第九章 襲撃

 葵は村田のマンションに到着して、そのセキュリティシステムの充実ぶりにすっかり感心していた。

まずエントランスを入るとエレベーターホールに行く途中に扉があり、そこにパスワード入力用のキーボードが設置されているのだか、これがダミーなのだ。キーボードは実は指紋識別装置の一部で、パスワードを盗み見ようとする連中に対する罠なのだ。これは決して破る事ができない関門である。

 しかしその程度では葵も感心したりしない。さらに次がある。例え第一関門を突破できても、次は別の罠が待ち受けている。エレベーターホールへの扉を何らかの手段で通り抜けたとしても、正面にダミーの監視カメラ、そして真の監視カメラはエレベーターの階数表示板の数字と数字の間のわずか数センチの部分に仕込まれており、知らない間にしっかりと人相風体を撮影されてしまう。その上、エレベーターに乗るにもパスワードが必要で、そのパスワードは住人がその日出かける時に任意に入力した言葉なのだ。住人は自分の部屋番号と共に任意の言葉をパスワードとして入力する。それを解析するのはまさしく不可能に近い。

 それほどのセキュリティシステムを備えているマンションなので、さぞかし家賃も高いのだろうと葵は推測した。

「しかし、女房以外の女性をこの部屋に入れるのは、貴女が初めてですよ」

 村田は照れ臭そうに言った。葵はニッコリして、

「それは大変光栄です。でも私をあまり女だと思わないで下さいね。飽くまでボティーガードなのですから」

「そ、それはそうなのですが、貴女のような美人を女性と思わないなんて、それは無理というものですよ」

 村田のその言葉に、葵はつい赤くなってしまった。そんなことを言われたのは、一体いつ以来だったのか、彼女は思いを巡らせた。

「あっ、今のはセクハラですかね?」

 葵が赤くなったのに気づいて、村田は慌ててそう言った。葵はハッと我に返って、

「いえ、そんなことありません。お気になさらないで下さい。それより明日もお早いのでしょう? 私は不寝番をしますので、代表はお風呂に浸かって、すぐにお休み下さい」

「え、そ、そうですか?」

 村田があまりドギマギしているので、葵はニヤッとして、

「大丈夫ですよ、覗いたりしませんから」

「ハハハ」

 村田が引きつった顔で笑った。葵は続けて、

「今のセクハラですか?」

 おどけてみせた。


 美咲と茜は、工場跡地から数キロメートル離れたところまで逃げると、ようやく止まった。

「こんなに一生懸命逃げたの、所長のアイスにわさびを仕込んだのを知られた時以来ですよ」

 茜はベタッとあるビルの屋上に腰を下ろしてぼやいた。美咲は茜の悪戯の話に呆れ返りながらも、

「ここまでくれば、もう大丈夫ね。あの子も脱出させましょうか」

 懐から小さいリモコンを出し、ボタンを押した。


 その頃、美咲達が脱出した工場では、現場検証が行われていた。

「保科警部!」

 若い刑事が、やや年配の刑事に声をかけた。保科と呼ばれたその刑事は、七三に分けた髪に、白いものが混じり始めた、四十代半ばくらいの、目つきだけが異常に鋭い男である。

「ホシは死体が発見された部屋の窓から逃げたようです。窓が開いたままで、窓枠にほんの僅かですが何かをこすった跡がありました」

「そうか。しかし、二階の窓から飛び降りたのなら、どうして下にいた我々が気づかないんだ?」

 保科の問いに、若い刑事はオタオタした。

「そ、そうなんですが。しかし、何らかの方法で……」

「刑事は想像でものを考えちゃいかんよ。論理的な推測と、科学的な証拠に基づいて分析をする。それが正しい捜査方法だ。それにな」

「はい」

 若い刑事はかしこまって返事をした。保科は刑事を見て、

「我々は誘拐事件があったという通報を受けてここに来たんだぞ。それなのに、誘拐されたはずの芸能人はいないし、ホシもいないし、おまけに男の死体が五体もある。わけがわからんではないか?」

「はァ」

 若い刑事にはもっとわからなかったに違いない。その時だった。

「わァッ!」

 工場の外で叫び声がした。保科は若い刑事と目配せして、外に走った。

「どうした?」

 保科が声をかけると、尻餅をついていた一人の刑事が保科を見て、

「ここに停まっていたミニバンが、いきなり走り出したんです」

「仲間が残っていたのか?」

 保科の問いに刑事は立ち上がって、

「いえ、違います。誰も乗っていない車なので、不審に思って調べようとしていたところなんです。いきなりエンジンがかかったと思ったら、バックをして急発進したんですよ」

「007の車かよ」

 保科は半信半疑の顔で呟いた。


「来た来た! やっぱ、茜号は賢いなァ」

 ミニバンが自動走行で走って来るのを見て、茜は叫んだ。美咲は呆れ顔で茜を見て、

「何、その茜号って?」

「もちろん、あのミニバンの愛称ですよ。可愛くって賢いとこが、私ソックリじゃないですか」

 茜は屈託のない笑顔で言ってのけた。美咲は、ホントに茜ちゃんは幸せな子ね、という顔をした。二人は屋上から飛び降り、開いたサンルーフから「茜号」に乗り込んだ。美咲は自動走行を解除し、ハンドルを握った。

