第六章 村田と坂本
葵は手帳を閉じてからゆっくりと視線を村田に移した。村田はかすかに頷いたようだ。この様子だと、隠しカメラもあるかも知れない。坂本が自室に戻ったのは、モニターでここの様子を探るためなのだろうか?
「水無月さん、こんな時間にお呼び立てした理由は、おわかりですよね?」
村田が切り出すと、その話がカムフラージュだと思っても、ギクッとしてしまった。葵は何とか冷静さを保って、
「ど、どういう意味でしょうか?」
動揺しているフリをした。村田はフッと笑って、
「この時間から真剣に仕事の話をするほど、私も野暮な男ではありませんよ。今日の仕事はもう終わりました。これからは、私のプライベートの時間です」
「はァ……」
葵は思わず開きかけていた膝を閉じた。いつも美咲に注意されている仕草を自ら正すなんて、葵にはあまりないことである。
「おいしいものでも食べて、おいしいお酒でも飲みながらお話をしましょうか」
村田は立ち上がった。葵も立ち上がって、
「わかりました」
手帳を返した。村田は机の上のインターフォンに、
「これから水無月さんと出かけますので、車を玄関に回して下さい」
「わかりました」
男の声が答えた。村田は葵の肩に自然に手を回した。葵はこんなに優しくエスコートされたことがないので、本当にドキドキしていた。
( この人、手慣れてる。女たらしじゃなくて、紳士なんだわ )
村田はドアを開き、葵を先に廊下に出し、自分は後ろ手にドアを閉じた。そして、
「さァ、行きましょう」
村田の芝居はまだ続いているようだ。まだどこかから監視されているのだろうか? 葵は顔を動かさず、目だけで辺りを探った。カメラは見当たらないが、職員が何人か廊下を行き来しているのが目に入った。
( まさか、ここの職員全員が坂本の? )
葵は村田を見上げた。身長差は10cm以上あるだろうか。近くで見ると、村田は酷く疲れているようだった。もし葵の想像通り、坂本が村田を監視していて、それに村田が気づいているとすると、相当なストレスが蓄積しているのではないかと考えられた。
「食事は何がお好みですか? フレンチ? イタリアン? それとも中華?」
村田は陽気に話しかけて来た。葵はハッとして、
「え、ああ、私、フレンチが好きです」
「わかりました。私の行きつけのホテルの最上階にあるフランス料理のお店に行きましょう。そうすれば、食事の後、移動が少なくてすみますからね」
「え、ええ」
葵は芝居とわかっていながら、ギクッとした。村田は俳優になれるのではないかというくらい、自然に話していた。政治家も自分を演じている部分があるだろうから、演技力もあるのかも知れない。そして何より、坂本が監視しているという事実が、村田を名優にしたのだろう。
二人は一階までエレベーターで降りた。その間中、誰かしら職員が近くにいた。確実に二人は監視されていた。
「さっ、どうぞ」
村田は玄関の外の車寄せに停められた黒塗りの高級車のドアを開いて葵を先に乗せた。そして自分も乗り込むと、
「品川まで行って下さい」
運転手に告げた。運転手は無言で頷き、ルームミラーを直してから車を発進させた。
水無月探偵事務所の三者会談は、ようやく終了しようとしていた。
「何とかOKが取れました。さすがの警心会も、警察庁には圧力はかけられませんよ」
大原は携帯を閉じながら言った。彼は上司に頼み込んで、三人の身柄を警察庁に留置することにしたのだ。
「いずれはどこかの所轄署に護送することになるでしょうが、警心会にその動きを察知されないようにしないとね」
「そうですね」
茜は美咲を押しのけて返事をした。美咲は茜の考えがよくわかっているので、クスクス笑っていたが、大原はキョトンしていた。
「早速返信メールが来たわ」
美咲がディスプレイを覗き込んで言った。茜と大原もバソコンを見た。美咲はメールを開いて、
「警心会が裏で動いているんじゃないみたいですね。この情報屋の人は、ここから先は自分の専門分野じゃないから、永田町オタクに尋ねろって言って来てます」
「永田町? 政治家が絡んでいるっていうことですか?」
と大原。また割り込む茜。
「政治家が絡んでいるって、どういうことですか?」
「少なくとも、警心会は本当の黒幕ではない、ということのようね。追伸で、あまり深入りしない方がいいとも書いてあるわ」
