすように撫でながら答えた。そして、

「しかしわからないのは、どうしてあいつがトリプルスターを襲ったのかってことだ。美咲ちゃんと茜ちゃんを殺すつもりはなかったようなのに」

「ええ、そうですね。私にもわかりません」

 美咲は右手を撫でながら同意した。その謎こそ、今回の最大の秘密だったのである。


 葵は脇腹の痛みを解消するために、身体中の気を巡らせ、脇腹に集中していた。

「この蹴り、ただの蹴りじゃない。そうでなければ、こんなにいつまでも痛いはずがない。何なの、一体?」

 葵がそんな疑問と戦っている時、玄関のドアフォンが鳴った。葵はハッとした。

( 誰? まだ四時前よ? )

 葵は不審に思いながらも玄関に近づき、カメラ付きインターフォンの受話器を取った。するとモニターに一人の男が映った。

「どちら様でしょう?」

「こんな時間に申し訳ありません。私は警視庁捜査一課の保科と言います。こちらは、改進党の村田代表のお宅でよろしいですか?」

 男は身分証を提示して言った。

「警視庁?」

 保科と言えば、トリプルスターが誘拐されたと通報を受けて工場跡地にやって来た刑事だ。しかし葵はそのことを知らないし、現場にいた美咲も知らない。

「村田代表の秘書の坂本さんから本庁に連絡がありまして、村田代表のマンションに何者かが侵入したという話を聞きました。それで、失礼とは思いましたが、こちらに参った次第です」

 保科は続けた。葵は途端にビクッとした。

( どうして坂本がそんなことを知っているの? やっぱりあの襲撃者と坂本は繋がっているってこと? )

 葵は受話器のコードをギュッと握りしめた。葵が考え込んでいると、

「あの、大変不躾なお願いなのですが、一応中を調べさせていただけないでしょうか?」

 保科が言った。葵はハッと我に返り、

「少々お待ち下さい。村田に確認して参ります」

 受話器を戻した。

( まずいな。警察だとすると、警心会と繋がっている奴かも。例えそうでないとしても、私が出たのは失敗だった。村田代表にどう対処したものか、尋ねてみないと……)

 葵は寝室のドアに近づき、ノックした。

「代表、申し訳ありません。警察の方がお見えです」

「はい」

 村田はどうやら寝入ってはいなかったらしい。すぐに返事があり、ドアが開いた。

「用件は何ですか?」

 村田は眩しそうな顔でガウンを羽織りながら尋ねた。葵はチラッと玄関のドアを見て、

「警視庁の保科様という方が、坂本さんの連絡を受けて、侵入者のことでいらしたようです」

「坂本の連絡で?」

 村田も合点がいかないようだ。葵は答えを待つように村田を見た。村田は一瞬考え込んだが、

「貴女がここにいることを変に勘ぐられるのも困りますね。警察が、坂本の連絡でここに来たというのも、何か信用できないですし」

「はい。どうしますか?」

 村田は玄関に歩き出した。

「取り敢えず、中に入ってもらいましょう。仮に警心会の関係者だとしても、いきなり手荒なマネはしないでしょう」

「わかりました」

 葵は村田を追い越して、ドアのロックを解除し、チェーンを外した。

「お入り下さい」

「失礼します」

 葵がドアを開くと、保科はお辞儀をしながら中に入って来た。そして村田を見ると、

「村田代表ですね? 私は警視庁の保科と申します。先程奥様には……」

 話しかけて葵を見た途端、彼女が村田の妻にしては若過ぎると感づいたのか、ギョッとしたようだ。それに妻にしてはスーツを着込んでいて、服装が妙だとも思ったのだろう。すると村田が、

「彼女は私のプライベートのボディーガードです。妻ではありません」

「はァ、そうですか」

 保科は納得していないようであったが、それ以上突っ込むつもりもないらしく、話を切り替えた。

「主席秘書の坂本さんからの連絡で、こちらに侵入者が現れたと聞きまして、現場を見せていただきに参りました。よろしいでしょうか?」

「はい。かまいません。ただ、すぐに逃げたらしく、何も盗られていませんよ」

 村田は答えてリヴィングルームに向かった。葵は慌ててスリッパを保科に出した。保科は葵に会釈し、村田を追いかけるように歩き出した。葵もそれに続いた。

「窓ガラスが割られていますね」

 保科はすぐにベランダの窓の異変に気づき、そちらに歩を進めた。そして、

「随分と厚いガラスですね? 防弾ですか?」

「はい。坂本がそうした方がいいと言いましたので」

 村田は即座にそう答えた。坂本という名前に、保科がどんな反応を示すか見たかったのかも知れない。しかし保科は坂本の名前に全く関心がないのか、

「これは一体どうやって破ったのですかね? ひびの入り方からして、衝撃を加えたのは一回だけのように見えますが」

 保科の指摘に葵はギクッとした。

( このオジさん、鋭い。ほんの一瞬でそんなことがわかるなんて……)

「これだけのガラスをたった一撃で割ってしまうとは、マジシャンのようですね」

 保科は振り返ってそう言った。村田と葵は思わず顔を見合わせた。その時、携帯の着信音が静まり返った部屋の中に鳴り響いた。

「失礼、私の携帯です」

 保科はスーツの内ポケットから携帯を取り出して、

「保科だ。どうした?」

 話し始めた。やがて彼は眉間に皺を寄せて、

「わかった。すぐ行く」

 携帯を切り、内ポケットに戻した。そして村田と葵を見て、

「申し訳ありません。別の事件でお呼びがかかってしまいました。明日、現場検証のために鑑識を連れて参りますので、大変恐縮ですが、ここはこのままにしておいて下さい」

「はァ」

 村田はあまりに慌ただしい保科の行動に呆気にとられて応えた。

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