第一章 改進党秘書坂本の依頼
残暑の厳しさが全く衰えることなく続く、9月の2日目。文京区本郷四丁目にある「グランドビルワン」はある事件でガタガタになったが、急ピッチで改修工事が進み、5階にある水無月探偵事務所は何とか営業を再開していた。
「ねェ、エアコン壊れてない?」
ソファにドスンと座り、スーツのスカートを捲り上げ、ストッキングを両脚とも脱ぎ、あられもない格好で、その女は言った。このフロアのオーナーであり、事務所の所長である、水無月葵である。
「所長、いくら他に誰もいないからといって、そんなみっともない格好をするのはやめて下さい。私が恥ずかしくなります」
葵をたしなめたのは、所員の一人、神無月美咲である。彼女は事務所のエースであり、葵が最も信頼する女性だ。葵のだらしない服装をたしなめるだけあって、スーツはキチンと着こなしていて、下に着ているブラウスも、襟がパリッとアイロンがけされており、彼女の几帳面な性格を表している。髪も葵が伸ばしっぱなしのストレート、という感じなのに対して、美咲の髪は軽くウェーブがかかっていて、洗練された大人の女性という雰囲気である。
「わかったわよ。別に美咲が恥ずかしがらなくてもいいでしょ」
葵はスカートの裾を元に戻し、ストッキングを履き直した。美咲はそれを見届けてから、エアコンをリモコンで調節し、
「寿命ですかね? 温度設定は二十七度なのに、室内温度は三十度を超えてますよ」
「やっぱり壊れてるんだ。早く電気屋に連絡して。暑くて死んじゃうわ」
「はい」
美咲は呆れ顔で返事をし、自分の机の上の電話の受話器を取り、電気店にダイヤルした。
その頃、「グランドビルワン」の地下駐車場の入り口に一台の黒塗りのセダンがやって来て、ゆっくりと中に滑り込むように走って行った。それを、コンビニのレジ袋にアイスと缶コーヒーをたくさん入れて歩いている事務服姿の女の子が見ていた。彼女の名は、如月茜。水無月探偵事務所の経理担当だ。茜はジャンケンに負け、葵と美咲の分のアイスとコーヒーを買いに行かされ、事務所に戻る途中だった。しかも購入代金は全て彼女持ちという過酷な戦いの敗者なのである。
「何だ、今の? ウチのお客かな?」
茜は黒のセダンを追いかけるように走り出した。
「あっつーい!」
葵はまたストッキングを脱ぎ捨て、スカートの裾をパタパタさせていた。
「所長!」
美咲がまたたしなめたが、葵は今度は聞かない。
「やーよ。もう、我慢の限界! だーれも来ないこの事務所でどんな格好したって、かまわないでしょ!」
「それはそうですけど、成人女性としてですね……」
美咲は立ち上がって葵の前に行き、葵に反論しようとしたが、葵は顔をそむけて、
「何にも聞こえなーい!」
耳を塞いだ。美咲は呆れ果てて、自分の席に戻った。その時、
「只今ァッ!」
茜がレジ袋を下げて事務所のドアを開いた。葵はスカートをパタパタさせたままで茜を見て、
「遅いわよ! どこまで買いに行ってたの? アイス、融けちゃうでしょ!」
茜の後ろにスーツ姿の男が立っているのに気づき、顔から火が出るほど赤くなってスカートのパタパタをやめ、立ち上がった。
「い、い、いらっしゃいませェ。どうぞこちらへ」
茜の後ろに立っていたのは、改進党代表主席秘書の坂本だった。彼は、
「失礼します」
茜に軽く会釈して中に入って来た。茜がドアを閉じて振り返った時、坂本をソファに案内しながら、葵がもの凄い形相で茜を睨んでいるのに気づいた。彼女はビクッとし、ソーッと給湯室に逃げ込んだ。
「あっ!」
葵はソファの上に脱ぎ捨てたストッキングがあるのに気づき、慌ててそれを手に隠し、自分の机の引き出しに放り込むと、作り笑いをして、
「本日はどういったご用件でいらっしゃいましたか? 浮気調査ですか、ペット探しですか?」