美咲が言ったので、茜は目を丸くして、
「やばいってことですか? どうなっちゃうんですか?」
「その辺は、所長に調べてもらいましょう。メールしとくわ」
美咲がキーボードを操り始めたので、茜は腕組みして、
「所長が調べてくれますか?」
「大丈夫よ。所長は改進党の代表の警護を頼まれて、村田代表と会っているんだから」
美咲の言葉に茜はあまり納得していないようだ。彼女は口を尖らせて、
「そうですかァ?」
不満そうに言った。大原が、
「これで繋がり始めましたね。警心会、改進党、進歩党、犯罪者。思ったより、根が深いみたいだ」
「そのようですね」
今回は茜は割って入れなかったようだ。彼女はムッとして二人を見ていた。
その頃、警心会の総帥室でも、会談が行われていた。
「我々はとんでもない連中に手を出してしまったのかも知れません。あの水無月探偵事務所というところは、先々月起こった外国人の殺人事件に関係しているようです。所長の水無月葵は、出身は不明で、経歴も東京の大学に入学した頃までしか遡れません。幼少時どこに住んでいたのかとか、全く掴めませんでした。他の二人の所員も同じです。我が同志のデータベースをもってしても、探り出せませんでした。いえ、探り出せないと言うより、そこから先が、プッツリと途絶えてしまうのです」
スリーピースの男が総帥に言った。総帥は腕組みをして、
「一体何者なんですか、その三人は? 広域暴力団を尻込みさせ、警察の情報網にも引っ掛からないほどの謎の経歴。不気味です」
呟くように言った。スリーピースの男は、
「これ以上あの男の言うことを聞いていては、我が会が窮地に陥るかも知れません。手を引いた方が良いのでは?」
恐る恐る進言した。総帥はギラッと鋭い眼でスリーピースの男を睨むと、
「いや、そういうわけにはいきませんよ。このまま手を引いたら、我が会の名折れです。そして、あの男の申し出を蹴ることは、組織としての存続を危うくするものです。何としてもそれだけは避けねばなりません。その探偵事務所が、まともに立ち向かってはいけない相手であれば、別の方法で、罠に陥れることもできますよ」
「そうかも知れませんが、リスクが大きいと思います」
スリーピースの男は、すっかり怖じ気づいていた。総帥はそんなスリーピースの男の様子に苛立ち、
「弱気になってはいけませんよ。貴方がそんなことでどうするのです? 何かいい方法はないか、考えなさい」
「はい……」
スリーピースの男も腕組みをして考え込んだ。カチカチという壁に掛けられた時計の秒針の音だけが総帥室に響く。スリーピースの男は、もうこの会を脱会しようかと思い始めていた。自分が入会したのは、こんなことをするためだったのだろうか? 政党に圧力をかけ、天下り先確保を約束させたりすることが、警察 OBのあるべき姿なのだろうか? そんなことを考え始めた時、総帥が、
「今いい考えが浮かびましたよ。とっておきの罠を思いつきました」
「どういう罠ですか?」
スリーピースの男は顔を上げて総帥を見た。総帥はスリーピースの男を見てニヤリとし、
「グッドカンパニーを利用します。あまり役に立たない芸能プロダクションでしたが、今回は役に立ちそうですよ。事務所のタレントに、エサになってもらいましょう」
スリーピースの男は、キョトンとして総帥を見ていた。
「ここで降ろして下さい」
村田は、改進党のビルから五百メートルほど走ったところで、車を止めさせた。そして、
「これは私のポケットマネーです。だから何も心配する必要はありません。どこかで食事でもして待っていて下さい。戻る時は、また連絡しますから」
「はい」
運転手は村田から一万円札を何枚か受け取り、仰天しながらも、頭を下げた。村田はドアを開いて、
「さっ、降りましょう」
葵を促し、外に出た。葵は慌ててそれに続き、車を降りた。
「さてと」
村田は党の車が走り去ると、タクシーを止めて乗り込んだ。
「話をしやすいところに行きましょうか」
「はい」
タクシーはある居酒屋の前で停まった。
「こういうところの方が落ち着くんですよ」
村田は嬉しそうに葵に言った。葵は苦笑いをして、
「そうなんですか」
とだけ答えた。
