第三章 改進党の闇

 美咲は葵の指示で、岩戸老人がメールで教えてくれた議員と会うため、議事堂近くの地下鉄の駅のホームでその議員を待っていた。目印で持たされたファッション雑誌の表紙を飾っているモデルより美咲の方が奇麗なので、彼女の前を通り過ぎる営業風のサラリーマン達は、美咲が誰を待っているのか気になるらしく、しきりに振り返りながら歩いていた。また、美咲と同年代の女性達は、嫉妬心むき出しの目で彼女を睨みつけ、通り過ぎて行く。美咲はそんな人々の視線をうるさく思いながら、相手の到着を待っていた。

( あの人かしら? )

 美咲は彼女が立っている場所から離れたところにある階段を降りて来たダークグレーのスーツを来た40代半ばくらいの、短く刈り込んだ黒髪を七三に分けた、パッと見イケメン風の男に気づいた。その男も美咲に気づいたらしく、小さく右手で合図し、歩を速めた。美咲はそれに対して軽く会釈して応えた。

「水無月探偵事務所の方ですね?」

 男は美咲のすぐそばまで来ると小声で言った。周囲の騒音でやっと聞き取れるくらいの声だった。美咲は、

「はい。神無月美咲と言います。川本一郎さんですか?」

 尋ね返した。男はニコッと白い歯を見せて頷き、

「はい。こんなところに呼び出してすみません。とにかく、聞き耳を立てられるところではまずいので」

「そうですね。こういうところの方が、内緒話には最適ですよ」

 美咲も微笑んで応えた。川本はホームに備えつけられたベンチを見て、

「かけて話しましょう」

「はい」

 二人は混雑し始めたホームを歩き、ベンチに座った。たくさんの人が行き交っているが、誰も彼も忙しそうで、こんなところに腰掛けている時間がある者はほとんどいないようだ。返って目立つのではないかと思えたが、別に姿を見られたくないわけではないので、話をするのに差し支えはなかった。

「どうぞ。好みも聞かずに買って来たのですが」

 川本はスーツのポケットから冷たい缶紅茶を取り出して美咲に手渡した。美咲はニッコリ笑ってそれを受け取り、

「ありがとうございます。紅茶は大好きなので、大丈夫です」

「それは良かった」

 川本は缶コーヒーのフタを開けながら微笑み返した。そして真顔になり、

「改進党の坂本の事でしたね」

 話を切り出した。美咲は紅茶を一口飲んでから、

「はい。その人のことに詳しいのは、川本さんだと岩戸のおじいさんから聞きましたので」

 川本は缶を小さく揺すりながら、

「坂本は、籍は改進党に移しましたが、その精神は進歩党に残したままです」

「スパイ、ということですか?」

 美咲も川本を見ず、缶を見つめたままで尋ねた。川本はコーヒーをグッと飲み干し、

「いえ。奴は改進党のことをスパイしているわけではないんです。むしろ、進歩党が送り込んだ、爆弾ですよ」

「爆弾?」

 川本の発言に美咲は目を見張り、思わず彼を見た。川本は缶を脇にあったゴミ箱に捨てながら、

「改進党が急成長し、進歩党の牙城を揺るがすような存在になったら、内部から改進党を破壊するための爆弾なんですよ」

と続けた。美咲は仰天していた。

「現代表の村田さんは人が良過ぎる。彼は坂本を微塵も疑ってはいない。だからこそ坂本は、村田さんに近づき、代表になれるよう後押ししたんです」

「なるほど」

 美咲も缶をゴミ箱に捨てた。川本はそんな美咲の仕草を見ていたが、

「坂本は国会の裏を知り尽くした男です。どの議員も、奴には逆らえない。奴の情報網は信じられないほどあらゆるところに張り巡らされています。岩戸先生が貴女方のことを私にメールして来たのも、あるいは奴に把握されているかも知れませんし、こうして私達が会っていることも知っているかも知れません」

