第六部(4、宝剣岳、北横岳)

  宝剣岳、北横岳 1980年春


 宏幸と由美子が今回選んだ山は、中央アルプスと、

森と泉、岩と庭園もある北八ケ岳である。そこは北ア

ルプスに比べ、比較的静かな山域が多いようだ。


 1日目は中央道の駒ケ根で高速を降り、菅ノ平で専

用バスに乗り換える。昼食をバスの中で済ませて、ロ

ープウエー乗り場に着いたのが12時前で、予定より

早くなり、当初の千畳敷カールだけでなく宝剣岳(2

931m)も目指すことになった。

 千畳敷駅でロープウェイを降りると、真正面に宝剣

岳がそびえて見える。

「午後になると雲が昇ってきて隠すかも知れんから、

今のうち記念写真や」

と、三脚を取り出す宏幸。

「あそこのテッペンに登るのね」

 カールを緩やかに登ると、5月末でも登山道脇の砂

地には、もうコイワカガミが咲いている。

「ピンクの可愛い花ね」

「7月の花の最盛期には、花と人で一杯になり、ゆっ

くりも見て歩けんやったやろな」

「コバイケイ、チングルマ、ハクサンイチゲ、花の種

類を数え上げたらキリが無いほど咲くそうね」

 1時間ほどで、カール上部の八丁坂と呼ばれるガレ

場の急登を終えると、浄土乗越に着いた。左手を見る

と、宝剣があと少しの所まで迫って来た。

「中央アルプスには大きなカールが六つあるが、中で

もここが一番有名やな」

「結構急な斜面ね。昼からは完全に日陰になるのね」

「寒うならんうちに、宝剣ハントしよか」

 宝剣山荘からは一気に登れそうである。しかし、花

崗岩が風化したザラ場が続き、下りは滑らないように

注意が必要である。途中、鎖場を経て20分で山頂に

着いた。

「この岩のテッペンに上がるのは結構むつかしそうや

な。覗くと1メーター四方も無いやんか」

「やめてよ、今回は山岳保険かけていないよ」

「慎重に登るから大丈夫や」

 宏幸はゆっくりと足場を探しながら這い上がると、

北西には木曽駒ケ岳(2956m)、南方には空木岳

(標高2864m)が望まれる。

「絶景やな。立ち上がろかな」

「だめ。そんなことしたら即離婚よ」

「わかった、わかった。怖い嫁や」

 ところが、いざ降りるとなると足がかりが見つけら

れない。しかたなくずり落ちるような格好になって着

地するが、向う脛を少し擦りむいたようである。すぐ

由美子の口撃が始まる。

「言わんこっちゃないでしょう。あなたが今亡くなっ

たら残された家族はどうするのよ」

と言いながらも、由美子は直ぐに朝作った麦茶で傷口

を洗い、傷テープを貼ってやった。

「はい、以後気をつけます。でもスリルあったなあ。

あそこが縮み上がったわ・・」

 同じコースを戻り、カール中央部まで来ると日本猿

の集団に遭遇する。カール巡りの親子連れが引き返し

ていく。

「大丈夫や。危害加えるのやったら放送で注意が流れ

るはずや」

 ゆっくりと下ると、猿の集団も遠ざかって行く。

「人なれしとるんや。もっとも追っかけたら反攻され

るかもな」


 二人は上諏訪温泉に宿を取り、次の朝はビーナスラ

インを1時間走り、ピラタスのロープウェィ山麓駅に

マイカーを停めた。ゴールデンウイークの喧騒が終わ

り、夏の訪れにはまだ早い季節で、ロープウェイもが

ら空きだった。

 山頂駅に10時過ぎに着き、アイゼンを着け雪の坪

庭を後にすると、そこからは静寂が始まる。登ること

20分ほどで三ツ岳分岐である。そこで休憩を取って

いると、由美子が立て札を読む。

「三ツ岳方面は軽装では行けません・・と書いてある

よ」

「ガイドブックによると、アップダウンは少ないが、

岩場だらけの登山道みたいやな」

「私たちは軽装なの? カラビナやロープが必要なの

かしら・・」

「大げさな。帽子、手袋、登山靴があれば軽装でも登

れるやろ。とにかく先に北横岳をめざそうか」

 横岳山荘を過ぎて、出発してから約1時間で明るく

開けた北横岳に到着する。双耳峰で 北峰(2480

m)がやや高い。先客は数人いる。山頂では、北西方

面に向かって昼食の場所を確保する。

「蓼科山(2530m)が目の前や」

「山頂はごろごろの岩だらけだったわね。いつ頃登っ

たんだったっけ・・」

「4年前の秋の終わり頃や」

「そんなに高くないのに、私、山頂で気分悪くなって

大変だったわね。妊娠しているかもしれないと思った

わ」

「結局、空振りだったなぁ」

 昼食を終え、南峰で立ち止まると、縞枯山(240

3m)の縞模様がわかる。

「なぜ、あんな縞模様になるの」

「シラビソの木が山頂に向かって順ぐりに枯れていく

ようやが、いまだに原因はわからんそうや」

 5分ほど下ると再び横岳山荘の前にでる。

「少し左に下りた所に七ツ池言う池塘があるんや。行

ってみようか」

「こんな所に・・」

「もっとも2つしか行けへんけどな」

 2分ほどで着いた。イチゲが咲いている。

 二人が三ツ岳分岐に戻り小休止していると、他の登

山者はすべてピラタス方面に下る。

「アイゼン外して、靴紐締め直して出発や。由美子、

先を歩くか・・」

 岩から岩へ飛び移りながらの移動で結構足に答える

ようだ。対向者は三ツ岳山頂までは2人しか会わなか

った。

「この岩だらけの雰囲気、鳥海山に似ているわね」

「そうやな、最も鳥海山は山荘から上のザラ場もきつ

かったな」

 三ツ岳からは急降下が始まった。途中、左手下方に

広いグランドに雪が積もった様な所が見えてきた。

「あれなあに、サッカー場かな・・」

「そんなわけないやろ。方角的には雨池や」

 急降下は結構長く続く。雨池山を越え、八丁平に着

いたのは午後2時前になった。

「下りなのにガイドブックのコースタイムからだいぶ

遅れたけど、間違うているのと違うの。残雪の少ない

登りでも北岳山荘から1時間半と書いてあるけど無理

ね」

「コースタイムはあくまで目安と書いてあるけど、何

十人も歩いての平均タイムと違うからな。ガイドブッ

クの著者が歩いた時間やから、あんまり充てにせんほ

うがええやろ」

 八丁平からは雪原歩きといった感じになる。

「この雰囲気好きや。ひと気のない所を春風に吹かれ

て彷徨する。由美子、写真」

「縞枯山荘と北横岳をバックに入れようね」

「いや、山荘は除いてや。あくまで人工物は入れたく

無いんや」

「あなたは変なところにこだわるのね」

 宏幸がシャターを2回切るやいなや、ピラタス山頂

駅から、下り14時20分発を告げる放送が流れてき

た。

「下界に引き戻される時刻が迫ってきたな」

「もう一度、上諏訪温泉によってから帰ろうよ」

 短い2日間が終わる。


章末注記

・ピラタスロープウェィは、2012年4月に、名前

を北八ケ岳ロープウェィに変更された。



・・・大日縦走 に続く。

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