店の中はかなりごった返していた。よく思い返してみれば、今日は金曜日だった。一番賑わう日、賑わう時間だった。周囲の人間は話に夢中なのか、村田に気づく者がいなかった。
「お酒はいける口ですか?」
村田はおしぼりで手を拭きながら尋ねた。葵はハッとして、
「ええ、まァ」
「それは結構」
村田はそう答えてから、葵の様子に気づき、
「ああ、それから、私に関する妙な噂を聞いていますよね?」
「えっ、ああ、その、いえ……」
葵はどう答えたらいいのか、迷っていた。村田はフッと笑って、
「それは私が坂本対策として流したデマなんです」
「えっ、デマ?」
意外な真相に、葵は一瞬唖然とした。村田はそんな葵の顔をマジマジと見て、
「私が坂本を遠ざけられる何か良い方法はないかといろいろ考えましてね。辿り着いたのが、女に目がないという設定でした。このことは当然党の事務局も知りません。事務局は坂本の情報源ですからね。そして、女絡みなら坂本を同行させない口実に使えます。しかも、坂本は私の弱みを握っていると思っていますから、これもまた有り難い誤解なんです」
「そうなんですか」
葵はどうやら改進党代表の最高機密を聞かされたのだと実感し、信用されていると思った。これも岩戸老人のおかげかも知れない。村田は微笑んだままで、
「貴女が私の言葉を信じていいものかどうか迷っているのがよくわかりました。でも、その方が貴女が私と芝居をしているのが坂本に気づかれないと思ったので、敢えて何も言わなかったんですよ」
「それで正解でした。私は度胸はありますが、演技力は全くありませんので」
葵は村田を過小評価していたことを恥じていた。坂本に担がれて代表になった愚鈍なまでに真面目な男というのが、村田に実際会うまでの葵の分析だった。しかし実際は、村田は葵の考えているような人物ではなかったのだ。
「まずは乾杯しましょうか」
村田は運ばれて来た生中のジョッキを持って言った。葵もジョッキを持ち、
「は、はい」
「乾杯」
村田の陽気な声に葵はやっと微笑み返して、
「乾杯」
ジョッキを合わせた。村田はググッとビールを飲み干し、
「まだまだビールがおいしい季節ですね」
葵を見た。葵も一口ビールを飲み、
「そうですね」
ジョッキをテーブルに戻した。
「生中もう一杯!」
村田は近くを通りかかった店員に言った。店員はすぐに伝票に書き込み、取って返した。それを見届けてから、村田は真顔になって、
「ウチの川本と会われたのは、貴女の事務所の方ですか?」
「はい。神無月美咲と言いまして、当事務所のエースです」
葵も真顔で応えた。村田は小さく頷いて、
「川本が坂本のことをいろいろ話したことも、もうご存じですね?」
「はい。報告は受けています」
葵は運ばれて来たジョッキを村田に渡し、空のジョッキを店員に渡しながら言った。村田はジョッキを手に持ち、
「川本も実は知らないのです。私がニセの情報を流しているのは」
「そのようですね。川本さんは、貴方が坂本秘書のことを微塵も疑っていないとおっしゃったようです」
葵はそこまで秘密にする村田の真意を聞きたかった。村田は、
「坂本の情報網はどれほどのものか把握していないのです。川本が信用できないとかではなく、彼の周囲の誰が坂本の息のかかった者か、見当がつかないのですよ。それほど、坂本は得体の知れない男なんです」
「坂本さんが改進党に移ったのは、進歩党の爆弾として、と伺いましたが?」
葵が話を振ると、村田はビールを一口飲んで、
「それだけではありません。あの男は、国会そのものにとって爆弾なんです。進歩党にしても、坂本の扱いに苦慮しているのが、真実です。あの男は、政界の裏を知り尽くしています。そういう意味で、坂本は国会にとっても爆弾なんです」
「私は警心会に仕掛けさせた張本人は坂本秘書だと考えているのですが、代表はどうお考えですか?」
葵は運ばれて来た焼き鳥や唐揚げを村田に近づけて尋ねた。村田はジョッキをテーブルに置き、
「可能性は大いにありますね。ただもう一つの可能性として考えられるのは、進歩党が警心会を潰そうして仕掛けさせた、というものです」
葵は目を見開いて、
「それはどういうことですか?」
村田は小声で、
「警心会は確かに表向きは進歩党の支持団体ですが、実情は只の圧力団体です。警心会の集票力より、連中の鬱陶しさの方が大きくなって来た、ということですよ」