坂本と向かい合って座った。すると坂本はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、その中から一枚名刺を出して、テーブルの上に置き、葵の方に動かした。葵はそれを手に取って、
「まァ、改進党代表の村田先生の主席秘書の方ですか」
驚いたフリをして、坂本を見た。坂本は名刺入れを内ポケットに戻しながら、声を低くして、
「私がお願いしたいのは、代表の警護なのです」
「代表の?」
葵も小声で尋ねた。坂本は小さく頷いた。そこへ茜がアイスコーヒーをトレイに載せてやって来た。坂本は出されたアイスコーヒーに対して茜に会釈してから、
「実は代表宛に脅迫状が届きまして..... 」
「政党の党首なら、脅迫状くらい来て当然ではないですか? 快く思っていない人はたくさんいるでしょうから」
葵は心配性な秘書だと思った。しかし坂本は真剣な表情で、
「それが普通の脅迫状なら無視すれば良いのですが、かなり危険な連中からのものでして」
また内ポケットに手を入れ、今度は白い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。葵はそれを手に取り、中身を出して開いた。
「改進党代表 村田敬次郎殿 現在貴殿が押し進めている改正警察法案を撤回しない場合 命の保証はなきものと心得るように 正義の味方より」
葵は便箋を畳んで封筒と一緒に坂本に返し、
「何ですか、この子供じみた脅迫状は? こんなもののどこが危険なんです?」
坂本は便箋を封筒に戻しながら、
「内容ではないのです。その脅迫状を出したのは、その辺にいくらでもいるゴロツキです。しかし、そのゴロツキを飼っている連中がタチが悪いのです」
葵は坂本の勿体ぶった言い回しが気に入らなかったが、
「飼っている連中ですか。何者なんです?」
興味深そうな素振りで尋ねた。坂本は、
「進歩党の支援団体の一つである、警心会です。その構成員の大部分が、警察OBの」
「警察のOBの団体ですか……」
葵はソファに身体を寄りかからせて、
「でも、私共のような探偵事務所では、太刀打ちできないと思いますよ。大きな警備会社に頼まれた方がよろしいのではないですか?」
「それはできません。警備会社の多くが、警察OBを役員に迎えています。とても信用できません。それだけでなく、貴女の事務所に頼みたい理由があるのです」
坂本は葵を見つめた。葵も坂本をジッと見据えて、
「その理由とは?」
「岩戸先生、ご存じですよね?」
坂本の問いかけに葵はピクンとした。その言葉に、今まで二人の会話を超高速のブラインドタッチでパソコンに入力していた美咲も顔を上げて坂本を見た。
「ええ。よく存じています」
葵は落ち着き払って応えた。坂本はチラッと美咲を見てから、
「岩戸先生のご紹介なのですよ、水無月さん。この日本で、最高のボディガードだと」
「そうですか……」
葵は複雑な表情で頷いた。そして、
「妙ですね。進歩党の最高顧問である岩戸先生の言葉は信じるのですか?」
坂本は一瞬目をギラつかせたが、すぐにニコッとして、
「岩戸先生には政党の違いを超えた、信頼感があります。ですから、その言葉を信用して、こうしてここに参ったのです」
葵を見た。葵は坂本の刹那の豹変を見逃さなかったが、敢えて無視した。
「そういうことですか。それにしても、随分と過大評価されているのですね、私共は」
「……」
坂本はニヤリとして何も言わずに葵を見ている。葵も坂本から視線を外さずにいた。給湯室から戻って来た茜が、その二人の目を見て、たじろいだほどだった。美咲も、たじろぎはしなかったが、二人のやり取りをジッと見守っていた。
