五円玉を通して

二石臼杵

ご縁玉

 五円玉がころころと転がっている。

 私はそれを追いかける。

 少し走れば追いつくかもしれないけど、私はその〝少し〟も走ろうとしないで、歩いて追いかける。走るのは、あんまり好きじゃない。

 さっき自販機でジュースを買うときに、財布から五円玉が落ちてしまった。

「たった五円で」なんて言う人もいるかもしれない。だけどあの五円玉は、お祖母ちゃんにもらった大切なもの。赤い紐が巻いてあって、ご利益があるらしい。とにかくあれは大事なものだから、なくしたくない。


 でも、五円玉は走り続ける。車のタイヤみたいに、どんどん転がっていく。

 気づいたら商店街から、普段通らない横道に入っていた。

 下校中に買い食いをしようとした罰なのか、ちっとも止まってくれない。


「おいお前、何やってんだよ」


 上からそんな声が降ってきた。硬いブーツを履いた誰かの足に当たって、五円玉は止まる。ちゃりんと音を立てて、地面に寝転がる五円玉。

 私がそれを拾おうとすると、その誰かのごつごつした手が先にひょいと持ち上げた。

 つられて、私の視線も上がる。

 背の高くて、たくましそうな男の人だった。私より年上に見えるけど、二十歳過ぎくらいかな?

 作業服の下のタンクトップから見える胸は、私が叩いてもびくともしなそうで。袖を肘まで捲くった腕は、きっと私がナマケモノみたいにぶら下がっても支えてくれそう。

 ヘルメットをかぶってて、私より頭一つ以上背が高い人だ。くっとつり上がった眉毛に、やる気なさそうに垂れているけど鋭い目、突き出てとんがった鼻に気難しく結ばれた唇と、なんだか怒ってるような印象の人だった。


「ここは工事中だぞ。危ねえだろ」


 ホントに怒ってた。「ごめんなさい」と謝って、私は工事現場から走り出す。走るのは苦手だけど、怒られるのはもっと苦手だ。

 そのまま走り続けて、さっきの商店街に戻って来てしまった。

 これじゃあ、何のために工事中の横道まで行ったのか分からない。


「どこかで涼もうかな」


 走ったせいで、じっとりと汗が浮かんでいた。体に下着やブラウスが張りついて、少し気持ち悪い。ジュースを買おうとして、結局買えずじまいだったから、喉もからからだ。私は、近くにあったマックに入ることにした。


「はぁ……」


 マックシェイクを飲みながら、ため息をつく。

 お祖母ちゃんにもらった五円玉、置いてきちゃったな。

 せっかく、私にいいことがありますように、ってお祖母ちゃんがお願いしてくれたものなのに。


「なんだお前、さっきの学生か」


 横から、そんな声がかけられた。見ると、さっきの怖そうな男の人。手にはマックポークが二つ乗ったトレイを持っている。なんとなく、二つともこの人が食べるんだろうな、と分かった。ヘルメットは外してて、短めに刈り込んだ黒髪が今は見える。


「あー、そうだ。ほらよ」


 その人は作業服のポケットをごそごそやると、私に何かを渡してきた。ごつごつした手からそれを受け取ると、お祖母ちゃんにもらった五円玉だった。赤い紐が結ばれてるから、間違いない。



「これ、届けるために、わざわざ……?」


「いや、俺はただ昼飯を食いに来ただけだ。ついでにお前を見かけたから、さっき拾ったそれを返したんだよ。金は大事だからな」


 どうやらついでみたいだった。でも、うれしい。私は五円玉を両手で目の前に持ってきて、じっと見つめる。


「良かったな、返ってきて。大事なものなら落とすなよ」


 男の人は背を向けて、別の席に行こうとする。私はあわてて呼び止めた。


「あの、良かったら、何かお礼をさせてください。百円マックぐらいなら、ごちそうできますから」


 すると、男の人は一瞬止まって、振り返る。その目はどうでもよさげにこっちを見ていたけど、眉間にしわが寄っていた。


「うぬぼれんなよ。お前、働いたことあるのか?」


「い、いえ……」


 なんだか睨まれてるようだった。私は五円玉を盾にするように、その人との間に割り込ませて隠れる。ちっとも隠れきれてないけど。


「だったらお前は自分で稼いだ金を持ってないだろ。今、お前が使えるのはお小遣いやらお年玉やらでもらった金で、お前の金じゃない。自分で稼いでないのに、人におごろうとするな。俺はそういうのが嫌いなんだよ」


 そう言って、男の人はまた振り返って行ってしまった。

 それを五円玉越しに眺めながら、私はマックシェイクが溶けるのも構わずに、動けずにいた。


 ショックだった。あの人に怒られたことじゃなくて、私が今まで、どんなに軽い気持ちで人のためにお金を使っていたのかを気づかされたことが。

 私のお金は、私のものじゃない。全部、人からもらったものだ。

 その日、私は頭を切り替えてマックを出たあと、帰りにコンビニに寄って履歴書を買った。






 あのときに五円玉を返してもらったマックでバイトを初めてから、もう二週間がたった。初めの頃はたいへんだったなぁ。レジ打ちに、伝票の打ち方に、マックシェイクの作り方、接客、0円のスマイルと、覚えることがありすぎて、ぐるぐる目が回りそうだった。

 正直今でも、スマイル0円って言い方は好きじゃない。なんだか、笑顔に価値がないって言われてるみたいで。でも、たいへんだけど、新鮮な感じがした。いつか、自分のお金であの人にお礼をするんだ。そう考えたら、がんばろうって思えて、自然にスマイルができた。