「つまり、邪魔者になって来た、ということですね?」
「そういうことです。警心会がやり過ぎて自滅するように仕向けているのではないかと考えています」
そこで葵は美咲からのメールのことを尋ねてみることにした。
「最近、犯罪を犯した連中の何人かが、行方不明になるという出来事が何件か起こっているらしいのですが、それは警心会絡みで、さらにその黒幕が政界にいるという噂があるようなのですが、本当のところはどうなのでしょうか?」
葵の質問に、村田は一瞬びっくりしたようだったが、
「さすがですね。どこでそんな情報を入手したんですか?」
尋ね返して来た。葵は苦笑いをして、
「それは企業秘密です」
「なるほど」
村田はニコッとした。そして、
「それは多分真実です。ただ、確証はありませんし、黒幕が誰なのか、そこまではわかりませんが」
「実は今日、私の事務所にそれらしき人物が三人やって来たようなんです。知り合いに確認してもらったところ、行方不明になっている犯罪者だとわかりました」
「貴女のところにそんな連中が現れたんですか?」
村田は仰天したようだ。そこまでやるとは思っていなかったのだろう。葵は苦笑いして、
「警心会がそこまで動いたのは、私達が他の探偵事務所と違うことがわかったからでしょうね。ウチは、そんなチンピラがどれほど束になってかかって来ても、ビクともしませんから、ご安心下さい」
村田はジョッキを口に運びながら、
「それならいいのですが。坂本が貴女の事務所に依頼したせいで、貴女方が危険な目に遭うのは、とても心苦しいのですよ」
「お心遣い感謝致します。でも、大丈夫ですよ」
葵はニッコリして言った。村田も安心したようにニコッとしてから、
「坂本が岩戸先生を通じて貴女方を知ったのは聞いていますが、どうして貴女方を選んだのか、その真意はわかりません。あの男が、貴女方の実力を見誤ったとは思えないのです。あれほど奸智に長けた人間が、そんなヘマを仕出かすわけがない」
真顔に戻った。葵はそれに頷き、
「そのことに関しては、私達の仲間が、別ルートで情報を入手しています。坂本秘書が、関係しているかどうかわかりませんが、不穏な動きをしている組織があるのです」
「ほォ。それは何という組織ですか?」
村田は焼き鳥に辛子をつけながら尋ねた。葵は小さく首を横に振り、
「それは大変申し訳ありませんが、お教えできません。代表の命に関わってしまいますから」
「どういうことです?」
村田はキョトンとして言った。葵はテーブルの皿を見て、
「私達は実は忍びの一族なんです」
「……」
村田はあまりに意外な話に言葉を失っていた。葵は続けた。
「その私達の一族と勢力争いをしていた別の集団がありました。今は四国の山奥に潜み、ほとんどその存在は知られていないのですが、その連中が動き出したという情報が入ったんです」
「なるほど。その集団も、忍者なのですね?」
村田は慎重に言葉を選びながら尋ねた。葵は頷いて、
「はい。今になって何故動き出したのか、その真意を量りかねています。ですから、余計不気味なんです。そして、代表の同僚の川本議員から、坂本秘書が忍者だという噂があることも聞いています。そんなことで、坂本秘書とその集団に何らかの接点があるかも知れないと考えたのです」
村田はあまりに突拍子もない話に当惑気味だったが、
「あり得ない話ではないですね。坂本の情報網の底知れなさは、案外その辺に理由があるのかも知れません」
「もしそうだとしたら、さすがの私も代表をお守りする自信が揺らぎます。ですから、今回はいろいろなところにいる仲間に力を借りることにします」
葵が言った時だった。
( 何、今のは? )
葵は突き刺さるような強烈な視線を感じた。彼女は周囲を見た。しかし、こちらを見ている者は誰もいなかった。
「どうしました?」
村田が尋ねた。葵はハッとして村田に目を向け、
「いえ、別に。お手洗いはどこかなと思いまして」
苦笑いしながら、席を立った。
( まさか、美咲を尾行していた連中? 一体何が目的なの? まさかここで仕掛けて来たりしないわよね )
葵は化粧室に向かいながら携帯を取り出し、美咲にメールを送った。
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