「妙ね」

 美咲が呟いた。茜はニコニコしたままで、

「何がですか?」

「あの死体、一体どういう人達なのかしら? 人数だけで推測すると、誘拐犯一味と一致するのだけど」

 美咲の言葉に茜は肩を竦めて、

「確かにそうですけど、誘拐犯の顔は覆面でわかりませんでしたから、推測でしかないですよ」

「そうね。それにしても、トリプルスターとマネージャーはどこに行ってしまったのかしら?」

 美咲が言うと、茜はムッとして、

「美咲さん、まさかトリプルスターの皆さんを疑っているんじゃないでしょうね?」

「可能性としてはそれが一番論理的よ」

「ありえません! 彼女達がどれほど優しい人達か、美咲さんは知らないからそんなことを言えるんです! 毎月たくさんの施設や学校を慰問して、チャリティーコンサートなんて何回開いたかわからないほどなんですよ。いくら警心会の脅迫から逃れたいからといって、殺人まで犯すとは思えませんよ」

 茜の的確な反論に美咲は頷いた。

「確かに、割に合わない話よね。今までの名声や財産を全て放棄して犯すほどの価値がある犯罪行為じゃないわね。一連の出来事を公表して、警心会を糾弾する方法があったはずよね」

「あっ……」

 茜は美咲の言葉にハッとなった。彼女はギクッとした。

「そうです。それが明るみに出れば、ウチの会社はおしまいです。そのくらい大きなスキャンダルなんです」

というマネージャーの言葉を思い出したのだ。糾弾できないのだ。それでは自殺行為になる。トリプルスターの事務所は、警心会を訴えたり、マスコミに公表したりできない弱みを握られているのだ。

「ただね、茜ちゃん、誘拐犯を殺しても、トリプルスターの人達は、警心会からは解放されないわ。彼女達は私達に協力する方がいいはずなの。そこがトリプルスター犯人説の最大の欠点ね」

 美咲の言葉に茜は少しだけホッとした。


「本当に大丈夫なんですか、不寝番なんて?」

 風呂から上がり、パジャマに着替えた村田が尋ねた。葵はニッコリして、

「大丈夫です。私達は忍びの一族です。忍びは一週間眠らずに活動する事ができます。ご心配なさらずに、ごゆっくりお休み下さい」

「はァ、わかりました。では失礼して休みます」

「お休みなさい」

 村田は渋々寝室に行き、ドアを閉じた。葵はそれを確認すると、リヴィングルームの明かりを消した。侵入者に対して中が明るいのはNGなのだ。

「これでよしと」

 葵はソファに腰を下ろし、辺りを警戒しながら考えを巡らせた。

( 美咲達の方もいろいろ大変みたいね。トリプルスターの一件と、この改進党の件がどこかで繋がっているのだとしたら、また黒幕がわからなくなる )

 トリプルスターの事件は、警心会が仕掛けた罠がおかしな方向にいったのかも知れないが、その罠を利用して、五体の死体を置き去りにした犯人は一体何者で、何が目的なのか? 坂本が背後にいるとしても、彼がトリプルスターの事務所を脅迫して何の得があるのだろうか? わからない謎がたくさんあった。

( 美咲の指摘の通り、トリプルスターが犯人なら、確かにすっきりする。でも彼女達には動機がない。動機以前に犯行によって得るものがない。むしろ失うものの方が大きいはず。あり得ないのよね、発想として )

 その時葵は、窓の外のベランダの辺りに何かが動いたのに気づいた。月が雲に隠れて、闇が広がって来た。

「来た?」

 次の瞬間、防弾のはずの窓ガラスがあっさり割られて、黒い影が飛び込んで来た。それと同時に鳴り出すはずの警報がならない。どうやらシステムをダウンさせられたようだ。葵は素早く忍び装束に着替え、身構えた。影はすぐさま葵を認知し、襲いかかって来た。

( 見えてるの? 暗視装置? )