「今、村田が倒れるようなことがあれば、橋沢首相の暴走は止められなくなります。日本の未来のためにも、どうかお引き受けいただけませんか、水無月さん?」
坂本の言い回しは穏やかでありながら、決してお願いではなく、強制のように感じられた。葵はその挑発めいた坂本の態度に乗ってやろうと思い、
「わかりました。お引き受けしましょう」
坂本は再びニヤリとして、
「ありがとうございます。報酬は月に一千万まで出します。期間は次の衆議院選までです」
「選挙が終われば、神輿はもういらない、というわけですか?」
葵は皮肉を込めて言った。すると坂本は苦笑いをして、
「そうではありませんよ。次の衆議院選が終われば、警心会が村田を狙う理由がなくなります。我々が勝利し、政権政党になるのですから」
葵は作り笑いをしてソファに身を沈め、
「なるほど、そういう筋書きですか」
坂本は封筒を内ポケットにしまいながら、
「今日の午後七時に、本部ビルの代表執務室までおいで下さい。村田にお引き合せします」
立ち上がった。葵も立ち上がり、
「わかりました。お伺い致します」
「それでは私はこれで失礼します」
坂本は葵に会釈し、美咲と茜をチラッと見て、ドアに向かった。葵が坂本に続き、先に立ってドアを開いた。坂本は、
「では」
一言言うと、事務所を出て行った。葵はドアを閉じ、ソファに戻った。
「いいんですか、所長、あんな挑発に乗っちゃって……」
茜が言うと、葵は、
「あの挑発がどんな理由からなのか、知りたいと思わない、茜? あの人の態度、とても野党の党首の秘書の態度じゃなかったわ。あの人が、改進党を牛耳っているのよ」
「岩戸先生に確認取りますか?」
美咲が尋ねた。葵は美咲を見て、
「もちろん。それから、改進党の内部事情を調べて。あの秘書が言うこと、100%鵜呑みにはできないから」
「はい」
美咲はすぐさまブラウザを立ち上げ、メールを作成し始めた。葵は次に茜を見て、
「茜、貴女は大原君に連絡とって警心会のことを聞き出して。分野的に、彼がいろいろ知っていると思われるから」
「はーい!」
茜は妙に嬉しそうにトレイにカップを載せると、給湯室に鼻歌を歌いながら入って行った。葵は美咲を見て、
「あの子、どうしたの? 大原君のこと、前はすごく嫌ってなかった?」
「さァ、どうしたんでしょうね」
美咲はニコニコして言った。葵は納得しかねていたが、
「まァ、いいわ。やることをやってくれれば、文句はないからね」
と呟いた。
永田町の国会議事堂の裏手に、十階建てのビルがある。与党進歩党の本部ビルだ。改進党のビルと違い地下はないが、ビルの周囲には駐車スペースが乗用車 五百台分確保されている。与党を長年張って来た党の貫禄というものであろう。そのビルの十階に総裁室がある。橋沢首相、すなわち党総裁の本拠だ。その総裁室のちょうど反対側に、最高顧問室がある。党内の長老である岩戸衆議院議員の部屋だが、党の若手議員達は、「隠居部屋」と陰口を言っている。しかし、当の岩戸老人は超然としていて、何も気にかけていない。彼の頭にあるのは、日本の将来のことのみである。
「岩戸先生、メールが届いています」
ソファでくつろいでいる岩戸老人に、秘書が声をかけた。彼女は岩戸老人の秘書になってまだ3年だが、すっかり信頼されており、財布もカードも彼女が預かっているほどだ。祖父と孫くらい歳が離れているのにも関わらず、見事なコンビネーションなのである。
「誰からからね?」
岩戸老人は本に見入ったまま尋ねた。秘書はコホンと咳払いしてから、
「水無月様からです」
岩戸老人はその言葉を聞き終わらないうちに、パソコンを覗き込んでいた。秘書はパソコンから離れた。信頼関係があるとは言え、葵からのメールは秘中の秘、と言うよりは、岩戸老人が秘書を巻き込みたくないために見せないようにしているのだ。もちろん彼女もそれを理解しており、決して葵からのメールを開いたりはしない。
