第六部(6、大雪山)

  大雪山 1980年秋


 格安航空券は、早い申し込みなら半額での購入も可

能である。宏幸は、9月中旬の旅で、8月初めに申し

込んで、それを手に入れた。行き先は北海道で、大雪

山の縦走を、2泊3日で制覇する予定である。

 由美子と二人で伊丹空港を早朝便に乗り、千歳乗換

えで旭川空港に近づくと雲間に滑走路が見えてきた。

ところが、

「まもなく着陸態勢に入りますが、視界不良で現在管

制塔と交信中です」

のアナウンスが流れる。

 一回目・・。旅客機は一旦降下するが、また上昇。

もう一回行うが、また上昇。

「当機は、千歳に引き返します」

「エェ!そんな殺生な。下に滑走路、見えとるやない

か。計画がわやくちゃや」

「どうする、あなた・・」

「山と一緒や、エスケーププラン考えよう。飛行機以

外で旭川に行く方法は、電車かレンタカーやけど、時

間的にはレンタカーが早いと思うが、縦走で登山口と

下山口が違うので電車に決めよう」

 千歳空港で払い戻しを受ける。当然ながら、格安運

賃分のみである。急いで千歳駅から快速に乗り、札幌

で特急に乗換え旭川に17時前に到着。そこから道北

バスの最終便で層雲峡に着いたのは、予定より大幅に

遅れ、19時を過ぎていた。

 ユースホステルでは外食になっていたので、夕食は

旭川の有名なラーメン店「梅光軒」で済ませたが、予

定していた層雲峡めぐりができなくなった。

「明日早起きして見に行きましょうよ」

「おいおい、ロープウェーは遅くとも7時40分発に

乗る予定やで、間に合うかいな・・」

「銀河の滝と金糸の滝を見たいもの」


 結局、由美子が起きたのは6時半。実は、宏幸もそ

の手前で目が覚めたのである。

「どうして起してくれなかったのよ・・」

「目覚まし時計を、5時にセットしたんと違うんかい

な・・」

 朝から責任のなすりつけ合いである。

 ぶつぶつを文句をいいながら朝食を済ませ、層雲峡

7時40分発のロープウェーとリフトを乗り継ぐ。終

点からはダケカンバ林の道を登り、九合目付近で休憩

しようと適当な場所を探しながら歩いていると、

「由美子、静かにするんや」

と、宏幸の後から歩きながら、由美子が「九月の雨」

を歌いはじめたのを制する。

「どうしたのよ、折角気持ち良く歌おうとしているの

に・・」

「シマリスが食事中や」

「何食べているの?」

 5m程の距離である。

「一寸待ってや、今双眼鏡出すから」

「いつの間にそんなもの持ってきたのよ・・」

 宏幸は、オペラグラスで覗き込む。

「下に蝶の羽みたいなのが落ち取るがな・・」

「シマリスって、草食じゃなかったの?」

「現に、蝶の羽むしって胴体を食べとるがな」

「写真撮るわ」

 由美子がカメラを構える寸前に、蝦夷シマリスは両

頬を膨らませて走り出した。

「残念」

 登り始めて1時間余りで黒岳(1984m)に9時

半頃到着。広大な景色である。もう紅葉が始まってお

り、斜面は、赤、黄、緑のコントラストが描かれてい

る。

 黒岳石室の分岐からは御鉢平を右に見て南下し、ト

ムラウシ方面分岐の北海岳(2149m)付近で昼食

である。

「ここから、白雲岳、忠別岳を越え、トムラウシ山か

らトムラウシ温泉に下るロングコースは訪れる人も少

なく、花一杯の山旅ができるそうや」

「どれくらいかかるの・・」

「最低でも避難小屋で2泊はせなあかんやろ」

「次回よろしくネッ」

「・・ランチの用意しょうか。ガスボンベで湯沸かす

からポリタン出してコッヘルに入れてくれるか」

「燃料の主流がメタからガスボンベになってずいぶん

楽になったわね」

「軽くなったからな。それに何よりも沸くのが早くて

助かるなあ」

「山用具もどんどん進化していくのね。ところでガス

ボンベは、飛行機に乗る時の検査はすんなり通ったね

え」

「今のところは爆発物扱いとちがうからなあ」

 そして、食後のコーヒーを入れていると、芳しき臭

いに釣られたのか、

「あっあなた、後ろにキタキツネが近づいてきたよ」

「このあたりのキタキツネは人なれしてるんやけど、

絶対食べ物をやったらだめや」

「でも物欲しそうにしている。可愛いけどあげちゃだ

めなの」

「人間がやった食べ物によって、キタキツネが増える

んや。それによって生態系が壊れるからやめとき」

「さわるだけなら・・・」

「おっと、それも駄目。やつらはエキノコックスいう

寄生虫を持っとるのや。この寄生虫は厄介なことに人

間の体内にはいると、内臓を食い破るんや。しかも潜

伏期間が5年から長いもので20年近くにもなるのや

そうや。症状が出る頃には手遅れ状態ということ」

 そこから平らな間宮岳を越えて、道内最高峰旭岳

(2290m)を目指し、急斜面を登りきり、2時半

頃旭岳着する。

「あとは下るだけや」

とは言うものの、宏幸はザラ場ばかりの下りに閉口し

てきた。そのうち右足の靴の異変に気づく。

「やばい。とうとうソールの前が口開いてきた」

「どうするの?」

 宏幸は、ザックからガムテープを取り出し巻きつけ

た。

「これで何とかしのげるかな。ついでに左足も巻いと

こ」

「この靴イタリア製でしょう。何年履いたの?」

「6年や。ヨーロッパ製は確かに履き心地は良いが、

欠点は湿気に弱いことや。日本の気候に合った靴が早

うできるとええがなぁ」

 明日は帰るだけだが、宏幸は、このままでは下界歩

きに恥ずかしいと思い、ちょうど下山途中の高校生の

団体がいたので、引率の先生に旭川市内のスポーツ用

品店を紹介してもらった。

 姿見駅には4時頃到着、ロープウェーで下山し、白

雲荘に二人は宿をとった。

「おかしいわ、いつもの宏幸なら手を出してきてもい

い時間なのに」

 と、由美子は思いながら、そっと布団に近づき、向

こうを向いている宏幸の背中から抱きつくと、

「触るな。エキノコックスがうつるやないか」

「えぇ、ひどい。キタキツネには触っていないよ。そ

れにあの時に、人から人へは伝染しないって言ったじ

ゃない」

「明日も早いんや。また寝坊したら、天人峡の羽衣ノ

滝が見られんようになるで」

と言いながらも、宏幸は由美子の亜麻色の髪を撫で始

めた。


章末注記

 ガスコンロは、2002年頃から飛行機への持ち込

みが禁止されるようになった。



・・・社内旅行 に続く。 

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