「どうしてそれほどの情報網を持っているんですか、坂本さんは?」

 美咲が尋ねた。川本は美咲を見て、

「それは誰も知らないと思います。一説には、坂本は先祖が忍者で、その関係であらゆるところに間者のような者がいて、そこから情報を入手しているとも言われています」

 美咲はその話を聞いてほんの少し耳が痛かったが、

「坂本さんの後ろにいるのは誰なんですか?」

「進歩党の支援団体、あるいは圧力団体。財界や裏社会の実力者がいると思われます。もしその連中に目を付けられれば、進歩党の議員でも潰されます」

「根が深いようですね」

 美咲はホームに入って来た電車に目をやった。川本もそちらを見て、

「ええ。政治はごく一部の人間が、国民の大半が知らない間に決めているのです。坂本はその一部の人間の中に入っています。それも、闇の部分担当で」

 美咲は川本を見て、

「どうして川本さんは、そんなに坂本さんのことをよくご存じなのですか?」

 川本は真顔のまま、

「奴と私は郷里がおなじなんです。ですから、奴のことは幼少の頃のことから知っています。逆に奴は、私のことをよく知っていると思いますが」

 美咲は心配そうな顔で、

「大丈夫なんですか、そんなことを私のような人間に話して?」

 すると川本は苦笑いをして、

「大丈夫かどうかわかりませんが、少なくとも私は坂本如きにこびへつらいたくないですからね。それに、岩戸先生のご紹介なら、尚のこと動きますよ。あの方は、日本の政治家の鏡です。清廉潔白で志は高く、決して傲慢にならない。私の唯一尊敬する政治家ですから」

「そうなんですか」

 美咲はニコッとして言った。川本は美咲を見て、

「ましてや貴女のような美人になら、命がけで協力をしますよ」

「まァ!」

 美咲は頬を赤らめた。川本はクスッと笑って立ち上がり、

「さてと。そろそろ戻らないといけません。委員会が始まりますので。それでは」

 歩き出した。美咲はその後ろ姿に、

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げた。川本はそれに右手を上げて応えた。美咲はその場を立ち去ろうと川本とは反対方向に歩き出したが、

「何?」

 立ち止まった。まるで弓矢で射られたような、鋭い視線を感じたのだ。

「川本さん!」

 美咲は踵を返して川本を追いかけた。川本は走って来る美咲に気づき、振り向いた。

「どうしたんですか、神無月さん?」

「走って下さい。何者かがこのホームで私達を狙っています」

「えっ?」

 川本は美咲の言葉に階段の上とホームを見渡した。美咲は川本の右腕を掴み、階段を駆け上がった。周囲の乗降客達は、二人がいきなり階段を駆け上がり始めたので、びっくりして立ち止まったり、二人を見たりしていた。

「どうしたんですか?」

 川本は走りながら美咲に尋ねた。美咲は前を向いたまま、

「とにかく、上に出ましょう」

 二人はようやく地上に出た。川本は運動不足なのか、すっかり息が上がっていた。彼はネクタイを緩め、ハンカチで額の汗を拭った。美咲は呼吸も乱れていないし、汗もかいていない。忍びの走りは、必要最低限のエネルギーしか使わないのである。

「誰が狙っていたんです?」

 川本はハンカチをスーツのポケットにしまいながら言った。美咲は川本を見て、

「わかりません。でも、私達を監視している視線ではありませんでした。殺気がこもっていたんです」

「……」

 川本の顔が少しだけ引きつった。美咲は川本をジッと見て、

「決して一人にならないで下さい。人混みの中も避けて下さい。できるだけ移動は車で」

「はァ……」

 川本は呆気にとられていた。美咲は、

「取り敢えず、議事堂の前まで私が同行します。念のためですが」

「はい」

 二人は目配せし合って歩き出した。


 美咲と川本は、やがて議事堂の前に着いた。

「ありがとう、神無月さん」

 川本は額の汗を拭いながら礼を言った。美咲はニッコリして、

「どういたしまして。何かあったら、また岩戸のおじいさんに連絡して下さい」

 すると川本は、

「それより、貴女の携帯のメルアドか、番号を教えて下さいませんか? その方が手間が省けます」

「あっ、それもそうですね」

 美咲は自分の名刺を川本に差し出した。川本はそれを受け取りながら、

「今度仕事抜きで会えませんか?」

 臆面もなく言ってのけたので、美咲はびっくりして、

「何をおっしゃるんですか! 奥様に叱られますよ」

「私はこの歳で未だに独身なんですよ。叱る女房はいません」

 川本は苦笑いをして答えた。美咲はバツが悪そうな顔で、

「そ、そうなんですか。失礼しました」

「ハハハ」

 川本は議事堂に歩き出して、

「考えといて下さいね」

「は、はい」

 今度は美咲が苦笑いする番だった。


 美咲からのメールを受け取った葵は、携帯を閉じて立ち上がり、ブラインド越しに窓の外を見た。太陽はすでに西に大分傾いていたが、まだ夏を思わせる力強さは残っていた。そんな葵を心配そうに茜が見ている。

「何者かしら? 川本議員を尾けていたの?」

 葵は思案した。

( もしそれが警心会絡みの連中なら、それほど気に留めることもない。でも、警心会とは別物だとしたら?)

