第六部(5、大日縦走)

  大日縦走 1980年夏


 立山付近は室堂を中心に山有り谷有り温泉有りで、

立山黒部アルペンルートとして季節を問わずに混雑す

る。

 しかし少しルートを外れれば静かな山旅が可能で、

展望が素晴らしくて、花一杯のコースが大日三山であ

る。

 大日への登山コースは3つあるが、一番楽なコース

は、室堂までバスで行き室堂乗越経由であり、二番目

は、弥陀ヶ原でバスを降り北西方向に進み、称名川の

仮設吊橋を渡り大日平山荘経由のルート。

 そして最もきついのは、称名の滝手前から約千五百

メートルも急登するルートなのであるが、宏幸と由美

子は、今回の縦走を、帰りに室堂から弥陀ヶ原の池塘

等も見たいので、このコースを選んだ。


 自家用車で北陸道富山周りで立山町に入り、駅前の

民宿で1泊する。

 称名の滝行きの朝一番のバスが来る前に、車を称名

滝駐車場に駐車して、日本一落差がある滝を見に行け

るが、昨日降った雨で同じ滝壺に落ちるハンノキ滝も

落ちており、V字型の壮観な様子が見られる。

「駐車場から河原歩きで少し疲れたけど、滝見たら元

気が出てきたわ」

「以前はもっと大変やったんや。1969年に起きた

この川の氾濫で、いま車で通ってきた道が塞がれて、

去年までは立山駅から4時間程かけて、歩いてこなな

らなんだのや」

「10年以上も再開できなかったのって、相当なもの

ね」

「手前にあった発電所も潰れたくらいやからな。おっ

と、あんまり見とれている訳にもいかんわ。帰りにこ

の右側の八郎坂から降りてくるけど、坂の途中からの

ほうが眺めが良いそうや」

 8時半に大日登山を開始される。大日岳までを、1

日で登るのである。

 先ずは、猿ガ馬場を経て牛首までの2時間弱の、だ

んだんと勾配がきつくなる急登が始まる。

 10時半に牛首を通過し、稜線を緩く行けば木道が

始まる。ここが大日平である。この辺までは、観光組

が来るそうだが一人も出会わない。牛首前の最後の急

登を思えば、引き返す人が多いとガイドブックは解説

している。

 大日平は這松や大草原が拡がり、湿原にはワタスゲ

が風に揺れて、キンコウカやシナノキンバイ、コバイ

ケイ等が足を止めさせる。

 やがて大日平山荘に11時半に着くが、称名の廊下

を挟んで、弥陀ガ原や不動滝が手に取る様に見える。

そしてその弥陀ガ原をバスが蛇行しながら、エンジン

音高らかに登っていく。

 小屋前で昼食を摂り、目の前に立ちはだかる壁への

アタックが開始される。午後3時大日小屋到着が二人

の目標である。

 登るにつれて勾配がだんだんときつくなる。最後の

水場を過ぎると、足取りも重くなってきたように見え

る。

「休憩や。水・・・」

「又飲むの・・・飲みすぎじゃない」

「身体が欲しがっているから我慢したらあかんのや。

それに毎回ガバガバと飲まずに、こまめに少しずつ飲

むほうがええのや」

 やがて大きな岩の下を通過すると東方向に大きくト

ラバースするが、なかなか小屋が見えてこない。

 予定より1時間弱遅れて大日小屋に到着。大日岳へ

のピストンは、明朝に延ばすことになった。


 翌朝も晴れており、大日岳(2498m)からは展

望抜群である。北東に見える剱岳の勇姿も二人にとっ

ては懐かしく見えるようだ。

「ここから見ると、前に登った剱岳への道のりは結構

長くて険しく見えるのね」

「よくもまあ登ったものや。若かったから勢いもあっ

たしな」

「何言っているのよ、まだ1年しか経ってないよ」

「でも、最近はスタミナ不足かも知れんが、持久力が

弱くなった気がするんや」

「スタミナは1年に1パーセントづつ低下するんだっ

て。結婚して2年経つけど、貴方は2パーセントどこ

ろか20パーセント以上さがったみたいね。特に夜は

ね。どこか違う所で使っていないでしょうね?」

「おいおい、昼間っから攻めるなよ」

 小屋に戻り、8時半に縦走開始する。中大日岳(2

500m)への短い登りを終え、岩とハイマツに囲ま

れた七福園を過ぎると、室堂平の地獄谷やソーメン滝

が間近に見えてきた。

「ストップ。雷鳥親子のお通りだ」

「親一羽に、子が三羽いるわ」

「親は雄かしら、雌かしら?」

「雌が子供を育てて、雄は別の雄達の群れに入るらし

い」

「草を啄ばんでいるわね。私達も休憩ね」

「撮影タイムや」

 やがて、親と子一羽が大きな岩に登り、猫又山方面

を展望しだした。

 宏幸はゆっくりと岩に近づき、岩からカメラだけを

覗かせ、シャッターを3回切る。

「上手く写ったかしら・・・」

「なんでそう突っ込むんや?」

「だって、貴方の撮った写真って、結構ピンボケが多

いもの」

「由美子を撮ったら、目塞いでいるの多いしな」

 ウサギギク咲く奥大日岳(2606m)の南側を巻

いて行くと、剱岳が間近に迫ってきた。

 室堂乗越で昼食を摂る。つい2、3年前までは、こ

こからは山腹を雷鳥平方向に下るルートがあったとい

う。

 現在は、もう少し行った新室堂乗越から雷鳥平へ下

る。浄土川を渡ると、ひと登りで今夜の宿、室堂山荘

に午後2時半に到着した。

 シーズンでもあり、地獄谷やみくりが池周辺は観光

客で混み合っている。


 最終日は、室堂から称名の滝までがほとんど下りで

あるが、景色に見とれてのスリップダウンに気をつけ

なければならない。

 天狗平まではフラットな道で、越えると、ハイマツ

やアオノツガザクラの低木が続き、池塘が点在する緩

やかな下りになる。車道から離れていくと、昨日歩い

た奥大日の縦走路の右奥に、剱岳の頭が少しづつ沈ん

でいく。

 やがて、台地の端から左に下り獅子が鼻の鎖場を降

りると一の谷で、水量も多く飛び石伝いに渡る。登り

返して弥陀ヶ原台地に上がり、しばらく行くと又池塘

(餓鬼の田圃)が見えてきた。

「池塘の中の細い草は、イグサかしら?」

「こんな所にイグサは生えんで」

「じゃ、何なのよ・・」

「帰ったら調べますのでご勘弁を」

「その代わり、弥陀ヶ原ホテルでおいしいコーヒー飲

ませてね」

「・・・」

 昼食は、ホテルの前の広場を借りて、湯を沸かして

レトルトのハンバーグと玄米粥を温めると出来上がり

である。

「ホテルの料理よりもおいしそうね」

「もはや、インスタントとは呼ばせない程味も良くな

っているんや」

と言いながら、宏幸は持ってきた大根を卸してハンバ

ーグに乗せる。

「やるぅ!」

 朝から西の下界を覆っていた雲海は、いつの間にか

消えていた。


章末注記

(1)弥陀ヶ原から大日平への、仮設吊橋を渡るルー

  トは現在廃道。

(2)八郎坂は、古くから称名坂とも呼ばれている。



・・・大雪山 に続く。

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