「ふむ……」
内容は坂本のことだった。岩戸老人の眉間に皺が寄った。
( 坂本か……。妙なことにならなければ良いが……)
岩戸老人は慣れた手つきでキーボードを叩き、返信メールを送信した。
「先生、お顔が怖くなっていますよ」
秘書がクスッと笑って指摘すると、岩戸老人はニヤリとして、
「そうかね。まァ、気にせんでくれ。わしの顔は元々怖いからな」
答えて立ち上がった。秘書はニコッとして、
「今コーヒーを落としましたので、お入れしますね」
「ああ、ありがとう」
岩戸老人はソファに戻り、また本を読み始めた。
「岩戸先生からの返信メールが来ました」
美咲はメールを開いた。葵は自分の席から立ち上がり、ディスプレイを覗き込んだ。
「坂本の言っていることに嘘はないようね。でも、気をつけろって、どういう意味かしら?」
葵が言うと、美咲は、
「直接会われたらどうですか?」
「それはできないわね。岩戸のおじいさんは、何かを知っているらしいけど、メールですらそのことに触れられないようだわ。と言うことは、私がおじいさんと直接会うのは、まずいってことよ。坂本が私達への依頼を取り下げる可能性もあるし。ウチの事務所に依頼して来るってことは、何か裏があるからなのよ。その裏を知りたくて受けた依頼だから、坂本に引かれたら困るの」
「そうですね。あの人がどう動くか考えないといけないですね」
「そう。坂本の企みには気づかないフリして、あいつがどう出て来るか、見守るのよ」
「はい」
美咲はすぐにメールを送信し始めた。
その頃茜は、近くのファミリーレストランの禁煙席で、大原が来るのを待っていた。彼女はこの前の事件以来、大原のことを本気で好きになっていた。彼が少々ロリコン気味なのも、可愛いと思えるようになっていた。
「まだかな?」
茜はキョロキョロと辺りを見回していた。すると真後ろから、
「何をそんなにキョロキョロしているのさ、茜ちゃん?」
「きゃっ!」
茜は全く予想もしていない方向から現れた大原に仰天し、叫び声を上げてしまった。周囲の人々が驚いて彼女を見ている。茜は赤面して大原を見上げ、
「もう、びっくりさせないでよ、大原さん。どこにいたの?」
「ちょっとトイレにね。その間に茜ちゃんが席に着いたらしいね」
大原は茜の向かいの席に腰を下ろした。そしてニッコリして、
「きょうはどうしたの? いきなり携帯にメールですぐ会いたいって入ったから、随分期待して来たんだけど?」
茜はハッとして、
「ああ、そうだった。私、大原さんに聞きたいことがあるのよ」
「何?」
大原はまだニコニコしている。茜も負けずにニッコリして、
「ねェ、大原さん、警心会って、どんな団体?」
尋ね返した。すると大原の顔が急に真顔になり、茜を睨みつけるように見た。茜はギクッとして、
「ど、どうしたの? 私何かまずいこと聞いちゃった?」
「いや、そうじゃないよ。しかし警心会なんて、どうして知っているの? 連中の活動は一般には知られていないし、関係者以外知る者は少ないはずだよ」
大原は再び穏やかな顔に戻って言った。茜は、
「実はですねェ……」
坂本のことを話した。大原は黙ってその話を聞いていたが、
「警心会ならやりかねないね。裏で暴力団と繋がっているっていう噂もあるし。僕ら現職の面汚しだよ、連中は。詳しい話は、水無月さんの事務所でしようか」
「やばいんですか、ここじゃ?」
茜が尋ねると、大原は肩を竦めて、
「まァね」
と答えた。
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