 葵は僅かの差で影の攻撃をかわし、反撃に出た。

「はァッ!」

 回し蹴りが影に決まった、と思われたが、影はいとも簡単にそれをかわし、さらに反撃して来た。

「くっ!」

 葵は逆に影の蹴りを脇腹に喰らい、後ろに飛ばされた。立ち上がって反撃しようとした葵に、影は次の攻撃を仕掛けて来た。

「うっ!」

 葵は影の右の手刀を受け止めた。さらに左の手刀も受け止め、影の動きを封じ、そのまま影にオーバーヘッドキックの要領で蹴りを見舞った。

「ええっ?」

 しかしそこには影はいなかった。葵の蹴りは空振りし、影は葵の手を振り払って飛び退き、もう一度葵に仕掛けて来ようとした。その時、

「待てよ。俺が相手だ」

 声がした。葵はハッとした。影はその声に反応し、バッとその場を離れ、別の窓ガラスを破って逃走してしまった。

「大丈夫か、葵?」

 声の主は篠原だった。葵は頭を振りながら立ち上がり、

「何であんたがここにいるのよ?」

 ムッとした顔で尋ねた。篠原はスーツの内ポケットからライターを取り出して火を点け、

「お前が心配でこのマンションの下にいたんだよ。そうしたら、向かいのビルからムササビみたいにこのマンションに飛び移った影が見えたから、追って来たんだ」

「フーン」

 葵の目は、ストーカーもどきの行動をとっている男を見るようだった。篠原はその刺すような冷たい視線に気づき、

「お前、何を疑ってるんだよ? 俺が何か下心があってここに来たと思ってるのか?」

「違うわよ。あんた、父に何か言われたんでしょ?」

 葵のその言葉は図星だったらしく、篠原はピクンとした。しかし彼はそれでもなおとぼけて、

「何の事だ? 考え過ぎだよ」

「私も随分見くびられたものよね。父にならともかく、あんたまで私一人じゃ危ないと思ったんでしょ?」

 葵の言葉には棘があった。篠原は月が雲から出たのに気づいてライターを消し、

「もし仮に俺がお前の親父さんの言いつけでここに来たとしても、それはお前の力を見くびっているからじゃないよ。いくらお前でも、四国の連中を何人も相手にしたら勝ち目がないと思ったのさ」

「何人も? 賊は一人だけでしょ?」

 葵はキョトンとして言った。篠原も首を傾げて、

「そうか? 外で見た時は、何人かいたような気がしたんだが。確かにさっきの影は、一人だったよな」

「見張り役がいたんじゃないの?」

「かもな。でも俺がベランダに上がった時は誰もいなかったぞ」

「そう?」

 篠原は襲撃犯が脱出する時に破ったガラスに近づいた。そして、

「それより、村田代表が起きて来ないか?」

「大丈夫。こんなことがあるかもと思って、さっき飲んでもらった牛乳の中に睡眠薬を入れておいたから、朝まで目は覚めないわ」

「なるほど。それにしても、このガラスを破るとは、とんでもない怪力だな」

 篠原はガラスの厚さを確認しながら言った。葵も篠原に近づいて、

「そうなの。侵入して来た時もそうなんだけど、一撃でガラスを破ったわ。余程の怪力か、何か特殊な方法か……」

「お前の『気』みたいな奴か?」

 篠原は葵を見て言った。葵はガラスを見たままで、

「ちょっと違うかな? このガラス、私が本気で蹴っても、一撃じゃ無理よ。美咲ならできるかも知れないけど」

「美咲ちゃんならね。俺はそれを知ってから彼女をかまうのやめたんだ」

 篠原はヘラヘラして肩を竦めた。葵はキッとして、

「あの子は私と違って純情なんだから、あまりかまったりしないでよ」

「美咲ちゃんは滅多なことじゃ怒らないけど、怒ったら多分お前より始末に負えないだろうからね」

 篠原はポケットから小さなビニール袋を取り出して、ガラスの破片を採取した。そして内ポケットからデジタルカメラを取り出し、窓を撮影した。葵は篠原の真後ろに立って、

「始末に負えないって、他人聞きが悪い言い方ね」

 篠原はそれには応じずに、

「警報が鳴らなかったな。このマンション、防犯システムが売りなのに、いとも簡単に破られちまったな」

「そうね」

 葵もそのことが気になっていた。

「坂本はここを当然知っているわよね。あいつなら、セキュリティシステムをダウンさせることもできるかも知れない」

「坂本がさっきの賊だっていうのか?」

 篠原はポケットにビニール袋をしまいながら振り返った。葵は首を横に振って、

「そうは思わないけど、手引きはできるんじゃないかしら?」

「そうだな」

 篠原は頷き、

「じゃ、俺はそろそろ退散するよ。これでも皆勤賞なんだ」

「へェ、それは意外ね」

 葵の毒舌には慣れっこなのか、篠原は手を振って窓から出て行った。フーッと溜息を吐いてから、葵はベランダに出て向かいのビルを見た。

「あそこからここまで飛んだとすると、相当な跳躍力だわ。普通の人間では、絶対無理な距離ね」

 下を見ると、歩いて行く篠原の姿が見えた。

「ムササビみたいに」

 篠原の言葉を思い出した葵は、向かいのビルの屋上が村田の部屋より高い位置にあることに気づいた。

「そういうことか」

 葵は部屋に戻った。

「取り敢えず、美咲達に連絡をとってみるか」

 彼女は携帯を取り出した。


 その頃、坂本は自分の運転で自宅に帰る途中だった。

「襲撃失敗か。しかも別件もうまくいかなかった。醜態だな。挽回しないと、私自身の立場が危うくなる」

 彼は呟いた。やはり坂本が黒幕だったようだ。しかし、事はそれほど単純ではなかった。

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