 お昼を少し過ぎたあたりに、あの人はいつもやってくる。同じ時間帯に、作業服のまま。常連さんみたいだ。

 最初は、私がレジに立ってるのを見てちょっと眉を動かしてたけど、今は普通に店員とお客さんの関係でいる。

 ある日、いつもと同じようにあの人がマックポーク二つを頼んだとき。料金を受け取って注文されたものを渡したあと、私は店長たちにあいさつをして、更衣室へ向かう。

 少し早めにあがれるように、シフトを調整しておいて良かった。


 私は仕事の制服から高校の制服に着がえて、今度はお客側としてレジの前に立つ。同僚の人が「帰ったんじゃなかったの?」って驚いてたけど、説明はあとにして、マックシェイクを二つ頼んだ。私はそれを持って、あの人がいつも利用してる席に行く。


「隣、いいですか」


 マックシェイクの二つ乗ったトレイを持ってあの人の席の横に立って、声をかける。


「おい、なんのつもりだ」


 睨みつけられた。急いでトレイをテーブルに置いて、とっさに首から下げた五円玉を取り出して、両手で自分の顔の前に持ってくる。


「あの、これはこの前のお礼です。ちゃんと自分のお金で払いました」


 五円玉の穴越しに見えるあの人の体は、あいかわらずたくましかった。がっしりとした胸板に、広い肩幅。肩と腕もしっかりと盛り上がってる。まるで砂のぎっちり詰まった袋が体の筋肉みたいだったけど、不思議と太い印象は受けなかった。たぶん、背が高いからだろうなぁ。服から覗く肌は、最初に会ったときより少し焼けている。


「……とりあえず座れ」


 お言葉に甘えて、男の人の隣に座る。五円玉は構えたまま。


「お前、まさかこのためだけにバイトしてたのか?」


「はい」


「…………」


 あれ、黙っちゃった。なにかおかしなこと言ったかな?


「あ、もちろんそれだけじゃないですよ? バイトはこれからも続けますし。自分でお金を稼ぐって、大事ですね。そのことに気づかせてくれて、ありがとうございます」


 五円玉といっしょにお辞儀をする。頭を上げたあと、私はマックシェイクを一つ差し出しながら自己紹介した。


「私、飯島いいじま沙樹さきっていいます。これ、良かったら飲んでください」


「名前は知ってる」


「え?」


「店の制服のネームプレートに書いてあるだろ」


「あ、そっか」


 少し期待したのに。もしかしたらこの人も私のことを気にかけてるのかも、って。


「お名前は、なんていうんですか?」


「……瀬川せがわみのる


 瀬川成さん、瀬川成さん。私は頭の中で何回かその名前を繰り返した。


「瀬川さんは、いつもこの時間にこの店に来ますよね」


「まぁ、休憩時間になると、一番近いここで昼飯を食うからな」


 五円玉の穴の向こうの瀬川さんは、複雑そうな表情をしていた。少しためらったあと、瀬川さんはカップのストローに口を付ける。マックシェイクをすする音が聞こえて、私はほっとした。


「よかったー。やっとお礼ができました」


 瀬川さんはストローから口を離して、気まずそうに話しかけてくる。


「お前、バイトは楽しいか?」


「はい」


「そうか」


 またストローに口をやる瀬川さん。マックポークは二つとも、私が来たときには食べ終わってて、なんだか間をもたせようとしてるみたいだ。


「あのときは、俺も言い過ぎたよ。うぬぼれんな、とか」


「いいえ、気にしてませんよ」


 五円玉越しに会話する私と瀬川さん。五円玉の穴を通して、やわらかい雰囲気で話せているのかもしれないな、となんとなく思った。


「うちは兄妹が多くて、一番上の俺が働くしかなくてな。それで、働いてることが偉いと思ってたみたいだ」


「? 立派じゃないですか」


 私は首をかしげる。


「いや、お前みたいに、ちゃんと学校行ってるやつも見下してたんだよ。どうせ自分で稼いだこともないくせに、ってな」


 あぁ、だからこの人は、自分のお金の大切さにこだわってたんだ。

 私はやっと気がついた。


「でも、お前みたいな学生もいるんだな」


「どういたしまして? あれ、なんか変ですね、『どういたしまして』って」


 なんで、お礼を言われたわけでもないのに『どういたしまして』なんて言ったんだろう。自分でもよく分からない。

 瀬川さんは苦笑して言う。


「お前は最初から変だよ。なんで、ずっと五円玉を持って話してるんだ?」


「だって、気になる人の顔を直接見るって、恥ずかしくないですか?」


 私は笑みをもらす。

 こうしていれば、五円玉がクッションみたいに間に入ってくれる。でも瀬川さんの顔は見たいから、穴から覗く。

 この五円玉が、お守りのように私を勇気づけてくれてるのかもしれない。

 穴の向こう側では、瀬川さんが顔に手を当ててそっぽを向いていた。


「お前、そのセリフの方が恥ずかしいだろ……。それに、いつもレジで顔を合わせてるだろうが」


「そのときは、お客さんと店員ですから。我慢してました。ホントは恥ずかしかったんですよ?」


 瀬川さんの顔は背けられてて表情は分からないけど、照れてるのかな。

 もしそうだったら、すごくうれしい。

 私は、0円じゃないスマイルで、五円玉を通して瀬川さんを眺め続けた。

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