 美咲の報告の中の「弓矢を射られたような視線」という表現が気になっていたのだ。

( 警察関係者の視線も鋭いけど、美咲が半分恐怖したような視線は、警察関係者とは思えない。あの子は度胸は多分私以上にあるはずだから )

 その美咲が殺気を感じたとなると、話は別なのだ。葵はブラインドを閉じて振り返ると、

「そろそろ、私も出かけないと」

 そばに立っている茜に言った。茜は不安そうな顔で、

「私はどうすればいいですか?」

 葵はロッカールームに向かいながら、

「ここで待機していて。美咲が戻って来たら、私のマンションに行って。私も村田代表との打ち合わせが終わり次第、マンションに行くから」

「わかりました」


 その同じ頃、水無月探偵事務所に黒のセダンで向かっている三人の男がいた。歳の頃は30代前半。目は三人共血走っており、何を考えているのかわからない。服装こそ、普通のサラリーマンのようなスーツだが、その笑い顔は決して営業スマイルではなく、これから人でも殺そうかというような雰囲気だった。一人は筋肉質のアスリート系、一人は気障っぽい金縁眼鏡をかけた変質者系、最後の一人は、髪を茶髪に染めたチャラい系。三人の乗るセダンはやがてグランドビルワンの地下駐車場に入り、停止した。

「手早く終わらせるぞ」

 アスリート系が言った。他の二人はニヤッとして頷いた。三人は車のトランクから大きなダンボール箱を取り出し、エレベーターホールに向かって歩き出した。

「この辺は物騒だから、セキュリティは万全にしておかないとね」

 アスリート系が呟いた。金縁はそれにフッと笑って応じ、金髪はゲラゲラ笑った。


 葵はショルダーバッグを右肩から下げ、外廊下をエレベーターに向かって歩いていた。やがて彼女はエレベーターが地下で停まっているのに気づいた。

「面倒くさいな」

 葵は扉に近づくうちに、エレベーターが動き出すと思って外廊下を進んだが、彼女が扉の前に来ても、エレベーターは動き出さないで、地下に停止したままだった。仕方なく葵は上ボタンを押した。しかしエレベーターは動き出さない。

「どうしたのよ? 故障?」

 苛ついた葵は腕時計を見て、

「時間がないわ」

 非常階段を駆け下りることにした。階段を駆け下りながら、彼女は嫌な予感に襲われていた。

( 何だろう? この胸騒ぎは? )

 葵は踊り場で立ち止まり、上を見上げた。

「あっ!」

 エレベーターホールに目を転じると、エレベーターが動き出している。

「故障じゃなかったの? 何?」

 葵の胸騒ぎはさらにひどくなった。彼女は携帯を取り出し、茜の携帯にかけた。

「どうしたんですか? 忘れ物ですか?」

 茜が不安そうな声で出た。葵は声を潜めて、

「何も変わったことはない? 何か嫌な予感がするのよ。大丈夫?」

「何もありませんよ。大丈夫ですよ、所長」

「ならいいんだけど。留守番、頼むわよ」

「はい」

 葵は取り敢えずホッとして携帯をバッグにしまい、階段を再び駆け下り始めた。


 葵から気になることを言われた茜は、不安になって美咲の携帯に連絡した。

「どうしたの、茜ちゃん?」

 美咲はワンコールで出た。茜は震える声で、

「所長も出かけたんですよォ。今事務所、私一人なんですゥ」

「もうすぐ私が帰るわ。ビルの近くまで来ているから。安心して」

「ハーイ」

 茜は携帯を切り、窓の外を見下ろした。たくさんの車が行き交う道路には、まだ美咲の運転するミニバンは見当たらない。

「どこまで来てるのかな、美咲さん」

 茜はまた不安になった。


 葵はタクシーで改進党本部に向かっていた。彼女はどうしても停まっていたエレベーターのことが気になり、美咲に連絡した。

「どうしたんですか、所長?」

「ちょっと気になることがあるの。出がけにね……」

 葵は事情を説明した。美咲は一拍置いてから、

「地下駐車場に着いたら、周囲を調べてみます。茜ちゃんには言わない方がいいですか?」

「そうね。あの子、少し怯えていたから。とにかく、急いで」

「わかりました」

 葵は携帯を切り、バッグに戻した。窓の外の景色は、次第に夕暮れに近づいていた。


 茜はソファに寝転がって、天井を見つめていた。

「そうだ!」

 彼女は大原のことを思い出し、携帯を取り出して大原にかけた。しかし、大原は会議中か何かなのか、携帯に出ない。茜は再び窓の外を見下ろした。

「美咲さん、まだかな?」

 彼女は表の通りを行き交う車の列を眺め、美咲のミニバンを探した。しかし、まだ美咲の車は見えて来ない。茜は溜息を吐いて自分の席に戻り、腰を下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る